「主を見て喜んだ」 深見 祥弘牧師

April 3, 2016

                                                           <今週の聖句>

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 (ヨハネ福音書20:21~22)

                                                   「主を見て喜んだ」             深見祥弘

春四月を迎えました。教会の子どもたちや青年たちの中には、入学など新しい生活を始める方々がいます。教会も、新年度の働きへと導き出されます。希望を持って出発できるように、復活の主から励ましをいただきましょう。 イエスが復活された日の夕方のことです。弟子たちは迫害を恐れ、一つ家に集まり、戸に鍵を掛けて身を隠していました。そこにイエスが入ってこられ、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように。」と言って、その傷をお見せになりました。弟子たちは、今朝、マグダラのマリアから聞いたことが、本当だったとわかり、主を見て喜びました。イエスは喜ぶ彼らに息を吹きかけ、「あなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい。」と言われました。ところが、そこにいなかったトマスは、イエスの復活を信じませんでした。八日後、イエスは再びこの家を訪れ、彼に傷を示して触れるように促し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのでした。 弟子たちと一緒にいなかったトマスとは、すなわち私たちの次の世代の兄姉を象徴しています。この兄姉たちにも私たちと同様、復活の主が臨み、「あなたがたに平和があるように」と声を掛け、その傷に触れるように促し、「信じる人は幸いである」と励ましてくださると、御言葉は告げています。同様に私たちも、これから教会に仕えようとする人々と一つ家(教会)にあって共に復活の主の言葉を聴き、互いの不信仰や恐れを共有して一緒に閉じこもり、そしてこの御方を見て共に喜びたいと思います。これこそが、私たちのできる福音宣教であり、信仰の継承なのです。

April 10, 2016

   <今週の聖句>

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。

(ヨハネによる福音書21章3節)

「わたしは漁に行く」        深見祥弘

 敬愛するS姉が、102年の御生涯を終えて、神様の御元に行かれました。姉妹は教会員の中で最も御長寿でありました。しかし、決してじょうぶであったわけではなく、生涯において二度大病を経験されています。御結婚されて間もない20代に、結核を発病されましたが、近江サナトリアム療養中にキリスト教に出会い、1937年12月、近江サナトリアムチャペル(八幡教会)で洗礼を受けられました。姉妹が療養されていた頃は、戦争の時代でもありました。戦後、療養を終えて大阪のお宅に戻られた後、近くの教会に転会されました。50歳を前にした頃、今度はガンの治療を受けられることになりました。その後お連れ合いを御元に送り、姉妹が93歳の時「ケアハウス信愛館」に居を移したのを機に再び当教会に転入、その後、市内の特別養護老人ホームで生活されました。

 ヨハネ福音書21章は、イエスの復活後、ガリラヤに戻ったペトロたちの働きを書いています。彼らが夜、舟に乗り込み漁(伝道)をし、岸におられたイエスの指示に従って網を下ろすと、大漁になりました。

 S姉が生まれた1914年、近江ミッションは伝道船「ガリラヤ丸」を建造しました。また1918年には、近江療養院を開設しています。姉妹が病と戦争という暗闇の波間に漂っていた時、「わたしは漁に行く」といって暗闇に船を出したヴォ-リズさんたち(近江ミッション)に救われ、岸にいた復活の主が、治療や食事など姉に必要なものすべてを整えてくださいました。S姉の御生涯は、主の計画された救いの素晴らしさを証ししています。

「心は燃えていた」 仁村 真司教師

April 17, 2016

<今週の聖句>

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

(ルカ福音書 24章32節)

                   「心は燃えていた」      仁村 真司

 クリスマスに比べればそれ程でもないですが、近頃ではイースターも「みんなでお祝いする日」として、一般の人たちにも知られるようになって来ましたが、聖書を見るとイエス・キリストの復活を知ってお祝いしようと思い立った人はだれもいなかったようです。

 最初の福音書、マルコ福音書には(16章1~8節)、イエス・キリストの復活を、イエスが葬られた墓の中にいた白い長い衣を着た若者に知らされた婦人たち(マグダラのマリア・ヤコブの母マリア・サロメ)は「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」とあります。そして、元々のマルコ福音書はここまでです。だれも復活したイエス・キリストに出会わないまま終わっています。

 おそらくマルコ福音書が著されたころには、ペテロや他の弟子たちが復活したイエス・キリストに出会ったという話は、キリスト者の間で広まっていたと思います。なのにマルコ福音書にはそういう話が記されていないのは、イエス・キリストの復活とは、だれかに教えられて信じたり、キリスト教の教義だから信じなければならないというものではない。そうではなく一人一人がそれぞれの現実の中で、イエス・キリストの復活によってもたらされているものに気づくこと、それが復活したイエス・キリストとの出会いである、ということを示しているのだと思います。

 今朝はルカ福音書にあるエマオという村の向う二人の弟子に復活したイエス・キリストが現れた物語を通して、現代の私たち一人一人が、復活のイエス・キリストに出会うとはどういうことなのか考えていきます。

 

「天に記されているあなたの名」 深見 祥弘牧師

April 24, 2016

                     <今週の聖句>

悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

(ルカによる福音書10章20節)

           「天に記されているあなたの名」     深見祥弘

 本日は、礼拝後に教会総会を開催いたします。この総会において今年度の標語を「共に望み見る-喜びの教会づくり-」とすること、聖句を「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とすることを提案いたします。 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書10章です。ここには、イエスが72人の弟子たちを各地に派遣するにあたって教えた心得と、後日帰還した弟子たちの喜びの報告、そして弟子たちにとってのまことの喜びについて記されています。イエスは弟子たちに、「行きなさい。わたしがあなたがたを遣わす。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」と教えました。弟子たちが喜びながら帰って来て、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と働きの成果を報告しました。イエスは「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われたのでした。

 わたしたちの「喜び」とは、かつて旧約時代の人々が見ることも聞くこともできなかった主の福音を直接聞き、この福音のために働き、すでにわたしたちの名が天に書き記されることです。「名が天に書き記されている」、このことは、わたしたちに福音を与えその働きを委ねたイエスの「喜び」でもあります。 「共に望み見る-喜びの教会づくり」を標語とする教会は、そこに連なる兄姉が喜びをもって教会生活(宣教の生活)をできるように、そして日々御国と救いの希望を確かにできるように仕えていく教会なのです。

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