W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2025. 9.14 聖霊降臨節第15主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。
(列王記上3章11~12節)
「聞き分ける心を与えて下さい」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。
(列王記上3章11~12節)
「聞き分ける心を与えて下さい」 深見 祥弘
2019年NHKの番組で、「AI美空ひばり」が新曲を歌って話題になりました。AI(人工知能)が、生前の美空ひばりの映像データを学習して再現したものです。2021年、アメリカで、AIによって故人をデジタル空間に再現するサービスが始まり、中国、韓国に続いて、昨年、日本でも複数の冠婚葬祭事業会社によりこのサービスが始められました。それは生前のインタビュー動画などを基に故人を再現し、故人と会話をすることもできるというものです。
生成AIの登場で、本人の音声や映像、文書など生前のデータを用いて、本人の言いそうなことを、本人のような口調で語らせることができるようになりました。これによって遺族の喪失感を軽減したり、故人と生前話せなかったことを話したりして、「死者との出会い直し」も可能となるそうです。これらが、「AI故人」の良いところでしょうか。
反面「AI故人」によって、遺族が死を受け入れるプロセスを妨げられ、現実と向き合うのを難しくする恐れもあります。またカリスマ性のある人物を再生させ、「都合のいい死者」を作り上げ利用することも可能です。現在日本では、AIで故人を再現することを規制する法律はありません。AIによる故人の再現は、遺族の癒しや記憶の継承という側面とともに、多くの倫理的・法的な課題を抱えている現状です。(9/3毎日新聞・論点「AIで故人『再生』、論者:松原仁、中島岳志、吉永京子各氏)
今朝の御言葉は、旧約聖書・列王記上3章4~15節、主がソロモン王に与えた知恵について書いている箇所です。ソロモンは、今からおよそ3千年前に活躍したイスラエルの王です。父ダビデより王位を継承し、イスラエルが最も繁栄した時代の王であり、また統一国家イスラエル最後の王でありました。
ソロモンは、王になるとエジプトの王の娘を王妃として迎えいれました。
また彼は、ダビデの町エルサレムに、宮殿、神殿、城壁などの造営を計画し、完成を待っていました。これらは、ソロモンの力を示すものでありました。
しかし最も大切なこととしてソロモンの心を満たしていたのは、父ダビデの遺言でありました。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう。」(2:2~4)
ソロモンは、父の遺言を心に留め自らの力に慢心することなく、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」(3:3)のでした。
まずソロモンは、ギブオン(エルサレムから北西に20キロ)の聖なる高台に、一千頭のいけにえ(焼き尽くす献げ物)を献げました。「聖なる高台」は、かって豊作を願ってカナンの神々にいけにえを献げた場所でしたが、ソロモンの時代には、主なる神に関する祭儀を行う場になっていました。この頃は、まだエルサレムに神殿が完成していなかったからです。
いけにえを献げたソロモンは、その夜、ギブオンで眠りました。すると主がソロモンの夢枕に立って「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。この呼びかけに彼は、夢の中でこう答えました。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」 ソロモンは、自分が王に立てられたのは神の恵みであるとし、自分は未熟な存在であり、この国の民は多く複雑であるので、聞き分ける心を与えてくださるようにと願ったのでした。
主はこのソロモンの願いを聞いて喜び、求めどおりに「知恵に満ちた賢明な心」を与えることを告げられました。さらに主は、求めなかった富と栄光、そして長寿をも彼に与えると約束されました。ソロモンは、目を覚まして、それが夢であることを知りました。彼はエルサレムにもどると、主の契約の箱の前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。
列王記上3章16節~28節ソロモンの裁判物語は、主より与えられた知恵を証しするものです。
それは、二人の遊女からの訴えでした。二人の遊女は同じ家に住んでいて、同じころに子を産み、育てていました。ある晩、母親の過失で子が亡くなりました。その母親はそれに気づくと、もう一人の母親から子を取り、死んだ我が子をこの母親のふところに寝かせました。朝が来て、子を取り替えられた母親が、死んでいる子は我が子ではなく、取り替えた母親が抱いている子が我が子であると言いました。しかし取り替えた方の母親は、それを認めず、取り替えられた母親が訴えました。
二人はソロモン王の前でも言い争いました。「生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です」「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのがわたしの子だ」。ソロモンは、家臣に剣を持ってくるように言い、「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」と命じると、生きている子の母親は「この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言いました。ソロモンは、「この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」と宣言したのでした。
ソロモンが、偉大な父親ダビデから継承したことは、「心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩め。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向っても、良い成果を上げることができる」という遺言でした。ソロモンは死んだ父親の言動を思い起こし、それを自らの内に再現することで、自らの王としての在り方の指針とすることはありませんでした。なぜなら、父ダビデの遺言は、生きて働く主に寄り頼み、主の掟や戒めに従って、王として働きを行えということだったからです。そうするならば主は、王としての使命を果すに必要な知恵のみならず、必要とするすべてを与えてくださるのです。
今年度の教会標語は、「後の世代に語り継ごう」です。創立125年を迎えるこの教会には、多くの信仰の先達たちがいました。この標語は、先達の言葉や業を、また自分たちの業を、後の世代に語り継ごうと呼びかけている訳ではありません。人の業ではなく人の信仰を語り伝える、すなわちその人に与えられた主の恵みを語り伝えるのです。先達たちが、「心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩め」と語られたことを覚え、私たちは主に対し「聞き分ける心を与えて下さい」と祈り願いつつ、その信仰を「後の世代に語り継ぐ」ことを願っているのです。
2025. 9.7 聖霊降臨節第14主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』
(マタイによる福音書13章29~30節)
「育つままにしておきなさい」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』
(マタイによる福音書13章29~30節)
「育つままにしておきなさい」 深見 祥弘
先日和歌山に住むいとこから新米が届きました。手紙には、「当家は、今年の4月28日に田植えをしました。和歌山県産米「キヌヒカリ」無事に収穫することができました。」と書かれていました。
今年の米騒動では、米の店頭価格が高騰し、主食でありながら消費者が買いづらい状況となりました。そんな中で前農水大臣が、「(いろいろと関係の方から米をいただくので)米を買ったことがない。売るほどある」と発言し、辞任に追い込まれました。現大臣は、備蓄米を大量に放出し、それによって全体の米の価格を下げようとしました。それはある程度効果があり、米の価格が下がりました。しかし新米の店頭価格は、これまで以上に高くなっています。
米をめぐる報道から、改めて農家の苦労を知ることとなりました。米の店頭価格が5キロ二千円代の時、諸経費で赤字となり、高齢化ともあいまって、米を作ることをやめてしまう農家が多くいました。加えて最近は高温や水不足といった天候の影響や、害虫害獣被害や雑草の繁茂などで、収穫量が少なくなることもしばしばです。生産者と消費者、中間業者や小売店、みんながウィンウィンになることの難しさを知りました。
今日の聖書日課は、マタイによる福音書13章24~33節、「毒麦」のたとえと「からし種とパン種」のたとえです。イエスは、ガリラヤ湖のほとりに人々が集まってきたので、舟を漕ぎ出し、岸辺の人々に話をされました。それが「種を蒔く人」のたとえでありましたが、加えて「毒麦」のたとえ、「からし種とパン種」のたとえも話しました。いずれも天の国のたとえです。
「種を蒔く人」のたとえは、良い土地に蒔かれた種が多くの収穫をもたらすことを教えました。けれども良い土地だからといって、必ず豊作となるわけではありません。そこには、雑草が繁茂したり、害虫が発生したりして、収穫が少なくなることもあります。「毒麦」のたとえは、そのことを示しています。
ある人が良い種(麦)を畑に蒔きました。ところが夜の間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていきました。それに気づいた僕が「行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう。』」と言いました。
「毒麦」は、誤って食べると嘔吐や下痢、めまいやしびれを引き起こします。収穫時期になると「毒麦」は、麦よりもひげが長く、色も黒くなるので見分けがしやすくなります。しかしそれまでは、麦と毒麦を見分けることは難しいのです。成長の段階で「毒麦」を抜こうとすると、間違えて麦を抜いてしまうこともありますし、麦と毒麦の根が土の中で絡まり合っているので、一緒に抜いてしまうおそれもあるのです。
13章36~43節をお開きください。そこには「毒麦」のたとえの説明が書かれています。イエスは家にもどると、弟子たちに対して、たとえの説明をなさいました。
「良い種を蒔く人」とは、イエスのことです。「畑」はこの世界、「良い種」とは御国の子らのことです。(「良い種」とは、ここではみ言葉・福音ではありません) 「毒麦」とは悪い者の子ら、「毒麦を蒔いた敵」は悪魔のことです。さらに「刈り入れ」とは世の終わり、「刈り入れる者」は天使たちです。
世の終わりの日(終末・天の国の到来の日)、イエスは天使たちを遣わし、悪い者の子ら(天の国と神の義を拒む者たち)を集めて燃え盛る炉の中に投げ込ませる。それに対し「正しい人々(御国の子ら)はその父の国で太陽のように輝く」のです。
イエスはまた、舟の上から「からし種」のたとえと「パン種」のたとえを話されました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
「からし種」とはクロガラシのことで、成長すると3~4mの高さになります。ここでは、天の国の拡大する生命力と、ユダヤ人だけでなく外国人をも迎え入れる包容力をたとえています。「パン種」とは、イーストのことで、粉に混ぜると、やがてパン全体を膨らませます。「三サトンの粉」とは36ℓです。この二つのたとえは、からし種もパン種もはじめは小さなものであるが、驚くべき生命力を宿していることを表しています。すなわち「からし種」は外的に成長し、「パン種」は内的に膨張します。世にあって御国の子らは小さな存在ですが、やがて外にも内にも激烈な力をもって拡大膨張し、天の国の到来を実現するのです。
今朝の御言葉「毒麦」と「からし種」と「パン種」のたとえは、何を私たちに教えているのでしょうか。
一つ目は、正しい者と悪い者を分けることは、私たちの仕事ではなく、主が遣わす天使たちによってなされることです。天の国の到来の時、天使たちは悪い者たちを先に集めて束にし、炉に投げ込みます。その後天使たちは、正しい者たちを刈り入れ、倉(天の国)に入れ、その者たちは太陽のように輝く者となるのです。そもそも私たちには、一緒に成長している隣の人が、正しい人か、悪い人かを判別することはできません。それがわかるのは、刈り入れの時です。その時まで同じ畑の中で、正しい人と悪い人が一緒に成長するのです。天使たちが刈り入れの時まで待つのは、私たちが正しい人を裁くことのないように、またその裁きによって自分だけでなく、まわりの正しい人をも傷つけないためです。
二つ目は、正しい人(御国の子ら)には、からし種やパン種のように、力強く成長していく主の力が与えられていることです。正しい人は、与えられた力によって大きく成長し、豊かな実りをいただくのです。同時に自分を正しいと考える人は、まわりの人や同じ畑にいる人を悪い人と判断し、「行って抜き集めておきましょうか」と言って裁こうとします。種を蒔くのは「人の子・イエス」であって、私たちではありません。私たちは、畑であるこの世界に蒔かれた「麦」でありますし、もしかすると私たちは悪魔が蒔いた「毒麦」であるかもしれません。私たちは、終わりの日に豊かに実を実らせ刈り入れられ天の国に入れられる「麦」であるか、刈り入れられて炉に投げ込まれる「毒麦」であるかのいずれかなのです。
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」、生物学的には、
麦が毒麦になったり、毒麦が麦になったりすることはありません。しかし、イエスはご自分の十字架と復活により、毒麦が悔い改め、赦しの恵みにあずかって、豊かな実りをなす麦に変わることを期待し、愛をもって忍耐をしておられるようにも思えます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)