ー知られざるヴォーリズ建築ー 地塩寮

 

まえがき

   2015.11.12 IT委員会・ホームページ作成担当

 ヴォーリズ建築としてあまり一般的に知られていない「地塩寮」という名の建築物をここに紹介させていただきます。(株)近江兄弟社の独身寮として建てられた地塩寮ですが、その詳細は記録としては残っていませんでした。しかしこの度、教会員でヴォーリズ建築に精通されている方が、個人的に調査され内容を記録として残そうとしておられます。そこで私たちホームページ作成担当は、ご無理を申し上げホームページに掲載させていただくことになりました。個人的貴重な資料をご本人の承諾の上、公開させていただきます。

地 塩 寮 の 記 録

20150901

   ①     記録にする主旨

   ②    建物の経過

   ③    建物の活用

   ④    寮に入居されていた方々

   ⑤    入寮者の思い出

   ⑥    地域への利活用

   ⑦    現在の地塩寮の活用     

         ⑧    写真の紹介

  

地 塩 寮 に つ い て  の 記 録

 

 

① 記録にする主旨

 地塩寮の創建当時の背景や、この寮での生活をされた方々の歴史や思い出がありますが、当時を知っておられる方は、ほとんど今はおられなくなり過去に消え去ろうとしています。

 株式会社 近江兄弟社の独身青年社員宿舎として建てられて、その名前は「地塩寮」と名付けられて、「あなた方は地の塩である」と云う聖書の御言葉より付けられました。

当時の写真や、文献で様子を知るものはほとんどありません。今、この時に、地塩寮にかつて入寮されていた方々の、お話を極少ですが、お聞きし書き留めることが大切だと思いました。

 

② 建物の経過

 

 1930年(昭和5年)頃に既に蒲生郡八幡町為心町に古い日本家屋の地塩寮が既にありましたが、 1940年(昭和15年)6月1日に日本家屋風として、ヴォーリズ建築事務所の西井一郎氏が設計を担当して新しく建てられました。

 1974年(昭和49年)12月24日株式会社近江兄弟社は、創立者ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が病に臥してから、業績や様々な社内の問題が浮上して、経営が困難になり、「会社整理法」の適用申請を出し倒産しました。財産の建築物の処分の一端として、民間の「あわ八」様に売却されました。

 当時、八幡福音教会の中村清義牧師、孝子夫人の親友であったイギリス人のミス・ユニース・クラークという宣教師が八幡に滞在中に生活をされていました。クラーク先生はその間、近江兄弟社中学校の英語の教師として約8年間活躍されていました。

その後1984年(昭和59年)近江兄弟社と関係の深かった、日本キリスト教団近江八幡教会が地塩寮を取得されました。その翌年に改築をされて現在の姿になりました。

 

 

③ 建物の活用

 お世話役

寮長は寮生の中の古参者が順次になりお世話をされました 

 

 食事

 地塩寮には食堂はなく、仲屋町上の旧西川邸が近江兄弟社の食堂として、使用されており、社員の山田さんと奥さんの山田もとさんが食事を作って下さり、寮生はそこで三度の食事をしていました。1ケ月の食費は1948年(昭和23年)当時¥1.500-で、毎月兄弟社の庶務課に支払っていました。その後は段々と値上がりしました。

 浴室

 地塩寮には浴室はなく、仲屋町上の近江兄弟社食堂で食事の後で、食堂のお風呂に入るか、又、町の銭湯に行きました。

 

 娯楽

 娯楽設備はなくて、みんなが1階のロビーに集まって、薪ストーブを囲んで、ギターを弾く人や、わいわい談笑をしたりしていました。又、ロビーにはストップ付の古いリードオルガンが1台あり、大原氏等がよく弾いておられ、皆が合唱していました。

 地塩寮の向かいの基督教青年会館(YMCA)の中には、卓球台があったので、よく卓球をして楽しんでいました。当時映画館は八幡公園近くに2つと、仲屋町に1つあり、西部劇等を誘い合って見に行っていました。。

 

④ 寮に入居されていた方々  (個人名は控えさせていただきます)

 

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⑤ 入寮者の思い出

 

 地塩寮は本来独身者寮として建てられたもので、最初は、1階は5部屋、2階

7部屋の12部屋があり、全て6畳の間であり押入れは幅の1間が二つに分かれて、中段付になっている2人部屋として造られていました。

 地塩寮の入寮者も時代の移り変りに増減がありました。入寮希望者の少ない時は、戦後一時期に満州から引き揚げて来られたご家族が住んでおられました。2階が独身者という時もありました。ご家族が寮を出て行かれると、独身者も1階に住みました。昭和29年頃より昭和35年頃にかけて、兄弟社学園の入学者が増えて、大学を出たばかりの若い先生の入寮者が一時的に多い時がありました。地塩寮の2階の南側の縁側のある5部屋は2人部屋となり、2階の北側の2部屋と1階の5部屋は縁側が無い為に1人部屋となっていました。

 また部屋が満室となった時があり、YMCAの総主事のご好意で、向かいのYMCA会館の2階の1室に机、ベッドを持ち込んで1年半ほど生活をされた方がおられました。

 食事は仲屋町上の旧西川邸の近江兄弟社食堂で寮生はそこで食事をしました。食事のメニューも時代の移り変わりにより食糧事情の良い時と、悪い時の差があったと言われています。

 食費は1ケ月¥1.500-で毎月株式会社の庶務課に支払っていました。浴室は寮にはなくて、仲屋町の食堂で、食事の後入っていました。しかし食堂では日が決まっていて、週に2~3回は町の銭湯に行きました。

 又、同志社の神学部を出て、近江八幡教会の伝道師として就任された、鎌田信伝道師が寮の人達を対象に、聖書研究会を毎週火曜日の夜開催されて、出席されていた方々がおられました。

1階の1番西端に寮母役の森野以志さんがおられた時があり、一緒にハイキングをしたり、桜を見に行ったりして楽しく過ごしました。

 

 

⑥ 地域への利活用

 

 戦時中は若い人が少なくなり、近江八幡の祭礼の左義長祭りの山車の担ぎ手 

として駆り出されたことがあったそうです。

 

 1955年頃寮にTVが設置されて、TVが世間に出始めた頃で珍しくて人気の画面はプロレスであり、近所の子供達や大人が外の窓下に、床几を持って来て、力道山が外国のレスラーと戦うのを楽しく見ていました。

 

⑦ 現在の地塩寮の活用

 

・近江八幡教会が取得してからは、1階ロビーは、教会の重要な会議、集会に使用されています。1階の5室の元寮室は、教会の各組織部の部屋として使用しております。2階は現在、教会牧師御家族の住居として用いられています。住む人の健康な生活を願い、各室は南側の庭に面し、太陽の光を充分に入れるヴォーリズ建築であります。昔入寮されていた方々はこの建物を懐かしく思っておられます。

 

 

⑧  写真の収録

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