「最高のおもてなし」  深見祥弘牧師

March 6, 2016

<今週の聖句>

イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。・・ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。              (ヨハネによる福音書12章1・2節)

「最高のおもてなし」         深見祥弘

 3.11を前に、被災地や病院、高齢者施設等に出かけて行き、人々の傍らに寄りそう活動、ケアリングクラウンをしている方の文を読みました。この方が以前、どのように訪問すればいいのかを悩んでいた時に、ある方から「ピエロになる必要はないのです。あなたは、あなたであるだけで十分なのです。あなた自身に赤い鼻さえつければ、それでケアリングクラウンの出来上がりです。」と教えられたそうです。そして、今は「気がつくとそっとそばにいる、気がつくとふっとその人が和んでゆく、そんな風でありたいと思います。」と書いておられました。(赤い鼻とは、神の愛のこと?)

 イエスは過越祭の六日前、ベタニアの重い皮膚病の人シモンの家を訪問しました。そこには同じ村のマルタ・マリア・ラザロもいました。マルタは、前回のイエス訪問(ルカ10:38~42)の時と同じように、夕食の準備をしました。でも今回は喜んででした。先の訪問の時には姿を見せなかったラザロは、この家に来て、共に食事の席につきました。そして前回、イエスの足元に座って話を聞いていたマリアは、イエスの足に香油を塗る奉仕をして葬りの準備をし、この家を愛の香りで満たしました。マルタたちは、十字架に向かうイエスに対し、また病気で寂しいシモンのために、このような愛の奉仕をしたのでした。

 主イエスは来る日、シモンやマルタたちのみならず、私たちも神の国の食卓に招き、最高のもてなしをしようと計画しておられます。すなわち主イエス自ら、食事の準備と給仕をしてくださり、主の十字架によって新しい命をいただいた私たちと共に、食事の席についてくださるのです。(ルカ22章)

「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」  深見祥弘牧師

March 13, 2016

<今週の聖句>

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。              (ヨハネによる福音書19章20節)

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」    深見祥弘

 私たちは今、主イエスの苦難を思い起こし、悔い改める受難節(レント)を過ごしています。この時にふさわしく過ごせるよう、主より励ましと導きの御言葉をいただきましょう。

 今朝は、ヨハネ福音書19章「十字架につけられたイエス」の記事より福音をいただきます。その福音は、ヨハネ福音書と他の三つの福音書との比較によって知ることができます。そこにある相違とはなんでしょうか。ヨハネ福音書には①イエスは、自ら十字架を背負ったと書かれています。(他の福音書はキレネ人シモンが十字架を背負った)②イエスの罪状書きは、三つの言語で書かれました。(他の福音書はそのことついて触れていません)③イエスの服は兵士たちによって四つに分けて取られ、一枚織りの下着はくじを引いて取られたと書いています。それは預言(詩編22:19)の実現であると強調されています。(他の福音書はくじを引いてその服を分けたとあるだけです)④イエスは、十字架上より傍にいた母マリアと愛弟子ヨハネに語りかけました。(他の福音書では、彼らは遠く離れていて、イエスは孤独でありました)

  ヨハネ福音書は、福音書の中でいちばん後に書かれました。ですからこの福音書は、主に対する人々の信仰をより明確に記しています。イエスの罪状書きが三つの言語で書かれた(ヘブライ語は土地の言葉、ラテン語は公的な言葉、ギリシャ語は国際的な共通語)とあることは、十字架につけられたナザレのイエスが、ユダヤ人の王にとどまらず世界の人々を救う王であることを宣言しています。十字架の主イエスのもとに世界中の人々が集まり、罪赦され、愛による共同体を形作ること、これが父なる神の御計画であるのです。

「冷たくもなく熱くもなく」 北川博司副牧師

March 20, 2016

< 今週の聖句 >

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。

         (ヨハネの黙示録3章15~16節)

「冷たくも熱くもない」         北川 博司

●ヨハネの黙示録の第2章以下に記されている7つの教会への手紙の最後にラオディキアにある教会が登場します。この手紙の特徴は他の6つの教会に比べて褒められるべきものが何も無いという点です。ラオディキアは交通の要衝にあり、商業や金融業の中心地として栄えると共に軍事的にも重要な地でした。この街は金融業、毛織物産業、また目薬の産地でもあり、繁栄し、裕福であるが故に神様を必要としなくなっており、その影響は教会の内部にまで及んでいたのです。そのような教会に、主は「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない」(15節)と語りかけ、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言う私たちに対して主は「なまぬるい」、それが故に「口から吐き出そうとしている」(16節)と告白します。しかし、主はそれでも私たち1人ひとりを愛し、私たちに足りないものは「火で精錬された金」「白い衣」「目に塗る薬」であると指摘し、それらを「わたしから買う」(18節)ようにと勧めています。

●私たちが非難されるべき態度は、「なまぬるい」態度、語源が示している「(周囲に)溶かしていく」態度、すなわち無関心の態度です。そして主が勧める態度は、主イエスより高価な物を「買う」、すなわち「市場で求める」態度です。私たちの信仰生活には最短距離も利便性もありません。私たちは「(聴く)耳ある者」として「霊」すなわち聖霊の働きにより、主の「あなたを愛している」というドア音を聞きます(22節)。まさにそこにこそ私たちが心のドアを開き、「なまぬるさ」から脱却できる希望と根拠があるのです。

「新しい命に生きる」 深見祥弘牧師

March 27, 2016

<今週の聖句>

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ロ-マ6・4)

「新しい命に生きる」        深見祥弘

 イースターおめでとうございます。2月10日(水)よりはじまったレントも終わり、喜びのイースターを迎えました。初代教会は年に一度、この日に洗礼式を行いました。洗礼志願者は、レント期間中に信仰の訓練を受け、特に洗礼日の一週間前からは、「主の祈り」と「使徒信条」の学びをいたしました。そして、イースター前日、土曜日の夜に礼拝を始め、夜明けとともに洗礼式を行ったのです。

なぜ、イ-スタ-に洗礼式が行われたのでしょうか。それは、人々が十字架と復活のキリストに結ばれることを願って、洗礼を受けたからです(3節)。すなわち、人々は自らの死と葬りに際して、キリストが共にいてくださることを願い、さらに、復活のキリストの命が与えられることを望んだからです。人々は、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになると信じます」(8)と告白し、洗礼を受けました。これは、初代教会の信仰告白でありました。

10節には、「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり」と書かれています。この「罪」とは、一人ぼっちの状態のことです。過日、キリストは十字架において孤独を経験され、その死によって罪を滅ぼされました。これにより人は、たとえ人々から見捨てられても孤独ではありませんし、死に際しても、キリストが共にいてくださいます。14節には、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは・・恵みの下にいるのです。」と書かれています。私たちは、洗礼によってキリストに結ばれ、今も、そして死後も、新しい命に生きることができるのです。

Please reload

© OMI HACHIMAN CHURCH. All rights reserved. W.M.ヴォーリズが愛した教会