top of page
執筆者の写真hachimankyoukai

6月10日主日礼拝「祈りの道で振り向いて」



6月10日「祈りの道で振り向いて」(使徒言行録16章16-34節)

 「人間とは精神である。では、精神とは何か?精神とは自己である。では、自己とは何か?自己とは関係であるが、関係がそれ自身に関係する関係である。言い換えれば、自己は、関係がそれ自身に関係するという関係を、我が身に引き受けているのである。だから、自己とは、関係それ自体なのではなく、関係がそれ自身に関係することなのだ。」

 ゲシュタルト崩壊を引き起こしそうな「関係」の連呼ぶりですが、この有名な文をご存知でしょうか。そう、S.キェルケゴールの著した『死に至る病[1]』の冒頭文です。

 凡庸な法学部生だった僕はこの本を去年の7月に購入して……投げました。開始2秒でこの冒頭文につまづきました。僕のような人は、きっと“スーパーマリオブラザーズ”の最初のクリボーにやられたプレイヤーと同じ割合で存在するはずです。

 この文章を解読するには、もちろん「関係」とは何ぞや?という問題に立ち向かう必要があります。しかし、独習でこの本を読んでいこうとする人間にとって、この「関係」こそが最初の鬼門となるのです。

 今回の聖書箇所においては、様々な人間関係を見て取れます。例えば、占いをしている女奴隷と、それによって利益を得ている主人の関係(使徒言行録16章16節)。パウロやシラスを追い出そうと付きまとう悪霊と、付きまとわれる二人の関係(17節)。逮捕されたパウロ・シラスの二囚人と看守の関係(24節)。(深見先生は看守と囚人の関係を、吉村昭『破獄』になぞらえておられました。今度読んでみます)

 しかし、キェルケゴールの言う「関係」を、上に挙げたような人間同士のドメスティックな関係と捉えてしまうと、落とし穴にハマります。結論から言ってしまうと、キェルケゴールの言う「関係」とは、「神と人間との関係」です。これは、少し後の文章を覗いてみると分かってきます。

 「自己は、自分一人では平衡にも平安にもたどり着けない……、むしろ自己自身に関係するときに関係全体を措定した他者に関係することによってのみ、そうしたことが可能なのである[2]。」

 つまり、人間の力だけでは、どうやっても心の安寧や指針を保つことができない(自己を措定できない)と言っているのですね。では、どうやって永遠の平安にたどり着けるのか。それは、「関係全体を措定した他者」-つまり神-と人との隔絶した絶対的な関係を受け入れるということ、神という人間を超越した存在を受け入れ、人間の限界を知るということ、それは畢竟するところ、信仰によってということです。

 人間同士の関係というのは、極めて不安定なものです。たとえば、夫婦が離婚した場合、夫婦関係は当然解消されます。革命が起きれば、指導者は犯罪者へと転落します。会社が倒産すれば、経営者はたちまち多重債務者に陥るでしょう。私たちの社会における関係とは、時に解消されたり、あるいは倒立したりという可能性を常に孕んでいるのです。

 今回の聖書箇所では、パウロとシラス、そして看守の関係にそれが見られます。二人を見張っていた看守は、大地震が起きた際、そのどさくさで大勢の囚人を逃したと思いこみ、自害しようとしました。そして、それを諫めたパウロとシラスの前にひれ伏したのです。

「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)

  パウロとシラスは人間なので、彼を救うマジックを使うことはできません。だからこそ、自身を超越した存在、絶対的な神に頼るほかないのです。では、彼らは何と言ったのか。

 「主イエスを信じなさい」「イエス・キリストの御名によって命じる」

 上述のとおり、神と人間の間には絶対的な隔絶があります。その隔絶を受け入れられず、人間の絶対性に執着したり、自分自身であることから跳躍しようとするときに絶望という病に陥るというのが、『死に至る病』の大要です。しかし、その隔絶に気付くというのは、一神教における根本命題といえるほどの、いわば永遠の課題とされるものです。

 僕は、神と人間との直ちには認識しがたい「関係」を執り成してくれるのが、主イエスなのだと考えます。それはイエスが人々の罪を一身に受けて磔にされたときから息づく関係なのなのだと思います。だからこそ、それを理解したパウロとシラスは「イエス・キリストの御名によって」彼らを救ったのだと思うのです。

 今回の説教において印象的な部分がありました。女奴隷に付きまとわれていたパウロが彼女の方を振り向いたのは、「たまりかね」たからだったという点です(18節)。

 だから人間は至らないんだよ、というニヒルなことが言いたいのではありません。僕は、この箇所に、パウロの素の人間味を感じたのです。穏健なイメージを持たれがちなキリスト者にあって、この苛立ちという感情には一切の欺瞞がない。人間なんだしたまには苛立ってもいいじゃないの。その代わり、イエス様の愛があること、これは忘れちゃいかんよ。そんなことを教えられた気がします。

 聖人君子と呼ばれる人だって、人間である以上、マイナスの感情を持つことは避けられない。(というか、マイナスの感情無しにして人間への洞察は生まれない。)ある意味、そこは人間の限界の一つです。その限界を知ることは、神と人との絶対的な「関係」を受け入れる第一歩ですが、常にその関係を執り成してくれるのは、主イエスの愛に他なりません。信仰というのはきっと、その執り成しとしての主イエスの愛を信じるということなのでありましょう。

[1] 鈴木祐丞訳『死に至る病』(講談社学術文庫・2017年)26頁

[2] 注1 27-28頁


閲覧数:76回0件のコメント
bottom of page