≪次月 8月(2022)礼拝説教要旨 前月≫

2022. 8. 28  聖霊降臨節第13主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行なう力が彼に働いている。」

(マルコによる福音書6章14節)

「 知る、信じる、生きる 」 仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行なう力が彼に働いている。」

(マルコによる福音書6章14節)

「 知る、信じる、生きる 」    仁村 真司

 前回はイエスによる弟子の派遣(6章7~13節)を取上げましたが、その活動が活発になるにつれイエスの名が知れ渡り、「イエスとは何者か」ということが人々の間で話題になっていたのでしょう。「エリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」という人もいる。

 そんな中で16節「ところが、ヘロデ(・アンティパス)はこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」

 ここから洗礼者ヨハネが殺された経緯が語られて行きます。

  1)

 17節「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」、18節「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。」

 それで、妻ヘロディアとしてはヨハネを殺したかった。けれでも、ヘロデはヨハネは正しい聖なる人であるし、恐れていて、またその教えに当惑しつつも引かれ、殺そうとまでは思えない、殺すのにはためらいがあった。

 そんな時に催されたヘロデの誕生日を祝う宴会でヘロディアの娘が踊りを披露します。ヘロデは大喜びで「欲しいものがあれば何でも、この国の半分でもやろう」と言って、固く誓います。そこで、母ヘロディアに指示、教唆された娘は「洗礼者ヨハネの首をいただきとうございます」とヘロデに願う、そうしてヨハネは首をはねられ殺された・・・。あまりにも浅はか、くだらない事情、成行きで人一人の命が奪われたという悲劇です。

 もっとも、この話は全くの作り話です。実際にはヨハネはヘロデの王宮から遠く離れた要塞に監禁されていて、そこで処刑されています。また、ヘロデがヨハネを処刑したのは、多くの人々がヨハネに引き寄せられていて、それが革新的な運動となり、暴動のような状況になってから後悔するよりも先に滅ぼしておいた方が良いと考えたから、言わば政治的判断です。

 それがどうして大の大人、権力者・支配者が、「少女」(22節、多分12歳未満)に言われるままにヨハネの首を与えたという話になったのか・・・。

ともかく、福音書に記される前からこういう話になっていたのでしょう・・・。

 それと、ヘロディアの娘は「サロメ」という名前で知られています。聖書には書いていないのですが、当時のことを記した歴史書(ヨセフス「ユダヤ古代史」)に、ヘロディアと前夫との間の娘の名がサロメであったことが記されています。ですが、ヨハネが処刑された(紀元30年)頃にはサロメは既に少女というような年齢ではなかったと考えられます。なので、このヘロディアの娘はサロメという名前ではなかったと思います。

 架空のお話の一登場人物の名前ですから、どうこう言うこともないのですが、サロメと呼ばれるようになったこの少女はいつしかこの聖書の記述を題材にした芸術作品の中で主人公になって行きます。

 絵画作品では、中世からルネッサンスにかけては聖堂壁画や祭壇画に洗礼者ヨハネの伝記の一部として、宴会の場面の中に踊ったり母ヘロディアにヨハネの首を捧げるサロメが描かれていますが、16~17世紀にかけては首を捧げるサロメだけがクローズアップされる傾向が強まって行きます。

 文学作品では19世紀末のオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』が有名です。私はつい最近始めて通して読んでみました。とても興味深い物語です。

 言葉遣い等からサロメの少女らしさ、子供っぽさが伝わって来ます。また、聖書では触れられていない(聖書からは読み取れない)サロメの思いも描かれています。聖書ではヨハネの首を求めたのは母ヘロディアに唆されてですが、ここではサロメ自身の意思です。ヘロデが国の半分ではどうだ、宝石ではどうだと、次々にいろいろ提案しても、「首をちょうだい」と言い続けます。そうして、ヨハネの首が与えられるのですが、最後に恐怖に駆られたヘロデが「あの女を殺せ」と命じて、サロメは殺されます。

  2)

 今日の箇所に限らず、聖書の記述から着想を得た芸術作品は私たちの想像力を刺激します。聖書を(改めて)読んでみる動機になることもあります。ただ、芸術作品を鑑賞するのと聖書を読むのとは別のことです。

 また、芸術として優れた、人々の胸を打つ作品であっても、必ずしも聖書が語っていることが主題として描かれている訳ではありません。

 先ほど今日の箇所が伝えるヨハネが殺された経緯について、「あまりにも浅はか、くだらない事情、成行きで人一人の命が奪われた悲劇」と言いましたが、言い方を換えれば簡単に避けることが出来た悲劇、悲劇に至るまでに引き返す機会は幾らでもあったということです。例えばヘロディアの娘がヨハネの首を求めた時にヘロデが「子どもが口出しすることではない」と言えばそれで済むことです。そう言い切った方が権威・権力を誇示したいヘロデにとっても良かったのではないかと思います。

 ですから、「洗礼者ヨハネの死の意味」だとか「人の罪深さ」・「悔い改めることの難しさ、大切さ」等を云々するような所ではないと私は思います。マルコが、このようなヨハネの死の経緯を(勿論事実と考えて)記しているのは、ヘロデという指導者が、人としても、いかにダメだったか言っておきたかった、簡単に言えばヘロデが大嫌いだったからでしょう。

  3)

 聖書を読む、そして聖書が語っていることを受け止めるということからすれば、今日の箇所の主題、本論は、17節以下のヨハネが殺された経緯ではなく、冒頭の14~16節の人々が「イエスとは何者か」ということについてあれやこれやと言っている所です。

 この主題は後の箇所でもう一度繰り返されます(8章27節~)。

 ・・・(イエスは)弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(~29節)

 マタイ福音書はこれをペトロの信仰告白と捉えていますが、マルコ福音書では「メシアです」と言うことを含めて、イエスは自分のことについて誰にも言うなと叱りつけていて(30節)、それがこの箇所のポイントです。

 そして、今日の箇所のポイントは「ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」(16節)です。

 つまり、イエスについて「エリヤだ」と言う人もいれば「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいる。あの、ダメダメの、ヘロデさえ「ヨハネが、生き返ったのだ」と言っているということです。

 イエスについて「あの男は気が変になっている」・「ベルゼブルに取りつかれている」と言う人たちもいたのですから(3章21・22節)、「ヨハネだ」とか「エリヤだ」・「預言者だ」と言うのは、多少なりともイエスに肯定的、まだマシな方と言えなくもないのですが、イエスを自分の思いや都合(期待や不安など)から枠にはめようとしている点では同じです。

 そして、マルコからすれば「メシア(キリスト)です」と言うペトロ、弟子たちも同じことをしている、それはイエスへの信仰でも信頼でもない。

 マルコが福音書を書いたのは「イエスとは何者か」、これの正解を示すためではないのです。この世の現実を生きたイエスの姿を素朴に、しかしはっきりと示し、後の時代の人々、私たちが、イエスを知り、イエスを信じ、イエスに従って生きることが出来るようにする、そのためだと思います。

2022. 8. 21  聖霊降臨節第12主日礼拝
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 今 週 の 聖 句 >

祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』

            (ルカによる福音書11章2~4節

「祈りを教えて下さい」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』

                  (ルカによる福音書11章2~4節)

 

         「祈りを教えて下さい」        深見 祥弘

 皆さんは、裁判員制度をご存じでしょうか。この制度は、国民の中から選ばれた裁判員が、重大な刑事事件に参加する制度で、2009年に始まりました。裁判員は、法廷で行われる審理に立ち会い、裁判官とともに被告人が有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑にするのかを判断します。

 わたしはこの裁判員に選任され、務めを果しました。昨年の秋、裁判所から裁判員候補者名簿に登録されたとの通知が届きました。裁判員候補者名簿は、選挙人名簿から無作為に抽出し作成します。調査票に記入し返送すると、選任手続きにくるようにとの知らせが届きました。裁判所に手続きに行くと、30人ほどの方が出席していて、その中から6名の裁判員と2名の補充者をくじで決めました。出席者の前で、商店街などでよく見るガラガラ抽選機が回され、わたしの番号玉が出たのです。競争率は5倍、選ばれることはないと思っていましたので、びっくりしました。

 教会でも、くじを引くことがあります。選挙で同票となり、当落を決める時です。人々の意志は同票、後は神に委ねて選んでいただくということで、くじを使います。裁判員のくじに当たった時、これは神の御意志だと受け止め、務めを果すことにしました。聖書には、「人を裁くな」(マタイ7:1)とあります。人が神のようになって、滅びを宣言するなということです。キリスト教国である欧米でも陪審員制度や参審員制度があります。「罪を憎んで、人を憎まず」と言うように、実際に犯した罪について、裁きをし量刑を確定しますが、この刑によって被告人の悔い改めと立ち直り、そして被害者の癒しを祈りつつ、これからのことを神に委ねるのです。

 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書11章です。イエスは、ある所で祈っておられました。祈りが終わると、弟子の一人が、「主よ、ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。イエスは、「祈るときには、こう言いなさい」と言って、弟子たちに祈りを教えてくださいました。主イエスが教えてくださった祈りでありますから、この祈りは「主の祈り」と呼ばれます。イエスがお一人で祈っておられたこの祈りを、皆で祈る祈りとして解放してくださったのです。

 まず、イエスは「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈りなさいと教えられました。「父よ」、これは「アバ」(アラム語)という言葉で、家庭で子どもが父親を呼ぶときの言葉「お父ちゃん」とか「パパ」といった親しい関係の呼び方です。主の祈りは、父なる神と子なるイエス、この親しい関係にわたしたちも招かれて、イエスと一緒に祈る祈りです。祈る人は、イエスと一緒に「父よ」と呼びかけます。

 「御名が崇められますように。」 この祈りは、人の名が高くされ、神の名が低くされている現実をあらわしています。イエスは一人、神の名が高められることを祈っておられましたが、これまで神の名を低くしてきたわたしたちにも、この祈りに加わるよう招いておられます。

 「御国が来ますように。」 この祈りは、悪の支配がまだ終わっていないことを覚えての祈りです。イエスは一人祈っておられましたが、わたしたちにもこの祈りに加わるように求めておられます。

 「父よ、御名が崇められますように。御国がきますように。」この祈りは、これまでイエスが一人で祈っておられた祈りでありました。しかし、イエスは、わたしたちにも一緒に、この祈りを祈ってほしいと求められました。

 「主の祈り」の後半の祈りは、わたしたちがこれまで祈ってきた祈りを、イエスが共に祈って下さることを教えています。

 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」  聖書(律法)は「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)と教えています。にもかかわらずイエスは、わたしたちの祈りである「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と共に祈ってくださり、パンのことを配慮してくださいます。

 「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」 罪の赦しを求める祈りは、わたしたちの過去に関わる祈りです。わたしたちは、すでに主イエスの十字架によって罪を赦されています。ですから、同じように主イエスの十字架によって罪を赦された、自分に負い目のある人をも赦すことができます。自らの罪の赦しを祈るとき、主イエスが共に祈ってくださるならば、自分に負い目のある人をも赦すことができるのです。

 「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」 この祈りは、わたしたちの未来を覚えての祈りです。わたしたちはこれから誘惑や試練を経験するかもしれないけれど、すでに様々な試練や誘惑を経験し、これに勝利されたイエスが一緒に祈ってくださるならば、わたしたちもそれを退けることができます。

 イエスは、あなたがたがこれらの祈りを祈るとき、わたしもともにいて祈るから、希望をもつて祈るようにと教えておられるのです。

 

 イエスはすでに二度にわたり、御自分の死と復活を弟子たちに知らせていました。まもなくイエスは、弟子たちと一緒にいることができなくなります。しかし、弟子たちがこの「主の祈り」を祈るならば、イエスが遣わせてくださる聖霊がともにいて、イエスと同様に執り成しをしてくださることを見出すことができます。

 イエスがおられなくなったとき、聖霊が与えられることを知らせるために、イエスは弟子たちに次のような話をしました。ある人のところに真夜中、友人が訪ねてきて、「パンを三つ貸してください」と願いました。その人は、「面倒をかけないでください。子供たちがわたしのそばで寝ています。」と答えました。イエスは、友達だからということでは、起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて必要なものは何でも与えられるであろうと話されました。

 わたしたち人間の関係では、友人よりも家族が大切です。しかし、そのような人間の関係を越えて、「主の祈り」によって結ばれる神との関係によって、わたしたちの思いを越えた願いをかなえていただけるのです。

 「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 イエスの後、神が遣わしてくださる聖霊は、わたしたちを「イエスは主です」との告白へと導いてくださいます。わたしたちがイエスへの信仰をもつて、「主の祈り」を祈るならば、イエスがおられたときと同様に、弁護者である聖霊によって、執り成しと愛の導きをいただくことができるのです。

 

「主の祈り」は、イエスが教えてくださった祈りであり、イエスとともに祈る祈りです。イエスなき後、聖霊が、信仰に導き、聖霊がイエスに代わって弁護者として、また愛の供給者として働きをしてくださいます。聖霊の働きによって、わたしたちは「主の祈り」をイエスと一緒に祈ることができ、神と人との新しい関係を創ることができるのです。

2022. 8. 14  聖霊降臨節第11主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。

       (申命記10章15節)

 

「主が心引かれた民」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。

                            (申命記10章15節)

 

            「主が心引かれた民」     深見 祥弘

 三浦綾子さんが、生まれたのは1922年4月ですので、今年が百年の年となります。これを記念して日本キリスト教団出版局より「愛は忍ぶ 三浦綾子物語―挫折が拓いた人生」(2022)が出版されました。この本のはじめに、次のような読者への招きの言葉が記されています。

「昭和二十年代の北海道旭川、北辺のこの地に三人の青年がいた。一人は堀田綾子(後の三浦綾子)。青春をかけて教育に情熱を注いだ彼女は、敗戦によって己の拠って立つべき価値観を見失い、教壇を去った。やがて結核・脊椎カリエスを発症し、実に十三年にわたる闘病生活を余儀なくされた。 二人目は堀田綾子の幼馴染みの前川正。篤信のクリスチャンであり、北海道大学医学部生であった彼は、堀田綾子を見舞ったことがきっかけで、献身的に彼女を支えた。やがて恋人同士になった二人だが、肺結核を患う前川は学業半ばで最愛の綾子を残して世を去った。 もう一人は三浦光世。幼くして父を亡くし、その父より幼児感染した結核菌が体をむしばんでいた。十七歳で右腎臓を摘出したが快癒せず、強烈な痛みに夜も昼も呻吟する日々が続いた。堀田綾子に会ったのは、その長い苦しみから解放された直後であった。この三人は挫折を知った人たちである。挫折を知り、それでも懸命に生きようとした人たちである。この中の誰も、当人でさえ、後に堀田綾子が国民的大作家になるとは思いもしなかった。その無名の人の無償の愛が、挫折にあえぐ綾子の人生を切り拓いた。その事実は、今を生きる私たちをも生かす事実である。」

 

 今朝の御言葉は、旧約聖書 申命記10章です。エジプトを脱出したイスラエルの民は、40年に及ぶ荒れ野の旅を経て、ヨルダン川をはさんで「約束の地」を見ることのできるモアブの地にやってきました。ここで、この旅を導いてきたモーセが、民に向けて別離の演説をいたします。神が、約束の地カナンへのモーセの入国を赦さなかったからです。

 まず1~4章は、モーセの第一演説です。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与える土地に入って、それを得ることができるであろう。」(4:1) 掟と法とは、シナイで授けられた十戒のことです。

 次に5~28章は、モーセの第二演説です。今朝の御言葉10章12節~11章1節は、この演説の一コマで、イスラエルの民に対して神が求めておられることを、モーセが告げています。

モーセが民に「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」(12)と問いかけ、モーセ自ら、「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、・・・主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(13)と答えました。

 さらにモーセは、なぜ、主を愛し、主の戒めと掟を守るべきなのかについて説明をします。それは、今イスラエルの民と恵みの契約を結んでくださる主が、天と地、そしてその中のすべてのものの創造者であり、所有者である御方であるからです。そしてイスラエルもまた、主に造られた民であり、その所有者は主であるからなのです。

 覚えるべきことは、主はお創りになられたすべての民の中から、イスラエルを選んでご自分の宝の民としてくださったことです。なぜ主が、イスラエルの民を選ばれたのか、それはどの国民より数が多かったからでも、力が強かったからでもありません。イスラエルは、どの民よりも数が少なく、力も弱い民でした。にもかかわらず主は、エジプトにおいて奴隷であったイスラエルを愛し、救い出してくださいました。また、イスラエルは、賢くも信仰深くもありませんでした。エジプトを脱出し荒れ野を旅する途中、民は、主の救いを忘れてモーセに不満を言い、主に対して不信仰になりました。しかし、主が民に苦しみや飢えを与え、マナを食べさせられたのは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、知らせるためでした。(8:3)

 モーセは民に教えます。主の言葉である十戒が教える、主を愛することと(1~5戒)、隣人を愛すること(6~10戒)を行うように勧めるのは、愛する価値のない民を愛し、救い出してくださった主の愛に応えるためです。主は、人を偏りみることをせず、孤児や寡婦の権利を守り、寄留者を愛してくださいました。かつてイスラエルの民もエジプトで寄留者であったのですから、あなたがたが約束の地に入ったのちも、主を愛し、弱い人々を助けるようにすべきだなのだと教えています。

 「この方(主)こそ、あなたの賛美」(21)、モーセは、この賛美こそ、旅するイスラエルを力づけ、彼らの歩みを正しい道に導くことに役立つと、述べています。かつて飢饉を逃れてエジプトに来たイスラエルの民は、わずか70人でした。しかし、奴隷として迫害を経験したり、荒れ野の旅の途中に飢え渇きを覚えたり、苦難がたびたび臨んできても、今や、主はイスラエルの民を天の星のように数多くしてくださっている。民は、このことを覚えて、主を賛美いたしました。

 

 はじめに、堀田(三浦)綾子さんのことをお話しました。堀田綾子さんも前川正さんも、そして三浦光世さんも、敗戦による挫折や病による苦難を経験し、それでも懸命に生きようとした人たちでした。三人は、弱さの中に置かれていましたが、主は心を引かれて彼らを愛し、選んで、今日のようにしてくださったのです。

 三浦綾子さんは、わたしのような弱虫が、どうして十三年間もの長い間(しかも、その七年はギブスに絶対安静であったのに)生きとおすことができたのかと問い、こう答えておられます。「それはやはり、聖書の言葉がわたしを支えていたからである。わたしは聖書によって、自分自身の苦しみや悩みだけを見つめていた目を、隣人に移すことを学んだ。」

(「愛は忍ぶ 三浦綾子物語」P61)

 三浦さんは、聖書によって愛の主を知り、主に目を向けるようになりました。また愛の主によって、多くの苦しみを負う隣人を知り、隣人に目を向けるようになりました。「このわたしが、愚痴をこぼさなくなり、ただ人の苦しみを聞いてあげるだけとなった時、わたしの病室は『身の上相談所』と呼ばれるようになった。そうなったのは、わたしの力では決してない。イエス・キリストの愛と、復活による永遠の命の約束が、わたしを立たせてくれたのだ。」(同書P62)

 

 かく言うわたしも、聖書を読むことがなければ、自分にしか目を向けず、愚痴ばかりを言っている者であったに違いありません。聖書によって、弱くて取り柄のない私を愛してくださる御方がおられること、そしてそんな私を助けてくれる人がいることを知りました。さらに聖書によって、弱さや苦難を担っておられる人のいることを知り、その背後に、愛の主が働いておられる事に気づかされ、共に働くように呼びかける声を聞くのです。今のわたしは、閉ざしていた心を開き、「主こそ、わたしの賛美」(21)「すべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」(15)と高らかに歌うものに変えられたのです。

2022. 8. 7  聖霊降臨節第10主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

   (コリントの信徒への手紙第一12章26節)

 

「キリストの体なる教会」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

             (コリントの信徒への手紙第一12章26節)

 

         「キリストの体なる教会」       深見 祥弘

 広島、長崎に原爆が投下されてから、77年の夏を迎えました。ロシアによるウクライナ侵略から半年、ロシアはたびたび核兵器の使用をちらつかせながら、ウクライナを支援する国々をけん制しています。

 

 皆さんは、サーロー節子さんをご存じのことでしょう。もっとも印象に残っているのは、今から5年前の2017年12月、ノーベル平和賞授章式でスピーチをされた姿です。この年、ノーベル平和賞を受賞したのは、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)で、地球上から核兵器をなくすために、国際的に活動しているグループです。サーロー節子さんもそのメンバーです。ICANは、核兵器廃絶のために活動している世界のNGOが、国際的に連帯した組織で、スイスのジュネーブに国際事務所があります。ICANには、107ヶ国から635団体(日本からは14団体)が加盟をしています。

 サーロー節子さん(中村節子さん)は、13歳の時、1945年8月6日、広島において爆心地から1.8㌔の場所で被爆しました。8時15分、窓に目もくらむような青白い閃光を見、体が宙に浮いたように感じました。気がつくと、音もなく真っ暗で、倒れた建物の下敷きになって動くことができません。ところが、誰かの手が節子さんの左肩をぐいとつかみ、「あきらめるな。動いていけ。いま助けるから。光が見えるだろう。そこまではっていくのだ」との声がありました。がれきの中からはい出たとき、この世のものとは思えない光景が広がっていました。節子さんは、原爆によって、お姉さん、おじさん、おばさん、おいっこさん、そして351人の級友を失いました。 

 節子さんは、9年後、学びのためにアメリカにいきました。そこでは、原爆のことを理解してもらえず、ほとんどの人は、原爆が戦争を終わらせる正しい方法だったと思っていました。カナダ人教師と結婚した節子さんは、日本やアメリカ、カナダの友人たちと、核兵器の廃絶に取り組みはじめました。 時を経て、2017年7月、国連で「核兵器禁止条約」が取り決められました。この条約は、核兵器の開発、実験、生産、保有、使用を禁じる国際条約です。世界の50ヶ国以上が同意し、2021年1月から効力をもちました。でも、9の核兵器保有国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)と日本、韓国、NATO加盟国は、この条約に署名をしていません。

 サーロー節子さんは、ノーベル賞受賞式で次のようにスピーチをしました。「核兵器を持つ、9つの政府のみなさん、そしてこれらの国のいいなりになって、核兵器禁止条約に反対している国の政府のみなさん。核兵器が戦争を防いでいるというこじつけが人類を破滅させるのです。わたしたちの証言を聞きなさい。あなたたちが人類を危険にさらしています。世界のすべての国の指導者に、心からお願いします。核兵器禁止条約に賛成してください。世界が破滅する危機を永遠に取り除いてください。わたしは13歳のとき、くすぶるがれきの下じきになりました。でも、力をふりしぼって光に向って進み、生き延びることができました。この光は、いまわたしたちにとって核兵器禁止条約です。この会場のすべてのみなさん、そして世界中のみなさん。わたしが広島のがれきの中で聞いた言葉をくり返します。『あきらめるな。がんばれ。光が見えるだろう。そこに向って、はって行くんだ。』 今夜、燃え立つたいまつをかかげて、ここオスロの町を行進しましょう。核兵器がもたらす恐怖の暗闇からぬけ出すために。」

 

 御言葉は、コリントの信徒への手紙第一12章です。パウロたちは、第二伝道旅行中、コリントに一年半滞在し、教会が設立されました。その後、パウロは、エフェソにおいて、コリント教会内に起こる諸問題に対して助言をするために、この手紙を書きました。紀元54年の春のころです。

 コリント教会のメンバーは、異邦人(ギリシャ人)とユダヤ人、また社会的身分においては自由人と奴隷によって構成されていました。彼らは、等しく洗礼を受け、聖餐にあずかる者でありました。ところが、パウロたちがこの町を去った後、社会的な身分など、異なる価値観が教会の中に持ち込まれ、「お前はいらない」などと言って、分裂や排除が生じました。

 パウロは、手紙によってコリントの信徒たちに語りかけます。

先にあなたがたは、民族や身分の違いを越えて、皆一つの体(キリスト)になるために洗礼を受け、皆一つの霊(パンとぶどう酒)を飲ませてもらいました。それゆえにコリントの教会は、単なる人の集合体ではなく、生きて働くキリストそのものです。キリストは、ユダヤ人の救いのため、ギリシャ人の救いため、自由人の救いため、そして奴隷の身分にある人の救いのために、十字架にかかり、その罪を贖い、イエスを信じるすべての人の救いを実現してくださいました。あなたがたは、イエスを救い主と告白し、洗礼を受け、聖餐(キリストの体をあらわすパンと血をあらわすぶどう酒)をいただき、救いの恵みを互いに分かち合うことで一つとされるのです。

 パウロは、手紙によって改めてこの恵みを伝え、ともにキリストの体なる教会を形作ってゆくように助言をいたします。キリストに贖われ救われたのですから、教会において誰一人、要らない人はおりません。ひとりひとり、霊の賜物をいただいてキリストの体なる教会に仕えます。人の目には、評価されないことでも、神はまったく異なる目で見ておられます。

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。・・・神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。」

人の目から見るならば、見劣りする部分であるキリストの十字架が、すべての人々の一致を実現するように、キリストの体なる教会においても、弱さを持つ人が、一致を実現すると書いているのです。

 

 はじめにサーロー節子さんを紹介いたしました。広島・長崎への原爆投下の出来事は、私たちの国のみならず世界の国々の十字架です。この十字架が、分断している世界に一致と平和を実現するのです。聖書に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と書かれています。サーロー節子さんたち被爆者の声に耳をかたむけ、この方々の苦しみを世界中の人々が共にするならば、世界は平和(光)にむけて、一歩すすむことができます。また被爆者が尊ばれれば、様々な困難の中にいるすべての人々が尊ばれ、平和の恵みを共に喜ぶことができるのです。

 今、教会に連なる皆様に「政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求める署名」の協力をお願いしています。よろしければ、署名をしていだだき、サーロー節子さんたちの働きに加わっていただければと思います。

 「この会場のすべてのみなさん、そして世界中のみなさん。わたしががれきの中で聞いた言葉をくり返します。『あきらめるな。がんばれ。光が見えるだろう。そこに向かって、はって行くのだ』 」

 

※ 引用資料 サーロー節子ノーベル平和賞のスピーチ「光にむかって」(汐文社 2022年)