≪次月 2月(2022)礼拝説教要旨 前月≫

2022. 2. 27  降誕節第10主日礼拝
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 今 週 の 聖 句 >

苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。・・・救いは、主にこそある。

                      (ヨナ書2章3、10節)

 

 「救いは主にこそある」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。・・・救いは、主にこそある。

                      (ヨナ書2章3、10節)

 

           「救いは主にこそある」      深見 祥弘

 先日、テレビニュースで、「ウミガメの排泄物からマスクが出てきた」と、報じていました。ウミガメは、クラゲなどを食べますが、海に漂うビニールをクラゲと間違えて食べることがありました。死んだウミガメを解剖すると、お腹の中から、たくさんのビニール袋が出てきます。しかし、マスクを食べたことを確認したのは、世界で初めてのことでありました。

 新聞の読者投稿欄(毎日、2/11)に中学生が、次ような投稿をしていました。「ある日、浜辺に打ち上げられて死んでいるクジラの写真を見つけました。クジラの開かれた口の中は、大量のペットボトルやプラスチックのごみであふれていました。このクジラは本物ではなく、環境保護団体が作ったオブジェなのだそうです。しかし、この写真を見て、私はあらためて環境問題について考えさせられました。実際、死んだクジラの胃から、大量のごみが出てきたという話をきいたことがあります。ウミガメの鼻にプラスチック製ストローが刺さっている映像を見たこともあり、衝撃を受けました。ごみのポイ捨ては、絶対にやめてほしいです。・・・私もごみは必ず指定されたところに捨てます。・・・」

 

 今朝のみ言葉は、旧約聖書ヨナ書です。ここには、巨大な魚に飲み込まれたヨナについて書かれています。このヨナは、ナザレ近くの町ガト・ヘフェル出身の預言者です。ヨナが預言者として働きをしたのは、北王国イスラエル(ヤラベアム二世の治世、BC760年頃)で、彼は愛国者でありました。ある日、主はヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行って、これに呼びかけよ。彼らの悪は私の前に届いている」(1:1)と命じられました。

ニネベは、アッシリア帝国の都で、ヨナの時代、この国が北王国を圧迫し、北王国はアッシリアに対して法外な貢物を納めていました。主は、ヨナに都ニネベに行き、アッシリアの王と人々に、こうした悪からの悔い改めを呼びかけるよう命じられました。でも愛国者であったヨナは、自分たちの国を圧迫するアッシリア帝国を憎んでいましたので、この主の命令に従うことができませんでした。

 そこでヨナは、主のもとから逃げ出して、ヤッファの港に行き、タルシシュ(現在のスペイン南部)行きの船に乗り込みました。しかし、主はヨナの乗り込んだこの船を見つけて、嵐を起こされたのです。船が沈みそうになる中、船員たちは船底で眠っているヨナを見つけ、この嵐の原因がヨナにあることを知りました。ヨナは、船員たちに「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」(1:12)と話しました。船員たちがヨナを海に投げ込んだところ、荒れ狂っていた海は、静まったのでした。

海に投げ込まれたヨナは、どうなったのでしょうか。彼は、主が遣わした巨大な魚に吞み込まれ、三日三晩、魚の腹の中にいたのです。ヨナは、魚の腹の中にいて、主に祈りをささげました。その祈りとは、「苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。・・・わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。・・・わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果そう。救いは、主にこそある。」(2:3・8・10)でありました。このヨナの祈りは、主に届きました。主が命じると、魚はヨナを陸地に吐き出しました。そのあとヨナは、主に命じられたことに従ってアッシリア帝国の都ニネベに行き、悔い改めを告げたのです。するとヨナの言葉を聞いた人々や王までもが、その身に粗布をまとい灰の上に座って、悔い改めを表明したのでした。

 

さて、ヨナが、巨大な魚に呑み込まれた話は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。後にイエスは、この預言者ヨナについてこのように語っておられます。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」(ルカ11:29~30)

まず、主によってニネベに遣わされたヨナは、後に到来するイエスを指し示す存在でありました。イエスがどのような御方であるのかを知りたければ、旧約の預言者ヨナを知ればよいのです。次の出来事があげられます。

船が嵐にあったとき、ヨナは船底で眠っていて船員たちに起こされ、ヨナが海に投げ込まれると、主は嵐を静められました。イエスの乗った船が湖を渡る途中で嵐にあった時、イエスもまた船の艫で眠っておられました。そして、弟子たちに起こされると、イエスは嵐を静められたのです。

またイエスは、からし種のたとえによって神の国について教えられました。からし種は、どの種よりもちいさいけれど、空の鳥が巣を作るほどに大きくなります。ヨナの話にも、一夜にして成長し、ヨナに日陰を与えたとうごまの木の話がでてきます。ヨナはとうごまの木の下で異邦人の都ニネベの救いを目撃しましたが、イエスはからし種のたとえによって神の国の実現をしめされるのです。

さらにヨナは、船員たちに手足を縛られ、いけにえとして海に投げ込まれ、魚の腹の中に三日三晩いて、陸に吐き出されました。イエスもまた、捕らえられて裁判を受け、人々の罪のあがないとして十字架に架けられ、墓に葬られて、三日目の朝早くに復活され、ユダヤ人のみならず異邦人をも含むすべての人々の救いを実現してくださるのです。

 

魚の腹の中にいて祈るヨナは、滅びの淵に立つ人々の姿を表しています。

それは、大国アッシリアに圧迫を受け、苦難のなかにいた北王国の人々(BC722滅亡)の姿です。さらにそれは、アッシリア後、大国バビロンに滅ぼされてしまう南王国ユダ(BC587年滅亡、バビロン捕囚)の姿をも表しています。そうした状況にあっても、イスラエルの人々が「陰府の底から」、「救いは、主にこそある」と信じて祈りをささげたとき、人々のその祈りは聞かれ、救われました。

イエスは、人々の罪の赦しのいけにえとして、神に捨てられ十字架に架けられ、陰府にのみこまれて三日間そこにいて、復活なさった方です。「救いは主イエスにこそある」と信じて祈るならば、イスラエルの人々、異邦人の別なく、すべての人々はどこにいても、どのような状況にあっても、その祈りは聞かれ、救いの恵みをいただくことができるのです。

 

創造者なる主にとっては、生きとし生けるものが憐みの対象です。その主が遣わしてくださったイエス(魚)の腹の中には、私たちの排出するゴミや汚染物質がいっぱい溜め込まれています。主イエスは、私たちのそのような生活が他の人々や環境に圧迫を与えていることに対して、悔い改めを求めています。私たちが悔い改めて、「救いは、主にこそある」と信じて祈りをささげるならば、必ずこの問題の解決を見ることができるでしょう。また主は、あの中学生のように私たちに対して悔い改めのメッセージを、地球環境に圧迫を与えている国の人々に伝えるよう、命じておられます。 

2022. 2. 20  降誕節第9主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

(マタイによる福音書11章28節)

 

「 休  息 」     仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

(マタイによる福音書11章28節)

 

「 休  息 」         仁村 真司

 辛い、苦しい、途方に暮れている、疲れ果てている、そんな時に28節の言葉(口語訳「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」、文語訳「凡て労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません」)によって安らぐ、安らいだという人は多いと思います。私もヘトヘトなのに何故か休めない、休むなど思いもよらない、それが何と言うのか、すーっと和らいで行って、休めた(ような気がした)ことがあります。

 なのですが、「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」ということは、重荷を負って苦労して、それで疲れていて、且つ「わたし」、イエスのもとに行けば「休ませてあげよう」、休ませるだろうということです。この言葉を見て、聞いて、すっと休む、休めてしまうのは、先走り、フライング・・・と理屈の上ではなりそうです。

 私は本当にここで言われている「重荷」を負っているのか、本当にイエスのもとにいるのか、イエスのもとに行こうとしているのか・・・。ですが、確かに安らぐ、休める。どうやらこの言葉には言葉の意味、字義を超えた不思議な力があるようです。

 1)

 今日の箇所の25~27節はルカ福音書(10章21~22節)の記述と殆ど同じ、語句も文もかなりの程度一致していますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」以下、28~30節はマタイ福音書だけが伝えている言葉です。

 従って、元々どのような状況で、どのような人たちに語られたのかはわかりません。また、例えば29節の「私に学びなさい」、この「学ぶ」はマタイが好んで用いる表現です。イエスの言葉をマタイたちなりに受け止めて、自分たちの信仰に合わせて言葉遣いを整えて、そうしてこのように伝えているのだと考えられますが、まずはマタイはどのように受け止めているのか、マタイ福音書(の文脈)ではどういうことなのか、そこから考えて行きます。

 29節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い・・・」、30節「わたしの軛は負いやすく・・・」。軛というのは、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木のことで、日本語では自由を束縛するもののたとえとして「軛を脱する、はずす」というように用いられることが多いのですが、当時のユダヤ教では、「神の国を担う」ことを「神の国の軛を負う」と言い表していました。具体的には律法を十全に守って生きて行くということで、そのような敬虔な者が担って行く、そういう神の国が待望されていました。

 もっとも、このような神の国を待ち望んでいたのは、自分が敬虔なユダヤ教徒であると自負出来る人たち、ユダヤ教指導者や生活にある程度の余裕がある人たちだったと思います。だれもが事細かな律法の規定に従って生きて行ける訳ではありません。日々生きて行くのがやっとという人たちにとっては、「神の国」への備えは負い難い「重荷」となり、期待・希望ではなく、不安をもたらすものとなっていたことでしょう。

 そうして不安に囚われていう人々に対して「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29節)、つまりはキリスト者になりなさいとイエス・キリストは呼びかけている、マタイはこのように受け止めたのだと思います。

 2)

 ただこれだと「休ませてあげよう」と言われても、それは信仰が足りないからだと言われればそれまでですが、おいそれとは休めない、休んではいられないような気がして来ます。

 イエス・キリストは律法を完成するために来た、律法に従うことが義であり、その義が律法学者やファリサイ派の人々にまさらなければ、決して天の国(神の国)に入ることはできない(5章17~24節)、これがマタイ福音書の主張です。マタイにとって「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」とはユダヤ教以上に徹底的に律法に従うことだと考えられます。

 だとすると、自分にそんなことは出来るのかと不安になって、私などは休んでいる場合ではなくなってしまうのですが、そういうことならばイエスは「休ませてあげよう」とは言わないと思います。

 イエスは「罪人」の烙印を押され蔑まれていた徴税人や娼婦、あるいは貧しさのために律法に従っては到底生きて行けない、そういう人たちに対して「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう・・・」と語りかけたのではないか。私はそう考えています。

 これらの人たちは、ユダヤ教の指導者たちは勿論、一般の人たちからも、神の国から最も遠い、神の国に入れるはずがないと考えられ、言われ、きっと自分たちでもそう思っていた、思い込まされていたでしょう。そこには劣等感や罪悪感が生じます。そして、神の国は待ち望むものではなく、その到来によって自分たちは滅ばされるという恐怖をもたらすものとなっていたと思います。

 絶えず心を苛む劣等感・罪悪感、そして身も心も捕らえて離さない、逃れようのない恐怖、それが「重荷」です。

 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6章20節)、ユダヤ教の指導者たちに「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る」と言い切る(マタイ21章31節)イエスが、ここでは「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを重荷から解き放ち、そして休ませてあげよう」と穏やかに、柔和に、その「重荷」(劣等感・罪悪感・恐怖)に押し潰されそうになっている人々を、気休めではない、本当の休息へと招いているということです。

 3)

 始めに、「この言葉には、言葉の意味、字義を超えた不思議な力がある」と言いましたが、それは28節以下の言葉が招きの言葉であると同時に「解放の言葉」でもあるからです。イエス・キリストは人々の、私たちの、身も心も「重荷」から解き放ちます。

 29節の終わりに「あなたがたは安らぎを得られる」とありますが、この「安らぎ」は原文では「プシュケーにおける休息」です。「プシュケー」はpsychology(心理学)のpsychoの語源ですから「心」ということにもなるのですが、より広い意味で「生命」あるいは「魂」、つまりここで得られる休息とは体だけでもなく、心だけでもなく、体も心も含む人間の全体にかかわるということです。

 この世を生きたイエスから、時間的にも、距離的にも、何もかも遠く離れた所にいる今の私たちが、本当にイエス・キリストの言葉を受け入れることが出来るのだろうか、イエス・キリストに従うことが出来るのだろうか・・・。間違えていることもあると思います。しかし、もしも今日見て来たイエスの言葉から安らぎ、休息を得られたとするならば、それは私たちが確かにイエス・キリストを感じているということです。

 イエス・キリストは今も「わたしのもとに来なさい」と私たちを招いています。

2022. 2. 13  降誕節第8主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。(詩編126編5節)

 

 「涙と共に種を蒔く人」   深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。(詩編126編5節)

 

            「涙と共に種を蒔く人」     深見祥弘

 二年間のコロナ禍を経て、教会がこれまで長い時間をかけ広い範囲で育ててきたものが、絶えてしまうのではと心配します。音楽礼拝、恵老会、特別伝道礼拝、教会バザー、クリスマスコンサートなどの伝道や交わりに関わる諸行事です。たとえていえば、教会の中心である主日礼拝は、保たれていますが、教会の働きの周辺に位置する部分は、かってはよく耕やされ作物の実る地が、風になびく枯草と石ころの転がる荒れ地に変わってしまったように思えます。私たちは、この荒れ地を耕し、収穫を信じて種を蒔きます。主が、必ず喜びの歌と共に刈り入れる時を備えて下さることを信じて、それを行いたいと思います。

 今朝のみ言葉は、詩編126編です。これは、ペルシャ王クロスが捕囚民に対して解放を告げた時、イスラエルの民が歌った歌です。「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」BC587年、バビロンによってエルサレムは陥落し、ユダの国は滅び、人々は捕囚として引かれてゆきました。その後台頭してきたペルシャによってバビロンは滅ぼされ、ペルシャ王クロスは、BC537年勅令を出し、BC536年から捕囚民の帰還が始まりました。50年に及ぶバビロンでの捕囚生活が終わり、帰還した民は、BC516年エルサレムに神殿を再建し、敵の妨害を経験しながらもBC445年には、城壁の再建を終了させたのでした。

 クロス王の解放令を聞いた時、帰国を躊躇した人々がたくさんいました。50年に及ぶ捕囚地での生活を経て、エルサレムを知るのは老齢の人々のみで、多くはバビロンの地で生まれた子や孫たちでした。まだ見たことのないエルサレムは、破壊されて荒れ地となった都です。この都に戻って生活し、町を再建するには、多くの苦難が予想されました。まさに彼らは「涙と共に種を蒔く人」となる必要があったのです。しかしこの都の再建は、主が計画されたのだから、必ず成し遂げてくださることを確信して、人々は歌ったのです。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」

 私たちは、この教会の復興が主の業として成し遂げられることを信じるものです。多くの苦難や涙が必要であるかもしれませんが、私たちは再建のために信仰の種を蒔きたいものです。きっとこれを見る人々は、「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と言うでしょう。

2022. 2. 6  降誕節第7主日礼拝(講壇交換礼拝)
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスは言われた。「神の国は何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張る。」    (マルコによる福音書4章30節)

 

「隠されていた神の国」     深見 祥弘

< 今 週 の 聖 句 >

イエスは言われた。「神の国は何にたとえようか。・・・それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張る。」    (マルコによる福音書4章30節)

 

           「隠されていた神の国」     深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、マルコによる福音書4章、「成長する種のたとえ」と「からし種のたとえ」です。このたとえは、いずれも神の国のたとえです。

 今から90年程前、1930年から5年間、日本キリスト教史上最大の伝道運動である「神の国運動」が行われました。1928年、エルサレム世界宣教大会報告をもとに、日本基督教連盟主催全国基督教協議会は、社会信条を制定し、1年間の全国協同伝道を行いました。1929年、世界宣教協議会会長モット.J.Rをむかえた特別協議会で、賀川豊彦はこの協同伝道を踏まえ、組織化して「神の国運動」を起こすことを提案しました。そして同年11月5日、全国基督教協議会は、宣教70年記念会の際に、「神の国運動」宣言式を行うことといたしました。「神の国運動」とは、プロテスタント諸教派が結集して、<御国を来たらせ給え>の祈りのもと、<祈れ、捧げよ、働けよ>をモットーに、教会、学校、職場などで、組織的な伝道を展開するものです。1930年より始まったこの運動は、5年間で延べ100万人が働き、開催された集会等の聴衆は86万人余り、受洗決心者は45,000人でありました。特に、社会信条をもとに、国家・社会の中にキリストの命を生かすのでなければ、諸問題の解決はなしえないとの認識のもと、それまで伝道の及ばなかった農村や都市の工場などで働く人々への伝道が模索され、農村福音学校や都市福音学校が開設されました。先年廃止となったた長浜の朝日教会は、この農村福音学校から教会設立に導かれた教会です。私たちの教会でもこれに呼応し、1930年1月に開催された教会総会で、高橋卯三郎牧師が「今年度の目標として会員一同「神の国運動」に努力されたい」と呼びかけ、相互援助、貧困者慰問のための「サマリタン会」を組織しました。同年11月、滋賀県下キリスト教信徒大会が大津公会堂で開催され、賀川豊彦を講師に迎えて「神の国運動」の推進のために決起の時をもちました。ヴォーリズさんが「神の国」の実現のために働きをされたことは、私たちの知るところですが、それもまた「神の国運動」に呼応する働きで、近江農村青年学校の働きにそれをみることができます。ヴォーリズさんの書「神の国」は、「神の国運動」の行われていた1934年に書かれたものです。他にこの運動のモットーである「祈れ、捧げよ、働けよ」この言葉からお書きになられた書もあります。

 

 さて、二つの「神の国」のたとえをみてみましょう。

 まず、26節~29節の「成長する種のたとえ」は、土に力があることを伝えています。人が種を蒔くと、夜昼寝起きしている間に、芽が出て、茎を伸ばし、穂ができてそこに豊かな実を結びます。「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり」(27~28)と書かれているとおりです。「種」はみ言葉のこと、「土」は神のお創りになられた世界のことでしょう。人はみ言葉を蒔く働き(伝道)をしますが、蒔かれたみ言葉は、神がお創りになられたこの世界で、ひとりでに大きく成長し、実を結びます。この世界は、神の力が働く世界であり、その力によって神の国は実現するのです。

 次に30~32節の「からし種のたとえ」は、種に力のあることを伝えています。小さな小さなからし種ですが、蒔かれると、どんな野菜よりも大きく成長し、鳥が巣を作れるほどに枝を張ります。イエスさまのみ言葉は、そのみ言葉そのものに力があり、その力によって神の国が実現するのです。神の創られた世界とそのみ言葉には、人の力では到底及ばない神の力を宿しているのです。

 

 それでは、「神の国」とはどのようなものでしょうか。皆さんのお持ちの聖書の後ろに、小さな用語解説がつけられています。そこでは、このように解説しています。「神の国(かみのくに) マタイによる福音書では、多くの場合「天の国」。場所や領土の意味ではなく、神が王として恵みと力とをもって支配されること。イエスが来られたことによって、既に始まっているが、やがて完全に実現する新しい秩序。(マルコ1:15、9:1、ルカ17:20、21:31)」聖書の神の国・天の国は、日本とかアメリカといった場所や領土を有する国ではない。神の国は、神の支配を意味し、イエス・キリストの到来によって始まった。そしてイエス・キリストの再臨によって完成するというのです。とするならば、私たちが神の国・天の国に迎えられることは、天の父なる神さまとイエスさまのご支配の中に移されるということです。さらにイエスさまが来られたこの世界は、神の国すなわち神の御支配が始まっているということです。ルカによる福音書17章20~21節「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 このみ言葉は、イエス・キリストを信じる人々の間に、神の国は存在し、神の恵みと力が働いていることを語っています。

 

 讃美歌90番(54年版)「ここもかみの みくになれば」は、アメリカの牧師ハブコックの詞です。ナイアガラの滝に近い自然豊かなロックポートの教会に赴任した彼は、散歩に出かけると「I am going out see my Father’s world」(父なる神の世界を見に出かけよう)とくちずさんでいたそうです。「ここもかみの みくになれば」の「ここ」とは、わたしたちの暮らすこの世界、この社会、家庭、職場、学校、教会のことです。イエス・キリストがおいでになられたことで、わたしたちのいるこの世界のどこででも、神の国を見出すことがでるのです。3番の歌詞はこうです。「ここもかみの みくになれば よこしま暫しは ときを得とも 主のみむねの ややになりて あめつち遂には 一つとならん」(ここも神の御国です 悪がしばらくのあいだ 力をふるうことがあっても 主のご計画はいずれ実現し 悪によって分断された世界は ついには一つとなるでしょう)

 

 説教題を「隠されていた神の国」といたしました。神の国は、主イエスの中に隠されています。イエスがわたしたちの所に来て下さり、わたしたちが主イエスの言葉(時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい)に耳を傾け、これを受け入れて信じるならば、神の国は、神の恵みと力となってわたしたちに現れ、その光を放つようになります。反対に聞いても信じない人には、神の国は隠されたままです。主イエスによって神の国の到来を聞き、これを喜ぶ人々は、そのともし火を燭台の上に置き、これを証しいたします。しかし、喜ばない人は、升の下にともし火を置いて、それを隠します。その人は、悪の支配を受けて、神の国を自分で育て管理し支配したいとの思いがあるからです。

 神の国は、神の恵みと力によって広がり、完成いたします。「ひとりでに実をむすばせるのであり」(28)「どうしてそうなるのか、その人は知らない」(27)のです。それゆえにわたしたちは、ひたすらにみ言葉の種を蒔き、すべてを神に委ね、隠されていた神の国の恵みが多くの人々に明らかになって広がり、神の国の実現する時を待ち望みたいものです。

≪次月 2月(2022)礼拝説教要旨 前月≫