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≪次月 6月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 6.1 子どもの日(花の日)CS合同礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

      (ルカによる福音書10章36~37節)

 

   「隣人になれるかな」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

                 (ルカによる福音書10章36~37節)

 

           「隣人になれるかな」     深見 祥弘

 今日は、私たちの教会の「子どもの日(花の日)」礼拝です。教会暦で「子どもの日(花の日)」は6月第二日曜日ですが、私たちの教会では6月第一日曜日にこれを守っています。 1856年、アメリカ・マサチューセッツ州チェルシー市のメソジスト教会において、レオナルド牧師が6月に子どものための特別のプログラムを作り集会を行ったことが、この日の由来です。1866年、アメリカ・メソジスト教会は総会において、6月第二日曜日を「子どもの日」として教会行事に加えることを決議しました。またアメリカでは、1年で最も多くの花の咲く季節であることから、この日信者が各々花を持ち寄って礼拝堂に飾り、礼拝後、その花を子どもたちが持って病院の患者を見舞い、また各社会施設を慰問いたしました。

 

 先週礼拝後の祈祷会で、ガザ北部にあるアハリー・アラブ病院がイスラエル軍のミサイル攻撃(4月13日未明)を受け、男の子一人が亡くなり、病院施設が損壊したことをお知らせいたしました。アハリー・アラブ病院(アラブの人々の病院の意味)は、英国国教会(聖公会)エルサレム教区が運営する病院です。2023年10月イスラエル軍のガザ侵攻以来、この病院は4回の攻撃を受けましたが、この日まで北部で唯一、病院としての機能を保持し、ガザの人々にとっては命綱のような存在でした。キリスト教会関連病院ということで、日本のキリスト教会やキリスト者が「アハリー・アラブ病院を支援する会」を立ち上げ、支援を行ってきました。私たちの教会も、「支援する会」に2023年、2024年と対外献金をお送りし、傷ついた人々の癒しのために、また停戦のために祈ってきました。今回の攻撃後、スハイラ・タラズィ院長は、このように呼びかけています。「アハリー・アラブ病院は先日の空爆により大規模な被害をうけ、救急および外来対応が機能不全に陥りました。事態はきわめて困難ですが、われわれは臨時の拠点を数カ所立ち上げ、緊急に医療を要する人たちを支援しています。医療品は決定的に不足しており、今も続く検問所の封鎖のために補給がほとんどできない状態です。今回の攻撃以前から、すでに最低限の物資で病院を稼働させていましたが、もはや限界が近づいています。どうかわたしたちのために皆の意識を高め、声をあげ続けてください。すべてのメッセージ、祈り、連帯の行動は、わたしたちに力を与えてくれます。わたしたちとともにいてくださり、ありがとうございます。主にあって。」 この呼びかけに応え私たちの教会は、即時停戦とこの病院のために祈り、支援を続けていきたいと思います。

 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書10章25~37節です。ここには、有名な「善きサマリア人」の話が記されています。ある時、イエスのところに律法の専門家(律法学者)がやってきて尋ねました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスは、「あなたの専門である律法にはどう書いていますか。それをあなたはどう読んでいますか。」と問うと、律法学者は得意げに「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6:5)とあります。また『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19:18)とあります。」と答えました。イエスが「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言うと、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか。」と問いました。そこでイエスは、善きサマリア人の話をしました。

 ある人(ユダヤ人)がエルサレムからエリコへ下って行く途中(エルサレム標高760m、エリコ標高-258m、エルサレム~エリコの距離20㎞)、追いはぎに襲われました。この人は、持っていた物も着ていた服も奪われ、さらに殴りつけられて瀕死の重傷を負いました。この人が倒れていると、祭司がそこを通りかかりました。祭司もエルサレムからエリコに向う道を下ってきたのです。祭司は、神殿で神に仕える人でありますし、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法をよく知り守る人でありました。しかし祭司は、なぜか、見て見ぬふりをして道の向こう側を通って行ってしまいました。(イエスの話を聞いて律法学者は、祭司は務め上、死者に触れてはならないという決まりがあるので、その人が死んでいると思ったのかもしれないと思いました。)

次にやってきたのはレビ人です。彼は神殿に務める役人で、直接祭儀を行う者ではないので、死者に触れてはならないという決まりの対象外でした。またレビ人は「隣人を自分のように愛しなさい」との律法をよく知っていました。(イエスの話を聞き律法学者は、今度は助けられると思いました。)

しかし、レビ人も見て見ぬふりをして行ってしまいました。(律法学者は、このレビ人が神殿の仕事を終え家に帰る途中で、疲れていて厄介なことに巻き込まれるのを嫌ったのかと思いました。) 次に来たのは、旅をしているサマリア人でした。(イエスの話を聞いた律法学者は、この人も行ってしまうと思いました。なぜなら、倒れている人(ユダヤ人)とサマリア人は、500年以上に渡って敵対し、つき合いをしていなかったからです。) このサマリア人は、倒れている彼を見ると近づいてきて、憐れに思い、傷にぶどう酒を注いで消毒し、傷口に油を注いで埃が付かないようにし、包帯を巻いて治療を行いました。またこの人を自分のロバに乗せて宿屋につれていき、一晩介抱しました。翌日サマリア人は、宿屋の主人に銀貨二枚をわたし、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と頼んだのでした。

 イエスは律法学者にこの話を聞かせた後、「あなたは、祭司とレビ人、そしてサマリア人の三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とたずねました。律法学者は、「その人を助けた人です」と答えると、イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。

 

 説教題を「隣人になれるかな」としました。イエスのところに来た律法学者は、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねています。律法学者にとって「隣人」とは、彼と同じユダヤ人です。しかしイエスは「善きサマリア人」の話をすることによって、たとえ同胞であっても「隣人」として愛することのできないことがあると伝えました。「善きサマリア人」の話はたとえ話です。「傷つき倒れている旅人」は私たちのこと、「祭司やレビ人」とは隣人のこと、そして「サマリア人」とはイエス・キリストのことです。自分で自分を助けることができず、隣人からも見捨てられた私が、思いがけない人(サマリア人、イエス・キリスト)により、思いがけない仕方(手当てと介抱と宿賃。イエスの十字架)で助けられます。これまで敵のように思っていたイエスが、私たちの救いのために十字架に架かってくださり救ってくださったのです。

私たちには、「隣人とはだれか」と、相手を限定してしまう愛の限界があります。しかし、イエスが、私たちの「隣人」になってくださり押し出してくださいますから、私たちも主への愛、隣人への愛に生きようとすることができますし、限界を突き破ることができるのです。私たちがイエスの愛に押し出されて、困難な状況にいる人の「隣人」になろうとするとき、イエスがそれを実現してくださいますし、永遠の命を受け継ぐ者としてくださいます。

イエスの名によってなされる私たちの業に祝福がありますように。 

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