「あなたがたが祈るときは」     深見祥弘牧師

February 7, 2016

<今週の聖句>

あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』     (マタイによる福音書6章8~9節)

       「あなたがたが祈るときは」       深見祥弘

私たちは、最近「ル-ティン」(英routine)という言葉を耳にします。「ル-ティン」この言葉の意味は、「決まった手順」、「お決まりの所作」、「日課」です。そこから、スポ-ツ選手が試合のここぞという場面で、集中を高めたりゲンをかついだりするために行う独自の所作をそのように呼ぶようになりました。例を上げると、ラグビ-・五郎丸選手の「お祈りポ-ズ」や、大相撲・琴奨菊関の「琴バウア-」などです。

 順天堂大・奥村康先生が新聞に「教会に通う人と通わない人を比べると通う人のほうが、平均寿命が長いという米国の研究報告がある。教会に通うこと自体が生活習慣を改善する効果もあるだろうが、祈りや信仰は、自己治癒力にプラスのようだ。」(毎日朝刊1.28)と書いていました。私も教会の兄姉は、年配になっても皆さんお若いなと思っていました。私たちが、日々祈り、日曜日ごとに礼拝に出席し、そして生涯を通して信仰生活をすることが、私たちの体や心を日々若々しいものとするということではないでしょうか。

 イエスは「山上の説教」で「あなたがたが祈るときは・・こう祈りなさい。」

といって、人々に「主の祈り」を教えられました。私たちは「主の祈り」を祈る時、父なる神への深い信頼をもって自らを委ねます。そして、イエスによって救いを実現しようとする神に心を向け「御心がおこなわれますように」と願い、「糧を与え、負い目を赦し、誘惑から守ってください」と隣人のために祈って奉仕するのです。「主の祈り」を日々祈ることで、私たちは、自分に囚われている状態から生じる罪や欲望から解放されます。これが、主イエスが私たちに教えてくださった「永遠の命と救いへのル-ティン」なのです。

「死に至るまで忠実であれ」         北川 博司副牧師

February 14, 2016

< 今週の聖句 >

●あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。   (ヨハネの黙示録2章10節)

    「死に至るまで忠実であれ」         北川 博司

●ヨハネの黙示録2章から3章にかけて記されている7つの教会に宛てた手紙は、1世紀後半当時のアジアの教会の実際の姿を示しています。しかし、これらの教会の姿はあらゆる時代に存在している教会の型を指し示しており、同時に教会の歴史のなかで、それぞれの時代の教会の特徴を預言しています。そしてその教会への手紙の中でもスミルナとフィラデルフィアの教会だけが非難されていません。もちろんこの手紙は、別々に書き送られた手紙をヨハネが1つにまとめて、黙示録に載せたというものではなく、1つの手紙です。ですからこのスミルナの教会に宛てられた手紙は、エフェソやペルガモンの教会でも読み上げられたはずです。それならばこのスミルナの教会は、自分たちが他の教会とは違い、誉められていることで良かったと安心していたでしょうか。実は全く違います。このスミルナとは「没薬」という意味で、それは死体を葬る時に用いられる香料であり、イエス・キリストの誕生と十字架の死の時にもこの没薬が登場します。つまりその名のとおり、キリストの死の香りがする教会であり、厳しい迫害によって苦しみと貧しさのなかにあったのです。このような町で信仰を持って生きることは大変危険なことでした。

●しかし主はそのような教会に対して、「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(9節)と語りかけます。実にこの豊かさこそが、主から与えられている永遠の命です。私たちは主の「死に至るまで忠実であれ」(10節)との呼びかけに応え、自分自身の弱さを知り、主にある豊かさにより「命の冠」を授けられ、希望を持って歩んでいくのです。

 「信仰の継承」   小原 克博 同志社大学神学部教授

February 21, 2016

<今週の聖句>

子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。(詩編78編4節)

 

           「信仰の継承」         小原 克博

 

 この詩編78編の言葉は、信仰が世代から世代へと受け継がれていく躍動感を見事に表現しています。わたしたちの時代の言葉で言い換えるならば、ここでは「信仰の継承」がテーマとなっています。なぜ、どのようにして信仰が継承されなければならないのか、そもそも何を継承するのか。これらは旧約聖書の時代からわたしたちの時代に至るまで、繰り返し、問われてきた課題です。

 ところが現実には、若者の宗教離れが日本だけでなく欧米でも進行しています。伝統的な礼拝だけでは若者の関心を引くことは難しく、礼拝改革や教会活動の多様化によって対応し、成功している事例もあります。何を変え、何を変えるべきでないのかを判別するのは容易ではありませんが、それはキリスト教宣教にとって不可避の課題です。

 地球全体を見渡せば、若者の教会離れや教会の高齢化が進んでいる地域もあれば、たくさんの若者が教会に集まり、教会が成長している地域もあります。教会のタイプで言えば、伝統教派は苦戦し、単立教会(特にペンテコステ系)が成長の牽引力となって。カトリックはトップが変われば改革も進みます。単立教会は実験的な試みを柔軟にできます。伝統的な教会は、このいずれでもありません。

 教会は若者に届く言葉を語ってきたでしょうか。そもそも、一般社会に届く言葉を語ってきたでしょうか。現代において福音を語ること、信仰を継承することを、主から受けたミッションとして共に考えていきましょう。

「隣人愛のゆくえとイエス」 千葉 宣義牧師(八幡ぶどうの木教会)

February 28, 2016

<今週の聖句>

隣人も自分のように愛しなさい。            (マルコによる福音書12:21)

「隣人愛のゆくえとイエス」                  千葉宣義

 マルコ・マタイ・ルカ三福音書は、「最大の掟はなにか」をめぐるイエスと律法学者の問答を記録している。『教科書の中の宗教』を著した藤原聖子(2011.6岩波新書)は高校倫理の教科書でキリスト教を紹介するときに「キリスト教=隣人愛」の記述が多いのを驚いている。 (教科書での宗教紹介の問題は、ここでは取り上げない)。ただ、キリスト教は愛の宗教であるという考えは、キリスト教内だけでなく広く言われているといえる。最近発刊された『キリスト教と戦争』(石川明人著2016.1.25中公新書)も「愛と平和を説きつつ」戦争へと走るキリスト教とはなにかを批判的に論じている。

 先の「最大の掟」をめぐる問答で、マルコ12:28~34では、律法学者の問いになっているが(マタイも同じ)ルカでは(ルカ10:25~28)、イエスの問いに律法学者が答えたことになっている。このルカの問答の方が、ガリラヤで生きて働いたイエス(「歴史的イエス」)の態度だと考えられる。なぜならイエスはこの隣人愛を批判的に考えていると読むことができるからである(辻学著『隣人愛のはじまり』参照)。

 イエスの批判の一つがこのルカ10章「善きサマリア人」であり、もう一つは、マタイ5章の「反対命題の一つである「愛敵の教え」(マタイ5:43~48)である。ここで問題になっているのは、「隣人愛とは誰か」ということである。

イエスは「愛敵の教え」のなかで、「自分を愛してくれる人を愛すること」、つまり仲間内の愛を批判している。同じように「善きサマリア人」のたとえでも、「誰がこの追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と問いかける。この「隣人になる」とはどういうことかを共に考えてみたい。

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