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≪次月 7月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 7.27 聖霊降臨節第8主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」

(使徒言行録19章15節)

 

   「イエスを知る者」     深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」

(使徒言行録19章15節)

 

            「イエスを知る者」        深見祥弘

 7月6日(日)の礼拝で、パウロがコリントの教会の人々に対し、貧しい

エルサレム教会への献金を呼びかけ、施しにおいて豊かな者になってほしいと願ったことをお話ししました。パウロはコリントでの1年半の働きを終えると、コリント教会の信徒プリスキラとアキラと共に、エーゲ海を東に渡って、エフェソに行き、そこでもユダヤ教の会堂で伝道をいたしました。エフェソの人々は、パウロを歓迎し、しばらく滞在するようにと願いましたが、パウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」と言ってこの町を去り、船でエルサレムに向いました。その際、プリスキラとアキラ夫妻は、エフェソに残りました。そしてパウロは、エルサレム教会で伝道旅行の報告を行った後、彼を第二伝道旅行に派遣したアンティオキア教会に戻ったのでした。

 

 さてパウロがエフェソを離れた後、この町にアポロという雄弁家がやって来ました。彼は、エジプト・アレクサンドリア生まれのユダヤ人です。アレクサンドリアの公用語はギリシャ語で、この町で紀元前2世紀、旧約聖書のギリシャ語訳(70人訳聖書)がつくられました。アポロは旧約聖書の預言に基いて、イエスをメシアと信じていました。でも誰が、アポロに伝道をしたのかはわかりません。

 そのアポロがエフェソに来て、ユダヤ教の会堂で旧約聖書に預言されているメシアとは、イエスであると大胆に語りました。ところが彼はまだ、「聖霊のバプテスマ」を知りませんでした。会堂でアポロの話を聞いたプリスキラとアキラは、彼を自宅に招き、もっと正確にキリスト教の福音について説明をいたしました。またアポロがコリントでの伝道を望んでいることを知る夫妻は、コリント教会に紹介状を書いて彼に持たせました。後にパウロはこのアポロについて「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3:6)と書いています。この聖句から、アポロがコリントにおいて大きな働きをしたことがわかります。

 

  アポロがコリントに向けて出発した後のことです。パウロは第三伝道旅行でエフェソを訪れ、ここで12人ほどの信徒たちに出会いました。パウロが彼らと出会って気づいたことは、その信仰の不完全さでした。パウロが彼らに「信仰に入った時、聖霊を受けましたか」とたずねると、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません。」と答えました。パウロが「それなら、どんな洗礼を受けたのですか。」と尋ねると、彼らは「ヨハネの洗礼です」と言いました。

「ヨハネの洗礼」とは、イエスが来られる前にバプテスマのヨハネが行っていた洗礼のことで、それはメシア(イエス・キリスト)を迎えるための備え、悔い改めの洗礼でありました。先ほど、アポロの信仰が不完全なものであったとお話しましたが、エフェソの信徒たちもまた同様でありました。そしてアポロと同じく、この12人がどのようにしてキリスト教信仰を持つに至ったのかはわかりません。

 これを知ったパウロは12人の信者たちに、ヨハネが告げたメシアはすでにこの世においでになられたこと、そのメシアとはイエス・キリストのことであり、この御方の十字架と復活によって私たちの救いが完成されたこと、天に上げられたイエス・キリストが聖霊を送ってくださったことを告げました。合わせてパウロは、イエス・キリストの名によってなされる「聖霊のバプテスマ」について話し、洗礼をさずけました。すると聖霊が彼らに降り、その時から異言を語ったり、預言をしたりするようになりました。こうしてパウロは、ユダヤ教の会堂で3ケ月間、伝道をしました。しかし、パウロの教えを非難する者があらわれましたので、ティラノという人の講堂で教えをするようになり、それは2年間に及びました。その結果、エフェソの人々だけでなく、その周辺の町や村に住むユダヤ人もギリシャ人もすべての人々が主の言葉を聞くこととなりました。

 

 パウロの伝道は、言葉に限らず、彼の手を通して、病人を癒したり悪霊を追い出したりもいたしました。パウロが身に着けていた「手ぬぐい」や「前掛け」を病人にあてると、癒されました。

そうしたところ、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中に「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言って悪霊を追い出そうとする者が現れました。ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちです。でも彼らが悪霊に取りつかれている男にそのように言うと、男に取りついている悪霊が「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言ってスケワの息子たちに飛びかかり、ひどい目に遭わせ、家から追い出したのでした。

 こうしたことから、信仰を得ている大勢の人々は、改めてイエスの名の力を知り「自分たちの悪行をはっきり告白」いたしました。この人たちは、信仰を持ちながら、魔術や祈祷師と関わる生活をしていたのかもしれません。また魔術を行っていた多くの者が、魔術をする時使ってきた高価な書物を持ってきて、人々の前で焼き捨てました。このようにして、主の言葉がエフェソの町とアカイア州の町や村に広がっていったのでした。

 

 この礼拝の説教題は、「イエスを知る者」といたしました。これは19章15節、スケワの息子たちに対する悪霊の「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」からとりました。「悪霊」は、神から遠ざけて人を支配し、人に過ちや罪を犯させる霊のことです。対して「聖霊」は、イエスの死と復活によって与えられた最大の賜物で、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ5:5)との言葉のとおり、人と共にいて愛で満たし、その罪を清め、新しい命へと導く御方です。悪霊は、自分の敵対者であるイエスのことを良く知っていますし、イエスを信じ、その名によって病気を癒したり悪霊を追い出したりしているパウロのこともよく知っています。しかし悪霊は、パウロのまねをしてイエスの名を用いるが、イエスを知ることも信じることもなく、自分たちの利益や名声のために、それを行っている祈祷師のことは知らないと言います。

 「イエスはメシア(救い主)である」、このことをダマスコ途上で復活のイエスに出会って知ったパウロ、エフェソにおいてプリスキラとアキラ夫妻から知ったアポロ、パウロによってイエスの愛を知り、悪を告白した大勢の信徒たち、そしてパウロによってイエスの力を知り、高価な魔術の書物を焼き捨てた大勢の魔術師たち、この人々は皆、知って信じたのでした。

 私たちは、イエスが私の救い主、そして世界の救い主であることを知る者です。でも信者であっても、悪霊の誘いによって、信仰から離れてしまうこともあります。そうした時、イエスの名によって祈りを捧げるならば、聖霊によってイエスが救い主であることを知ることができます。そして私たちの悪や罪を悔い改めに導いてくださいますし、聖霊が罪を清めて、新たな者に生まれ変わらせてくださるのです。また主は、パウロと同様に私たちの手を通して目覚ましい奇跡を行ってくださいます。私たちがそれをするのではなく、それを行うのは主であります。これが「イエスを知る者」の確信です。 

2025. 7.20 聖霊降臨節第7主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

(ヨハネによる福音書6章26節)

 

「 しるしを見たからではなく・・・ 」   仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

(ヨハネによる福音書6章26節)

 

「 しるしを見たからではなく・・・ 」   仁村 真司

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」                      (27節)

ここでの「朽ちる食べ物」とは(今のような猛暑の折りには特に)すぐに腐って駄目になる食べ物ということではないです。(保存・備蓄が出来ても出来なくても)食べればなくなる当たり前の食べ物全般のことです。

なので「パンのためではなく・・・」と言い換えても(その方が“聖句らしい”気もします)問題ないのですが、殆ど同じ趣旨と思われるイエスの発言をマタイ福音書とルカ福音書が伝えています。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」    ((マタイ4章4節・ルカ4章4節)

よく知られた、荒れ野で誘惑する悪魔に対する発言ですが、「・・・と書いてある」というのは、旧約聖書を引用してこう言っているということです。

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

(申命記8章3節)

この申命記の一節は、今日の箇所からイエスの人々と関わる時の雰囲気と言うのか、人々へのまなざしと言うのか、そういったものの一端に触れる、感じ取ってゆく上での"道標"になるだろうと思います。

 1)

群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。(24節)

イエスを捜し求めて来たのは、1〜15節にある五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹したという奇跡(ヨハネ福音書の言葉遣いでは「しるし」)を体験した人々です。勿論五千人全てがそのまま押し寄せて来たのではないですが、では五千人の内のどういう人たちがやって来たのでしょう。

イエスはこの人たちに「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言っていますが、その心はこんなふうに受け取られていることが多いと思います。

・・・イエスは、この人たちを、満腹して奇跡(しるし)の上っ面だけで感激して、満足して、しるしによって示される深い意味を理解しようとしない、出来ない、愚かな人々と見なしている・・・。

そうすると、今日の箇所はそんな愚かな人々をイエスが「あなたがたは、食べたらなくなる食べ物を求めてやって来たに過ぎないが、わたしが与えようとしているのは永遠の命に至る食べ物である」(27節)と説諭した話ということになります。

ただ、このように考えた場合に、どうしても引っ掛かって、気になるのは、イエスの言葉の“意味”ではなく、言葉を語るイエスの“心”です。

イエスはパンを食べて満腹したから自分を捜し求めて来た人たちを愚かだとか、否定的には見ていなかったと私は思います。

 2)

ここで、はじめに見た申命記(8章3節)です。

主は・・・(中略)・・・マナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

食べ物がなくても神の言葉によって生きられる・食べ物よりも神の言葉・・・ということではなく、食べ物も神(のことば)によって与えられる。

「(だから)人は主の口から出るすべてのことばによって生きる(生きられる)」。それを知らせるためにマナが与えられたということです。

そして、今日の箇所では、主(神)の位置にいるのはイエスです。

「父である神が、人の子を認証されたからである。」   (27節)

五千人が満腹するしるし(1〜15節)と今日の箇所を合わせて見れば、申命記が示す「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」、この言葉に至る筋道をなぞるように、あるいはその具体例であるかのように物語が進展しているように思えます。

「イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させられた。食べたらな

くなる食べ物のためではなく、なくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物であることを知らせるためである」と要約しても良いのではないかと思います。

今日の箇所をこのように見れば、イエスが「満腹したからだ」と言った人々は、イエスが与えるのが永遠の命に至る食べ物であることを知らされるに至る所まで真っすぐにやって来た人々ということになります。そのような人たちをイエスが愚かだとか、否定的に思うことはないはずです。

この人たちの対極にあるのは、五千人が満腹するしるしの話の終わりに出てくる人たちです。

そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた。

(14~15節)

ここでイエスはしるしを見て信じた人々を明らかに避けています。ヨハネ福音書が伝えるイエスは一貫してしるしを見て信じることに否定的です。

3)

はじめに言ったように今日の箇所、27節の「朽ちる食べ物のためではなく・・・永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、これと荒れ野での悪魔に対する言葉「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」は、“意味”としては殆じだと思います。この他にも福音書には沢山のもっとよく似たイエスの言葉が出て来ます。全く同じものもありますが、語られている状況が違っている、語っている相手が違うということもよくあります。

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉生きる」は、よく人は食べ物だけではなく、乃至食べ物よりも、神の言葉によって生きると解されます。ですが、申命記に記されているように食べ物も神(の言葉に)よって与えられる、それが人は神の言葉によって生きるということの本来の“意味”です。では、「食べ物よりも」は間違いなのかというと必ずしもそうではないと私は思います。この解釈は悪魔と対峙しているという状況に結び付いています。人は困難や誘惑の中にある時、何が本当か、何を優先すべきか、間違えてしまいます。間違えないために、間違えてもそこから立ち返るために、必要なものは神により与えられるということと共に、まず神の言葉ということは大切だと思います。

つまり、全く同じイエスの言葉であっても、どんな状況で、どんな思いで語られたのか、相手のことをどう思って、どう見て、どんなふうに語ったのか、その他もろもろをどう考えるかによってもたらされるものが全く違うということも有り得る訳です。

「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とは、イエスを捜し求めていたのは、しるしを見てイエスを信じて、祭り上げようとしてではなく、おなかを一杯にしてもらって嬉しくて、素朴にお礼を言いたかったからということではないでしょうか。

そして、イエスはそんな人々に親しく永遠の命に至る食べ物について語った。その口調も、人々へのまなざしも穏やかで優しかったと思います。

2025. 7.13 聖霊降臨節第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

レビ族の人で、使徒たちからバルナバ ―「慰めの子」という意味― と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。       (使徒言行録4章36~37節)                  

 

   「主にあって分かち合う」     深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

レビ族の人で、使徒たちからバルナバ ―「慰めの子」という意味― と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。       (使徒言行録4章36~37節)                  

 

           「主にあって分かち合う」     深見祥弘

 今朝の御言葉は、使徒言行録4章32節~5章11節です。聖霊に満ちる教会は、バルナバに代表されるような人々、すなわち財産を売り教会に献げる人々によって支えられ、働きを強めていきました。しかし同時に教会は、アナニアとサフィラに代表されるような人々、すなわち偽って教会に献げものをする人々によって、信仰が問い直されることとなりました。初代教会は、このように聖霊の満たしと導きの中で、教会とは何か、信徒として生きるとはどのようなことなのかを問われることとなりました。

 

 初代教会の信仰生活については、使徒言行録2章44~47節に述べられています。その箇所を読んでみます。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆でそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われた人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 今朝の4章32~35節は、この2章44~47節の要約です。信じた人々は、持ち物を売り、その代金を献げ、すべてを共有にし、その結果、信者の中には、一人も貧しい人がいなかったこと、もう一つは、使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていたことです。

 

 信仰生活の模範例として紹介されているのは、バルナバです。「バルナバ」という名は、あだ名で「慰めの子」を意味します。彼の名前はヨセフと言い、ユダヤ人のレビ族でキプロス島に生まれました。彼が「バルナバ」と呼ばれるのには、次のような事からです。

まずバルナバは、回心をしたパウロ(サウロ)を使徒たちに紹介し、使徒たちからキリスト教信徒の迫害者であったパウロに対する警戒心を取り除こうとしました。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」(使徒9:26~28)

次にバルナバは、エルサレム教会になじめず逃げ出したパウロを捜しにタルソスに行き、彼をアンティオキア教会に紹介しました。(使徒11:25~26)  さらにバルナバは、パウロの伝道旅行に同行しました。アンティオキア教会において「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食をして祈り、二人の上に手を置いて出発させた。聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し」(使徒13:2~4)ました。こうしてバルナバは、郷里伝道へと導かれたのでした。  

 バルナバは、パウロや使徒たち、そして信者である人々に対して、慰めと励ましを与えます。教会には、聖霊に満たされパウロのように力強く宣教する人々と、聖霊に満たされバルナバのように信者たちを慰め励まし、支える人々がいたのです。そしてバルナバは、こうした働きに従事する前に、キプロス島の自分の畑を売り、その代金を教会に献げたのでした。

 

 バルナバが模範例だとすると、次に紹介するアナニアとサフィラは悪い例です。エルサレム教会に、アナニアとサフィラという夫婦の信徒がいました。この夫婦も教会に献げものをしようと、土地を売りました。2人は、土地を売った代金の一部を手元に残しましたが、これは土地を売った代金の全額ですと偽りを言って献げました。

先ほど初代教会では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆でそれを分け合った。」こと、そしてバルナバの献げ物についてお話をしました。しかしその献げ物は、各自の信仰にもとづく自発的な行為で、強制ではありませんでした。そもそも、信者が土地や財産を持つことを悪と考えていたわけでもありません。ですから、この夫婦は、土地を売って代金を全額献げることができましたし、代金の一部を献げることもできました。さらに土地を売るのがいやならば、売らなくてもよかったのです。

ここで問題になっているのは、アナニアとサフィラが申し合わせ、献げたお金について土地を売った代金の一部であるにもかかわらず、全額であると偽って献げたことでした。ペトロが「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5:3~4)と言うと、アナニアは倒れて息が絶えました。ペトロは、後から来たサフィラに対しても同様に問うと、「はい、その値段です」と答えたので、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。」(5:9)と言うと、彼女もまた倒れて息が絶えてしました。 ここで注目すべきことは、2人のショッキングな死に方でも、死を宣告したペトロの権威でもありません。それは、教会とそこに集う人々の中におられる聖霊についてです。教会に満ちている聖霊を、彼らが「試し・欺いた」ことです。

 

 ここではじめて「教会」(11節・エクレシア)という言葉が出てきます。「教会」は、ギリシャ語の「エクレシア」という言葉で、ヘブライ語の「カーハール」(イスラエルの民の集会)を由来とします。初代教会の信徒たちは、「エクレシア」という言葉を用いることで、自分たちこそ「真のイスラエル」であることを示し、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)と区別をいたしました。4章32節には「信じた人々の群れ」と書いていますが、5章11節では「教会」という言葉を用いています。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」教会とは、聖霊に満たされる「信じた人々の群れ」であり、信者とは聖霊に満たされ互いに分かち合う人々のことです。

 

 復活のイエスに出会い回心したパウロは、福音宣教に加えられることを願いました。バルナバの執り成しによって、使徒たちはパウロを受け入れましたが、心の一部では彼を遠ざけたい思いがあったのです。そうしたことからバルナバは使徒たちに対し、心も思いも一つにし、パウロと使命を分かち合うように勧めました。この時使徒たちは、アナニアとサフィラのように、パウロと宣教を共にし、分かち合うことを御前に示しながら、内心パウロと働きをすることを拒否する思いを持っていたのです。このことが聖霊の満ちている教会でなされたことで、ペトロは使徒たちに聖霊を試し欺いていると指摘したのでした。教会とは、聖霊が満ちている信じる人々の群れであり、信徒として生きるとは、聖霊に満たされ主イエスの復活を証し(宣教)するためにすべてを分かち合う人々のことなのです。

2025. 7.6 聖霊降臨節第5主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

                              (コリントの信徒への手紙第二8章9節)

 

   「豊かな者になりなさい」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

                              (コリントの信徒への手紙第二8章9節)

 

           「豊かな者になりなさい」     深見 祥弘

 私たちの教会は、「こころの友による文書応援伝道」(教団伝道委員会)に参加協力をしています。今年度は、「こころの友」紙を毎月、東北教区・福島県の教会に25部、それから東中国教区・岡山県の教会に10部、合わせて35部をお送りし、伝道のために用いていただいています。昨年度は、毎月6教会に合わせて100部をお送りしていましたが、私たちの教会の会計状態を考えるとともに、相互の交わりを大切にしたいとの思いから、今年度は2教会に35部お送りし、その教会の伝道に参与させていただくことといたしました。

 岡山県の教会は、牧師(他教会と兼務)と教会員1名の教会です。この教会員さんは94歳の兄弟で、毎月届く10部の「こころの友」紙を知人に届けるなどして伝道に用いてくださっています。兄弟は、6月はじめに転んでおけがをされました。ご回復をお祈りいたします。この教会は、牧師が兼務している別の教会と協力し、毎日曜日と第三金曜日に合同礼拝を行っておられます。先日、感謝の手紙と写真をお送りくださいました。

 福島県の教会は、牧師と教会員8名の教会です。この教会は、毎月、週報をお送りくださいます。週報には、主日礼拝の説教が全文載せてあり、読ませていただいていますが、そこから行き届いた働きをしておられることがよくわかります。「こころの友」紙が、この教会の伝道の一助になることを願っています。

 

 今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙第二8章1~15節です。ここでパウロは、マケドニア州の教会を例にあげながら、アカイア州のコリント教会に対し、エルサレム教会を援助するように促しています。

 まず、コリントの信徒への手紙第二についてお話いたします。この手紙を書いたのは、パウロとテモテです。手紙の受け取り人は、コリント教会とアカイア州に住む信徒たちです。この手紙は、紀元54~55年頃、エフェソで書かれました。

 パウロたちは第二伝道旅行でコリントを訪れ、教会が創立されました。

その後、彼らはこの地を離れエルサレムに向います。そしてパウロたちが第三伝道旅行で再びコリントを訪れるまでの間に、5通の手紙を書き送ったと考えられます。⑴「先の手紙」です。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」(Ⅰコリント5:9)とあります。この手紙は現存しません。⑵「コリントの信徒への手紙第一」です。この手紙は、コリント教会の様々な問題に答えています。⑶「涙の手紙」です。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(Ⅱコリント2:4)。この手紙も現存しません。⑷Ⅱコリント1~9章「和解の手紙」。⑸Ⅱコリント10~13節「弁明の手紙」です。今朝の御言葉は、Ⅱコリント8章ですから、「和解の手紙」の一部です。

 

 パウロたちがコリントを出発した後、この町にパウロを批判する者がやってきました。この者は、パウロたちがキリストの直弟子ではないので人を欺く者であり、いつも危機の中にあって死にかかっているようであるので神に罰せられている者であると批判し、コリント教会の人々もこの者の言葉に耳を傾けました。この事態を知ったパウロは、エフェソの町で「涙の手紙」を書き、テトスに持たせコリントに送り出しました。その後帰ってきたテトスは、コリントの人々が手紙の言葉を受け入れ、神に対する熱心とパウロに対する信頼を回復したことを報告しました。これを聞いたパウロは、再び「和解の手紙」を書きました。パウロは、コリント教会の人々を「兄弟たち」と呼び、マケドニア州の教会の働きを紹介しながら、世界の諸教会の母なる教会でありながら、貧しさの中にあるエルサレム教会の支援を再開するよう呼びかけました。

 マケドニア州の教会とは、フィリピ、テサロニケ、ベレアの教会です。

これらの教会は、「苦しみによる激しい試練」と「極度の貧しさ」の中にありました。しかし彼らは、「満ち満ちた喜び」と「人に惜しまず施す豊かさ」を持っていました。すなわちこれらの教会は、「彼らの力に応じて、また力以上に」献げました。あのレプタ二枚を献げたやもめのように、金額は決して多くありませんが、彼らの力量を越える献げものをしたのでした。

またマケドニア州の教会は、「自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと・・・願い出」ました。すなわち自ずから進んで献げ、さらにマケドニア州の教会には、その献金の内に献身の思いがありました。パウロが「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と書いているとおりです。

 コリント教会は、以前エルサレム教会を助ける献金を行っていました。ところが、パウロとの関係が悪化したことでその援助を中断したのです。パウロは、テトスからの知らせを聞き、信仰、言葉、知識、熱心、愛などすべての点で豊かなコリント教会が、エルサレム教会への献金を再開することで「慈善の業においても豊かな者に」なってもらいたいと願いました。同時にパウロに命じられたからそれをするのでなく、コリント教会が「主イエス・キリストの恵み」に感謝して行ってほしいと願っているのです。

 「主イエス・キリストの恵み」とは、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」と書かれているとおりです。すべてに満ち満ちている神の子イエスは、私たちのために人の子となられました。人の子イエスは、全てを捨てて十字架にお架かりになられ、信じる人に神の国と永遠の命を与え豊かにしてくださるのです。

 この恵みに感謝するマケドニア州の教会は、「苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさを」持つようになりました。エルサレム教会を支援してきたこれらの教会は、迫害と貧しさに耐えながらも、イエス・キリストが備えてくださった恵みに感謝し、彼らもイエスのように極度の貧しさの中に身を置きつつ、惜しまず人に施す豊かさを持つことができたのです。

 

 パウロは、苦難の度に、主の慰めと恵みをいただく経験をしていました。その苦しみは激しいけれど、恵みはそれを覆いつくすほどに豊かなものでありました。その豊かな慰めと恵みによってパウロは、あらゆる苦難の中にいる人を慰め恵み、彼はそれによって豊かな者となったのです。そしてパウロは、コリント教会にもこの恵みと豊かさを知ってほしいと願いました。15節に「多くを集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった。」とあります。これは出エジプト16章18節、荒れ野で主が与えてくださったマナの出来事を記した言葉です。モーセの時代から、イエスの時代、そしてパウロの時代を経て今日に至るまで、私たちは神の恵みにあずかっています。主は私たちがその恵みに感謝し、施しにおいても豊かな者になりなさいと促しておられるのです。

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