「わたしの心であるオネシモ」 深見祥弘牧師

October 4, 2015

<今週の聖句>

 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者になっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。       (フィレモンへの手紙11、12節)

「わたしの心であるオネシモ」      深見祥弘

 矢内原忠雄は、この手紙を「野道に咲いた一茎のすみれのように、小さく、美しく、イエスの福音の愛のかおり高い花である。」と評しました。

獄にいたパウロは、コロサイの町の信徒フィレモンにこの手紙を書きました。それは、フィレモンのところから逃げ出した奴隷のオネシモが、不思議な導きでパウロの所に来て、身の回りの世話をするようになったことを知らせるためでした。さらにパウロは、一旦オネシモをフィレモンのところに帰すので、彼を赦し、同信の兄弟として迎え、再び送り出してほしいと願っています。パウロは、オネシモの同行者テキコにこの手紙を持たせました。

パウロ、フィレモン、オネシモの関係とその変化に注目しましょう。

①パウロはフィレモンを信仰に導きました。しかし、パウロは子弟関係にあるフィレモンに命令するのではなく、自ら身を低くしてオネシモを赦してほしいと願いました。②パウロはロ-マの市民権を持つ者で、オネシモは逃亡奴隷です。しかし、パウロは回心したオネシモを、「監禁中にもうけたわたしの子」「わたしの心」と呼びました。オネシモとは「役に立つ者」との意味です。③フィレモンとオネシモは、主人と奴隷の関係です。しかしパウロの執り成しによって、二人はキリストによる兄弟の関係を結ぶことができました。

パウロ、フィレモン、オネシモの関係は、キリストと父なる神、そして私たちにたとえることができます。パウロは執り成すキリスト、フィレモンはキリストの願いを聞く父なる神、オネシモはキリストの執り成しにより罪赦された私たちです。キリストが「わたしの心である○○」と私の名を呼び、神や人々との関係を新たにしてくださることは、大きな喜びです。

 

「神の国はあなたがたの間にある」 深見祥弘牧師

October 11, 2015

<今週の聖句>

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

(ルカによる福音書17章20~21節)

「神の国はあなたがたの間にある」     深見祥弘

 夏に、和歌山県広川町にある「稲むらの火の館(濱口梧陵記念館・津波防災教育センタ-)」の見学をいたしました。この施設は、1854年安政南海地震津波に際して、濱口梧陵が稲むらに火を放ち、暗闇にいた村人を高台に導いた出来事を記念し、防災教育のために設けられました。私が訪れた日も、小学校の先生方が多く来館しておられました。近い将来、必ず起こるとされる「南海地震」「東南海地震」ですが、その時や場所を予知することはできません。だからこそ、日ごろからの心備えと防災教育が大切なのです。

 イエスは、エルサレムへの旅の途中、弟子たちやファリサイ派の人々に神の国の到来について教えられ、こう言われました。将来必ず、神の国(審判の時)がやってきます。その時は、一瞬の稲妻のようで、人々が何の備えもなく滅ぼされたノアの洪水のように、また火と硫黄によるソドムの滅びの時のように到来します。しかし、たとえあなた方の信仰が、からし種一粒(17:6)ほどであっても、その信仰によって私につながっているならば、すでに神の国はあなたがたの間にあります。なぜならば、私にこそ神の国の救いと命が秘められているからです。

ファリサイ派は、イエスがそばにいても神の国とは関係ないと考えていましたし、弟子たちは、イエスがこれから神の国を実現すると考えていました。しかし、イエスは神の国はすでにあなたがたの間にあると言われます。目の前の私を信じるならば、将来到来する神の国の備えをすることができるし、困難の多い今この時も、神の国の平安を得ることができると教えられたのです。イエスは信仰をもって、今を幸いな時として生きよと勧めておられます

「主はすぐ近くにおられます」    北川 博司副牧師

October 18, 2015

< 今週の聖句 >

●主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

(フィリピの信徒への手紙4章4~5節)

「主はすぐ近くにおられます」         北川 博司

●フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがフィリピの教会に宛てて送った3通の手紙が編集されてできたものであるとされています。1章1節から3章1節前半までが最初の手紙、そして続く3章1節後半から4章1節までが2通目の手紙です。そして4章2~7節が最初の手紙の結びの部分、そして続く8節~9節までが2通目の手紙の結びの部分です。そしてその後に教会への感謝を語っている3通目の手紙が続いています。この1通目と2通目の手紙の結びの部分に共通する言葉は「平和」と言う言葉であり、この言葉は「平安」とも訳すことができます。彼が語る福音は抽象的なものではなく、具体的なものです。彼は主イエスの福音が、私たちの生活のなかで具体的に生かされていく時、「人知を超える」(7節)平安が与えられると語るのです。

●私たちの生きる現実は平安とはほど遠いものです。私たちはそれぞれに自分の将来に対して漠然とした不安を抱き、様々な人間関係に思い煩っています。彼は「主において同じ思いを抱きなさい」(2節)と語ります。この同じ思いとは、日常の生活の場で起こり得る対立のなかで、キリストに倣い、へりくだり、相手を受け入れることです。信仰者は皆戦友です。罪の力は私たち人間に自らの誇りを持たせ、自らの思いによってのみ生きさせようとします。そこで彼は私たちに共に「主において常に喜び…広い心がすべての人に知られるように」(4~5節)と続けます。この喜びや広い心とは私たち人間の自らの努力によって達成されるものではありません。救いの完成は常にキリストの下から与えられます。私たちは「主はすぐ近くにおられ」(5節)ることを信じ、感謝と祈りのうちに救いの完成を待ち望む信仰に生きるのです。

「主の創造の神秘」  深見祥弘牧師

October 25, 2015

<今週の聖句>

初めに、神は天地を創造された。       (創世記1章1節)

「主の創造の神秘」        深見祥弘

 私たちは、この礼拝で讃美歌426番「私たちを生かす」を賛美しました。これは、私たちの悔い改めを歌っています。私たち人間が、神の造られた世界を、神と他の被造物から奪い取り、浪費し、調和を破壊してきたことに対して罪のゆるしを求めています。また、未来の子どもたちを覚え、いつまでも共に住む道を示してくださいと願っているのです。

 聖書の最初の書物、創世記は冒頭で「初めに、神は天地を創造された。」と宣言します。この宣言は「神」と「神の霊」と「言」が天地創造のために働かれたことと、被造物の存在の根拠が神にあることを伝えています。神は光から始めて、天地のすべてのものを造り、最後に、御自分にかたどって人(男と女)をお造りになられました。また神は太陽と星に昼と夜を治めさせ、人にはすべての生き物を委ねられました。こうして神は、お造りになられたすべてのものを御覧になられ、それが極めて良かったので満足されました。

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26)、ここで聖書は神を「我々」と書いていますが、この複数形は、神に対する尊敬をあらわしているということです。でも私は、「主なる神」と「聖霊」と「言なるキリスト」、この三つにして一つである神の交わりをあらわす言葉として読みました。さらに「我々にかたどり、我々に似せて」とは、人が神との交わりのできる存在として造られたということをあらわしています。しかし、この後、人は自分を神とする罪を得ることで、神との交わりを失ってしまいました。

 主なる神はこの交わりの回復のため、言であるキリストを人々のところに遣わし(ヨハネ1:14)、聖霊によって「教会」を造り、第二の創造をはじめられました。神は人との交わりを教会において回復し、私たちを祝福して御業の一端を委ね、御国の実現を成し遂げてくださるのです。 

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