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ヴォーリズ氏と近江八幡教会

近江八幡教会教会員 林一氏
ウイリアム・メレル・ヴォーリズの思い出を語る

 

林一氏  ―ヴォーリズを語る―

私は、大正14年に生まれ、太平洋戦争の始まる直前の1940年15歳の時に、(株)近江兄弟社に入社しました。私は入社後、「湖畔の声」という冊子で馴染みの「湖畔プレス」という伝道目的の出版局に配属されました。ヴォーリズさんは「すべての事業は伝道に結びつかなければ意味がない」という考えを持っておられました。ヴォーリズさん、家は社宅であり財産も持つことなく、給料は本当に食べる分だけで、少ないと知って驚いた事がありました。

私が入社後、ヴォーリズさんは日本国籍を取得されたものの、戦時中は日本国から誤解を招くことを危惧され、自ら軽井沢に移り、東大・京大・同志社の学生に英語を教えておられた。ヴォーリズさんは若い人が好きで、楽しんでおられたようです。そして兄弟社に迷惑が掛からないようにと、近江八幡には戻らず、給料も貰わず過ごされました。

私は、戦時中は2年間の徴用を受け半年の徴兵の後、終戦を迎えました。戦後、再び兄弟社に復職しました。

 近江八幡教会も、ヴォーリズ氏の事業、宣教活動に大きく支えられる事となりました。教会の牧師は、近江兄弟社から派遣され給料が支払われていました。社長から社員までが同じ教会員ということで教会の自立において弊害もあったようです。ヴォーリズ氏自身も「平信徒伝道」を理念とされ、教会に近江兄弟社の影響が色濃くなることを警戒されておられました。

 

◆エピソードⅠ

―ユーモアは信仰と親交のエッセンス―

1)戦後、ようやくアメリカとの国交が復活し、YMCA時代の後輩であるバルカム氏が尋ねてこられた時のことです。私は、ヴォーリズさんとバルカム氏のお供として軽井沢を案内しました。途中、高崎の駅でヴォーリズさんの好物であるうなぎをバルカム氏に勧められたのです。当然バルカム氏にとっては初めての体験でおっかなびっくりだったようです。その様子を見て、ヴォーリズさんは『これを食べずして帰るほど不幸なことはない』と大袈裟なことを言い、笑いながら英語でうなぎの説明をされました。バルカム氏は恐る恐る口にして「デリシャス、グッド」と言われ、大笑いとなりました。

2)私は、ヴォーリズさんと議論をしていてしまうような頑固な面もありました。「この頑固爺い」と小声で言うと、「何を言いましたか、この石頭」と、冗談でやり返される事もありました。狭い道に石があって、車が曲がりにくい時、「この私の石頭でも勝てないか」と残念がる事もありました。ヴォーリズさんは気の置けない人にはユーモラスな面を見せられました。何故か、私に対しても多くそう言いう一面を見せてくださいました。ヴォーリズさんは「イエス、ノウ」がはっきりした気質の者には、自分の平素の楽しい一面を自然と出されたように思います。

3)1957年夏、軽井沢に行かれるので駅まで見送りに行った時、駅長室で休息をされた。東京『行』の列車に乗るのだが、「この暑いのに、東京は『雪』らしい。」と冗談を言われても、駅長は分らないようだった。真面目な人はヴォーリズさんの話を真剣に聞いていると、冗談についていけないようだ。

4)朝、自宅から仕事に出る前、夫人が忙しくしている間、ヴォーリズさんはピアノを弾きながら待っておられたが、いつの間にか帽子とステッキを持って、挨拶もせずに気づかれないようにこっそりと家を出て行くようなお茶目なところがありました。

 

◆エピソードⅡ

―多彩な才能―

1)現在、教会において現役で活躍しているハルモニウムオルガンは、ヴォーリズ氏が当時好んで愛用されたオルガンです。ヴォーリズ氏の趣味の一つに音楽があり、3歳の頃からオルガンを習われていたそうです。

 教会では、近江兄弟社の男性が奏楽をし、その一人としてヴォーリズさんも奉仕をされていました。戦後、戦災孤児の施設(現近江学園)に慰問に行かれた時、私はそれに付き添いました。ヴォーリズさんが施設のオルガンを即興で弾かれると、それまで騒然としていた子供たちが静かにその音に聞き入りました。ヴォーリズさんの演奏の音には、何とも言えない不思議な美しさと優しさがありました。

2)ヴォーリズは書道も嗜まれました。正月二日には書き初めを書かれました。兄弟社の標語も書かれました。また、協力の「協」という字は素晴らしいと言って、よく書いておられました。

 

◆エピソードⅢ

―信仰における厳しさ―

ピューリタンの流れを汲むヴォーリズ氏の信仰は、禁酒禁煙を守り礼拝を重んじるものでした。仕事で出かけた時も原則、土曜日には帰ってくるようにして、どうしても帰れない時は、現地のいろいろな教会に行かれました。

事業において自らはトップに立たず、他者に責任あるポジションを任せ、他者を立てつつ能力を信頼し推し進めていきました。教会では、「万人祭司」「信仰義認」という教理に立ち一信徒として働かれました。

 1)この牧師館は、近江兄弟社の独身寮として建てられ、私も入寮していました。ここで忘れられないことがありました。ある日、教会では祈祷会が行われていました。しかし主日礼拝ほど厳しく言われない事を良いことに、寮の私たちは、暖炉を囲んでくつろいでいたのですが、どんどん薪をくべたために煙突の隙間から炎が飛び出し、ガラス窓を真っ赤に染めていたのです。それを見つけたヴォーリズさんは飛んできて「寮を燃やすつもりですか」と形相を変えお叱りになられました。恐らく火事そのものより私たちの人身を心配されたのでしょう。

2)私は、こんな面白い話を聞きました

ヴォーリズさんのお気に入りの仕立屋さんがいました。その人は酒が好きで少しお金があると酒に使ってしまう人でした。ヴォーリズさんはその事を何とかしたいと思っていました。しかしその人が、預かった生地を売った事で裁判沙汰になったので、ヴォーリズさんは特別弁護人として裁判に行かれました。普通なら助けるための弁護をするが、ヴォーリズさんは、「この人は人柄も良く腕も良いが、酒だけはどうにもならないので、酒を止めるためにもしばらく刑務所に入れて欲しい」と言われた。裁判官も「こんな弁護は初めてだ」と驚いたが、刑を言い渡した後「温情のある弁護だ」と仕立屋さんを諭したそうです。本当に愛情のある人で、目先だけの言葉を言わない人だと思います。

 

◆エピソードⅣ

―善きサマリア人なるヴォーリズ―

1)道で出会った人から、「兄弟社で設置してもらった公民館の薪ストーブが燃えない」という苦情を言われて、すぐに見に行くと、ストーブの煙突の取り付け方が悪かったためでした。すぐに処置をしてよく燃えるようになったそうです。

また、大阪大丸に立ち寄った時、タワーのタイルが空襲で欠けたと聞き、夕方で既に暗くなっていましたが、すぐに見に行かれようとしました。

人任せにせず自分の責任ですぐに対応するのがヴォーリズさんの仕事のやり方です。

2)ある日、ヴォーリズさんが肩の詰まったオーバーを着ていたので、どうしたのかと聞くと、いとこが形見に送ってくれた物だといわれます。「前に着ていたオーバーはどうしたのですか?」と聞くと、ある人が、家が火事で焼けて着る物がないというので自分のオーバーをあげたのだと言う。自分は合わないオーバーを着ていても平気な人で、あまり普段の服装は構わない人でした。

困った人を見かけると、人任せにできず直ちに行動を起こさないと気がすまないのがヴォーリズさんです。

 

◆エピソードⅤ

―助手席に乗せて―

アメリカ時代の親友バルカム氏が、日本に来る時に持って来たアメリカの大きな乗用車は気にいらなかったようです。ヴォーリズさんは乗り心地が悪くてもワゴンタイプの何にでも使える車を使われました。

建築現場や伝道のための訪問のため、車であちこち行きました。ヴォーリズさんは若い頃、東海道の松並木が良い景色なので見に行きたいとよく言われました。しかし以前に舞鶴に車で行った時、悪路の埃で目を傷めた事があって、とても無理だろうと思ったが、何時も東海道へ行きたいと楽しみにしておられました。

その後、1957年7月軽井沢で倒れられた。9月にお見舞いに軽井沢まで行ったが、もう誰が来たかも分らない状態でした。10月頃少し歩ける状態まで回復されたので近江八幡まで帰って来られました。列車の中から「病院が見える」と満喜子夫人が話しかけても、よく分からなかったようです。

 

 

 

 

 

 

 

現近江八幡教会牧師館(思い出深い旧地塩寮)で林一氏からお話を聞きました。

2013.7.22


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