≪次月 3月(2022)礼拝説教要旨 前月≫

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2022. 3. 27  復活前第3主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

                     (マルコによる福音書9章9節)

 

 「栄光と苦難のメシア」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

                   (マルコによる福音書9章9節)

 

            「栄光と苦難のメシア」     深見 祥弘

 春は、若い人だけでなく幅広い世代の人々が、新しい生活を始める季節です。そうした方々が、拠り所を得て、決して平坦ではない日々を希望をもって歩んでいただきたいと願います。

 卒業式で歌われている曲の一つに、レミオロメンというグループの「3月9日」があります。男性3人のグループですが、この曲は、2002年3月9日に行われた友人の結婚式のために作られました。その後、この曲はテレビドラマ「1ℓの涙」で用いられ、以来、卒業式で歌われるようになりました。私は「3月9日}という曲名を聞いて、私の誕生日がそのまま曲名になっていることで大好きになりました。抜粋ですが歌詞の一部を紹介します。「流れる季節の真ん中で ふと日の長さを感じます。せわしく過ぎる日々の中に 私とあなたで夢を描く。3月の風に想いをのせて 桜のつぼみは春へとつづきます。」「新たな世界の入口に立ち 気づいたことは一人じゃないってこと」「瞳を閉じれば あなたが まぶたのうらにいることで どれほど強くなれたでしょう。あなたにとって 私も そうありたい。」「上手くはいかぬこともあるけれど 天を仰げば それさえ小さく」「花咲くを待つ喜びを 分かち合えるのであれば それは幸せ」。

 

 今朝のみ言葉は、マルコによる福音書9章2~10節です。ここには、イエスが高い山で、その姿を変えた出来事(山上の変容)が書かれています。先週の日曜日、仁村先生は、8章のイエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に出かけ、そこでペトロがイエスに「あなたは、メシアです」と告白した箇所のお話をされました。そのペトロの告白から6日後のことです。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの愛弟子3人を連れて、高い山に登り、そこで姿が変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(3)と変容の様が書かれています。さらに、弟子たちは、そこにモーセ(律法)とエリヤ(預言者)が現れ、イエスと語り合っている様子を見ました。ペトロは、非常に恐れを感じつつ、深い感動を覚えて言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(5)この時ペトロは、世界の終わりに、モーセとエリヤがあらわれ、神の国が実現するとのマラキの預言を思い起し(マラキ3:22~23)、その実現を信じ、この栄光の中に、ずっといたいと思いました。ところが、ペトロの言葉のすぐ後に、3人は雲に覆われ、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7)との声を聞きました。雲が晴れてペトロたちが見回すと、そこにはイエスだけがおられました。この後、イエスと3人の弟子は、山を下りましたが、途中、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9)と命じられました。

 

 イエスと3人の弟子たちが、山を下り9人の弟子たちのところに戻ってみると、大騒ぎになっていました。9人の弟子たちが、霊に取りつかれ、ものを言えない子を癒すことに失敗し、律法学者たちが、イエスの力を否定したからです。これを見たイエスは「なんと信仰のない時代なのか」(19)と言われ、子の父親に「信じる者には何でもできる」(23)と言うと、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24)と叫びました。イエスが霊をお叱りになると霊は出ていき、子は死んだようになりましたが、イエスが、この子の手をとって起こすと、立ち上がったのでした。

 

 この話で、「高い山」とは、教会をあらわしていると思います。私たちは、日曜日に教会に来て(山に登り)礼拝をし、再びそれぞれの生活の場に戻って(山を下りる)ゆきます。 私たちは、教会でモーセ(律法)とエリヤ(預言者の書)、そしてイエス(福音)の言葉を読み、イエスがどのような御方なのかを知ります。すなわち、律法と預言者の書が語っているメシヤとは、イエスであることを知り、その栄光の姿をみるのです。さらに、私たちは、教会で、私たちの救いのために、神が計画しておられること(「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」8:31)を知ります。そして、私たちは、「これはわたしの愛する子。これ(イエス)に聞け。」(9:7)との派遣の言葉を聞き、それぞれの生活の場に下りてゆくのです。

 ところであの時、なぜイエスは、弟子たち全員を山に連れて行かなかったのでしょうか。先ほど、9人の弟子たちの不信仰について話しました。彼らは、自分たちと共にイエスがおられない、また弟子のリーダーである3人もいないという状況の中で、自分たちの力でなんとかしなければならないと思い、失敗をしたのです。彼らには、イエスがおられないからこそ、イエスに対する信仰が必要であったのです。

 この後、弟子たちは、イエスの不在(イエスが、十字架に架けられ、葬られる別れ)を経験することになります。しかし、それは永遠の別れではなく、イエスが復活して、再び自分たちのところにきて、共にいて下さることが実現するのです。イエスが山を下りる途中、3人の弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9)と言われたのは、彼らもまた、イエスが十字架に架けられるメシヤであることを、まだ信じることができなかったからです。この後十字架と復活によって、はじめて彼らは、メシヤが栄光と苦難の御方であることを知ることになるのです。

 

 レミオロメン「3月9日」は、こう歌っています。

「瞳を閉じればあなたが まぶたの裏にいることで どれほど強くなれたでしょう。あなたにとって私もそうでありたい。」私たちは、生活の場で、イエスの不在を覚えることもあります。でも私たちは、私たちの救いのために十字架にかかられ復活されたイエスを思い起こし、今は共にいてくださることを信じて強められたいのです。またイエスがそうであるように、私たちも苦難の中にいる人々と共にあることができれば幸いです。

「上手くはいかぬこともあるけれど 天を仰げば それさえ小さく」

イエスは、ものを言えない子の父親と癒しに失敗した弟子たちに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈ることを教えられました。ここにいる私たちの中にも、不信仰はあります。でも私たちが天を仰いでこのように祈れば、主は必ず道を開いてくださるのです。

「新たな世界の入口に立ち 気づいたことは一人じゃないってこと」

「花咲くを待つ喜びを 分かち合えるのであれば それは幸せ」弟子たちは「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との声を聞きました。イエスが、復活し昇天した後、聖霊が降り教会ができました。イエスは、見える形では、私たちのところにはおられません。しかし、教会に集まって、共に聖書の言葉を聞く時、また生活の場で祈る時、イエスの教えに従って愛に生きる時、私たちは共にいてくださるイエスを見出すことができます。そして救いの希望に生きる人々と共に、救いの喜びを分かち合うことができるのです。 

2022. 3. 20  復活前第4主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

(マルコによる福音書8章34節)

 

「イエスに従うということ」 仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

(マルコによる福音書8章34節)

 

「 イエスに従うということ 」    仁村 真司

27~30節は「ペトロの信仰告白」と呼ばれる所で、新共同訳では「ペトロ、信仰を言い表す」、聖書協会共同訳では「ペトロ、イエスがメシアであると告白する」という小見出しがついているのですが、どうでしょうか。

 まず27節でイエスが弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねて、28節で弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言う人もいれば「エリヤだ」・「預言者の一人だ」と言う人もいると答えます。そこで29節、イエスが「あなたがた(弟子たち)は何者だと言うのか」と尋ねるとペトロが「あなたはメシアです」と言う。そして30節、「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。

ペトロが「あなたはメシアです」と言った、これが信仰告白で重要だとしても、ここでもっと重要なのは、主題は、イエスが「御自分のこと」をだれにも話さないようにと戒めていることだと考えられます。

1)

イエスが自分のことを話さないように戒めている所は他にもあります。

そこを見てみましょう。3章11~12節です。

 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

一章にも良く似た感じの所があります。

 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊は…大声をあげて出て行った。(23~25節)こちらでは「お叱りになる」と訳されていますが、「戒められた」と同じ単語です…と言うよりも、マルコは一貫してこの単語を「厳しく叱りつける」という意味で使っています。つまり、「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」とは、ペトロが「あなたはメシアです」と言った、イエスはその通り、わたしはメシアだ、だがこのことはだれにも言わずに秘密にしておきなさいと戒めた…ということではなく、そんなこと言うなと、だれにも言うなと、悪霊に対して「黙れ」と言ったのと同じように、弟子たちを厳しく叱りつけたということです。

  2)

 この箇所が「ペトロの信仰告白」と呼ばれるのは、マタイとルカの並行記事ではペトロがイエスはメシアであると言ったのは信仰告白で、イエスがこのこと(メシアであること)はだれにも話すなと命じたとなっているからです。マタイ福音書の方をざっと見ておきます(16章16~20節)。

 …シモン・ペトロが、「あなたは、メシア、生ける神の子です」と答えた。するとイエスはお答えになった。「…あなたは幸いだ。あなたにこのこと(イエスがメシアであること)を現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。…あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」…それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 イエスがいた当時のユダヤ教社会では「メシア(キリスト)」と言えば、選民であるユダヤ人を異邦人、具体的にローマ帝国の支配から解放する王のような、ですから政治的、軍事的指導者のことで、人々はそういうメシア、キリストを待望していました。

 当時イエスに期待する人々は沢山いた訳ですが、中にはこの世の王のような指導者であることを期待してイエスを「メシアだ」と言う人も少なからずいたと思います。そして、ペトロ、イエスの弟子までもが「メシアだ」と言う。これは、「洗礼者ヨハネだ」・「エリヤだ」・「預言者の一人だ」と言うのと変わらない、弟子たちもイエスに既製の、通俗的なレッテル貼りをしていた。そんなペトロ、弟子たちをイエスは厳しく叱りつけた。マルコ福音書ではそういうことです。

 この後31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。32節「…すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」とありますが、違います、「叱りつけ始めた」。自らの受難・死・復活を語るイエスを叱りつけ始めた、ペトロがイエスを自分の思いに従わせようとしたということです。

  3)

 マタイが伝えるペトロは信仰を告白し、先頭切ってイエスに従い、マルコが伝えるペトロはイエスを従わせようとする。丸で正反対、両極端ですが、この両極端、両端、「イエスに従うということ」と「イエスを従わせるということ」との間を揺れ動く、行ったり来たり、ウロウロする。イエスに従おうとする時、どうしてもそうなってしまうのが人間だと思います。

 違う言い方をすれば、人は「神のこと」を思っているつもりでも「人間のこと」を思っていることがある、「人間のこと」がどうしてもその思いに入り込んでしまうということです。

 イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってペトロを叱りつけています(33節)。

 今の私たちは弟子たちのように直接イエスに従うことは出来ません。ですから、自分や他の人たちの思い、考え「人間のこと」を「神のこと」と思い込んでいることもきっとあって、それはイエスを自分たちの思いに従わせようとしていることになると思います。

 そしてまた、そのような時イエスが私たちを直接叱りつけるということも、「絶対に」とは言いませんが、多分ありません。今の私たちが本当にイエスに従うことは出来るのか、イエスに従うとはどういうことなのか…。

 34節、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」…。ここには弟子たちと群衆とを隔てる壁はありません。そして、当時の人々と後の時代の遠く離れた所に生きる人々、今の私たちとを隔てる壁もない、取り払われていると思います。イエスは全ての人々に語りかけています。

 「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 イエスに従うとは、それぞれの時代、それぞれの場所で、イエスのように、自分を捨て、自分の十字架を背負って生きるということです。

 イエスは、受難、十字架へと赴く際に祈ります(14章36節)。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」

 「自分を捨て…」とは、どうしても「人間のこと」を思ってしまう、イエスを自分の思いに従わせようとしてしまう、そういう自分を無くす、消し去ることではないと思います。そんなことは出来ません。そうではなく、そういう自分をしっかりと見つめる。それが「自分の十字架を背負う」ということだと思います。そして、「しかし、私が願う、人間のことではなく、御心に適う、神のことが行われますように」と祈る…。

 弟子たちだけではない、自分の弱さを見つめ、弱い自分を認め、背負い、「しかし、御心に適うことが行なわれますように」と願う、求める。それがわたしに従う者である、わたしの兄弟である、姉妹である、キリスト者である…。イエスはそう言って私たちを導いているのだと思います。

2022. 3. 13  復活前第5主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

     (エフェソの信徒への手紙6章18節)

 

「神の武具を身に着けて」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

                (エフェソの信徒への手紙6章18節)

 

          「神の武具を身に着けて」      深見 祥弘

 2月24日にはじまったロシアによるウクライナに対する侵略は、2週間を経て、なお続けられています。そうした中、3月4日、日本政府は、自衛隊の防弾チョッキやヘルメットなどをウクライナに無償提供することを決めました。提供されるのは、防弾チョッキ、ヘルメット、防寒服、テント、カメラ、衛生資材、非常用食料、発電機などで、8日夜、自衛隊機で隣国ポーランドに運ばれました。防弾チョッキやヘルメットは、「防衛装備移転三原則」に記される防衛装備品にあたります。そして防衛装備品は、「紛争当事国」に提供することを禁じられています。しかし政府は、ウクライナは「紛争当事国」に当たらないと判断いたしました。「紛争当事国」とは、「武力攻撃が発生し、国際平和と安全を維持・回復するために、国連安保理が措置をとっている国」と定められていますが、その安保理決議を受けていないウクライナは、供与禁止の対象外と判断されました。

 

 今朝のみ言葉は、エフェソの信徒への手紙です。この手紙は、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙とともに、「獄中書簡」と呼ばれています。使徒パウロは、ローマの獄中から、第3伝道旅行で3年近く滞在したエフェソの信徒たちにこの手紙を書き、ティキコに持参させました。紀元62年頃のことです。

 

 この手紙の1章には、パウロがエフェソの人々に伝えたい大切なことを記しています。それを伝えるために用いられた言葉を抜き出してみると、天地創造(4)、選び(4)、予定(5)、神の子とされること(5)、贖い(7)、罪のゆるし(7)、秘められた計画(9)、時が満ちる(10)、キリストのもとに一つ(10)といったものです。

パウロは、このように書いています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(1:4~5)

 神は、パウロもエフェソの人々をも、天地創造の前から選び、イエス・キリストによって贖い、罪を赦し、神の子にしようと、予定しておられました。まず異邦人であるエフェソの人々が、この神の豊かな恵みを受け入れ、続いてイスラエルの人々もこの神の恵みを受け入れます。そして、時が満ちると、神のご計画である救いが完成するのです。そのようにして、天にあるものも、地にあるものも、キリストのもとに一つとされるのです。

 パウロは、自分と同じように今、迫害を受けて苦しんでいるエフェソの信徒を覚えて、祈り励まします。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように。」(1:17~18)

 

 この手紙の6章には、このように書かれています。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(6:10~11) パウロは、エフェソの信徒に苦しみを与えているものは、「悪魔」(ディアボロス)だと言います。

ディアボロスには、引き離すという意味があります。悪魔は、イエス・キリストにより救いを実行している神と人々を引き離してその関係を空しくしようとしていますし、人と人との関係をも引き離して対立を生み出し、人々を悪魔の支配下に移そうとします。パウロは、そうした状況にある人々に対して、「神の武具を身に着けなさい」と勧めています。神の武具とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げるための履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣(神の言葉)です。ところでここに名前が上げられている武具は、防備のためのものです。唯一、剣(マカイラ)が攻撃に使うことのできるもののようですが、これは戦いに使う長い剣ではなく、神への供え物を準備する時に使うナイフです。そしてこれらの武具は、神より人々に与えられる、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、霊をたとえたものです。これらを身に着けることは、イエス・キリストによってなされる神の救いへの信頼をあらわしています。

 

 ロシアによるウクライナ侵略に対して京都教区は、3月4日、教区議長名で、教区内教会・伝道所に対し祈りのお願いを出しました。

その祈りとは、次のようなものです。

ロシア・ウクライナ双方、そして国際社会と日本社会のために祈ります。

・指導者が、共に戦争を終結させる判断をすることができますように。

・全ての人の命と生活を守って、戦闘を中止しますように。

・戦闘も威嚇もせず、侵攻せず、即時撤収することができますように。

・ウクライナ国内外の避難民を支える、国際的人道援助ができますように。

・故郷を離れざるを得なかった人々が、故郷に帰ることができますように。

・世界各地のロシア・ウクライナの人への迫害や蔑視がされないように。

・世界の人々が、立場の違いを超えて平和のために働けますように。

・侵略の恐怖から、軍事力に頼ってしまう錯覚が世界に起きないように。

・核兵器使用の可能性や威嚇が、決して許されることがないように。

いま、私たちが恐れるべきことの一つは、「祈りとは無力ではないか」と思うことです。祈りは無力ではない、そう信じて、教区の皆様に平和への祈りを呼びかけます。

 

 「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(6:18)

祈りは無力かとの問いに、パウロは決して無力ではないことを表明しています。もし祈りは無力だと感じているならば、それはその人が、主にしっかりと結ばれ、依り頼むことができていないことによりますし、祈りに覚える人々としっかりと関係を結んでいないことによるのかもしれません。そうした場合、人は行為によって自らの義を主張し、祈る他者を裁き、そこに満足を得ようといたします。

私たちが祈るときには、先にお話したイエス・キリストによる神の救いの計画を、私たちが神の豊かな恵みとして受け入れているか否かが問われているのではないでしょうか。もし私たちが、イエス・キリストによる救いの計画を、神の恵みとして受け入れているならば、祈りによって促された神の偉大な力によって、神の救いを見ることができるでありましょう。

 最後にウクライナ讃美歌「ウクライナの祈り」2番の歌詞を紹介します。この讃美歌は、ウクライナの精神的国歌と言われるものです。

 「 全能なる主よ 我らは祈る/ 我らのウクライナを守り給え/

   我らの民   我らの祖国を救い給え / そなたの慈愛で/

   自由と知恵を恵み給え/ 我らを善き世界へ導き給え/

 主よ 民に与え給え/ 永遠に 永遠に 」

2022. 3. 6  復活前第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。  (マルコによる福音書2章21節)

 

 「引き裂く主の愛」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。          (マルコによる福音書2章21節)

 

            「引き裂く主の愛」       深見 祥弘

 3月2日(水)は灰の水曜日、この日より4月16日まで受難節(レント)

に入りました。いにしえの人は、この日、断食をし、粗布をまとい、ちり灰をかぶって悔い改めをいたしました。ちょうどそうした時期に、ロシアはウクライナに侵攻しました。宗教的には、ロシア、ウクライナともに、正教会の信者が多数をしめています。皆さんは、首都キエフからの報道で、金色のドームをもつ教会が映し出されるのを見たことでしょう。キエフには、キエフ最古の教会「ソフィア大聖堂」(1037年創立、1990年に世界遺産)や、「聖ミハイル黄金ドーム修道院」(ウクライナ正教会)などの教会があります。ウクライナは、ソ連邦の解消とともに独立しましたが、教会もロシア正教会の管轄下から2018年に独立し、ウクライナ正教会となり、宗教面でもロシアの支配から脱却を果しました。ウクライナ正教会の主席主教であり、キエフ府主教オヌフリイ師は、2月24日、ウクライナ国内の信者に向けてメッセージを発表いたしました。「ウクライナ正教会は、これまでも、これからも国民とともにある。」

 

 レントの時期の戦争ということで、私はイザヤ書58章の言葉を覚えました。「見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。・・・わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。・・・飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出て、あなたを包む闇は真昼のようになる。」

人は神や他人に自らの敬虔を示すために断食をするが、他方では争いを起こし暴力や戦争をする。しかし、神が求めている断食とは、飢えた人にパンを裂いて与えること、さまよう人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せることであると言っているのです。

 

 今朝のみ言葉は、マルコによる福音書2章18~22節「断食についての問答」です。ここでのキーワードは「新しい」です。「ヨハネ、ファリサイ派、

断食」は、古いものを表していますし、「イエス、弟子たち、食事」は、新しいものを表しています。毎年ユダヤ暦ティシュリの月(太陽暦の10月)の10日は「贖罪日」で、全国民が罪の懺悔のために断食をする定めになっていました。このほか、人々は、神の啓示を受ける準備をする時、また、苦しみや悲しみの中にあって、神の憐みを求める時に断食をしました。さらにファリサイ派は、週に2回断食をしました。それは自分の敬虔を人に見せるためで、断食をする自分を誇り、それをしない人を非難し裁くためでした。

  ある時、人々がイエスの所に来て言いました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」おそらくは、自分の敬虔さを見せるための断食のことで、

イエスと弟子たちが、そのような断食をしていないこと、さらに徴税人や罪人と一緒に食事をしていることなどを知っていて、そのように問うたのだと思います。この問いにイエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と答えました。花婿というのは、イエスのことです。イエスが花婿(救い主)として来られ、婚礼の席に着いておられます。その席に招かれた者は、すべての苦しみ悲しみから解放されているので、断食をする必要はありません。しかしファリサイ派は、イエスのおられる婚礼の席で、あえて断食をして自分の敬虔を人に誇示し、イエスを救い主と認めず、イエスを辱め争うことをしています。ファリサイ派の人々は、まさに預言者イザヤが語っていた「断食しながら争いといさかいを起こす者」だったのです。

イエスは言葉を続けました。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」これは、イエスが、自らの逮捕と十字架を預言しておられる言葉です。イエスの弟子たちは、その時、捕らえられたイエスのもとから逃げ出した自分たちのふがいなさを思い、悲しみの中で断食をすることになるのです。

 弟子たちは、イエスと共にいて喜びに溢れていたのに、どうしてイエスを裏切り、「そんな人は知らない」と言い、逃げ出したのでしょうか。それは、イエスの弟子たちの信仰は、まだ時とともに古くなっていく信仰であったからです。イエスは、問いかけた人々に「新しい布切れと古い服のたとえ」そして「新しいぶどう酒と古い革袋のたとえ」を話されました。この新しい布切れと新しいぶどう酒とは、イエスのことです、また古い服と古い革袋とは、イエスの弟子たちのことです。イエスは、自らのすべてのものを、弟子たちに献げます。イエスは御自分のからだ(パン)を裂いて、彼らに与え、さらに、古くなるものの宿命である滅びを経験してくださり、もはや決して古くなることのない新しい命をもって復活されました。そのことをもって、弟子たちは絶対に奪い去られることのない花婿イエスとの喜びの日が実現しました。復活のイエスは、裸であった人々に信仰という新しい衣を着せてくださり、さまよう人を神の家である教会に迎え入れ、悪や軛から人々を解放してくださるのです。

 

 説教題を「引き裂く主の愛」としました。「引き裂く主の愛」とは、どういう意味かと思われたかもしれません。これは、主の愛が私たちを引き裂くという意味ではありません。古い服に新しい布を継ぎ当てはしないですし、古く固くなっている革袋の中に発酵中の新しいぶどう酒はいれません。

 この題は、主御自身が引き裂かれる経験をし、そのことで主の愛を私たちに与えて下さるということを表すものです。とするならば、私たちはどのようにして、新しい服や革袋になることができるのでしょうか。この箇所のキーワードは、「新しい」であると申しましたが、それはイエスとともに生きることで与えられるものだと思います。私たちは、主イエスと共に生きることを決心し洗礼を受けたとき、新しいものに変えられました。古い私が水に沈んで死に、聖霊の働きによって新しい私につくりかえられたのです。そんなことを言っても、月日と共に老いてゆくわけですが、イエスを私たちの内に入れても、私たちは裂けることはありません。また、私たちの破れをイエスの愛という新しい布でつくろっても、引き裂かれてしまうことはありません。ご自分を引き裂く主の愛によって、私たちは古くならない新しさ、永遠の命をいただいているからです。

 

 私たちは、戦禍の中にいる人々、逃れて難民になっている人々、傷つき亡くなった人々のために祈りましょう。「世界中の主の教会はこれまでも、これからも、あなたがたと共にあります。」「主がパンを裂き与えてくださるように、さまよう貧しい人々が家に招き入れられますように、裸の人に衣を着せてくださるように。」「主の平和がウクライナに訪れますように。」