「主を求める旅をはじめよう」 深見祥弘牧師

January 3,2016

<今週の聖句>

イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。     (ルカによる福音書2章44~45節)

「主を求める旅をはじめよう」      深見祥弘

 明けましておめでとうございます。私たちは御子イエス御降誕の恵みの中、新年の歩みをはじめました。この一年、私たちは時として、主の姿を見失うことがあるかもしれません。しかし、そうしたことも学びの時であり、私たちの信仰を成長させてくださる時であることを覚えたいと思います。

  今朝の御言葉は、ルカによる福音書2章41節~52節です。イエスは12歳の正月(過越しの祭り)に、両親と一緒にエルサレムに宮もうでをしました。ユダヤの成人は13歳で、成人になると律法に従う生活を始めます。この年、ヨセフとマリアは宮もうでの慣習を教えるために、イエスを都に連れていきました。祭りが終わり帰路についた時、両親はイエスがまだエルサレムに残っていることに気づかず、一日分の道を行きました。二人はイエスのいないことに気づき、巡礼団の間を捜した末、ついには都に戻ってきました。それから三日後、両親は神殿の境内で、イエスが学者たちの話を聞いたり質問したりしているのを見つけました。マリアが「お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と言うと、イエスは「わたしが自分の父の家にいるのを、しらなかったのですか。」と答えました。マリアはこの時、これらの出来事が示している本当の意味を知らずにいたのですが、イエスをめぐるすべてのことを心に納め生活しました。

 御言葉は、私たちが少年イエスと一緒に成長できることを伝えています。そのために私たちは、イエスによって神に近づき(礼拝)、黙想し(祈り)、仕える(奉仕)のです。そうすることによって、私たちは霊的に成長へと導かれ、神と人に愛される者、神と人を愛する者となることができるのです。

「若者にすぎないと言ってはならない」   深見祥弘牧師

January 10,2016

<今週の聖句>

若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す。   (エレミヤ1章7~8節)

「若者にすぎないと言ってはならない」    深見祥弘

 明日は成人の日、121万人が新成人となります。1994年の207万人以降、減少に転じ、今年は昨年より5万人少なくなりました。そうした中、今年から選挙年齢が18歳に引き下げられます。若者の声が社会に生かされ、この社会の閉塞状況が打破されることを期待いたします。

 エレミヤは、アナトトの町の、祭司の家に生まれました。BC627年、彼は主の召命を受け、南王国ユダで預言者として働きをはじめます。彼が20歳の頃でありました。エレミヤはそれ以後、ヨシア王の宗教改革(BC622)からバビロンによるユダの滅亡(BC586)までの激動の時代を、孤独や迫害を経験しながら、預言者としての務めを果たしました。主がエレミヤを預言者としたのは、彼の人間的な能力や経験によるものではありません。主はエレミヤが生まれる前から、彼を預言者として立てることを決めておられました。また、彼が民に預言することも、すべて主が命じることを語ればよいと教えられました。さらに主は彼に、「ア-モンドの枝」と「煮えたぎる鍋」の幻を見せました。「ア-モンド」は、「見張り」を怠らない主とイスラエルの復活(枯れたように見える枝に春一番花が咲く)をあらわすものです。「煮えたぎる鍋」は、来るべき日のバビロンによるユダの裁きを象徴しています。ユダの民の「悪」とは、主を捨て他の神々を礼拝していることでした。主はエレミヤを「わたしがあなたと共にいる・・(敵が)あなたに勝つことはない」と保証しはげまし、その使命を果たさせました。

「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」、この御言葉通り、私たちは若者のような働き(主の預言者の働き)をなすことができるのです。

「時が迫っているからである」    北川 博司副牧師

January 17,2016

< 今週の聖句 >

●この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

 (ヨハネの黙示録1章3節)

「時が迫っているからである」         北川 博司

●ヨハネの黙示録は、教会という共同体の礼拝の中で朗読者によって読み上げられ、説き明かされていく手紙の形式をとっています。また、内容的には預言書とよく似た書き方がされています。記者は「僕ヨハネ」(1節)であり、「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(9節)と記しています。この預言書が記された時代はローマ皇帝からの迫害の時代であり、その中心は皇帝崇拝の強要、「皇帝が主である」ということでした。これは「イエスが主である」と告白することと真っ向から対立します。そのような時代にあって、キリスト者はどのような反応をしたのでしょうか。易々と妥協する者、絶望的になった人もいたことでしょう。また、曖昧な者、敢然と戦う者、「イエス・キリストが主である」と告白することによって、逮捕され、拷問を受け、殉教することがあった時代です。そしてこのことは、遠い昔のことではなく、現代においても基本的に同じ状況にあるのです。

●黙示録は「イエス・キリストの黙示」(1節)であり、イエス・キリストからの黙示、イエス・キリストがその啓示の内容です。そして、「この預言の礼拝の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである」(3節)と記しています。この「幸いである」という言葉は、主イエスが山上の説教で語られた「幸い」という言葉と同じであり、祝福の宣言であり、主イエス・キリストの到来とともに神の国が来たという幸いの事実の上に立ち、確かな福音の内容を言い表している言葉です。私たちは「時が迫っているからである」(3節)と告白する黙示録の終末的な切迫感をしっかりと受け止め、心の眼を開き、救いの完成を目指し歩んでいくのです。

「 命のパン 」    鈴木 貴博牧師(安土教会)

January 24,2016

< 今 週 の 聖 句 >

 わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。   (ヨハネ 6:35)

            「 命のパン 」        鈴木 貴博

 五千人の供食の奇跡を体験した群集は尚も、イエスについて来ました。

しかし彼らはその奇跡のしるしによってもまだイエスを信じていません。彼らが従ったのは、満腹になったからでした。つまり、イエスと一緒にいれば何か良い事があり、彼が都合の良い人間だからと従ったのです。

 そんな彼らに向かってイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい」と言いました。それを聞いた群集は永遠の命に至る食べ物のために、何をしたらよいか尋ねます。イエスはご自身を信じるように求めました。すると群集は、信じる為のしるしを見せるよう、イエスに求めるのです。彼らはかって出エジプトの時の荒れ野の旅を思い出し、その時のモーセのように天からパンを降らせてみよとイエスに要求しました。しかしイエスはモーセがパンを与えたのではなく、神が与えたのだと言います。そして群集がそのパンをいつも下さいとイエスに頼むと、イエスは、ご自身が命のパンそのものだと宣言するのです。

 イエスを命のパンとして信じる事は、我々が主の新しい創造に入り、神の似姿を取り戻すことです。つまり、神の呼びかけに対して、応答できる人格を取り戻すことです。群衆はイエスと人格的交わりに決して入る事はなく、要求するだけです。そこにはイエスを信じるという応答がありません。それは先の見えない不安が、彼らとイエスとの交わりを無にしたのです。しかし一時の満足が与えられたとしても、人間の不安は消える事はありません。イエスはそんな私たちを救う為に、この世に来られたのです。

 日々不安に生きる私たちにとって、イエスこそは、朽ちる事のない命のパンです。イエスのみ言葉によって私たちは生かされ、明日を生きる希望を与えられるのです。

「荒れ野の四十日間の後」   仁村 真司教師

January 31,2016

< 今 週 の 聖 句 >

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

(ルカによる福音書4章1-2節)

「荒れ野の四十日間の後」      仁村 真司

イエスは、悪魔から「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ」から始まる三つの誘惑を受けますが、これは荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けていた時のことではなくて、そのすぐ後のことです。

「“霊”によって引き回された」は、直訳すると「荒れ野の中を霊において導かれた」となります。その前に「イエスは聖霊に満ちて」とありますから、聖霊に満ちた状態のままで荒れ野の中を導かれていたということです。

聖霊に満たされ、導かれ、四十日間の荒れ野での試練を終えた時のイエスは、疲れ果て、弱り切っているというよりも、むしろ心身共に充実していたと思います。そのようなイエスがパンやお金、権力などのこの世の利益に惑わされることはありません。悪魔もそのことに気づいていたと思います。

悪魔からの三つ目の誘惑は「神の子なら、ここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうだ」です。これには何の利益も伴っていません。飛び降りてもイエスには何の得もなくて、誘惑になっていないような気がしますが、ルカ福音書では、これが悪魔のイエスへの誘惑の最後の「切り札」になっています。

今朝は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という誘惑の意味、どうしてこれがイエスに対する誘惑になるのか、そしてこれらの誘惑をイエスが受けた意味、イエスが悪魔から遠ざかるのではなく、敢えて誘惑に晒された上で退けることによって、私たちに何が示され、何がもたらされているのか考えて行きます。

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