W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2023. 2. 26 復活前第6主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマの信徒への手紙10章12~13節)
「 主の名を呼び求める者 」 同志社教会 菅根 信彦
< 今 週 の 聖 句 >
ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマの信徒への手紙10章12~13節)
「 主の名を呼び求める者 」 同志社教会 菅根 信彦
ローマへの信徒への手紙は、使徒パウロが書き残した最後の手紙と言われ,彼の福音理解や思想の集大成ともいうべき内容をもっています。パウロはまだ見ぬローマの教会に宣教する道が開かれることを願いつつ、教会の様々な伝承や告白などを用いつつ「問答形式」(ディアトリベー)を駆使してこの手紙を書いています。このローマ書の構成は「信仰による義」という初代教会の中心的な教義(1〜8章)が前半部分で語られ、その後に「ユダヤ人の躓き」(9~11章)の問題を取り上げながら「神の救済の歴史」をローマの教会の人々に伝えようとします。
さて、パウロは10章の冒頭で自分と同胞であるユダヤ人に対して「わたしは、彼らが救われることを心から願う」(1節)こと、そして、彼らが「神への熱心さをもって」(2節)いることを指摘します。しかし、その「熱心さ」の陥り易い問題点を上げて「万人の救い」について語っていきます。パウロは「神への熱心さ」の中にある「神への不従順」を捉え、「自分の義」(3節)が露になっていくことの危険性、特に、ユダヤ人のみが救われるという排他的な在り方を批判します。さらに、イザヤ書を引用しながら「口の言葉」「心の信仰」の一致を語り、キリスト・イエスによる救いが全ての人に開かれている普遍性をもった真理であることを伝えています。
今日の個所は洗礼式の式文としてもよく用いられる個所です。文脈からすれば、それは単に「イエスを主である」と告白し、「神の義」に生きることを公にすることだけでないようです。それは、同時に「自分の義」に潰れていくことの決意がこの言葉の背後にはあるようです。現代に生きる私たちも、時に「自分の義」に固執してしまうことがあります。ローマの教会をはじめ、ユダヤ人と異邦人との共生を目指す初代教会の人々は、様々な違い、関係の行き詰まりの経験の中で「自分の義」を打ち砕いて共同体の交わりを形成していったのでしょう。そのような経験を大事にしながら、内実を伴う「イエスは主なり」との告白をしていきたいと思うのです。
2023. 2. 19(降誕節第9主日)礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れたからである。」
(マルコによる福音書12章44節)
「 銅貨二枚と神殿 」 仁村 真司
< 今 週 の 聖 句 >
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れたからである。」
(マルコによる福音書12章44節)
「 銅貨二枚と神殿 」 仁村 真司
「一人の貧しき寡婦きたりて、レプタ二つを投げ入れたり、即ち五厘ほどなり。」これは新共同訳では「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」となっている12章42節の文語訳からの引用です。口語訳もこれを引き継いでだと思いますが「・・・レプタ二つを入れた」となっています。
「レプトン」の複数形が「レプタ」です。「レプトン」は、円とかドルのようなお金の単位ではなくて、小銭ということですから、「レプタ二つ」も「レプトン銅貨二枚」も同じことなのですが、長きにわたって「レプタ二つ」は、単に「小銭二枚」ということではなく、この箇所の全体を指し示して来たようです。文語訳・口語訳には新共同訳のような小見だしはついていませんが、もしつけるとするならばマルコ12章41~44節(とルカ21章1~4節)は、「やもめの献金」ではなく、「レプタ二つ」になるのではないかと思います。
1)
「レプタ二つ」であれ「やもめの献金」であれ、こういったタイトル、呼び名の類いは程度に違いはあっても、その箇所を指し示すだけではなく、その箇所をどう受け止めるか、解釈の仕方にそれとなく結び付いていたり、そう呼んでいるうちに結び付いて行くものです。
「レプタ二つ」の場合は「貧者の一灯」というのとほぼ同じ趣旨の言葉として受け止められて来たようです。
「貧者の一灯」というのは、実は10年程前に「レプタ二つ」の注解の中で目にするまで私は知らなかったのですが、仏教由来の言葉です。
その昔阿闍世王が釈迦を招くに当たって、祇園精舎から王宮まで何万もの灯りをともした際、貧しい老婆も僅かなお金を工面して一つの灯りをともしたところ、王のともした灯りは消えたり、油が尽きたりしたが、老婆のともした灯りは終夜消えなかったという話があって、そこから金にあかした何万の灯りよりも、貧しい中やりくりした一つの灯りの方が仏の心にかなう、多い少ないではなくそこに込められた心が大切ということのたとえとして「長者の万灯より貧者の一灯」と言われるようになったそうです。
このような「貧者の一灯」の話は確かに「レプタ二つ」と重なるところがあって似ているような気もします。でもどうでしょうか・・・。
2)
44節「皆は有り余る中から入れたが、この人は、貧しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れた・・・」。
当時のユダヤは基本的に男権社会です。夫を失い、帰るべき実家もなく、夫の家族も引き取ってくれず、男の子もなければ、女性の社会的立場はないに等しい。小銭、銅貨二枚が持っている物の全てだったことから推し量れば、この人はそういう境遇にあった。そのような人が生活費全部を賽銭箱に入れてしまえば生活できなくなる、生きて行けなくなります。
では、どうしてそんなことをしたのか、せざるを得なかったのか・・・。神殿は宗教的権威のみならず、政治的権威をも独占していたユダヤ社会の頂点です。その「威圧感」は凄まじいものだったと思います。また、このような「無言の圧力・圧迫」だけではなく、直前の40節でイエスが「(律法学者たちは)やもめの家を食い物にする」と言っています。宗教の教え(ユダヤ教律法)を振りかざした実質的な強制もあったのでしょう。
近頃旧統一教会の問題から宗教や宗教団体の在り方が問われています。政治との関わり、信仰(教え)に拠るらしいのですが「虐待」とも言えるような家庭の状況、「宗教二世」という言葉も独特の意味合いで使われていますが、やっぱり桁数が多い金額にはインパクトがあるからでしょうか、献金のあまりの高額さに注目が集まっているような気がします。
しかし言うまでもないことですが、これらの問題の深さ・大きさは金額(被害額)の多寡(だけ)で現す、量ることが出来るものではありません。
イエスは弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言っていますが(12章43節)、これは神殿がだれよりも多くのものをこの女性から奪っているということだと思います。
私はこれまで小銭二枚であっても生活費を全部、100パーセント入れたのだからパーセンテージ上だれよりもたくさん入れたことになるのだろうと思っていたのですが、そういうことではないのではないか・・・。
もしも神殿が、今ならどこかの宗教団体が、小銭二枚ぐらいどうでもいい、倍にでも10倍にでもして返してやるとなったとしても返せるものではない。この女性が賽銭箱に入れた、神殿に奪い取られた「持っている物すべて」とは人生の全て、これからの生活も心も、神への思い、信仰も、何もかもであった、だから「だれよりもたくさん」なのだと思います。
「レプタ二つ」・「やもめの献金」は「貧者の一灯」ではありません。
ただ、「貧者の一灯」という考え方は大切だと思います。宗教からこういう考え方がなくなってしまっては駄目でしょう。ですが、時に宗教(団体)がもたらしてしまう圧迫、強制・強要を、騙すつもりがなくても、また騙されたつもりがなくても、「貧者の一灯」で正当化してしまう、納得しようとする、こういうことは宗教者・信仰者にとって極めて魅力的で陥りがちな誘惑だと思います。
3)
「レプタ二つ」が「貧者の一灯」ではないことは「これらの大きな建物(神殿)を見ているのか。一つの石ころもここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)というイエスの言葉からも明らかだと思うのですが(「貧者の一灯」ならば、直後にこんなことは言わないと思います)、イエスは実際にはこんなことは言っていない、紀元70年(約40年後)の出来事(エルサレムの神殿はローマ軍によって本当に「一つの石ころもここで崩されずに他の石の上に残ることはない」程に破壊されます)を知っている後のキリスト者がイエスがこういうことを言っていた、神殿崩壊を予言していたと伝えているのだとも言われます。この説はかなり有力で、多数派の見解と言えます。
私もイエスが神殿が崩れ去ることを予言していたとは考えていません。が、イエスがこんなことは言っていないというは無理があると思います。
イエスが貧しいやもめが持っている物すべてを賽銭箱に入れたことを語った、そして神殿は跡形もなく崩れ去ると言った。これらのことはイエスの視点、イエスが当時のユダヤ教支配、その現実をどう見たか、そこに何を見たかということが示されていると私は考えています。
イエスと弟子たちは同じ場所にいます。ということは、同じものが見えるはずですが、見ているものは違います。賽銭箱の方を見ている時にイエスは一人の貧しいやもめの姿を見ていた、弟子たちは多分大勢の金持ちが大金を入れている、つまりは神殿の繁栄(繁盛)ぶりを見ていたのでしょう。そして、イエスからレプタ二つがやもめの全てであることを教えられた直後にも神殿の建物の壮麗さに目を奪われている。
宗教の在り方を問う、在り方が問われる、その時私たちはどうするのか。学問的にその教えを検証するのは殆ど無意味でしょう。また、自分の信じる教えの正しさ、すばらしさを言いつることにも意味はないでしょう。
イエスがそうしたように、人々が置かれている現実を見る。そしてまた自分がその人々と共に生きるとはどういうことなのか考える、悩む。これが全てではないです。それでもそこから始めなければならないと思います。
2023. 2. 12(降誕節第8主日)礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。 (ヨブ記2章10節)
「無垢な人」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。 (ヨブ記2章10節)
「無垢な人」 深見祥弘
6日(月)、トルコ南部ガジアンテプ県でマグニチュード7・8の地震があり、トルコと隣国シリアで1万1000人以上の方々が亡くなり、4万5000人以上の負傷者を確認したと報じられました。(9日毎日新聞朝刊)現地では、多くの建物が倒壊していて、被災の拡大は必至です。トルコは「北アナトリア断層」と「東アナトリア断層」という大きな横ずれ断層があり、1999年にもM7・4の地震があって1万5000人の方々が亡くなりました。救出を待つ人々が一刻も早く救出されること、被災された方々が寒さを凌げる場所が備えられることを、そして「なぜこのようなことが」と問う被災者の声に耳を傾ける人々が与えられることを祈ります。
今朝の御言葉は、旧約・ヨブ記です。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(1:1)とあります。
「ウツ」の地は、イスラエルの地より見て東方の地ですが、それがどこなのかはわかりません。「ヨブ」の名の意味は、「敵」です。降りかかった災いのゆえに、神に敵対した者という意味があります。「無垢で正しい人、神を畏れ、悪を避けて生きていた」彼が、どうして神に敵対する者になったのか、お話ししてみたいと思います。
ヨブ記の著者は、ペルシャ時代、紀元前5世紀中ごろパレスチナに暮らしたユダヤ人です。著者はバビロン捕囚を思い起こしています。「無垢で正しい人」とは、律法に忠実であったということですが、そうであった人もそうでない人も、捕囚時は家も財産も町も国もすべてを失う悲惨な体験をしました。そして人々はこの体験によって、神がなぜこのようなことを起こされるのかとの問いを持ちました。特に「無垢で正しい人」は、「なぜ」との思いを強く持ったのです。ヨブは、そのような人の代表として描かれていますし、また「なぜ」との問いに向き合い、神に敵対する者となるまで問い続けた人でありました。
私たちも地震や津波、風水害によって被災したり、犯罪に巻き込まれたり、勤め先が倒産したり、病気に罹患したり、なにも悪いことをしていないのに「なぜこの私が」と問う場面に遭遇することがあります。ヨブ記は私たちのそうした問いに、何らかの光を与えてくれるものであるのかもしれません。
ヨブは、7人の息子と3人の娘、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産を持ち、非常に多くの使用人がいる、東の国一番の富豪でした。息子たちはそれぞれ家を持ち、月曜は長男の家、火曜は次男の家と、一週間を一巡りとして毎日宴会が行われ、そこには兄弟姉妹皆が集まりました。ヨブは、宴会が一巡りする火曜の朝に、息子たちを呼び寄せて聖別し、罪の赦しを願う7つのいけにえを神にささげました。このように、ヨブとその家族は、物心ともに恵まれた生活をしていました。
ある日、主の前に神の使いたちが集まり天上で会議が行われました。そこには、サタンもやってきました。サタンの役割は、地上を巡回し罪を見つけると、神に告訴することでした。主がサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。」と言うと、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向ってあなたを呪うにちがいありません。」と答えたのでそれをゆるしました。ヨブには1日のうちに4つの災いが臨みました。シェバ人によって牛とろばが略奪され、牧童たちは殺されました。天から火がくだって羊と羊飼いが焼け死にました。カルデヤ人によってらくだが奪われ、牧童たちが殺されました。そして、長男の家に集まっていた7人の息子と3人の娘は、大風により家が倒れ死んでしまいました。この知らせが届くとヨブは、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)と主を賛美いたしました。
再び天上で会議が行われ、サタンも来ました。主がサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上で彼ほどの者はいまい。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」と言うと、サタンは「皮には皮を、と申します。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向ってあなたを呪うにちがいありません。」と答えました。人の心臓は皮で幾重にも包まれているが、人の心も複雑で何が隠されているかわからないと言ったのです。主は「命だけは奪うな」と言ってそれをゆるしました。サタンはヨブに手を下したので、全身ひどい皮膚病にかかりました。ヨブは皮膚病により宗教上汚れた者とされ、ゴミ捨て場を住まいとし、灰の中に座り捨てられていた素焼きのかけらで体をかきむしったのでした。ヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言いました。彼女はヨブに対して、いつまで殻をかぶっているのか、無垢な自分がなぜこんなことになるのかと心の内の思いを主にぶつけて楽になりなさい。そのことで死ぬことになっても、今よりはましでしょう。しかしヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と妻をいさめました。
ヨブ記を理解する上で大切なことは、ヨブの苦難の由来が、天上における神とサタンとの会話にあることです。災いの原因が天上の会議にあり、しかも主は一貫してヨブが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と認めています。
サタンは、ヨブの信仰が自分の利益のためであり、それゆえに財産や家族を取り去るならば、また彼に病を与えるならば、無垢な正しい人も主を呪うにちがいないと主張しました。後で登場するヨブの友人たち(エリパズ、ビルダデ、ゾバル)はヨブに災いの原因がある(因果応報)と主張し、若き哲学者エリフはそれが神の教育的措置であると主張しました。ヨブは彼らとの対話によって誘惑や苦しみを経験し、しだいに神の敵となっていったのでした。主は敵となったヨブに対し、「お前はわたしが定めたことを否定し 自分を無罪とするために わたしを有罪とさえするのか。」(40:8)と言われます。ヨブが主の理不尽を訴え、自分の無罪と主の有罪を主張していると述べているのです。主はヨブのこの訴えを受け入れ、後に罪のない我が子イエスを有罪として十字架にかけ、苦悩する人々が無垢な人御子イエスを信じることによって、救いを実現してくださったのです。
今日でも私たちは、襲い来る災いの意味を理解することができません。因果応報や教育的措置の考えでは、受け止めることのできない現実に直面するからです。ヨブ記はそこに神が関わっておられることを示してくれました。また神が、私たちに悪を図ってそれをしている訳ではないことを示してくれます。でも無垢な人ヨブでさえこの災いを通して、多くの惑いや苦しみを経験しました。神の関わりと救いの計画を信じる無垢な人は、御子イエスだけでありました。私たちは、無垢な人イエスを信じることで、まことに無垢な人、すなわちどんなに苦しみや理不尽を経験してもそれを乗り越える力を持つ信仰の人となれると、ヨブ記は励ましてくれています。
2023. 2. 5(降誕節第7主日)礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。 (ルカによる福音書8章15節)
「百倍の実を結ぶ」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。 (ルカによる福音書8章15節)
「百倍の実を結ぶ」 深見 祥弘
昨日2月4日(土)は、立春でした。先月下旬には、10年に一度と言われる寒波に見舞われ、滋賀でも高速道路上で多くのトラックが動けなくなるなどして、全国ニュースにもなりました。先週はじめ、町の周辺の農地はまだ雪に覆われていましたが、雪の下では麦がもう青々と芽を出し大きくなってきています。春が来て、麦の穂が風に揺れる風景が待ち遠しいものです。
今朝の御言葉は、ルカによる福音書8章「種を蒔く人」のたとえです。イエスは12人の弟子たち、そして多くの婦人たちとガリラヤ湖周辺の町や村を巡り、神の国の福音を宣べ伝えておりました。イエスは、農夫が種を蒔いているのを見て、集まってきた大勢の人々にたとえを話しました。
「種を蒔く人が、種蒔きに出て行きました。蒔かれた種は道端に落ち、人に踏みつけられながらもしばらくそこにありましたが、やがて鳥が来て食べてしまいました。また蒔かれた種は、石地に落ち、すぐに芽が出ましたが、根をのばすことができず、水気がないので枯れてしまいました。さらにある種は、茨の中に落ちました。種から芽が出ましたが、茨の成長が早く、押しかぶさって枯れてしまいました。ほかの種は、良い土地に落ち、生え出て成長し、やがて百倍の実を結びました。」
イエスはたとえで話されました。この種蒔きのたとえは、神の国についてのべていますが、弟子たちにはその意味がわかりませんでした。彼らが「このたとえはどんな意味か」と尋ねると、イエスはたとえを用いて話すのは、「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようにするためであると言われました。これは旧約・イザヤ書6章9節にあり、預言者イザヤが主より召命を受け、派遣される時の言葉です。主は言われました。イザヤが預言をしても、人々の心は頑なで聞き入れようとはしない。それでも語り続けよ。民は裁きを経験することになるが、聖なる子孫が切り株として残る。その聖なる子孫には信仰があって、イザヤの預言に耳を傾け、これに聞き従うと。
イエスが、このイザヤ書の言葉を弟子たちに紹介されたのは、信仰というキー(鍵)がなければ、わたしのたとえを理解することはできない、しかしそのキーがあれば、たとえによって、神の国をよく理解でき、豊かな実りを得ることができると伝えるためでした。
イエスは、種を蒔く人のたとえがわからないという弟子たちに対して、その意味を話されました。イエスは、弟子たちのうちに宿る小さな信仰に目を留めてくださったからです。このたとえに出てくる「種を蒔く人」は、イエス・キリストのこと、「種」とは神の言葉です。また「道端、石地、茨の地、良い土地」とは、イエスの言葉を聞く人のことです。「道端」にたとえられる人は、うわの空の聞き手です。御言葉が語られても、そのままで、やがて神に対抗するものが来て、それを持って行ってしまいます。「石地」にたとえられる人は、長続きしない熱心家です。神の言葉を喜んで受けますが、試練にあうとくじけてしまう人です。「茨の地」にたとえられる人は、思い煩いや富や快楽に負けてしまう人です。茨の地というのは、茨が茂っている地ではありません。一見よく耕されているようですが、土の中に茨の根が残っている地のことです。蒔かれた御言葉が芽を出しますが、思い煩いや欲望の成長が早く、御言葉の芽を覆いふさいで枯らしてしまいます。最後に「良い土地」とは、御言葉を聞き、これを受け入れ、従う人のことです。でも「良い土地」だからといってそのままにしておくと、土が石のように堅くなったり、茨がはびこったりします。日々頑なになりがちな自分を砕き、御言葉の芽を大きく成長させるために、内にひそむ欲望や煩いを取りのぞくことが必要です。そうするならば、人の力ではけっして生み出せない百倍の実を結ぶことができるのです。
このたとえを聞いて、気をつけていただきたいことがあります。それは、お話してきた4つの土地を、生涯変わることのない人のタイプだと考えてしまうことです。わたしは、道端のうわの空タイプだからだめだとか、わたしは茨の地の欲望に負けてしまうタイプだからだめだと考えないでいただきたいのです。というのも人は、誰でも自分の中に、これら4つの変化する地を持っているからです。同じ人が、ある時期「道端」であったり、「石地」であったり、「茨の地」であったり、「良い土地」であったりするのです。そしてはじめから「良い土地」という人はおりません。人が「良い土地」になるには、ひとえに農夫であるイエスが、何度も何度も失敗しながら御言葉の種を蒔き、陽の光と恵みの雨を降らせてくださることで「百倍の実を結ぶ」ことができるのです。
イエスの時代の種蒔きは、升の中に種を入れ手でつかんで蒔く方法、ろばの背中に種を入れた袋をのせ、その袋に穴をあけて、ろばを歩かせ蒔く方法でした。農夫が種を手に取って蒔いたとき、強い風が吹いて種が飛ばされ石地に落ちることもありました。ろばで種蒔きをしていると、道端に草を食べに行って、種が道端に落ちることもあったでしょう。イエスは、人を選ぶことをせず、ガリラヤの町や村を巡っただけでなく、舟に乗って対岸の人たちの所にも、遠く異邦人の住んでいる地にも行って、神の国の福音の種蒔きをなさったのです。
このようにイエスは種蒔きをしましたが、人に委ねられたこともありました。人は自分を絶えず耕して頑なな心(石)を砕き、思い煩いや欲望(茨)を取り除きはびこらせないことです。また、御言葉を聞くこと(肥しをやること)、さらに日照りや風や雪など、臨んでくる試練に耐えることです。畑の麦は、人に踏まれ、冷たい風や雪に耐えて多くの実りを得るのです。
説教題を「百倍の実を結ぶ」といたしました。主より御言葉をいただき、良い土地に百倍の実を結ぶ人とは、どんな人たちでしょうか。今朝は読みませんでしたが、8章1~3節を見てください。ここには、町や村を巡って神の国の福音を宣べ伝えるイエスとその一行のことが書かれています。一行の中には、多くの婦人たちがいました。その中で名前があげられているのは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」で、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ(家令とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに仕える大蔵大臣)、そしてスサンナです。それぞれ社会的な立場が異なる女性たちですが、イエスと出会い、御言葉に聞き、そのみわざによって悪霊や病から解放された人々でした。そして彼女たちを「種を蒔く人」のたとえに出てくる「良い土地」にたとえられる人、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」の例として紹介しているのです。彼女たちは、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:3)と書かれています。彼女たちは、イエスに従い、御言葉を聞き、与えられているものを用いて共にいる人々に奉仕することで、日々頑なになりがちな自分を砕くこと、自分の内にひそむ欲望や思い煩いを取り除くことをしていたのです。「百倍の実を結ぶ」、その奇跡は、イエスの言葉を聞き、従い、互いに仕えあう、信じる者の中に見出すことができます。