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≪次月 3月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 3. 26 復活前第2主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

                                            (ルカによる福音書20章17節)

   「捨てられた石」      深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

   家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

(ルカによる福音書20章17節)

            「捨てられた石」         深見祥弘

 ろばの子に乗り人々の歓呼の中、エルサレムに入城されたイエスは、次の月曜日に神殿の境内で商売をする人々の台をひっくり返すなどして宮を清め、火曜日には同じく神殿の境内で祭司長や律法学者、長老たちと論争をされました。これらの日を「宮清めの月曜日」、「論争の火曜日」と言います。その火曜日のことです。イエスが神殿の境内を歩いていると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と尋ねました。彼らは前日の宮清めに続き、今日もまた境内で何か騒動を起こすのではと思ったからです。イエスは、彼らと二言、三言やり取りした後、あるたとえを話しました。それが、「ぶどう園と農夫」のたとえでした。

 

 ある人が、ぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出ました。収穫の季節がきたので、主人は収穫を納めさせるために僕を送りました。しかし、農夫たちは、送られてくる僕たちを袋だたきにしたり侮辱したりして、何も持たせずに追い返しました。そこで主人は、「わたしの愛する息子を送ってみよう。たぶん敬ってくれるだろう」と言い、愛する息子を彼らのところに遣わしました。ところが農夫たちは、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言って、この息子を捕まえてぶどう園の外に放り出し殺してしまいました。主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えました。

 これはたとえです。「ある人」「ぶどう園の主人」とは神のこと、「ぶどう園」はイスラエル、「農夫たち」とは祭司長、律法学者、長老たちのことです。また「僕」とは、預言者たちのこと、「主人の愛する息子」とは、イエス・キリストのことです。16節「ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」のほかの人とは、異邦人やキリスト者のことです。

  神がエジプトやバビロンといった大国ではなく、世界にあって捨てられた民イスラエルを選び、これを深く愛し、契約を結ばれました。イエスはこのことをたとえで、「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」と語りました。農夫たちとは、イスラエルの指導者たちです。やがて、指導者たちは、おごり高ぶり、神より委ねられたイスラエルを私物化し、自らの権威を誇るようになりました。神は、悔い改めに導こうと、指導者たちのところに預言者たちを次々と遣わしました。しかし彼らは、預言者たちを傷つけたり侮辱したりして迫害しました。神は、それならばと愛する息子イエスを遣わしますが、指導者たちはイエスを十字架に架けて殺し、捨ててしまったのです。神は、この捨てられたイエスを復活させ、天に招き入れ、隅の親石・救い主とされました。神はまた、イエスを信じる人々、すなわちイスラエルにあって捨てられた人々や救いはないと言われていた異邦人を招き入れ、隅の親石とされたのでした。

 

 イエスが言われた「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」とは、詩編118編22節の言葉です。またその後に「これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」(23節)と書かれています。世界から顧みられることのなかったイスラエルが神の民とされたこと、十字架にかけられたイエスが救い主であること、そして社会の中で疎外されていた人々や救いはないと言われた異邦人が救いの恵みに与ること、これらは、神の計画でありました。詩編113編~118編は「エジプトのハレル」と呼ばれ、出エジプトを記念する過越の食事の際に歌われました。イエスと弟子たちによって行われた最後の晩餐(過越しの食事)の時も、これを歌い、オリーブ山に出かけました。「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へでかけた。」(マタイ26:30)

「隅の親石」とは、建築の際、建物の四隅にすえる礎石のことです。建築する者が捨てた石を、神は建物を建てる際にもっとも重要な基礎にその捨てた石を用いられたのです。

 

 神は、世界の人々が捨てた民イスラエルを、指導者たちが捨てたイエスを、そしてユダヤの人々が捨てた人や救いの外にあるとされた異邦人を価値あるものとし、この人々を神の救いの計画の基とされるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問う祭司長、律法学者、長老たちに、イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえでこの救いの計画を伝えたのでした。

 ところが律法学者や祭司長たちは、このたとえが自分たちに対する「当てつけ」として語られたものであることに気づきました。

「当てつける」という言葉を辞書で引いてみると「怒りや恨みの気持ちを、直接相手に言わないで、他の事にかこつけたり、そばの人に話したりして、聞こえよがしに言うこと。」と書かれていました。私たちは、当てつけての話によって、人を苦しめたり、苦しめられたりすることを経験したことがあります。「ぶどう園と農夫」のたとえは、イエスが指導者たちに対してなした当てつけでありましたし、これは、彼らがイエスを捕らえて殺してしまおうと思わせるほどのものでありました。聖書には、他にも「当てつけ」を見出すことができます。

使徒13:44~「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに価しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。・・・』異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。」 

ローマ11:11~「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。・・・何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょうか。」

 神は、指導者たちに対して怒りの気持ちを直接言わず、指導者たちが十字架につけて殺した我子イエスを復活させて御元に置くことや、異邦人に救いを伝えることで、指導者たちに当てつけをされます。しかし、神の「当てつけ」は、思わぬ展開をするのです。ローマの信徒への手紙によれば、神は、その当てつけによってユダヤ人にねたみを起こさせ、発奮させて悔い改めと救いに導く、そんなことを計画しておられるのです。ローマ11:25「すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」神さまの当てつけの背後に、こんな計画があることに気づかされます。

 

「捨てた石」と「神の当てつけ」は、イエス・キリストにあらわされています。イエスには、神の(私たちの不従順に対する)怒りや、見捨てず救いに導こうとする愛や、すべての人々(ユダヤ人を含めて)を救おうとする強い意志など、神の計画のすべてを見出すことができるのです。

2023. 3. 19 復活前第3主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはお答えになった。 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければ 

ならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」    

(ルカによる福音書9章41節))

「 山を下りると・・・ 」     仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

 イエスはお答えになった。 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければ 

ならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」    

(ルカによる福音書9章41節))

「 山を下りると・・・ 」     仁村 真司

今日の箇所を含むルカ福音書9章18~45節(小見出しではP122の上の段「ペトロ、信仰を言い表す」からP123の下の段の終わり「再び自分の死を予告する」)まではマルコ福音書にもマタイ福音書にも並行記事があって並び方、順番も同じになっています。勿論それぞれの記述には各福音書記者の考えによって違いがありますが、中には同じことを言いたいのだろうけれども表現が違っている所もあります。今日の箇所の前半「イエスの姿が変わる」とはどういうことなのか、どんなふうに変わったのか・・・。

まず元々の、マタイもルカも下敷きにしているマルコ福音書は「イエスの姿が彼ら(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)の目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」( 9章2~3節)。これを、マタイは「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」( 17章2節)、ルカは「・・・イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)としています。

この話は伝統的に「山上の変貌」と呼ばれて来ました。山の上でイエスの姿や様子が変わったということですが、マルコもマタイも、多分ルカも、姿や様子、容貌、見た目も変わった、けれども何よりも言わんとしているのは、イエスの身体が普通の人間のそれではなくなったということです。

マルコとマタイの「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」は原語に忠実に訳せば「彼らの前で変身し」となります。なので、本当は「山上の変貌」よりも「山上の変身」という方がよいのではないかと思います。

  1)

「山上の変身」は大抵直前のイエスが自らの死と復活を予告する所に結び付けて受け止められています。

21節 「人の子 (イエス) は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日目に復活することになっている。」重罪人として人々の嘲りの中、十字架に架けられ、殺される。マルコ・マタイ福音書によれば 「エロイ、エロイ (エリ、エリ) 、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、そして息絶える・・・。「三日目に復活することになっている」とも予告されていたとは言え、本当に神の子なのか、神に見捨てられたとしか思えない、そのような現実のイエスの姿に対して、(前以て)「神々しい」とでも言うのでしようか、変身したイエスの姿が示され、イエスは紛れも無く神の子であり神は決してイエスを見捨てたのではないと、そういうことなのでしょう。

こういったことを示しているという点は、マルコもマタイもルカも共通していると思いますが、「山上の変身」と受難・死・復活の予告との結び付きという点では、ルカだけがその「程度」が違っているようです。

2)

マルコ・マタイ福音書では「変身」は受難・死・復活の予告の「六日の後」(マルコ9章2節、マタイ17章1節)ですが、ルカは「この話(予告) をしてから八日ほどたったとき」(28節)としています。

「六日の後」は「同じ週の内に」、「八日ほどたったとき」は「次の週になってから」と言い換えられるのではないかと思います。そして聖書の記述においては一週間、七日間は必ずしも24時間×7ではありません。何十年、何百年、何千年ということもあるかもしれません。創世記1章1節~2章3節の天地創造の七日間、一週間を思い出してみてください。

したがって、「八日ほどたったとき」とするルカ福音書では、マルコ・マタイ福音書に比べて「予告」と「山上の変身」との結び付きがかなり緩められている、その間には長い歳月の隔たりがあるとも考えられます。こうなっているのは、ルカが山上での出来事を過去のこととしてだけではなくルカにとっての現在、現実の教会・キリスト者の状況をも現すものとして受け止めていたからなのかもしれません。とするならば、今教会に集っている私たちにも通じる課題も示されているのではないでしようか。

その二人(モーセとエリヤ)がイエスから離れようとしたとき、ペトロが 

イエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいこと

です。仮小屋を三つ建てましよう。一つはあなたのため、もう一つはエ

リヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなか

ったのである。(33節)

弟子たちはきっと、栄光に輝くイエス、その傍らに立つモーセとエリヤを見た、その感動にずっと浸っていたかったのでしよう。それ故に「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」一現実の中でどのような姿になろうともイエスは神の子である、どこまでも従って行きなさいーという言葉を受け止めることが出来なかったのではないでしょうか。

「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」(36節)。このことは、感動に浸ったままでいたいペトロやヤコブ、ヨハネ、そして今の私たちにとっても、それぞれが置かれている現実の中でイエス・キリストに従うことの難しさを示しているのだと思います。そこには喜びもきっとある。しかし、まず痛み、苦しみ、悲しみの予感に囚われ(例えば受難の際の弟子たちのように)、イエスの姿から目をそらしてしまうことがあります。

 3)

37節「翌日、一同が山を下りると・・・」以下には、そのような今の私たちの姿が現されているようにも思えます。ルカ福音書では山の上は神に出会う場所、山の下、平地は人々に出会う現実の場所です(例えば6章20節以下の「平地の説教」。イエスは現実を生きる人々に語りかけています)。

「山を下りると」、即ち現実の場に立ち返った時、一人息子が悪霊にとりつかれ苦しんでいるという男が大声でイエスに言います。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。 ・・・この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、出来ませんでした。」(38~40節)

イエスは男の求めに応じ、その子を連れて来させ癒しますが、もしも山の上で栄光に輝くイエスの姿を見たペトロやヤコブ、ヨハネなら悪霊を追い出すことが出来るということならば彼らに命じたのではないでしようか。

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(41節) イエスは弟子たちや人々の力量の無さを嘆いているのではなく、信仰の無さを嘆いています。

ルカ福音書では37節の 「山を下りると・・・」 によって、山の上での「イエスの変身」、山の下での悪霊に取りつかれた子の癒しの物語が対になり、結び付けられています。そのことによって示されているのは、「山の上」、今の私たちにとっては例えば教会の中で、「栄光に輝くイエス」 を神の子・キリストと信じることが (それも大切であるとしても) 信仰、イエス・キリストに従うことの極致、到達しうる最高の境地ではないということです。

私たちは、この世の現実を生きたイエスの姿を見ることは出来ません。

しかし、 それぞれが自分の置かれている現実の中でイエス・キリストに従うとはどういうことなのか問うて行く、イエス・キリストの姿を追い求めて行く・・・。 そのような人によって違う、それぞれの道筋、たとえ何度も迷ったり間違えたり、途中経過であったとしても、ある所で「信仰の極致」等と思い込まない限り、問い続け求め続ける限り、それは信仰と呼び得るのではないだろうか・・・。 私はそう思っています。

2023. 3. 12 復活前第4主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

(ルカによる福音書9章20節)

 

「神からのメシアです」         深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

(ルカによる福音書9章20節)

 

「神からのメシアです」         深見 祥弘

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書9章です。この章のはじめには、イエスが12人の弟子たちに悪霊に打ち勝ち病気をいやす力と権能を与えて派遣したこと(1~6)、領主ヘロデがイエスとは何者かと戸惑っていること(7~9)、派遣されていた弟子たちが戻って来て、イエスに自分たちの行ったことを報告したこと(10)、そしてイエスが五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたこと(11~17)が書かれています。弟子たちが戻って来た時、神の力と権能によってなされた業を、自分たちの力によってなした業として報告しました。「五千人の給食」は、小さなものである弟子たち(五つのパンと二匹の魚)を、神が用いて行った神の業であると教えています。

 

 「五千人の給食」の後、イエスは弟子たちのそばで、ひとり祈りました。イエスは何を祈られたのでしょうか。その祈りは「これらの小さな者たちを用いて、大きな神の業を行ってください」という弟子たちのための執り成しの祈りではなかったか、またイエス(パンと魚はイエスを象徴し、それを裂くことは十字架をあらわす)が、御自分を十字架のメシアと自覚し、その大いなる神の業のために用いてくださいと願う祈りではなかったでしょうか。

 祈りを終えるとイエスは、弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者」と答えました。人々はイエスを見て、領主ヘロデ・アンティパスに殺された洗礼者ヨハネの生き返りだとか、メシアが到来する前に来ると信じている預言者エリヤだとか、昔の預言者が生き返ったのだとか言っていたのです。

 さらにイエスは、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。弟子たちは、一瞬緊張し、沈黙したことでしょう。その沈黙を破ってペトロが「神からのメシアです」と答えると、他の弟子たちも同調しました。「メシア」とは、救い主のことです。群衆は、イエスをみて、メシアの到来を知らせる預言者の一人であると判断していましたが、弟子たちは、イエスこそ到来を待っていたメシアその御方であると言い表しました。

 この場所にはいませんが、もう一人「あなたはわたしを何者だと言うのか」というこの問いに、直面している人物がいました。それは領主ヘロデ・アンティパスです。彼は、イエスが宣教したガリラヤ地方とヨルダン川東岸ペレアを治めていました。領主ヘロデは、自分の兄弟の妻であったヘロデヤを奪い取り結婚しましたが、それを非難した洗礼者ヨハネを捕らえ殺しました。ヘロデは、イエスが洗礼者ヨハネのよみがえりであると言っているのを聞いたり、メシア(新しいこの地の王)かもしれないと聞いたりして、不安をおぼえていたのです。

 

 イエスは、ペトロの告白を聞いたとき、弟子たちに対してこのことを誰にも話さないよう命じられました。それは彼らが、「神からのメシアです」との告白のもつ意味を、理解していなかったからです。弟子たちが待ち望んでいたメシアとは、差し迫った問題であるパンの問題や病の問題を解決する御方であり、支配国ローマからユダヤを解放する御方でした。しかしイエスは、神がそれとはまったく異なるメシアとしてお立てになろうとしていることを、祈りによって知っていたのです。ですから弟子たちが、イエスをメシアと信じ宣教することで、誤ったメシア像を広めてしまうことを防ごうとされたのです。そうしたことからイエスは、十字架と復活の業が成し遂げられるまで、弟子たちに「神からのメシアである」と告げることを禁じられたのでした。

 

 その上で、イエスはメシアについて、こう話しました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」イエスは、人々がご自分について預言者の一人のよみがえりと考えていることに対して、自分こそがかつて預言者イザヤが到来を告げていたメシア(「苦難の僕」)なのだと表明されたのです。

 預言者イザヤは、やがて来られるメシアは、苦難の僕であると告げていました。「そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。・・・わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。・・・多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ53:6~8、11、12)

イエスは、イザヤの告げた苦難の僕こそまことのメシアの姿であり、御自分がその預言の実現者であると言われるのです。

 さらにイエスは、弟子たちに対して、苦難の僕である自分に従うよう呼びかけられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」先に弟子たちは、神の力と権能をいただいてなした神の業を、自分たちの力でおこなった業として、イエスに報告したことがありました。イエスは、弟子たちがそのような自己中心を捨てて、それを十字架にかけて滅ぼしてしまうようにと勧めています。人は、信仰を持つようになったから、弟子になったからといって100%、神や人々のために生きることができるようになるわけではありません。やっぱり自分のことが大切で、自分の事を考えてしまいます。でも、「イエスは神からのメシアです」と告白する者は、自分が自分のことを中心に考える存在であることを知っている者でありますし、そのような者のために執り成しの祈りをしてくださるイエスがおられることを知っている者であります。さらに、そんな者の自分中心という罪を担い、十字架に架かってくださったイエスがおられることを知っている者であります。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とのイエスの教えは、自分中心の罪(自分を主とする)を捨て、自らの罪深さをおぼえながらもイエスを主と告白し、イエスに従いなさいと求めているのです。

 

 今朝の御言葉によってわたしたちは、群衆、弟子たち、領主ヘロデはじめ、時代や地域を超えて、すべての人に対し、主が「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけておられることを知りました。その問いかけに応えてわたしたちが「神からのメシアです」「イエスは主です」と告白するならば、自分中心の罪が生み出す、自らを主とすることや、神でないものを神とすることを日々退けることができます。またわたしたちの「神からのメシアです」との告白によって、誘惑に陥りそうなわたしたちのために、執り成しの祈りをしてくださるイエスがそばにいてくださることをおぼえさせていただき、励ましをうけることができます。「(イエスは)神からのメシアです」この信仰告白こそ、これからわたしたちに臨んでくる様々な苦難に耐え、イエスに従って神の業をなさせ、わたしたちを永遠の命と神の国へと導きいれてくださる告白なのです。

2023. 3. 5 復活前第5主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。    

  (ルカによる福音書11章20節)

 

「神の指」          深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。       (ルカによる福音書11章20節)

 

「神の指」          深見 祥弘

 詩人の新延拳さんは、新共同訳聖書の翻訳事業編集委員を務められた方であり、最近出版された「詩華集 聖書における光と影」(新教出版社 、2022)の執筆者の一人であります。新延拳さんには、「経験の定義あるいは指の痛み」(書肆山田、2021)という詩集があります。その詩の一節を紹介いたします。 「奇跡を起こすことは できないけれども いつもなにかを待ち続ける指でありたい 手品師は指の間から鳩を飛びたたせる ぼくの指からは いつも絶望しか翔たないけれど・・・年をとったぼくはゆっくりと解くようと五指を開く 『痛いの痛いの飛んでゆけ』と何十年前にいわれたけれど いま やっと飛んでいった 倦怠という愛撫がいくら傷口を擦っても 痛みをおぼえないだろう」

 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書11章14~26節、イエスと群衆(ファリサイ派や律法学者を含む)とのベルゼブル論争です。イエスと一行がエルサレムにむけて旅をしていた時のことです。イエスは、悪霊によって口の利けない人に出会うと、この人から悪霊を追い出し、口が利けるようになりました。これを見た群衆は驚嘆し、イエスこそ自分たちが待ち望んでいたメシアだと言う人、もう一つ奇跡を起こしてしるしをみせてくれるならメシアだと信じようという者もいました。さらに人々の中には、イエスはメシアなどではない、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者までいたのです。「口の利けない人」とは、失語症の患者さんでしょうか。失語症は、脳梗塞や脳内出血などの脳血管障がいや、事故や転倒による脳外傷で大脳の言語をつかさどる部分に損傷をうけておこる言葉の障がいです。現在では、治療やリハビリにより症状を改善することができますが、イエスの時代は、いろいろと手だてをつくしても症状の改善が難しかったのでしょう。人々はやがてその人を「悪霊にとりつかれた人」と断定し、神と引き離された関係にある「罪人」であると結論づけてしまったようです。イエスは人々のこうした考えを否定し、人々から受けている差別からこの人を解放しようとなさいました。「悪霊」とは、人々の中にあって人を裁く罪のことです。

 イエスは群衆に言いました。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」 ベルゼブルとは、旧約聖書に出てくるバアル・ゼブブのギリシャ語形で、異教の神のことです。異教の神が、頭となって悪霊たち(人の罪)を支配し、イエスに対抗しようとしている。その悪霊の頭は、仲間の悪霊を追い出すようなことはしない、そんなことをすれば、悪の国は分裂してしまうと言われたのです。

「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」実は、ファリサイ派や律法学者の中に悪霊を追い出している者がいました。イエスは、その仲間たちが、あなたがたの主張の間違いを指摘し裁くことになるけれども、どのように答えるかと問うています。

そのうえで、イエスは「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ている。」と言われました。

イエスこそがメシアであり、今神の指でこの人から悪霊を追い出した。イエスは、人々が口の利けない人を裁いた罪からこの人を解放し、神の国がここに実現している、そのしるしをあなたがたは見ていると言われるのです。 さて汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探しますが、見つかりません。イエスは、過日、荒れ野でのサタンの試みに勝利され、砂漠や荒れ野もすでに神の支配がおよんでいたからです。汚れた霊は、出てきた我が家がなつかしくなり、見に行ってみると、そこには誰も住んでいません。家の中を見ると、掃除がされていてとてもきれいです。そこで悪霊は、再び追い出されることのないように、自分より悪いほかの7つの悪霊を連れてきて、住みついたのでした。

 

 この話は、イエスの悪霊追放を見て驚き、イエスをメシアと信じても、その後、イエスが捕らえられると、再び悪霊を宿すこととなる人々の姿をあらわしています。「ダビデの子にホサナ。」(マタイ21:9)と歌いイエスを都エルサレムに迎え入れた人々が、「十字架につけろ」(マタイ27:22)と叫ぶ者になるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白したペトロが、「そんな人は知らない」(マタイ26:72)と三度も誓うのです。ひとたびは信じた人が、信仰を失い悪霊が戻ってくる、そのことに対して何かがなされなければならなかったのです。

  今朝の説教題を「神の指」といたしました。20節の「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」から取ったものです。ところで聖書の中で「指」という言葉は、どこに出てきて、どんな意味をもつものなのでしょうか。

 まず旧約聖書を見てみましょう。一つは主がシナイ山でモーセに二枚の掟の石の板を授ける場面です。石の板には、神の指(申命記9:10)によって十戒が記されていました。神の指は、神の力や御意志を、明らかにするために用いられるものでありました。同じく旧約聖書には、清めの儀式のことが書かれています。その時、祭司は、犠牲の動物の血を指(出エジプト29:12)につけ、聖別すべきものに塗りました。祭司の指によって犠牲の血が塗られると、塗られたものは、清められるのです。

 次に新約聖書を見てみましょう。姦通の女が連れてこられ、ファリサイ派や律法学者たちが、女を石打ちにすべきかと問うたとき、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言い、かがみ込み、指で地面に何かを書いておられました。それはイエスの赦しの言葉「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)との言葉ではなかったでしょうか。さらに十字架に架けられ復活されたイエスが、疑い深いトマス(「この指を釘跡に入れてみなければ・・・わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)に対して言われた言葉「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)です。トマスの指を御自分の手の釘跡に入れ信じる者になれ、そしてその血のついた指を神の指とし、人々の罪を清めよと言っておられるのです。

 

 新延拳さんの詩を最初に紹介しました。新延さんは、私の指はそのままでは絶望しかうみださないけれど、役割があるならば、ただ十字架と復活のキリストの傷ついた手が、わたしの前に差し出されるのを待つものとして与えられていると言われます。そしてイエスの釘跡の残る手を見たとき、わたしは、年を取った手の五指をゆっくりと開き、イエスの傷ついた手にわたしの手を重ね、「痛いの痛いの飛んでいけ」と言う。そうするならば、絶望ばかりを生み出し痛む私の指は、もはや痛みをおぼえることもない。

 イエスはご自身を犠牲の動物とされ、また祭司となられてその血を神の指に塗り、人々の罪を赦し、わたしたちの内に聖霊を宿してくださるのです。そしてその聖霊は、わたしたちを神の指として、用いてくださるのです。

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