≪次月 11月(2022)礼拝説教要旨 前月≫

2022. 11. 27 降誕前第4主日礼拝(アドベントⅠ)
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< 今 週 の 聖 句 >

主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

(創世記8章21~22節)

 

「虹の色と人が心に思うこと」 仁村 真司教師

「 虹の色と人が心に思うこと 」    仁村 真司

 今回は創世記の「ノアの箱舟」、神がこの世に大洪水をもたらした物語からいろいろ考える・・・と言うよりも思って行くことになると思います。

  1)

 この世の全てを覆う大洪水の物語は世界各地に伝わっているそうですが、世界最古の文学作品とされる古代メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」の中に、「ノアの箱舟」の原型と考えられる大洪水の物語があります。

 聖書に書いてあることが元々だと思っていたのにビックリ、ちょっとガッカリという人もおられるかもしれませんが、私は大洪水の物語、だけではありませんが、こういった物語が時代や環境は違えど多くの人々の心を捉えて語り継がれて来た、もしくは繰り返し人々の心から生み出されて来たということが興味深いと思います。

  2)

 創世記6章から始まる「ノアの箱舟」は世界のつくり直し、再創造の物語と言えます。

 洪水の後(9章1節以下)、神がノアと彼の息子たちを祝福して言った「産めよ、増えよ、地に満ちよ・・・」、これは男と女を創造して、彼と彼女を祝福して言った「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)と重なっている、ほぼ同じです。

 では、どうして神は「光あれ」と言って光があって「良しとされた」という具合に一つ一つ良しとして(1章)創造した世界をつくり直す、ということは一度壊す、滅ぼすということになりますが、そうしようとしたのでしょうか。6章5~7節・・・

 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計らっているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。

 「人の悪が増し、常に悪いことばかり心に思い計らっている」のを見て、人を造ったことを後悔し心を痛め、大洪水で地上のすべてを滅ぼすというのですが、今日の箇所は大洪水の後、地が乾いてノアとその家族、いろいろな動物が箱舟から出て来たところです。20節・・・

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上に献げた。

 そうすると、神は21節・・・

 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」

 この世をつくり直しても人は変わっていない、心に悪いことを思うのは変わらない。しかし、神が人の悪故にこの世界を滅ぼすことはこの後、今も、これからもないということです。甚大な被害をもたらす自然災害があっても、それが天罰等と考えるのは間違いということになります。

 それと、自分が悪いことを思ったからこんなことになった。自分が悪いことを思えば、大変なことが起こる、そう思い自分を責めたり、追い詰めたり、悩み苦しむ人がいます。例えば「あんな人いなければいいのに」と思ったから、その人が事故にあった、病気になった。あるいは自分のちょっとした怒りや憎しみの気持ちが世界の破滅につながる。

 でも、そんなこともない、大丈夫です。神は人の心をよく知っておられる。これは見抜く、見張るのではなく受け止めてくださるということではないでしょうか。ですから、心に悪いことを思ったからといって、それで神様がその人を見放したり、他の人たちを滅ぼすということはありません。

 9章18節以下には酔っ払って裸で戯れるノアの姿、そのような「悪い父」の姿に失望する息子たち、そして崩れて行く家族の姿まで描かれています。ですが、そのようなノアの子孫がつくり直された世界に広がって行きます。

  3)

 さて、神はもう大洪水をもたらすことはない、その契約のしるしとして虹を置きます。「雲の中に虹が現れると、わたしは、・・・すべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。」(9章15・16節)

 虹とは、この虹が現しているのは、神が創造されたもの、被造物の全て、私たち人も勿論被造物ですが、つまりこの世の全てのものの在り方、有り様ではないかと私は思っています。

 虹は七色・・・には見えなくないですか?実際に出ている虹は大抵は色の数がもっと少なく見えると思います。でも、本当は七色でもなくて、色の切れ目はなく全部がつながっています。ですから、敢えて言えば「無限色」ということになるのでしょうが、そう言ってしまうと訳が分からなくなってしまうので七色、六色という所もあるそうです。

 このように人はどうしたって自分たちのことについても、他の被造物についても全て、神が造られた世界の全体をそのまま眺める、全体を捉えることは出来ません。人が何かについて「分かった」と思っても、それは文字通り分けているに過ぎないということです。

 人が幼いときから心に思う「悪いこと」、これには不道徳や不品行といったものも含まれるでしょうが、その根本は人が成長する、生きて行く上でどうしても思う、してしまう「分かる」ということではないか・・・。

 「分かる=分ける」ことなしにはどんな考えも技術も生み出されることはありません。社会の仕組み、ルールも分けることなしには成り立ちませんが、神は全てを分けることなく造られた。だから、人だけではなく地上の全てをつくり直されたのだと思います。

 このように本当はつながっているものを分けることによって、例えば敵とか味方とか正常とか異常とか何かの基準によって人を分けて、人と人の間に切れ目を入れて、一方が疎外されたり、失われて行くということも起こる、起こって来ました。それでも人は「分かる=分ける」ことを思い、そうしようとし続ける。しない訳には行かない。

 もしかしたら神はノアだけに大洪水を知らせたのでなくてノアだけが神が示していることを分けることなく、そのまま受け止めたのではないのか、そして従ったのではないか・・・。私はそんな気がしますが、そうではなかったとしても、ノアが高潔で正しい人だったから残された、選ばれたのではないことは9章18節以下のノアの姿からも確かだと思います。

 今日からアドベントですが、ノアの箱舟の物語とイエス・キリストの降誕の物語にもつながっています。

 新約聖書の一番初め、マタイ福音書の始めにイエス・キリストの系図が記されていますが、この長い系図が「契約の虹」と重なって見えます。

 この系図の中には偉い人や正しい人ばかりではなく芳しくない人もいる、イエスの家系のうちにも悪があることが示されている等と言われますが、偉大なダビデだってとんでもないことをしています。だから善い人と悪い人、義人と罪人などと分けることはできません。みんなつながっています。

 マタイ福音書1章1節「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。これは「イエス・キリストの創世記」とも訳せます。

 大洪水を経て、更に神は私たち一人一人と分かつことが出来ないつながりの中に御子イエス・キリストを送ってくださった。私たちは今そういう世界にいる。そのように創造された世界に生かされています。

2022. 11. 20 ゴスペルフォーク礼拝(特別伝道集会)
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< 今 週 の 聖 句 >

空の鳥をよく見なさい。種をまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は、鳥よりも価値があるものではないか。・・・野の花がどのように育つのか注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし言ってこの花の一つほどにも着飾ってはいなかった。花の一つほどにも着飾ってはいなかった。  

(マタイによる福音書6章26~29)

 

「空の鳥、野の花」 森下 耕 牧師(愛和病院チャプレン)

≪ 説教要旨の代わりに歌詞を載せます≫

シャローム、平和があるように!!
作詞・作曲  森下 耕                  
シャローム、シャローム、平和があるように シャローム、シャローム、ふたたび会える その日まで
1. 傷つき たおれた いほうじん 

  かけより たすける となりびと
  そのひとの となりびと
2. よみがえられた イエスさま
  あいのおしえが よみがえる
  こころのなかに もえるよぅに
シャローム、シャローム、平和があるように シャローム、シャローム、ふたたび会える その日まで

空の鳥、野の花
作詞・作曲 森下 耕

1. おれはみちの かたわらで そらをみあげた いちわのとりが
はばたいていったよ あのとりのつばさは じゆうをしっている
おれは主イエスの ことばをおもいだした
そらのとりは まくことも かることもない
けれどもかみさまは とりをいかしてくださる
おれにもかみさまが ともにいてくださると
しんじてあゆんでも いいのでしょうか

 

2.おれは みちのかたわらに はなをみつけた
ちいさなはなが 着飾っていたよ
この花のいのちは ちいさいけれど
おれは 聖書の ことばをおもいだした
野にさく はなは ちいさないのちだが
けれどもかみさまは はなを さかせてくださる
おれにもかみさまが ともにいてくださると
しんじてあゆんでも いいのでしょうか

 

3.神さまと一緒に 砂漠を歩いた夢
もっとも苦しく つらい道を ふり返った
そこには足あと ひとつ ひとつしかなかった。
神よあなたは どこにいたのか?
その人は神に 問いかけ責めたが
けれども神さまは 苦しむ彼を 背負っていたのだ
おれにも  かみさまが ともに  いてくださると
しんじて あゆんでも いいのでしょうか

 

深い淵(ふち)の底からDEEPEST  DEPTH
  (詩編130より)    作詞作曲 森下 耕
1.深い淵(ふち)の底から 主よあなたを呼びます。
主よこの声を聞き取ってください。
なげき祈るこの声に 耳をかたむけて
2.主よあなたが 罪をすべて こころにとめられるなら
主よだれが耐ええるでしょうか
しかし赦しは主にある。
わたしは主に 望みをおきます。
主よこの声を聞き取ってください。
わたしのたましいは 主に望みをおきます。
主よこの声を聞き取ってください。
なげき祈るこの声に 耳をかたむけて
見張りが朝を待つにもまして・・・
深い淵(ふち)の底から 主よあなたを呼びます。

マリヤのやさしさを
作詞・作曲 森下 耕
1.きみのほほえみが ぼくを包んだ いとしのマリヤ 
きみのなみだが こころをしめつける  かなしみのマリヤ 
なみだで髪をぬらし  主のあしもとを つつんであげたよ 
きみのやさしさが 主のこころをさえ、いやしたよ 
   ああ この世界は
   マリヤのやさしさが 
   見えないまま進むのですか 
2.墓の前に立ち ひとり泣いていた 悲しみのマリヤ 
主のみ言葉は いつもこのこころに 宿っているよ 
病(やまい)のひとをいやし その背中をさすってあげたよ 
きみのやさしさは 主がいちばんよくしっていたよ 
  ああこの世界は
  マリヤのやさしさが
  見えないまま進むのですか 
きみのほほえみが ぼくを包んだ いとしのマリヤ 

マラナ・タ、主よ来てください
作詞・作曲 森下 耕
マラナ・タ、マラナ・タ、どうぞ 主よ来てください
マラナ・タ、マラナ・タ、どうぞ 主よ 来てください
このこころに 時は流れて いつの日かわかるだろう 
イエスが愛された すべてのものたちに
その記憶でさえも 海の彼方にゆくだろう
ヘルモンの向こうに すべては消えていくのだろう
マラナ・タ、マラナ・タ、どうぞ 主よ来てください
マラナ・タ、マラナ・タ、どうぞ 主よ 来てください
このこころに

2022. 11. 13 降誕前第6主日礼拝(収穫感謝日)
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< 今 週 の 聖 句 >

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」  (出エジプト記3章14節)

 

「わたしはあるという者だ」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」  (出エジプト記3章14節)

 

         「わたしはあるという者だ」      深見 祥弘

 今朝は、私たちの教会の収穫感謝日礼拝です。聖餐台の上には、教会の中庭で採れたサツマイモや、皆さんが持ってきてくださった秋の実りでいっぱいです。この年を振り返るには、少し早いように思いますが、キリスト教の暦では、この収穫感謝日(今年は11月20日)で一年が終わり、アドベントに入ると新しい歩みが始まります。この年は、新型コロナウイルスの感染のおさまる事がありませんでしたし、ロシアによるウクライナ侵略による戦いは続いています。これに伴う物価の高騰、それから旧統一協会の問題に関連し政治と宗教をめぐっての議論も私たちの心を乱します。こうした苦しみの状況の中、私たちは何を実りとして主に感謝を献げることができるのかと考えます。

 さて、教会で行なわれる収穫感謝祭は、1620年清教徒たちが信仰の自由を求めてアメリカに渡った時の出来事に起源があります。メイフラワー号に乗り込んだ102名の人々は、9月に出港し、66日間で大西洋を渡り、11月にプリマスに上陸しました。しかし間もなく冬を迎え、彼らの半数が飢えや寒さ、病気で亡くなりました。これに耐えた人々は、翌年春に先住の人々から畑仕事や漁などを教わり、家を建て、収穫の秋を迎えました。

人々は、彼らを助けた先住の人々90名を招き、喜びの礼拝と感謝の宴を催しました。

 ところが後に移住してきた人々は、現住の人々の土地を奪い、この人々を居留地に閉じ込め、感謝祭も自分たちが豊かになったことを感謝するものとなりました。しかし、そうした中でも、苦しみの中、自由を求めた人々を顧みて新しい地へと導き出してくださった神を思い、彼らを助けてくれた先住の人々を思い起こす感謝祭を守る人々もいたのです。

 

 今朝の御言葉は、旧約聖書・出エジプト記3章、モーセが召命を受けた出来事を書いています。モーセは、紀元前13世紀頃のイスラエルの指導者です。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(33:11)とあるように、モーセと豊かな交わりをお持ちになられました。モーセもまた、主を深く信頼し、御旨として示されることを行いました。 モーセの物語は、エジプトに始まります。ヤコブとその家族は、飢饉を逃れ、彼らの兄弟ヨセフ(エジプトを飢饉から救った大臣)を頼ってエジプトに来て以来、その子孫は4世紀に渡ってその地で暮らしました。しかし、ヨセフのことを知らない人物がエジプトの王となると、王は国内に暮らす多くのイスラエルの民を恐れ、奴隷として使役するようになりました。それでも弱くなることのないイスラエルの民を見て、今度は生まれてくる男の子をナイル川に投げ込んで殺すように命令を出したのです。

 こうした中、父アムラム、母ヨケベドの子として生まれたのが、モーセでした。夫婦はこの子を3ケ月間育てますが、隠しきれなくなり、パピルスの籠に子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みに置きました。そこへ水浴びにきた王の娘が、その子を拾い上げ、かわいそうに思って我が子としました。王の娘は「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」(2:10)と言って、この子をモーセと名付けました。

 成長したモーセは、宮廷で暮らしますが、自分がイスラエルの民であることを知っていました。ある時、エジプト人が同胞を鞭打つのを見て憤り、このエジプト人を殺し、シナイの荒れ野に逃れました。そこで出会ったのが、ミデアン人の祭司であるエトロです。モーセは彼のもとに身を寄せ、エトロの羊の世話をし、やがてエトロの娘ツィポラと結婚し、子どもも与えられて幸せに暮らしました。

 ある日モーセは、羊の群れを連れ、草を求めてホレブの山(シナイ)までやってきました。そこで彼は、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を見ました。すると柴の間に神があらわれ、ここは聖なる土地だから、近づいてはいけない、足から履物を脱ぎなさい、との声を聞きました。

神はモーセに、あなたはイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束の地に導くために選ばれた者であると告げ、召命を与えたのでした。

 

 神がモーセに召命を与えた時のことを、もう少し詳しく見てみましょう。

まず、主はモーセの名を二度呼び、深い愛情を示しつつ、「履物を脱ぐ」(5)ように言われました。これは、あなたの主権を主に譲り渡しなさいと求めておられるのです。

 次に主は、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6)と言い、モーセに対して「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、・・・へ彼らを導き上る。・・・今、行きなさい。・・・わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(7~10)と召命を与えました。 

 戸惑うモーセに対し主は、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(12)と言って不安を取り除かれました。さらに、民がモーセに対して「その(神の)名は一体何か」と問うたら、「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」(14)と答えよと言われました。「わたしはある」(わたしは有って有る者)とは、主は永遠から永遠へ生きているものであるという意味です。主は天地創造の初めからおられ、永遠におられる御方であるのです。

 

 イスラエルの民が飢饉に襲われたとき、主はヨセフを用い、民はエジプトに来ました。イスラエルの民が奴隷として使役されたときも、主がモーセを用い、民は約束の地カナンに来ました。時を経て、清教徒は信仰の自由を求めアメリカに来ましたが、飢餓と寒さに襲われた時、主が現住の人々を用いられたので、彼らは新世界に生きることができました。

 

 今もいろいろな苦しみや困難がありますが、主が私たちの苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知っていてくださいます。「わたしはある」というお方が、救い主イエス・キリストを降してくださることで、主が共にいてくださること(マタイ1:23、インマヌエル)が実現しました。やがて主イエスは、私たちを広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、神の国へと導き入れてくださいます。さらにモーセとイスラエルの民は、エジプトを脱出した後、約束の地をめざす旅の途中、神の山ホレブに来て、神の言葉(十戒)を受け取りました。私たちも、約束の御国をめざす旅の途中、教会に来て、主の言葉を聞き、主に仕えることで、神が共にいてくださることを確認するのです。

 私たちは、自分の恵みを数えて満足したり嘆いたりするのでなく、共にいてくださる主イエスを覚え、助けてくださる人々に感謝し、神の山・教会で、多くの困難にあっても「わたしはあるという者だ」と名乗られるお方の大いなる救いの営みを覚えて、この年の収穫感謝といたしましょう。

2022. 11. 6 降誕前第7主日礼拝(聖徒の日・永眠者記念日)
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< 今 週 の 聖 句 >

すべての人は、神によって生きているからである。   

  (ルカによる福音書20章38節)

「すべての人は、神によって生きる」   

             深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

すべての人は、神によって生きているからである。   

                  (ルカによる福音書20章38節)

        「すべての人は、神によって生きる」   深見 祥弘

 教会は、古来11月第一日曜日を「聖人の日・永眠者記念日」とし、ご遺族と共に逝去された兄弟姉妹を記念する礼拝を行なってまいりました。

しかし、新型コロナウイルスの感染予防のため、今年も全てのご遺族をお迎えして、記念礼拝を行なうことができませんでした。今朝は、昨年11月の記念礼拝から今日までの間に逝去された新召天者9名のご家族の皆さまと、教会員によってこの礼拝をまもります。

 この記念礼拝では、近江八幡教会に連なる天上の兄弟姉妹652名を記念致します。特に新召天者9名の御霊の平安と、ご家族の皆さまの上に、主の慰めが与えられるようにお祈りいたします。(9名の方々とは、1月20日に召天された松本櫻子姉、2月1日召天された池田春子姉、2月7日召天された深見常治さん、2月9日召天された濱﨑貞次郎さん、6月29日召天された岡部忠實兄、7月2日召天された坊田美子姉、7月12日召天された高柳治子さん、7月22日召天された北川嘉子姉、8月9日召天された折田雄一兄です。)

 新召天者9名の1人は、私の父です。私と父は、あまり折り合いがよくありませんでした。父は、何事についても高圧的に私に接しましたので、中学生や高校生の頃、早く父親のもとから離れたいと思っていました。大学生になって家を離れて以来47年が経過しました。この間、帰省をするのは夏休みと正月でありましたが、両親が高齢になったこの数年は、しばしば帰省をしておりました。しかし、ぎくしゃくした父親との関係が完全に解消することなく、亡くなってしまいました。父は、キリスト教の信者ではありませんでしたが、私が司式をし、キリスト教で葬儀をいたしました。また先月には、教会のメモリアルホールに納骨をさせていただきました。キリスト教では、神の御元での再会を信じています。でもこの世と同じ親と子という関係で再会するのはいやだなと思います。この世では解消できなかったことや信仰において、キリストの豊かな働きかけを期待しつつ葬儀をし、納骨をさせていただきました。

 

  御言葉は、ルカによる福音書20章27~40節です。ここには、イエスとユダヤ教の一派であるサドカイ派との復活問答が書かれています。サドカイ派は、モーセ五書を重んじ、五書には記されていない人間の復活を否定し、死後の世界や死んだ後の御霊も存在しないと主張しました。(ユダヤ教の一派ファリサイ派は、復活を信じました。)

 ある時サドカイ派の人々が、イエスに問いかけました。「先生、モーセの律法には、ある人が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟が兄嫁と結婚して子をもうけ、兄の跡継ぎとすると定められています。(申命記25:5・レビラト婚) さて、7人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、家の跡取りをもうけることなく亡くなりました。そこで律法に従い、次男が兄嫁をめとりましたが、やはり子をもうけることなく亡くなりました。さらにその弟たちも同じようにして長男の嫁をめとりましたが子をもうけることなく亡くなり、最後にこの妻もなくなりました。人に復活があるならば、この女は復活後、誰の妻になるのでしょうか。」

 イエスは、こう答えました。結婚は、人にパートナーを与えるもの、また子孫を残すためのものです。しかし復活した者は、もはや死ぬことはありません。だから死のない世界では結婚の必要はありませんし、この世における夫と妻、親と子といった人間関係も解消され、全く新しい関係になります。すなわち神の前に等しく神の子(兄弟姉妹)の交わりをもつようになるのです。ですから7人の兄弟に嫁いだ女が、復活後、誰の妻になるのかとの問いは空しいものです。

 今度はイエスが、復活を否定するサドカイ派に問いかけました。あなたがたが大切にするモーセ五書の中に、神がモーセに語った言葉「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3章6節)とあるが、あなたがたはどのように読みますか。「~である」とは、神はアブラハム、イサク、ヤコブが生きている間、彼らの神であっただけでなく、彼らの死後も彼らの神であると言っておられるとは読めないですか。イエスは、あなた方の先祖であるアブラハムたちは死んだが、滅びてしまったのではなく復活の時を待っていると言われたのです。神はモーセに対して、後の世に救い主を遣わし、その者の死と復活によって、死んで陰府(よみ)に捕らわれている人々を含めて、すべての人を復活させ、神の国に導き入れることを示されました。「すべての人は、神によって生きているからである」(38)、イエスはこの問答を通して、死は人の完全な終わりではないと教えました。来るべき日、イエス・キリストを信じる人は復活し、神の国に導き入れられます。そして神の国においては、この世の人間関係は解消され、新たに神の子としての関係、神の前に共に立つ兄弟姉妹としての関係が実現すると教えられたのです。

 

 初めに、私の父のことを話しました。父の遺骨は、メモリアルホールに納めました。父の御霊は、信仰をもつことなく亡くなりましたから、亡くなった人々の集まる陰府(よみ)にあります。この陰府は、地獄ではありません。イエスも死後、この陰府にくだり、そこから復活することで死の力を打ちくだかれました。さらに復活し天に上られたキリストは、信仰を持つことなく陰府にいる人々のところに行って、宣教してくださいます(Ⅰペトロ3:19)。陰府は、イエス以降、神の支配の及ぶところとなりました。ここにいる人々の御霊は、キリストご自身の宣教によって信仰に導かれ、終わりの日を待つのです。また、生きている時にイエス・キリストを信じた人々の遺骨は、墓に納められていますし、その御霊は、父なる神の御元、イエスが用意してくださった住む所にいて(ヨハネ福音書14:1~3)神との交わりの中に置かれ、終わりの日を待っています。 

 さらに今生きている信者である私たちは、教会にいて礼拝をささげて終わりの日を待ちますし、まだイエスを知らない人や信仰を持たない人に、イエス・キリストによる救いを伝えるのです。

 終わりの日(最後の審判の日)は、神の国が完成する日です。その日、イエス・キリストがもう一度わたしたちのところにおいでになられ(再臨)、キリストを信じる人々の遺骨と御霊(陰府にいた御霊も)は、復活し栄光の体に変えられます。また終わりの日に生きている人々は、天に引き上げられて、栄光の体をいただくのです。

  終わりの日、亡くなった者も生きている者も、神の前に立ち審判を受けます。その時、神の右におられるイエス・キリストが「父なる神よ、この者の罪の裁きは、わたしが十字架に架かって身代わりに背負いました」と執り成してくださいます。サドカイ派との問答で「すべての人は、神によって生きる」と話されたイエスの執り成しによって、すべての人は永遠の命をいただくのです。復活し栄光の体に変えられ永遠の命をいただく父は、父とわかる個性を持っています。しかし親と子、夫と妻といったこの世の関係は解消されて、神の御前に立つ神の子(兄弟姉妹)としての関係が実現するのです。

このようにわたしたちは、神がイエス・キリストによって備えてくださった終わりの日を待ちつつ、亡くなった人々の平安を祈り、自らとすべての人の救いを願いましょう。