「至上の愛」深見祥弘牧師

November 1, 2015

<今週の聖句>

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、

あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

(ヨハネによる福音書13章14節)

「至上の愛」           深見祥弘

 本日は、聖徒の日・永眠者記念日です。私たちは、昨年の記念礼拝から本日までに、8名の兄姉を主の御元にお送りいたしました。この時は、8名の兄姉を含む、天上の兄姉493名を記念して礼拝をささげます。

 御言葉はヨハネによる福音書13章、イエスの洗足の出来事が書かれています。イエスは十字架の死を前にして、弟子たちと過越の食事をするために、ある家の二階広間におられました。食事の前にイエスは、上着を脱ぎ、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、彼らを愛し抜かれました。ところがペトロはそれを拒んだのです。イエスが「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われると、彼は「主よ、足だけでなく手も頭も」と願いました。イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」と答えられ、食事の席で、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と教えられました。この「既に体を洗った者」とは、洗礼を受けた者のこと、「互いに足を洗い合う」とは、「聖餐」と「奉仕」を行うことです。洗礼を受けた者も、誘惑などにより汚れますが、聖餐にあずかり、奉仕することによって清くされるのです。

時を経てイエスの至上の愛(洗礼・聖餐・奉仕)は、私たちの家族にも及び、まず洗礼によって清くされました。また私たちの家族は、洗礼後の汚れも教会で行われる「聖餐」と「互いの奉仕」によって日々清められ、天に召されました。今、493名の聖徒たちは、天の国の食卓に着いておられます。そして天上の御家族は、この場に集まった私たちもイエスの至上の愛(洗礼・聖餐・奉仕)を受けることができるようにと、導きを祈っておられます。

「かけがえのないあなた」 深見祥弘牧師

November 8, 2015

<今週の聖句>

はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。  (マタイによる福音書18章13節)

「かけがえのないあなた」       深見祥弘

 今日は、私たちの教会の収穫感謝日礼拝で、子供たちと一緒に礼拝をいたします。ここに、田んぼのお米、畑のお芋、山の果物、海の海苔などを持ってきました。私たちは、収穫のために、寒い冬も暑い夏も世話をした人たちのことや、光や雨を与えてくださった神さまのことを忘れてはなりません。ここに並べた収穫物は、味も形も違いますが、私たちに命と喜びを与えてくれるかけがえのないものです。このあと、豚汁とおにぎりをいただきます。

 イエスは、カファルナウムの町で、弟子たちに「これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と教えられました。「小さい者」とは、18章1~5節に書かれているように「子供たち」のことです。さらにイエスは弟子たちに「迷い出た羊」のたとえを話されました。ある人が百匹の羊を持っていましたが、そのうちの一匹が迷い出たので、九十九匹を山に残して探しに行きました。そして、迷い出た羊が見つかった時、心から喜びました。この譬えの「ある人・羊飼い」とはイエスのことです。「九十九匹の羊」とは大人たちのことであり、「迷い出た一匹の羊」とは子供たちのことです。

イエスの時代、律法を守ることのできない子供たちは、まだ救いの約束をいただけない者として軽んじられていました。しかしイエスは、子供たち一人一人をかけがえのないものとし、神が子供たちの救いを願っておられることを教えられました。12節には「九十九匹を山に残しておいて」と書かれています。この「山」とは神の力が働く聖なる場所・教会のことです。イエスは、大人たちを放り出して探しにいったのではなく、聖なる場である教会に彼らを委ね、子供たちを探しにゆかれたのです。私たちもまた、子供たちを教会に招き、「かけがえのない」存在として仕え、奉仕いたしましょう。

「いついかなる場合にも対処する秘訣」      北川 博司副牧師

November 15, 2015

< 今週の聖句 >

●貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 (フィリピの信徒への手紙4章12節)

「いついかなる場合にも対処する秘訣」      北川 博司

●私たち人間は、物質的な豊かさを得ることを強く求めながら生きています。それは私たちが基本的に不確かさの中に置かれており、自分自身の人生や生命が脅かされることを、常に恐れながら歩んでいるからです。それがゆえに、豊かさは目に見える形で自らを支える1つの徴となります。そして、人間が自分を支えているものとして、富に執着し、縛られているからこそ、贈物や援助を受け取る時に、相手に借りを作ってしまうような気持ちになってしまうのです。それは、人から援助してもらうことが、そのことによって自分がその人に依存していることを意味するからです。援助とは、自らが人の力に依存しなくては、生きていけないということを示されることでもあり、そのような中で依存関係や上下関係が生まれてきます。パウロはそのような関係性にあって、自らが富に対する執着から自由であるということを語るのです。

●「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(11節)。彼が語る「秘訣」(12節)とは、どのような時にも「満足」することです。そしてこの満足とは物質的な豊かさによって満ち足りることではありません。それは、他に依存せずに自分の力だけでしっかりと立つ力を得ているということではなく、本当に人生の支えとなるものによって根本的に支えられているということです。つまり、その満足とは、神様の救いに与り、その救いを得るために福音に生かされているという結果によって与えられる満足です。私たちは置かれた状況がいかなるものであったとしても、ただ神様との関係の中に生きていきます。私たちの信仰とはキリストによって満たされている、自分の生命が支えられているという福音を告げ知らされていくことなのです。

『最も大切なもの』  芦屋浜教会 塚本潤一牧師

November 22, 2015

<今週の聖句>

「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙13章13節)

         『最も大切なもの』  芦屋浜教会 塚本潤一

 私たちは力と富を求めます。弱さよりも強さ、貧しさよりも豊かさを求めます。旧約聖書の歴史もそうでした。力と富とを求め、ダビデ、ソロモンという二人の偉大な王を得ます。ダビデは最強の軍事力を背景に「力」を発揮しました。ソロモンは貿易に精を出し「富」を得ました。彼らは最も広い領土と史上最高の繁栄を誇ったのです。 しかし、そのような時代はあっという間に過ぎ去ります。強く豊かになった国を、外敵はねらい、後継者争いも起こりました。ソロモンの死後、彼の部下がクーデターを起こし、国の8割を横取りします。二つに割れてしまった国は、大国によって滅ぼされました。力と富を誇った時代は、たった80年弱で崩れ去ったのです。 国が滅んだ時、人々は深い反省のうちに問いました。「何が悪かったのか」「求めるものが違っていたのではないか」と。そのような人々を神さまは許し、「救い主を送る」という約束を与えてくださいました。  人々は何百年も救い主を待ち望みました。イエスさまが来られた時、人々は彼にダビデやソロモンのイメージを重ねようとしました。しかし、イエスさまは全く別の「価値」をもたらされました。それは「愛」という、力と富とは対極にある価値でした。 人々は自分たちの求めていたイメージと違うので、イエスさまを十字架へとつけました。しかし十字架上のイエスさまはその人々に「赦し」を与え、「愛」を示されました。パウロはこの「愛」こそ、最も大切なものだと語るのです。

 フランスの同時多発テロ以降、再び「復讐の連鎖」が激化してきました。力は力しか生まず、復讐は憎しみしか生み出しません。このような時代の中にあってこそ、私たちは「最も大切なもの」に目を向け、神さまの価値観の中で生きるべきではないでしょうか。

「レプタ二つと神殿」 仁村 真司教師

November 29,2015

<今週の聖句>

イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコによる福音書13章2節)

        『レプタ二つと神殿』    仁村真司

 「予言」と言われることがあるのは、イエスの言葉通りの事が実際に起こったからです。イエスがこの世の歩みを終えておよそ40年後の紀元70年にユダヤ戦争の結果、エルサレムの神殿は「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」程に破壊されました。これは「預言」ではなく、70年に破壊されることを知っているキリスト教徒が後からイエスの予言の言葉として書きこんだ、という説もありますが、マルコ福音書全体を見ていくと、「マルコ」はイエスの奇跡行為をたくさん記していますが、それでイエスの偉大さを強調しようという気は全くと言っていい程ないですし、その他いろいろな点からもこのような説には無理があると思います。

 同じような理由で「マルコ」はこのイエスの言葉を「預言」として記しているのでもないだろうと思います。

 今日からアドベントです。およそ2千年前にこの世に生まれ、貧しさを生きたイエスが、レプタ二つを献げるやもめを見て、弟子たちに「誰よりもたくさん入れた。・・・乏しい中から自分の持っている物すべて、生活費を全部入れたからである」と言い、神殿を見て「なんとすばらしい石・・・」と感嘆する弟子に「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言っています。これらの言葉でイエスが示していることを受け入れて、クリスマス、イエス・キリストを迎える備えをしていきたいと思っています。

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