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≪次月 6月(2024)礼拝説教要旨 前月≫

2024. 6. 16 聖霊降臨節第5主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。                (使徒言行録11章20節)

 

「『クリスチャン』のはじまり」    仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。                (使徒言行録11章20節)

 

「『クリスチャン』のはじまり」    仁村 真司

 このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるよう

になったのである。(11章26節)

ここは口語訳では「このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」となっています。

「私はキリスト者」・「私はクリスチャン」、他に「キリスト教徒」等、自分がイエス・キリストを信じる者であることをどう言い表す示すのがピッタリと来るでしょうか。

私自身は「クリスチャンです」というのはちょっと照れ臭いというのか何かそんな感じで、といって「キリスト者」とか「キリスト教徒」というのは堅苦しいような気がして、その時々で何と言っているのか、実ははっきりしないのですが、それはともかくとして、原語(ギリシア語)の「クリスティアノス」は英語の「クリスチャン」にほぼ対応していて、「クリスチャン」は日本語として(「キリスト者」よりも)定着しています。それで今回の説教題は「『クリスチャン』のはじまり」にしました。

  1)

「キリスト(Christos)」に形容詞語尾(-ianos)がついて「クリスティアノス(christianos)」になっているのですが、聖書の中では「へロデ派(ヘロディアノス)」も同じ成り立ちの語です。

「へロデ派」は新約聖書、それもマルコ福音書とマタイ福音書にチョロッと出て来るだけで、他の古代の文献には出て来ません。もしかしたらマルコの造語なのか、マルコの周りの人たちしか使っていなかった語なのか・・・。

なので、ヘロデ王家と関わりがあり、イエスを疎ましく思っていたらしい(例えばマルコ福音書3章6節「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、へロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」)等の他には、どういう人たちのことなのか、詳細は分かりません。

では「クリスティアノス」、「クリスチャン」は元々どういう人たちを指し示すのに、どういう人たちが用いるようになったのでしょうか。

「へロディアノス」を「へロデ派」とするならば、「クリスティアノス」を「キリスト派」としてもおかしくはないです。そして初期のキリスト教・教会は「ユダヤ教キリスト派」と言ってもおかしくはない状況でした。

エルサレムを拠点とするペトロたち使徒はユダヤ教の“頂点”である神殿を崇拝していましたし、教会が割礼を受けていない者(異邦人)受け入れることに反対し、割礼を受けなければ(つまりはユダヤ教徒でなければ)救われないとする人たち(「割礼を受けている者たち」11章2節)も沢山いましたから、ユダヤ教徒でイエス・キリストを信じる人たち、「ユダヤ教キリスト派」と言えなくもありません。

ですが、このよう意味で「クリスティアノス」、「クリスチャン」という語が用いられるようになったのではないと思います。

  2)

「クリスチャン」は英語で、今では日本語でも、普通に用いられている語ですが、その元の「クリスティアノス」はキリスト教の古い文献にあまり出て来ません。新約書の中でも三カ所だけです。使徒言行録では今日の箇所(11章26節)と26章28節、もう一ヶ所はペトロの手紙一4章16節ですが、どうも使徒言行録の著者ルカは「アンティオキアで、弟子たちが初めてクリスチャンと・・・」と伝えながらも、自分自身は積極的に「クリスチャン」という語を用いる気がなかったようです。

こういったこともあって、「クリスチャン」という語が用いられるようになったのはもっと後の時代のことで、こんな早い時期から自分たちはユダヤ教徒とは別のキリスト教徒等と思うはずがない(「アンティオキアで、初めて」ではない)、あるいはキリスト教徒みずからが「クリスチャン」と言い始めたのではなく、元々は外部の人たちないしキリスト教を弾圧した人たちがそう呼んだのだ等と考える人たち(学者)が沢山出て来ました。

それでなのか、26節は「クリスチャン(キリスト者)と呼ばれるようになった」と殆どの訳で受け身になっていますが、この文は受け身ではないです。アンティオキアで初めて弟子(信者)たちが、だれかから「クリスチャン」と呼ばれたのではなく、自ら「クリスチャン」と称した、自分で「クリスチャン」と言ったということです。

「(他の人から)呼ばれた」であっても、「(自ら)称した」であっても、いずれにしても使徒言行録(11章26節)の記述は事実に反すると考える人が多いということですが、何事についても初めて用いられることと、広く用いられるようになることとは話が別です。

また、新約聖書中の文書でアンティオキアやその周辺で書かれたものはありません。従って新約聖書に三回しか出て来ないのは「クリスティアノス(クリスチャン)」が元々、「ユダヤ教キリスト派」とも言えそうなエルサレム教会等とはかなり違う、アンティオキアの信者たちの意識・働きに結び付いて用いられるようになった語だからと考えることもできます。

3)

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外(=異邦人)のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々(=異邦人)にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。(19~20節)

「異邦人に語らなかった。しかし、異邦人にも語りかけた」というこの記述は明らかに矛盾しているのですが、事実としては迫害のため散らされた人々はアンティオキアへ行き(行く途中でも)「異邦人」に語りかけていました。ペトロのコルネリウス(異邦人)訪問(10章)以前にはだれも「異邦人」に語らなかったというのは、迫害されず散らされず、迫害があった翌日も何事もなかったようにエルサレムで活動を続けていたペトロたち使徒グループの「ユダヤ教キリスト派的意識」を現しているとも言えます。

迫害されエルサレムから散らされた人々は「ギリシア語を話すユダヤ人」(6章)です。この人たちにとって、アンティオキア(ローマ帝国支配を象徴する大都市)でギリシア語を話す人々(異邦人)にも語りかけたのは、「異邦人伝道に踏み出す」というような意識からしたことではなく、出会い、関わった人たちに分け隔てなくイエス・キリストを伝えた、ただそれだけの普通で当然のことであったと思います。私はこの人たちはどこかイエスと重なるような気がします。(例えばマルコ福音書7章24~30節、ここでイエスはギリシア人、「異邦人」と、普通に関わっています。)

また、このような人たちの働きにより信者となった「異邦人」にユダヤ教(の一派)に属したという意識があったとは考えにくいです。

そういう当時のアンティオキア教会で、イエス・キリストを信じ、伝え、伝えられた人々がみずから、自分たちのことを「クリスティアノス」と言った、それが「『クリスチャン』のはじまり」だと私は考えています。

とすれば、「キリスト教」より先に「クリスチャン」があったということになります。そして「クリスティアノス」は「キリスト的な者」ということです。この「キリスト」は勿論「油注がれた者」 という普通名詞ではありません。固有名詞、「イエス・キリスト」の「キリスト」です。

つまり「クリスチャン」とは元々「イエス・キリスト的な者」、イエス・キリストに従い、イエス・キリストと一緒に生きようとする者のことではないか・・・。この意味においてクリスチャンでありたいと私は思います。

2024. 6. 9 聖霊降臨節第4主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、

だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。                                  

(ヨハネの手紙第一2章27節)

 

 「御子から注がれた油」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、

だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。                                  

(ヨハネの手紙第一2章27節)

 

           「御子から注がれた油」      深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、ヨハネの手紙第一2章18~27節です。この手紙は、ヨハネ福音書より少し遅い1世紀末~2世紀はじめ、シリアから小アジアのいずれかの地で書かれました。著者は、ヨハネ福音書が書かれた地域の教会の指導者です。これは手紙と名付けられていますが、特定の教会や個人に宛てて書かれたものではなく、広く読まれることを期待するトラクトのようなものです。手紙の目的は、グノーシス主義者(仮現論者)の教えに対し、キリスト教信仰を明確にすることです。グノーシス主義者は、イエス・キリストの神的本質は終始不変であり、キリストの降誕、受難、十字架は仮現にすぎないと教えました。すなわち人間イエスが洗礼を受けた時に、キリストが降り、十字架を前にしてキリストは離れたと主張しました。   

このグノーシスについては次のように解説されています。「外なる宇宙も人間も神的・超越的な本質(光、霊)と物質的・肉体的実体(闇、物質、肉体)とに二元的に、あるいはその中間の原理(心魂)を含めて三次元的に分裂している。個々の人間の内に宿る神的本質は肉体と物質の領域、さらには心魂の領域を越えて、超個人的・超宇宙的な神的本質と同質であり、この本質のもとへ回帰・合一することによってのみ個人は救済される。そのためには人間は後者の領域から到来する啓示を通して、自己の中に眠る神的本質、その由来と行く末を認識しなければならない。この覚知的認識が『グノーシス』と呼ばれる。」(岩波キリスト教辞典)  

 

 今朝のみ言葉に「油」(オリーブ油)が出てきます。20節に「しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」、また27節には「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません。」とあります。「聖なる方から油が注がれている」、「御子から注がれた油」という言葉から、この「油」とは聖霊であることがわかります。復活のイエスは、40日にわたり弟子をはじめ人々に現れ、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。」(ルカ24:49)と約束されました。そして復活から50日目、弟子たちが集まっていた家に、聖霊が降ったのでした。父なる神のもとに行かれたイエスから注がれた油・聖霊が、弟子をはじめ信じる人々に与えられたことで真理(イエスが救い主であること)を知ることができるようになったのです。コリントの信徒への手紙第一12章3節には、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあります。

 旧約聖書では、祭司、王、預言者に務めが与えられる際、油が注がれました。それは神の祝福、聖別の象徴です。またキリスト教で油は聖霊のたまもののしるしであり、洗礼、堅信、叙階、献堂などで、さらには病者の塗油の秘跡で用いられました。

 この病者への塗油は、イエスの弟子によって行われました。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(マルコ6:12~13) さらに信者も行いました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ5:14~15)

 今もカトリック教会では「病者の塗油」を行います。司祭が、「神である父よ、あなたはひとり子キリストを通して病人を慰め、力づけてくださいます。わたしたちの祈りを聞き入れ、からだを強めるために、木の実からとれた この油の上に、慰め主である聖霊を おつかわしください。この油を注がれるすべての人が あなたの祝福を受けて、からだと心の健康をとりもどし、すべての病気と苦しみから解放されますように。全能の神である父よ、あなたによって祝福された このとうとい油が わたしたちの助けとなりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」と祈ります。そして病者の額と両手に塗油をしながら、「この聖なる塗油により いつくしみ深い主・キリストが 聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放して あなたを救い、起き上がらせてくださるように。アーメン。」と唱えます。(「祝福の祈り」カトリック札幌教区典礼委員会)

 

 著者は、多くの反キリストが現れている現状(キリスト教を迫害する者や御子を救い主と認めない者)を見て、終わりの時(主の再臨)が近づいていることを感じこの手紙を書いています。彼らによる試練は、信仰(教会)にとどまる者と信仰(教会)を離れる者を分け、その信仰が真のものであったか否かを明らかにします。

 グノーシス主義の影響を受けたキリスト者は、次のように考えました。人は本来自らの内に神的本質を宿しており、キリストに触発されることで、宇宙的な神的本質のもとに回帰合一する。一度キリストに触発された者は、霊的な存在となって救われ、たとえ世にあって悪しき者であろうともそれを問われることはない。

 これに対しキリスト者は、こう信じていました。人の内には、神的本質を宿してはおらず、そこにあるのは罪です。しかし神は、神の子イエスを罪人のもとに生まれさせ、罪なきイエスに人々の罪を負わせて十字架に架けてその罪を贖い、イエスの復活により新しい命を備えてくださいました。さらにキリストは、人々に聖霊を注ぎ、イエスが救い主であることを明らかにされました。今、人々の内にあるのは、神的本質でも罪でもなく、聖霊です。聖霊が人々の内にあって、イエスがメシア(救い主)であることを知らせ、人々を「イエスは主である」との信仰告白に導かれたのです。

今、試練の中にあって惑わされている教会の人々は、かつて聖霊を注がれ、聖霊の教えを受けてイエスが救い主であることを知り、信仰を告白しました。だからその時のことを思い起こし、御子から注がれる油(聖霊)によって、もう一度奮起しこの試練を耐え忍び、終わりの時を迎えようと、この手紙の著者は励ましているのです。

 

私たちは、世の終わりの時(主の再臨の時)に向けてどのように備えればよいのでしょうか。それは、祈りによって日々新たな聖霊をいただき、内なる聖霊の教えに従い、御子の内に、すなわち教会にとどまることです。

もう一つ私たちが生涯の終わりを目前にする時、どう備えをすればよいのでしょうか。それもまた「からだを強めるために、この油の上に、慰め主である聖霊を おつかわしください。」と自分で祈り、信仰の師・信仰の友に「いつくしみ深い主、キリストが聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放して、あなたを救い、起き上がらせてくださいますように。」と祈っていただくことです。私たちは、聖霊をいただいてイエスが救い主であることを知り、その働きによって信仰を告白し、洗礼を受けました。しかし聖霊である油を私たちの内に宿しつつも、弱さの中で試練を受けることもあるのです。その時には、我が油の上に、新たに聖霊をお遣わしくださいと祈り、御子が約束された永遠の命を待つのです。

2024. 6. 2 子どもの日・花の日CS合同礼拝(聖霊降臨節第3主日)
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< 今 週 の 聖 句 >

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。                                                                    (ヨハネによる福音書16章33節)

 

   「世に勝っている」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。   (マタイ福音書6章34節)

 

            「野の花のように」       深見 祥弘

 今朝は、私たちの教会の子どもの日・花の日礼拝です。礼拝堂に花を飾り、子どもから高齢の方まで一緒に感謝の礼拝をささげます。また礼拝が終わったら、このお花を教会学校は止揚学園に、教会は信愛館にお届けいたします。

 

 今朝のみ言葉は、マタイによる福音書6章25~34節です。イエスは各地より集まってきた大勢の群衆を見て、山に上り教え(山上の説教)をされました。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(6:25~26)

  私は、これまでこの教えを、次のように聞いてきました。

“仕事がうまくいかないとか、働けないからと言って、どのようにして生活してゆこうかと思い悩むな。空の鳥を見なさい。種を蒔くことも、刈り入れをして倉に納めることもしないのに、天の父は鳥を養ってくださる。あなたたちは、鳥よりも価値あるものではないか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。それなのに神は、野の花をソロモンにまさる美しさをもって、装ってくださる。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、食べるもの、飲むもの、着るものも与えられる。天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。天の父を信じなさい。”

 

 み言葉を読んで、これとは異なるメッセージが示されました。

6章25~34節に「思い悩むな」(メリムナオー)という言葉が、くり返し出てきます。このメリムナオーには、「働くな」という意味もあります。

 まずイエスは、「働くな」と教えをされました。これは弟子たちに対する教えです。この世の終わりの時が近づいているので、宣教に専念しなさい。そのことが弟子たちにとって「神の国と神の義を求める」ことであり、必要なものはすべて与えられると言われるのです。

 次にイエスは、「働け」と教えられました。これはイエスに従ってきた群衆に対する教えです。あなたたちは、種を蒔くこと、刈り入れること、倉に納めること、紡ぐことなど、その日一日力いっぱい働きなさいと言われるのです。うまくいかないこともあるけれど大丈夫、その日の仕事に勤しむことが、あなたがたにとっての「神の国と神の義を求める」ことであるので、生きていくうえで必要なものは神がすべて備えてくださるのです。

 さらにイエスは、「働けなくても大丈夫」と教えられました。これは、イエスの傍らにいる病人や体の不自由な人、歳をとった人や世にあって差別されたり疎外されたりしている人に対する教えです。イエスは、この人々に空の鳥や野の花をよく見なさいと言われます。父なる神は、働けないあなたたちをも愛し、豊かな恵みと養いを与えてくださる。あなたたちは価値ある尊い存在です。あなたがたは、その姿をもって「神の国と神の義」を証ししなさいと言われます。

 

 さらに今朝のみ言葉を読む中で示されたこととは、“神は人をどのようなものとしてお創りになられたのか。それに対して人はこれまでどのようなものであったのか。神はそのような人をどう導こうとされたのか。今、人はどのようなものなのか。”ということについてです。

 まず神は、人をどのようなものとしてお創りになられたのでしょうか。創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。」とあります。人は神のみ旨を知る者として創られたということです。

 次に神は、人にどのような働きを期待しておられたのでしょうか。神は人に他の被造物を支配する働きを与えられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世紀1章28節) 神は、神のみ旨に従って被造物を治めることを人に委ねられたのです。それに対して人はどうであったのでしょう。人は神のみ旨にそむきました。神が禁じた園の中央の木から果実をとって食べ、神のみ旨にそむくことで罪を得たのです。

 神は罪人に対してその後、何をなさったのでしょうか。神は罪人のもとに神の子イエスをお遣わしになり、人の罪のあがないのためにイエスを十字架にかけ、閉ざされていた「命の木に至る道」(創世記3章24節)を開いてくださいました。イエスは、ご自分について「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。

 それでは、神がイエスをお遣わしになられたことで、今はどうなっているのでしょうか。まず、神がイエスをお遣わしになられたことで、人の罪は赦され、人は価値ある存在になりました。罪を得た人は、仕事のできる人を価値あるものとしましたが、イエスの贖いによって、幼子も老人も、病気の人も仕事のない人も、価値ある存在とされるようになりました。

次に神が、イエスをお遣わしになられたことで「被造物を支配する」という意味が変わりました。それまで人は、自分の命や体のために他の被造物を従わせ支配をしてきました。しかしイエスの罪のあがないによって、人は被造物を、み旨に従って治めるものになったのです。

さらに神がイエスをお遣わしになられたことで、「神の国と神の義」の実現のために、すべての人に対して使命が与えられました。初めにお話しましたが、弟子たちの使命は、「神の国と神の義」の到来を宣べ伝えることです。彼らはすべての人のところを訪ね、宣べ伝えるのです。

また種を蒔き紡ぐ人の使命は、イエスの弟子たちや病人などに食べ物や飲み物、着るものを与え、その人々の働きや生活を支えることです。このことが種を蒔き紡ぐ人の「神の国と神の義」への参与となります。

さらに病人や体の不自由な人、年配の人などに与えられた使命とは、福音を伝える弟子たちや、衣食で支えてくれる人々のために祈ることです。この人々の「神の国と神の義」への参与は祈りによってなされます。この人々は、空の鳥や野の花のように、その姿で神の恵みを証しするのです。

 

 自らに利益を生み出す仕事の場合、それが出来る人と出来ない人がいます。しかし「神の国と神の義を求める」働き(神のみ旨を行う働き)は、すべての人が行うことのできる働きです。そしてこの働きに参与する人々には、必要とするすべてが備えられるのです。イエスは「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ福音書5:6)と言われました。

 神は、過去、現在、未来を支配する御方です。それゆえに神ご自身が、明日のことを思い悩んでくださいます。イエス・キリストを人々のところに遣わして十字架に架け、人の罪をお赦しになられた・・・このことによって父なる神の思い悩みを知ることができます。私たちは、明日を知り思い悩む御方に委ねればよいのです。神は、日々の務め(宣教と労働と祈り)を果す人、すなわち信仰と愛に生きる人を、「野の花のように」貴い存在として愛し、思い悩みから解き放ってくださるからです。

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