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≪次月 8月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 8.31 聖霊降臨節第12主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。

     (創世記24章67節)

 

      「泉の傍らで祈る」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。

(創世記24章67節)

 

            「泉の傍らで祈る」      深見 祥弘

 今朝の御言葉は、旧約聖書・創世記24章「イサクとリベカの結婚」物語です。創世記で一番長いこの物語(1~67節)は、古代世界において信仰者が何によって「家族」を形成しようとしていたかを教えています。

 アブラハムは、紀元前1800年頃(今からおよそ3800年前)、カナンの地に暮らしていました。そこに形造られた「家族」、すなわち夫婦、親子、主人と僕の関係は、主従関係にあっても「主にある交わり」を家族形成の基としていたようです。

 

 アブラハムの妻サラは、127年の生涯を終えました。ヘブロンに暮らしていたアブラハムは、この地のヘト人より畑と洞穴を買い取って墓とし、妻サラを葬りました。アブラハムも年老いていました。

 ある日アブラハムは、年配の僕を呼んで、息子イサクの妻を三つの条件を示しつつ選ぶよう命じました。選びの条件の一つは、今、暮らしているカナン人の娘から選んではいけないということでした。カルデアのウルからカナンの地に来たアブラハムとその家族が、これからこの地で暮らしてゆくために、土地の娘をめとることは得策です。困った時に娘の家族や親族の援助を期待できるからです。しかしアブラハムがそれを禁じたのは、カナンの宗教が家族の中に入り込むことのないようにとの理由でした。

選びの条件の二つ目は、アブラハムの一族がいる故郷に行って、嫁を探しなさいということでした。アブラハムには、ナホルとハランという二人の兄弟がいましたが、ハランは早くに亡くなりました(ハランの息子はロト)。もう一人の兄弟ナホルは、アラム・ナハライムにいて妻ミルカとの間に8人の子をもうけていました。アブラハムは、ナホルの一族から、嫁を選びなさいと命じたのです。

選びの条件の三つ目は、選んだ娘をカナンの地に連れて来ることでした。アブラハムのいるカナンの地は、主がアブラハムとその子孫に与えると約束なさった地であったからです。そしてもし娘がこちらに来たくないと言うならば、僕はその任務を終了してよいとのことでした。僕は、アブラハムの腿の間に手を入れて、これらのことを誓いました。「腿の間に手を入れて、…誓う」とは、聖なるものである割礼の上に手を置いて誓うということです。こうして僕とその従者は、10頭のらくだと高価な贈り物を携えて、アラム・ナハライムにあるナホルの住む町に向け800キロの旅に出ました。

僕がナホルの町の外に到着すると、井戸(泉)の傍らで休息し祈りました。町は丘の上にあり、井戸(泉)は丘を下ったところにありました。僕は、「夕方ここに水を汲みに来る娘たちに水を飲ませてくださいと願う時、親切に水を飲ませてくれるだけでなく、らくだにも飲ませてくれる娘がいたら、主が選ばれた方とさせてください」(12~14)、と主に祈りました。

 僕が祈り終わらないうちに、1人の娘が水がめを肩に載せてやってきました。彼女が泉に下りていき、水がめに水を満たして上がってくると、僕は、「水を飲ませてください」と願いました。彼女は僕に水を飲ませただけでなく、「らくだにも水を汲んできて、たっぷり飲ませてあげましょう」と言って、水がめの残りの水を水槽にあけ、再び水を汲みにいきました。僕が「あなたは、どなたの娘ですか。教えてください。」(23)と願うと、娘はアブラハムの兄弟ナホルと妻ミルカの息子ベトエルの娘リベカですと答えました。これを聞いた僕はたいそう驚き、ひざまずき「主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」(27)と再び祈りました。

 僕はベトエルの家に迎え入れられると、主人アブラハムより託された使命を話し、「主は、主人の子息のためにほかならぬ主人の一族のお嬢さまを迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」(48)と主をほめたたえ、返事を求めました。父ベトエルと兄ラバンは、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻となさって下さい」(50、51)と答えました。僕は、この言葉を聞くと地にひれ伏し主を拝したのでした。

 翌朝僕は、「主人のところへ帰らせてください」(54)とベトエルに願いました。リベカの母と兄は、準備もあり、なごりもつきないので「十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」(55)と答えました。僕は「この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。」(56)と再度願うと、それでは「娘を呼んで、その口から聞いて見ましょう」(57)と言いました。母と兄がリベカに「お前はこの人と一緒に行きますか」(58)と尋ねると、「はい、参ります」(58)と答えました。リベカには乳母デボラと侍女たちが同行しました。

 さてイサクは、ネゲブ地方に住んでいました。夕方、彼は野で、らくだがやってくるのを見ました。リベカも、イサクを見ました。リベカは、らくだから降りて、迎えにくるあの人は誰かと僕に問うと、「あの方がわたしの主人です」(65)と答えました。リベカは、花嫁の習慣からベールをかぶりました。イサクは僕から旅での一切を聞き、リベカを妻といたしました。リベカにはサラが使っていた天幕が与えられ、イサクは、リベカによって母を亡くした悲しみになぐさめを得たのでした。

 

 この物語に登場する人々から示されることは、主への信仰・信頼です。 アブラハムは、生涯にわたり「主は何事においても祝福をお与え」(1)くださることを信じていました。彼は、イサクの結婚に際しても、同じ信仰を持つ一族より嫁を選ぶことと、主が与えてくださったカナンの地に連れてくることを僕に命じました。僕は、その使命を果すにあたり、アブラハムの神に信頼し、祈り委ねてその務めを果たしました。「僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見ていた。」(21) リベカの父ベトエルと兄ラバンは、僕から話を聞いた時、「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。…主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」と答えます。

さらにリベカもまた、「この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから」と言って出発を急ぐ僕の求めに応じ「はい、参ります」と答えました。そしてイサクもまた、僕の報告を聞き、これを主の業と信じ、リベカを妻に迎えいれたのでした。

 

結婚は、一般に互いのことをよく知り、愛を確かめてするものです。しかしリベカは、一度も会ったことのないイサクとの結婚を決めて出発しました。彼女を結婚の決断に導いたのは、「主の御意志ですから」という家族の言葉と、泉の傍らで祈り仕える僕の姿でありました。

リベカが行きたくないと言えば、この結婚の話は終わってしまうものでした。しかし彼女は、主が与えてくださる新しい家族に対し、自らもまた泉の傍らで祈り、命の水を汲む奉仕をしようと決心したのでした。

  聖書に描かれる「家族」は、「主への信仰と主にある交わり」を基とする新しい共同体です。それは私たちの集う教会の姿でもあります。そして信仰に結ばれたその共同体「教会」は、時代や場所を越えてそこに連なる人々に継承され、慰めと希望を生み出す基となるのです。  

2025. 8.24 滋賀東ブロック講壇交換礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

             (マタイによる福音書26章30節)

 

「 讃美を共に献げましょう 」 森喜 啓一 牧師(安土教会)

< 今 週 の 聖 句 >

「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

                   (マタイによる福音書26章30節)

 

「 讃美を共に献げましょう 」     森喜 啓一

 

 マタイによる福音書26章30節で、イエス様は十字架への苦難の道を歩まれる直前、弟子たちと共に賛美の歌を捧げられました。耐え難い苦難が迫ろうとしている時にも、イエス様は、神への信頼を賛美によって示されたのです。

 

私たちの賛美は、神の赦し、救い、希望、愛への私たちの応答であり、信仰の告白です。その歌声が教会で鳴り響く時、教会は一体となり大きな力を得ます。神は私たちに賛美を音楽として歌う「讃美歌」という素晴らしい知恵を与えてくださいました。バッハは「賛美歌は祈りであり説教である」と語り、ルターは「讃美歌で神の言葉を歌い、神の言葉に応答する」と述べました。説教が神の言葉を語るなら、讃美歌は私たちの応答、心を込めて歌うべき信仰告白なのです。

 

今朝歌っていただいた讃美歌21の493番「慈しみ深き」の歌詞は、アイルランド出身の詩人ジョセフ・スクライヴェンが深い悲しみの中で書いた詩に由来します。彼は婚約者を二度失うという悲劇を経験した後カナダへ移り伝道と貧しい人々への支援に尽力しました。彼は、ある時、病に苦しむ母親を励ますために一編の詩を送りました。それが、後に讃美歌として広まったのです。英語の原題は「What a Friend We Have in Jesus(なんと素晴らしい友イエスがいることか)」です。そこにはイエス様を最も親しい「友」として描いています。祈りによって苦しみを神に委ねることの大切さを繰り返し語り、神の腕の中に慰めと平安があることを力強く歌っています。(因みにこの英語原曲の英語歌詞を以下に記しました。)

 

私たちもまた、この讃美歌を歌うとき、それぞれの困難や苦しみを思い起こしながら、イエス様が私たちを救う友として共にいてくださることを感謝し信仰を強めるのです。私たち一人ひとりがそれぞれ賛美し信仰告白をするのです。

 

「慈しみ深き」英語オリジナル歌詞翻訳 

 

1番 イエスはなんと素晴らしい友だろうか。 私たちのすべての罪と悲しみを背負ってくださるのだから。 祈りによって、すべてを神様のもとへ持っていけるなんて、なんと素晴らしい特権だろうか。 ああ、私たちはどれほど多くの心の平安を失い、 どれほどの不要な苦しみを背負っていることだろう。 それはすべて、祈りを通してすべてを神様のもとへ持っていかないからなのだ。

 

2番 試練や誘惑に遭うとき、 どこかに困難があるとき、 決して落胆してはいけない。 それを祈りを通して主のもとへ持っていきなさい。私たちの悲しみをすべて分かち合ってくれる、これほどまでに誠実な友が他にいるだろうか。 イエスは私たちのあらゆる弱さを知っているのだから、それを祈りを通して主のもとへ持っていきなさい。

 

3番 私たちは弱く、重い荷を負い、 多くの心配事に 押しつぶされそうになっている。 愛する救い主は、今も私たちの避難場所だ。 それらの苦しみを祈りを通して主のもとへ持っていきなさい。 人に軽んじられたり、見捨てていないだろうか? それを祈りを通して主のもとへ持っていきなさい。 主はご自身の腕に抱き、 あなたを覆い守ってくださる。 あなたは、そこで慰められるだろう。

2025. 8.17 聖霊降臨節第11主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「わたしが来たのは、 地上に火を投ずる為である。 その火が既に燃えて

いたらと、どんなに願っていることか。」

              (ルカによる福音書12章49節)

 

「その火が既に燃えていたらと・・・」   仁村 真司 教師

< 今 週 の 聖 句 >

「わたしが来たのは、 地上に火を投ずる為である。 その火が既に燃えて

いたらと、どんなに願っていることか。」

                   (ルカによる福音書12章49節)

 

「その火が既に燃えていたらと・・・」   仁村 真司

「わたしが来たのは、地上に火を投ずる為である。」(49節)

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。   

そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 (51節)

マタイ福音書では「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」 (10章34~35節) ですが、このイエスの言葉が今の私たちにまずもたらすのは戸惑いでしょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」    (2章14節)

八月に思い起こされることは滅多にないと思いますが、良く知られたクリスマスの出来事、天使が羊飼いたちにイエスの誕生を救い主の降誕として知らせ 天の大軍と共に神を賛美した際の言葉です。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」 イエスは地上に平和をもたらす

メシアとして来られたのではなかったのか。それなのに、あるいはそうではなく、「分裂」・「剣」をもたらし、「敵対」という平和とは真逆の方向に人々を、世を、向かわせるということなのでしょうか。

1)

「平和ではなく、分裂・剣をもたらすために来た」というイエスの言葉は、よくこんなふうに説明 (解釈)されます。

…もちろん、 最終的にはイエスによる平和がもたらされる。しかしながら、その前に単純な「平和」の道ではない、苦難の過程がある。イエスの受難・死がある。イエスに従う決断による家や家族との対立・ 敵対、 決別も覚悟しなければならない。

「今から後、一つの家に五人いるならば、 三人は二人と、二人と三人と対 

立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、

母は娘と、娘は母と、

しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

対立して分かれる。」             (53節)

つまり、分裂や剣をもたらすのも、敵対させるのも、平和をもたらすために避けては通れぬ道ということです。

それならば、「イエスは平和をもたらすメシア」ということは損なわれません。そしてまた、イエスの受難 死は言うまでもなく事実ですし、イエス・キリストを信じることをめぐって多くの家で対立・ 敵対が生じるということも事実に即していると考えられます。

このような説明 (解釈)には一応納得出来ます。ただ私が“一応”とつけるのは、「分裂・剣をもたらすのも、敵対させるのも平和をもたらすために避けては通れぬ道」等という言い方は、「平和もたらすための戦争」・「聖戦」といった「戦争の大義」、戦争を正当化する理屈にも簡単に転用出来てしまうからです。

そしてもう一つ。今日の箇所のイエスの言葉に私たちが戸惑うのは無理もない、当然だと思います。ですが、だからと言って、「平和をもたらすために来たのではない」とイエスが言っているのに、そこに「平和をもたらすための、平和がもたらされるまでの過程、道程」を読み込むのは、やはり違うのではないかと思うからです。

2)

今日の箇所では 「わたしが来たのは」ですが、福音書には「人の子が来たのは」・「人の子は・・・のために来た」とイエスが語っている所が沢山あって、救い主イエス・キリストがこの世に来た目的が示されているとされます。 例えば有名なザアカイの話の結論 (19章10節)。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

そして、イエスが自らを「人の子が (は)」といって語った言葉を私たちは 「神の子イエス・キリストの教え」 として受け止め、語り、 伝えます。

でも、例えば「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。・・・』 と言う」(7章34節、 マタイ11章19節)。 この「人の子」は、どう考えても「一人の普通の人間であるイエス」ということでしょう。

イエスは真の神であり真の人です。これは私たちと同じ病み傷つき得る心と体をもってこの世を生きた一人の人間で(も)あるということですから、折々の言葉には、イエスの一人の人間として当たり前の喜怒哀楽も表われていたはずです。超然として語られた普遍的な真理の教えと言えるような言葉もあったかもしれませんが、私はなかったような気がします。

反対に、福音書の記述の中で既にイエスの喜怒哀楽をなくしたり、書き換えたりしている所は結構あると思います。マルコでは怒っていたイエスが、マタイやルカでは怒っていないとか、マルコでも元々怒っていたものを、「深く憐れんで」と書き換えている写本があります (1章41節)。ここは、マタイ (8章3節) ルカ (5章13節) ともにイエスの喜怒哀楽には触れていません (怒っていたのをなかったことにしたのでしょう)。

  3)

 では、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」から始まる今日の箇所のイエスの言葉をどのように受け止めるのかということです。

「火」は当時のユダヤ教においては終末の時の神の審判の象徴ですが、イエスはその火を自分が投ずる、そのために来たと言っています。神の子としてこの世に来た目的が示されていると言えばそうです。しかし、それよりもイエスの一人の人としての、自らの活動に対する確信が強く伝わって来ます。ですが、それだけに次の言葉をどう受け止めればよいのか・・・。

「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

イエスは確信を持って、火を投じ続けている。今日も、明日も…。なのに火は燃え上がらない。燃え上がらずに消えてしまう。消されてしまう。

迫力ある「火を投ずるためである」ばかりに気を取られていたからなのか、思い至るのに時間がかかりましたが、私はここに表れているのは、喜怒哀楽で言えば「哀」に近い、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9章58節、マタイ8章20節) にも通じるイエスの心情だと思います。そしてそれは孤独・淋しさ、「哀」を伴ってこの世における自らの道行きの予期・予感となって行った…。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから

排斥されて殺され、 三日目に復活することになっている。」( 9章21節)

他にも福音書の中で数回繰り返されるイエスによる受難予告の文言は、殆どすべて後に作られたものと考えられますが、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」はイエスが自らの受難 死をはっきりと予期していたことを示しているということです。

繰り返しになりますが、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従おうとする私たちが「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。…分裂だ」という言葉に戸惑うのは無理もないと思います。しかし、これはイエスの投じる火を世の人々が分裂をもたらすものと見なし (そして消して)いるということではないか…。そうならば、戸惑うのではなく、今の私たちはどうなのか問うべき所です。

今日の箇所で本来戸惑うべきは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」というこの世での歩みへの確信に満ちた言葉に続けてイエスが自らの受難・死を語っていること、そこにだと思います。

2025. 8.10 聖霊降臨節第10主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

(マタイによる福音書9章10節)

 

       「同席した御方」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

(マタイによる福音書9章10節)

 

             「同席した御方」      深見 祥弘

 トランプ大統領が「アメリカファースト(アメリカ第一主義)」を掲げ、大統領選挙に勝利をしたのは、2016年のことでした。その後バイデン政権を経て、第二次トランプ政権もまた「アメリカファースト」を掲げ、各国に高い関税をかけることや移民政策等をもって、もう一度世界ナンバーワンの地位を回復すると明言いたします。

 7月の参議院選挙で「日本人ファースト」を掲げた政党が、14議席を獲得するなど躍進をしました。この政党の選挙公約には、「日本人を豊かにする」、「日本人を守り抜く」、そして「日本人を育む」を3つの柱とし、9つの政策を示しています。その一つが、「行き過ぎた外国人受け入れに反対、日本は日本人で支える国に。移民の課題は『外国人総合政策庁』で一括して取り組む。」であります。また他の政党の中も「移民政策の是正」、「外国人への生活保護の廃止」などを公約とするところがあります。

 こうした傾向は、日本やアメリカに限らず世界の各国で、自国第一主義を掲げる政党が支持を伸ばしています。

 なぜ今、このような公約が人々に支持されるのでしょうか。進藤貴子さん(川崎医療福祉大教授)は、「『ファースト=あなた方は大切にされるべき人です』というメッセージは、これまで社会や他者のために、自分の利益を二の次にして頑張ってきた人々に、ねぎらいと共感の言葉として響いたのでは」と述べておられます。他方、「この『内集団びいき』(自分と仲間を高く評価することで精神的な満足感や絆をもたらす)は、行き過ぎると閉鎖的、批判的になり、外集団を敵視し、遠い存在の人々の痛みは無視できてしまう危険もあります。トランプ大統領が、アメリカファーストを公言するのを聞いて、アメリカ国民が抱いていたかもしれない、『不当な思い、報われたいという思い』に対して、共感的に、また、ねぎらうように響いたのではないかと思います。」と述べておられます。 (TBS NEWS DIG 7/27)

 

  今朝の御言葉は、マタイによる福音書9章9~13節、イエスが徴税人マタイを弟子にする話です。9章1節に「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」とあります。イエスは、ガリラヤ湖南東のガダラ地方(異邦人の地)において二人の者から悪霊を追い出した後、「自分の町」すなわち弟子のペトロたちの家があったガリラヤ湖北部の町カファルナウム に帰ってきました。イエスは、この町でも床に寝かせたまま連れてこられた中風の人を癒しました。

 

 イエスは、その後、各町や村を訪れて会堂で教え、病気や悪霊に悩まされている人を癒すために出発しました。

ところでカファルナウムは、エジプトからシリアのダマスコに向う道(海の道)の通る交通の要所でした。ガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが領主であり、この町の門には収税所が設けられ、そこを通過する物品に課税をしていました。イエスが門を通ろうとした時、マタイが収税所に座っているのを見ましたので、「わたしに従いなさい」と声をかけました。マタイはすぐに立ち上がりイエスに従いました。イエスが、ガリラヤ湖の漁師であったペトロとアンデレに、またヤコブとヨハネに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と声をかけたとき、彼らがすぐイエスに従った時と同じです。

 イエスはなぜマタイを見て「わたしに従いなさい」と声をかけたのでしょうか。またマタイはなぜ仕事を投げ出して、イエスに従ったのでしょう。マタイは徴税人です。彼を雇っているのは、領主ヘロデ・アンティパスであります。しかし徴収された税は、領主よりこの地を支配するローマ帝国に納められることになります。このことから徴税人は、同胞であるユダヤ人から、領主の手先とかローマの手先とか言われ、憎悪や疎外の対象になっていました。マタイには救いを求める思いがあり、イエスがその思いに気づいたのでした。

 

 イエスの弟子となったマタイが最初にしたことは、自分の家にイエスと弟子たちを招き、また自分と同じように救いを求めている人々(徴税人、罪人)を招いて食事の席を設けたことでした。「罪人」とは、娼婦や羊飼いのように律法を守れない人、外国人などです。マタイは、こうした人々とイエスとの出会いの場を設けたのでした。この様子を見ていたファリサイ派の人々は、家に入ることもせず、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。ファリサイ派の人たちは、罪人と交際をしなかったからです。これを聞いてイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えられました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」、イエスが来たのは、自分の病気(罪)に気づいている人、その罪を知り憐みを求めている人の救いのためです。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』、これは旧約・ホセア書の引用です。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6) つまり神が喜ぶのは、見せかけの信仰によってなされるいけにえでなく、自分の本当の姿をよく知り、神に憐み(救い)を求めることであると言っているのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」「正しい人」とは、見せかけの信仰の人すなわちファリサイ派の人々のことであり、「罪人」とは自分の本当の姿をよく知り、神に救いを求める人、すなわちマタイたちのことです。

 

 以前お話しましたように、私は海外移民の子孫です。私の祖父は、カナダ・バンクーバーに移民し大工として働きました。しかし安い労賃で働く移民に対する排斥を経験し、第二次世界大戦時には、敵性外国人として財産を没収されて強制収容所に送られ、戦後は忠誠心調査によって日本に送還される人と残る人とに分けられました。こうしたことから今、移民排除の政策を求める風潮に対して、強い危機感を覚えます。

 

 イエスは、救いを求める私に目をとめ、「わたしに従いなさい」と声をかけ救い出してくださいました。イエスはこの家で、私を含め、救いを求める人々と共に食卓を囲んでくださっています。神がイエスによって私たちを憐れんでくださいますので、私たちも救いを求める人々にこの福音を伝えるのです。

 先ほどお話した進藤貴子さんは、「まず自分が大切にしてもらうことを前提に、そこから他者への思いやりにつながっていくことの、バランスのとれた心の育ち」が大切と述べておられます。イエスがわたしを憐み、救ってくださった。それゆえにわたしはイエスの同席を信じ、イエスが憐み救われたすべての人々を愛することができます。イエスは、利益優先の「ファースト」を、憐み優先の「ファースト」に変えることがおできになるのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27) 

2025. 8.3 平和聖日(聖霊降臨節第9主日)礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

(ローマの信徒への手紙9章25~26節)

 

         「憐みの器」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

(ローマの信徒への手紙9章25~26節)

 

             「憐みの器」        深見 祥弘

 2023年10月、ハマスの奇襲攻撃によってイスラエル側で1200人が亡くなり、250名以上が人質となりました。これに対するイスラエル軍の報復攻撃が始まって1年10ケ月の間に、ガザの人々230万人のうち6万人以上が亡くなりました。特に今は飢餓が深刻で7月24日の報道では、過去48時間の間に、子ども12人を含む38名が栄養不良のために亡くなりました。また3人に1人が数日間食事を取ることができず、9万人の女性たちや子どもたちが緊急に治療を必要としています。このような状況の中、一編の詩が、70以上の言語に翻訳されて、世界の人々に読まれています。その詩を書いたのは、リファト・アライールさん(詩人、ガザ・イスラム大学教授)です。

でも彼は、2023年12月の空爆により亡くなりました。

「If I must die」(もし私が死ななければならないなら)と題する詩です。

 

「もし、私が死ななければならないのなら あなたは生きなければならない

私の物語を伝えるために 私の遺品を売り 布切れと少しの糸を買うために

 (長い尻尾のついた白いものにしておくれ)

  ガザのどこかにいる子どもが天を仰ぎ見て 炎に包まれ旅立つ父を待つとき

 その父は誰にも別れを告げられなかった 自分の肉体にすら 自分自身にすら 

あなたが作る私の凧が舞い上がるのを 子どもが見て ほんのひととき 

天使がそこにいて 愛をまた届けに来てくれたと見えるように 

もし私が死ななければならないのなら それが希望をもたらしますように 

それが物語になりますように」

 

この詩の「凧」は、ガザの子どもたちにひととき希望をもたらす天使です。

この天使は、愛と希望を届けてくれますが、これこそリファトさんが自分の死によってガザで取り戻したいものです。リファトさんは、44年の生涯をパレスチナとそこに生きる人々を物語ることに、また若者たちの言葉を育てることに捧げてきました。「私の物語を伝えてください」との言葉は、自分の死を通して、戦争という暴力を前にしても、言葉や物語が愛や希望を生み出すとの確信によるものです。 

 

 今日は、私たちの教団が定める「平和聖日」です。御言葉は、ローマの信徒への手紙9章19~28節です。ここに「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。」(20)とあります。しかしガザにおいて、爆撃を受けて傷つき救急車に運びこまれる子どもたち、やせ細ってお母さんに抱かれる子どもたちを見て思うことは、なぜこの子たちは日本ではなくこの過酷なガザに生まれたのか、ということです。

 20節の言葉は、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言って、神に口答えをするな。あなたは神に造られた物であるのだから、と言います。そして、パウロは「焼き物師と粘土のたとえ」を話します。焼き物師は、全く同質の粘土から、一つを貴いことに用いる器を造り、もう一つを貴くないことに用いる器を造ります。それは焼き物師の自由な意志で造るもので、造られた器は文句をいうことはしません。

 神と人間の関係においても同じように言うことができます。どこに、いつ、どのような状況のなかに生まれるか、人は選ぶことができず、それは神がお決めになられることです。また神において、ユダヤ人であることと、異邦人であることには、貴い・貴くないという違いはありません。にもかかわらずユダヤ人は、自分たちが神に選ばれ貴い用をはたす民(器)であり、ユダヤ以外の人は貴くない用をはたす民(器)であると考え、重んじたり軽んじたりして罪を犯したのです。

 しかし神は、この罪の器に怒りを盛ることを忍耐し、また差別や抑圧を受ける器に憐みを盛ることで御自分の栄光をお示しになられました。神がそれぞれの器に盛る忍耐と憐みとは、イエス・キリストのことです。そしてパウロは「神はわたしたちを憐みの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24)と述べ、 あらゆる国民が神の民となるのです。そのためにパウロは、異邦人の伝道者となったのでした。

 

 パウロは、異邦人が神の民となることをあらかじめ預言していた預言者がいると述べています。その預言者とは、ホセアです。ホセアは、北王国イスラエルの預言者で、北王国がBC721年アッシリア帝国に滅ぼされてしまう直前まで預言をいたしました。その頃北王国は、主なる神とともに、他の神々を崇めることで危機を脱しようとしていました。

 ホセアは偶像崇拝をする北王国を「聖なる国民」から「ロ・アンミ」(我が民でない者)に呼び変え、厳しい裁きを告げました。同時にホセアは、後の時代に神がイスラエルを愛し、神の民とすると告げたのです。「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは『あなたたちは、ロ・アンミ(我が民でない者)』と言われるかわりに『生ける神の子ら』と言われるようになる。」(ホセア2:1)   さらに、神はホセアをとおし、同じ愛によって異邦人をも神の民とすると告げました。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:25~26、ホセア1:9、2:1.3.25)

  またパウロは、もう1人の預言者イザヤについても紹介しています。27節はイザヤ書1章9節の引用です。「残りの者」とは、神に信頼をして救われ残った人々のことです。イザヤの時代は、神に対する背信の時代でありました。しかし、わずかではありましたが神に忠実な者がいました。その人たちによってイスラエル全体が、裁きを逃れることができたのです。

 

 詩人リファトが教員であった時、ある学生が反ユダヤ主義的な発言をしたことがありました。彼は、学生に発言を訂正するように求めました。リファトは、この学生に、他の人、他の人種、他の宗教が遭遇する苦難を知ってほしかったのです。

「神は、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。」

人は自分たちの民に対してなされた罪に、神が怒りを示し敵の器に怒りを盛って滅ぼしてくださるように願います。しかし神は忍耐をし、その罪の器に憐みと愛を盛って神の栄光を与えてくださるのです。そして神は、今回のイスラエルとガザの人々双方の思いにおいても、そのように応じてくださるのです。それは、詩人のリファトさんのような神に忠実な人々の存在や信仰によってなされるのかもしれません。停戦と飢餓の解消がなされ、こうした人々によって、イスラエル・ガザ双方に平和が実現することを信じたいのです。 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」              

(マタイ5:9) 

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