「わたしの隣人」深見祥弘 牧師

August 2,2015

<今週の聖句>

あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。

(ルカによる福音書10章27節)

「わたしの隣り人」         深見祥弘

 本日は、平和聖日です。パウロはエフェソの信徒への手紙で「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(2:14)と述べています。キリスト者にとって「平和」とは、イエス・キリストのことであり、平和は、滅びが支配する世に、神が与えてくださった贈り物です。イエス、この名には「神は救い」という意味があります。神はイエスによって私たちを滅びから救いだし、永遠の命を与え、平和を実現しようとしておられるのです。

 ルカによる福音書10章には、「善いサマリア人」の話と「マルタとマリア」の話が書かれています。イエスは「善いサマリア人」の話によって「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)の意味を、そして、「マルタとマリア」の話によって「あなたの神である主を愛しなさい」(申命6:5)の意味を解き明かされました。まず「善いサマリア人」の話は、追いはぎに襲われ瀕死となった人が隣人(祭司、レビ人)に見捨てられますが、思ってもみぬ人(サマリア人、イエス・キリスト)に、思ってもみぬ仕方で(熱心な介抱、十字架)助けられたことを述べています。イエスは律法学者に、この愛にならって隣人を助けるように教えています。「マルタとマリア」の話は、イエスの話を聞くことこそが、神である主を愛することだと教えているのです。

 私たちの「平和」の原点は、神の平和であるイエス・キリストの御言葉を聞くこと、そしてイエス・キリストが十字架によって示して下さった愛をもって、隣人を愛することです。私たちが平和を実現してゆく力は、イエス・キリストに対する信仰によって与えられます。戦後70年目の夏8月を迎えました。私たちの歩もうとする道が滅びの道ではなく、御言葉と御業に適う救いの道、平和の道でありますようにと願います。

「恵みと平和があなたがたとあるように」深見祥弘 牧師

August 9,2015

<今週の聖句>

恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。             (テサロニケの信徒への手紙第一1章1~2節)

「恵みと平和が、あなたがたにあるように」   深見祥弘

 6月に行われたNHK世論調査によると、20歳以上千人余りの人々に質問したところ、広島・長崎に原爆が投下された年月日を正確に答えることができた人は、30パ-セントでありました。私たちの国の平和の原点が、被爆体験に始まることを覚え、改めて平和にいたる道筋を整えなおす必要を感じました。

 今朝の御言葉は、テサロニケの信徒への手紙第一1章です。パウロたちは第二回宣教旅行において、テサロニケを訪れました。その働きによって信徒が与えられましたが、パウロたちは迫害を受けこの町を離れました。その後、パウロはテモテをこの町に派遣し、コリントでその報告を聞いて書いたのが、この手紙です。パウロたちが去った後、テサロニケの信徒たちは、労苦の中にも希望をもって働きをし、その結果、主の言葉がマケドニア州やアカイア州に広がりました。パウロたちは、祈りの度に、テサロニケの信徒たちを思い起こし、神が彼らを選び愛してくださっていることを感謝いたしました。

 パウロはこの手紙の冒頭で、「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と挨拶しています。「恵み」とはイエス・キリストの十字架と復活に始まる救いの業のこと、「平和」とはイエス・キリストの再臨による救いの業の完成のことです。パウロはこの手紙だけでなく、彼の書いた全ての手紙の冒頭に、この言葉を書いています。パウロは諸教会につらなる全ての信徒たちに、たゆまず救いの原点と到達点を覚えて祈ってほしいと願ったからです。

私たちも神の救いと平和の実現を望みつつ、「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と互いに祈り働きをしてまいりましょう。

「目標を目指してひたすら走る」北川博司副 牧師

August 16,2015

< 今週の聖句 >

●神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙3章14節)

         「目標を目指してひたすら走る」     北川 博司

●パウロは信仰生活を走ることに譬えています。それは「賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(14節)です。私たちはつい自分自身の信仰生活と人生の旅路とを重ね合わせ、信仰生活とは御言葉を学び、信仰者はどのようにあるべきかを考え、自分自身を向上させていくことだと考えます。しかし彼は、信仰生活において私たち人間が、目標に向かってただひたすら努力することを求めているのではありません。彼はまず「ひたすら走る」ことに注目し、その目標は神様が私たちを「上へ召して、お与えになる賞」だと語ります。そしてこの「賞」とは聖書が語る救いの完成、すなわち、キリストの苦しみや「その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達」すること(10~11節)によって得られるものだとして、彼は自分はまだその目標に到達していないからこそ、ただひたすら走らなければならない。つまり、神様の救いにおける不完全さを強調するのです。

●私たち人間は自分自身の目標を掲げ、努力し、それによって目標が達成される時、一旦走ることを止め、自分がやり遂げた自己満足と達成感とに浸ることがあります。そして、自らが獲得したことに救いの確信を得て、自らの確かさを誇り、人間同士の争いが生まれるのです。まさに人々が主イエスを十字架に付けたのは、イエスが神様を冒涜したという理由でした。つまり、自分たちが神様の救いを完全に得ているという人間の傲慢さが、主イエスを十字架に付けたのです。私たちが「なすべきことはただ一つ」(13節)です。それは、信仰生活において大切なことは、立ち止まらないで走ること。すなわち、主イエスの十字架と復活の力によって不完全な者が罪を赦され、キリストによって与えられる救いの完成を求め、生きる者とされることなのです

「わたしたちは主のものです」深見祥弘 牧師

August 23,2015

<今週の聖句>

キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。          (ロ-マの信徒への手紙14章9節)

「わたしたちは主のものです」      深見祥弘

キリストは、死と復活を経験されましたが、それはあなたを値なしに愛するためでした。それゆえに自らの義を求めず、キリストにすべてを委ねなさい。あなたはキリストに委ねることによって、真の喜びと自由を得ることができます。これが、ロ-マの信徒への手紙の中心メッセ-ジです。

御言葉は、ロ-マの信徒への手紙14章です。ロ-マに教会ができたのは40年代ですが、設立者はわかりません。ロ-マ教会の信徒は異邦人が中心でしたが、少数のユダヤ人もおりました。パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1)と手紙に書いています。この頃、教会では、「偶像に供えられた肉の問題」と「ユダヤの伝統的記念日の問題」をめぐって、異邦人信徒とユダヤ人信徒が、互いに軽蔑したり裁いたりしていました。偶像に供えられた肉を食べる人も食べない人も、特定の日を重んじる人もそうでない人も、信徒たちは「主のために」それをなし、神に感謝しているのです。ですからパウロは、多数を占める異邦人信徒に対し、律法的な考えを脱しきれないユダヤ人信徒を受け入れてほしいと願ったのでした。キリストは、ユダヤ人と異邦人、生者と死者の別なくその罪を問わず、彼らを愛するがゆえに、十字架に死に復活されました。それは、キリストがこうした人々の主となられるためでした。キリストが罪を問うことをせず、愛し、主のものとされた人(主の召し使い)を、誰が軽蔑したり裁いたりすることができるでしょうか。

 パウロは56年頃、近い将来、ロ-マの信徒と会うことを期待しつつ、コリントでこの手紙を書きました。皇帝に上訴しロ-マにきたパウロは、互いに愛し合う信徒たちと共に、神に感謝をささげることができたことでしょう。

「イエス・キリストへの思い」 仁村真司 牧師

August 30,2015

< 今 週 の 聖 句 >

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

                (ルカによる福音書7章37~38節)

「 イエス・キリストへの思い 」      仁村 真司

 一人の女性が食事の席についているイエスに香油を塗る話は全ての福音書に記されています。マルコ(14:3~9)とマタイ(26:6~13)ではベタニアで「一人の女が」、「香油をイエスの頭に注ぎかけた」となっています。

 ヨハネ(12:1~8)ではベタニアのマリア(マルタの姉妹)が香油をイエスの「足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」となっていて、足に香油を塗り髪でぬぐうのはルカの「罪深い女」と同じですが、香油を塗るのは、マルコ・マタイと同様に、イエスの死の準備のためとされていて、「罪深い女」が、イエスの足を涙でぬらし、髪でぬぐい、接吻して香油を塗ることによって、この女性の多くの罪が赦されたことが示されている、とするルカとは「イエスに香油を塗る」という行為の意味合いが全く違っています。

 女性がイエスに香油を塗ったことについて、このように福音書によって受け止め方が違っているのは、イエスの頭ではなく足に香油を塗り、髪でぬぐった、というのが元々伝わっていた話だったからではないかと思います。

 「メシア」は「油注がれた者」という意味ですから、「イエスはメシア」と信じる人たちが、イエスの足に香油を塗り、髪でぬぐうことの意味が分からなくて「頭に注いだのだろう」と思うことはあっても逆はないと思います。

 今朝は、およそ二千年前にイエスの足に香油を塗り、髪でぬぐうことによって現された一人の女性の思いに触れて、現代の私たち一人一人のイエス・キリストへの思いを顧み、深めて行ければ・・・・と思っています。

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