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≪次月 2月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 3.2 降誕節第10主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

       (マタイによる福音書14章28~29節)

 

  「ペトロの挑戦」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

(マタイによる福音書14章28~29節)

 

            「ペトロの挑戦」        深見 祥弘

 新しい年を迎えたとばかりに思っていましたが、早三月となりました。「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」と言われますが、ぼやぼやしていたらこの月もすぐに去って行ってしまいます。年度の終わりの月でもありますので、心してこれからの一日一日を過ごしてゆきたいと思います。

 わたしたちの教会の最大の課題は、高齢化です。決してわたしたちが歳をとることを悪いと言っている訳ではありません。問題は、次の世代の人々が少なくなっているということです。将来、近江八幡教会という舟がなくなってしまうのではとの危機感をも覚えます。でもそのことのために自分たちで特別に何かをしなければとは考えず、今の時に安らぎをいただき、喜んで教会に集うことができていればよいとも思います。

 教会に集う人々の高齢化、このことは、わたしたちの教会に限らず多くの教会でみられることです。先週お訪ねした京都市内の教会も、礼拝に出席された方々(15名ほど)の多くがご高齢で、10代~30代の若い方はおられませんでした。都会の住宅地にある教会であり、幼稚園を併設する教会であり、近くに大学が幾つもある教会ですが、やはり高齢化の波の中にあるように思いました。でもアットホームな教会で、出席された皆さんは、そこにいることを心から喜んでおられる様子でした。

 

 今朝のみ言葉は、マタイによる福音書14章22~36節、イエスが湖の上を歩いた出来事、そしてゲネサレトで病人を癒した出来事を書いています。イエスは、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させた後、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のゲネサレトに行かせ、ご自分は祈るために山に登り夕方までそこにおられました。

 弟子たちは向こう岸へと舟を漕ぎ出しましたが、陸から何スタディオンか来たところで、逆風のため波に悩まされることとなりました。「何スタディオンか離れており」とありますが、1スタディオンは185mです。同じ出来事を書くマルコ福音書は「舟は湖の真ん中に出ていたが」(6:47)と書いていますし、ヨハネ福音書は「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」(6:19)とあります。陸からおよそ5㎞ほどのところです。

 ガリラヤ湖は、旧約聖書にはキンネレテの湖と書かれています。「キンネレテ」とは竪琴のことで、形がそれに似ていることからそう呼ばれました。琵琶湖も同じように楽器の琵琶の形に似ているところからそのように呼ばれます。また琵琶湖では、午後になると急に山から吹き下ろす強い風によって波立つことがあります。学生の頃、琵琶湖に泳ぎに来た際、比良山から吹き下ろす風に悩まされ、少し沖から岸に戻るのに苦労したことがありました。ガリラヤ湖でも夕方になると、周辺の山々から風が吹き下ろすことがあるようです。舟に乗った弟子たちは、日が沈む頃、強い風と波を受けて転覆するのではないかと不安や恐れを覚えました。

 夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちは、これを見て「幽霊だ」と言って恐怖のあまり叫び声をあげました。湖には、蛇かワニのような怪獣レビヤタンがいると考えられていて、それが現れたと思ったのです。しかし来たのはイエスで、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話かけられました。ペトロが、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言うと、イエスは「来なさい」と言われました。ペトロは舟を降りて水の上を歩き、イエスの方へ進みました。ところが途中強い風が吹くと、ペトロは急に怖くなり(イエスへの信頼が揺らぎ)、それによって沈みかけ「主よ、助けてください」と叫びました。イエスは、すぐに手を伸ばして彼を捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエスとペトロが舟に乗り込むと、風は静まりました。舟にいた弟子たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝みました。 

 彼らが向こう岸ゲネサレト(カファルナウムの南)に到着すると、土地の人々は病人をイエスのところに連れて来て「その服のすそにでも触れさせてほしい。」と願いました。そして触れた者は皆癒されました。

 

 ここで疑問の解き明かしをいたします。それはイエスがなぜ「強いて」弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせたのかということです。それは、弟子たちの将来に対する配慮によるものでした。イエスと弟子たちとは、やがて別れを経験することになりますが、イエスが共にいてくださるということはどういうことなのかを教えるためでした。

またイエスは山に登って一人何を祈っておられたのでしょうか。イエスは「大勢の群衆を見て深く憐み、その中の病人をいやされた」(14:14)とあるように、こうした人々の救いを祈られました。また弟子たちの不信仰を心配して彼らのために祈り、人々の救いのためになさねばならないご自分の使命(十字架)のためにも祈られました。

 ペトロたちが乗り込み漕ぎ出した舟は教会を表し、湖は世を表しています。イエスが使命とする十字架と復活を果し昇天した後、ペトロをリーダーとする初代教会は、嵐にたとえられる闇の時代、迫害の時代に漕ぎ出し、働きを始めました。そのときペトロたちは、このガリラヤ湖での出来事を思い起こして勇気づけられました。あの時弟子たちは、イエスの不在を覚え、自分たちの力で舟が沈まないようにしなければならない、イエスより与えられた使命をなさねばならないと思っていました。しかし逆風と波に悩まされた時、イエスは湖の上を歩いて来て下さり、彼らの信仰を整えて共にいることを教えてくださったのです。

 ペトロをリーダーとする初代教会においても、イエスは天よりすべての人々の救いのために祈り、働きをするペトロたちのために祈ってくださいました。さらにイエスは、時を越えて彼らのところに来て下さり、教会の中に共にいて平安を与えてくださいました。また教会の外にあっても、彼らのそばに立っていてくださいました。立っていてくださるイエスは、教会を出て時代の嵐の中で働きをしようとするペトロのような挑戦者の手を取り、支えと助けを与えてくださいました。

 

 初めにわたしは、このまま高齢化が進むと、教会がなくなってしまうかもしれないと申しました。そうした中わたしたちは、何とかして自分たちの力で次の世代の人たちに伝道をと願い働きをしますが、うまくいきません。そんなわたしたちに今朝のみ言葉は、不安や恐れを感じるとき、舟(教会)にイエスがいてくださることを知りなさい、信頼をもって働きをしなさいと励ましを与えてくれます。また、わたしたちが挑戦的な働きをするときも、イエスがそこに立っていてくださっていることを告げています。それゆえに主は、わたしたちが共にいてくださるイエスを信じ「本当に、あなたは神の子です」と告白し、教会に連なることを喜びとすることを求めておられるのです。とりわけわたしたちが聞くべきは、「恐れるな」という言葉です。わたしたちは、いずれの場や時代においても、イエスと共にある平安を発見し、信頼と喜びをもって救いを求める人のもとに舟(教会)を進め、湖(世)に踏み出すのです。 

2025. 3.9 復活前第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。                                            (ヨハネによる福音書2章17節)

 

「神の子は世に在って・・・」     仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。            (ヨハネによる福音書2章17節)

 

「神の子は世に在って・・・」     仁村 真司

マルコ・マタイ・ルカを合わせて「共観福音書」と言うのは、この三福音書の構成・記述にはかなりの共通性がある、これに対してヨハネ福音書には共通性が(あまり、殆ど、)ないということですが、それは当然です。

マルコ・マタイ・ルカが伝える出来事・事柄、その順番に共通性がある、多くが同じなのは、マタイとルカが最初に著された「マルコによる福音書」を(現代なら「著作権侵害」と言われかねない、もしくは「増補改訂版」と言ってもいいぐらいに)直接的に“参考”にして記されているからです。

なので、ある出来事がヨハネにしか書いてないから事実ではないとか、反対にヨハネには書いてないけれどもマタイ・マルコ・ルカには書いてあるから事実だろうとか、そんな多数決みたいな訳には行きません。

それと、共観福音書が揃って伝えている事柄であっても、それぞれの著者によるその捉え方は、時に正反対と言える程に、随分と違っています。

1)

イエスが神殿から商人を追い出したことはマルコ(11章15〜17節)・マタイ(21章12〜13節)・ルカ(19章45〜46節)、そしてヨハネも今日の箇所で伝えていますが、ヨハネ福音書だけその時期が違っています。

共観福音書ではイエスの活動の末期ですが、ヨハネ福音書では初期(ヨハネが描く神の子イエスの活動に公的も私的もないのでしょうが、カナの婚礼を私的、プライベートとするならば公的活動の最初)とされています。

ですが、神殿から商人を追い出すイエスの“思い”、どうしてそんなことをしたのか、これについては共観福音書の間にも違いがあるようです。

このエピソードは伝統的に「宮清め」と呼ばれて来ました。神殿を大切に思うイエスが商人を追い出すことによって世俗的に汚されていた神殿を清めたということですが、共観福音書の中で「宮清め」と呼んで差し支えなさそうなのはマタイとルカの記述です。それぞれの著者はイエスが神殿を大切にしていたと考えたのでしょう。

では、マタイとルカの元となったマルコの記述ではどうでしょうか。

記述の内容、量から見ても、マタイもルカもマルコが伝えるイエスの言動をやわらげようとしているようです。マルコに拠れば、そして実際には、商人を追い出したのは神殿を大切にする思いからの行動、「宮清め」ではなく、イエスの神殿に対する厳しい批判であったと考えられます。

  2)

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金

を撒き散らし、その台を倒し・・・              (15節)

ヨハネ福音書は、イエスの言動をマルコ以上に激しいものとして伝えています。またそれを弟子たちはどのように受け止めたのかも記しています。

弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。                    (17節)

「弟子たちは・・・」となっていますが、ここで述べられているのは、ヨハネ福音書著者の受け止め方、捉え方だと思います。ヨハネはイエスの激しい言動を神殿を大切に思う熱意の現れ、「宮清め」として伝えているのか。

それとも神殿に対する厳しい批判の現れとして伝えているのでしょうか・・・。

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」の出所は詩編です。

あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので

あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。

(詩編69編10節)

「あなたの家(神の家、神殿)を思う熱意」からイエスは「宮清め」をした。その際の激しい言動が「わたし(イエス)を食い尽くす(受難・十字架に至る大きな要因となった)」。・・・このように解されることが多いと思います。確かに「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしている」だけを見れば、そう受け取れなくもない。なのですが・・・

・・・ヘブライ語の詩は多くの場合二つの文で同じことを繰り返し表現するそうです。とすると、「あなたの神殿に対する熱情」と「あなた(神)を嘲る(非難する)者の嘲り(非難)」は同じことです。つまり神殿を信奉し、神殿に仕えることは神を非難する、神を嘲ることに他ならない、そのような神殿への熱意が「わたし(神を信じ、神に従う人)」を食い尽くす、これが本来の主旨です。従ってヨハネは、「宮清め」ではなく、神殿への厳しい批判としてイエスの言動を伝えていると考えられます。

当時のユダヤ教社会の頂点、宗教的のみならず政治的・経済的にも、あらゆる権威・権力を独占し、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民であるというユダヤ人優越主義の拠り所でもあったのがエルサレム神殿です。

その神殿について、商人が出入りして売り買いがなされているのはけしからんとか、そのような運営上の問題ではなく、神殿そのものが根本的に間違っているという批判としてイエスの言動を捉えている、この点ではマタイやルカ福音書ではなく、ヨハネ福音書がマルコ福音書と共通しているということになります。

  3)

ではその他の点ではどうでしょうか。

その時期をイエスの活動末期とするマルコ(・マタイ・ルカの共観福音書)に対して、ヨハネは初期としてのは、はじめの方で言った通りです。

それともう一つ。18節以下はマルコ(共観福音書)には対応する所のないヨハネ福音書独自の記述ですが、「こんなことをするからには、どんなしるしを・・・見せるつもりかと」と言うユダヤ人たちに、イエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言ったとあります(19節)。

この言葉はマルコでは受難物語に出て来ます。但しイエスの言葉ではなく、「イエスがこんなことを言って神殿を冒涜した」という裁判での証人の偽証(14章58節)、それと十字架上のイエスへの嘲りの言葉としてです。

(15章29節「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、・・・自分を救ってみろ」)。

ヨハネ福音書の著者はこれをイエス自身の言葉と考えています。そして「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(21節)

と述べ、イエスの復活を現すとしています。

神殿批判と捉えても「宮清め」と捉えても、それを活動の末期とするマ

ルコ(共観)福音書に拠れば、神殿から商人を追い出した、その際の言動が受難・十字架に至る逮捕の直接的なきっかけになった、ユダヤ人たちの間に燻っていたイエスへの敵意を燃え上がらせ、「神殿を壊し、三日で建てる」と言った等とでっち上げられたということになります。

私はヨハネ福音書の著者は実際はイエスが神殿から商人を追い出したのはこの世での活動の末期であったことを知っていたと思います。知った上で自らの福音書では初期としたのは、おそらくはこういうことです・・・。

・・・イエスが神の子、世を超越した絶対的権威者である。そして神の子イエスが世にあって私たちの前で生きていた、今も生きて私たちと共にある。

その道行きの全て、受難も十字架も復活も、世の動き、人々の思いや思惑に左右されることは決してない。何かがきっかけ等ということはない。

ヨハネ福音書が伝える神の子イエスはいつも世にあって、いつも人々に教え、病いに苦しむ人々を癒し、人々と楽しく飲んだり食べたり、そしてまた受難・十字架へと赴き、復活して生きて働いている。

ですから、いつの時代のどこでも、どんな人であっても、イエスを知る、イエスに出会うのが遅すぎたということにはならない。いつからでもイエスに(弟子たちと同じように)直接従うことが出来る。「現に私たちはそうしている。」ヨハネ福音書の著者はこのようにも言っていると思います

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