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≪次月 11月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 11.9 生誕前第7主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。                       (ルカによる福音書12章24節)

 

    「ただ神の国を求めなさい」     深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。                       (ルカによる福音書12章24節)

 

           「ただ神の国を求めなさい」     深見祥弘

 今朝は、私たちの教会の収穫感謝礼拝です。「私たちの教会の」と言いましたのは、キリスト教の暦では、11月23日(日)が「収穫感謝日」であるからです。私たちの教会では、11月第二日曜日に収穫感謝礼拝を守ります。

 さて今朝は、聖餐卓にパンとぶどう液が用意されています。これはイエスから私たちへのプレゼントです。それから秋の実りもここに並べました。これは父なる神からのプレゼントです。

 ここに並べられている柿やリンゴを見ると、これを食べるために山から熊が下りて来て被害が出ていることを思います。作物の被害だけでなく、今年は人里に下りて来た熊が人と鉢合わせし、パニックに陥って人を襲い、けがや死亡事故も発生しています。このことに対して、鉄製のおりを仕掛けたり、猟銃で射殺したりしています。なぜ、熊が人里に下りてくるのか、その理由の一つとして、森の木の実の不作が上げられています。それでなくても、これまで森であったところに人が入って住宅や畑にしたり、実のならない木(杉やヒノキ)に植え替えたりして、森の実りが少なくなっていて、熊だけでなく多くの野生の生き物たちに迷惑をかけてきました。少し時間がかかるかもしれませんが、森の動物たちも人も共存できる環境を造っていくことが必要なのでしょう。

 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書12章13~34節です。ここには「愚かな金持ち」のたとえと、「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」との教えが書かれています。すなわち人が自分の力で得たものだと考えている食べ物も着物も財産も命も、実はまことの所有者は神であり、それらを神が与えてくださっていることをもう一度覚えてほしいと教えているのです。

 ある金持ちの畑が豊作でした。金持ちは収穫した穀物を前にして「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。」とうれしい悲鳴をあげ、思いをめぐらしました。豊作は神が与えてくださる祝福・恵みであり、それは悪いことではありません。問題は、この時の金持ちの気持ちでした。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」 

金持ちは、豊作の穀物を前にして、これは自分の力によって得たもの、これによって自分は生き続けることができると思いました。神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか。」と言われました。

 金持ちは「これから先何年も生きていくだけの蓄えができた」と言いました。それに対し神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われました。自分で生きていけると思っている人が、実は神に生かされ治められている存在であることを明らかにしています。烏は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉も持たない、だが神は烏を養ってくださる。野の花は、働きも紡ぎもしない、しかし栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。これらのみ言葉にあるように、人も神の恵みによって生かされるものなのです。

 イエスは、弟子たちに「命や体のための食べ物や衣服の心配をするな」と言われました。あなた方は、人でありわたしの弟子であるのだから、神はそれらのものが必要なことを知っていて与えてくださる。神に信頼しなさい。

 また、自分の無力を知れと言われました。「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」それなのに5年も10年も先の生活を、どうして楽観したり思い悩んだりするのか、神に委ねよと言われたのです。

 そしてイエスは「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、日々の生活に必要とされるものは与えられる。」と言われました。神は「小さな群れ」に神の国をお与えになられます。「小さな群れ」とはイエスの弟子たちのことであり、神にすべてを委ねる者たちのことです。弟子たちに対して、ただ神の国を求めることの証しとして「自分の持ち物を売り払って施し、尽きることのない富を天に積みなさい。」と勧められます。神の養いに信頼し、自分の無力を知り、神にすべてを委ねて神の国を求めなさい。神の国を求め、施しの生活をするならば、富を天に積むこととなり、日々の生活に必要なものもまた与えられると教えられました。

 

 今、世界は人間の傲慢によって、神がお創りになられた世界の秩序が乱されています。人をはじめ創られた物すべてが、神の創造の秩序(神の国)を思い求めるならば、豊かな世界を回復することができるのです。

2025. 11.2 生誕前第8主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。   

 

(ヨハネによる福音書16章20節)

​「悲しみが喜びに変わる」   深見祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

                  (ヨハネによる福音書16章20節)

 

           「悲しみが喜びに変わる」      深見祥弘

 教会では、11月第一日曜日を「聖人の日・永眠者記念日」とし、召天された兄弟姉妹を覚え記念礼拝を守ってきました。今朝は、ご遺族の皆さまと礼拝を共にでき感謝いたします。この礼拝では、昨年11月から今年10月末までに召された7名の方々を含む、688名の方々を記念いたします。[新召天者7名の方々とは、川本美知栄姉(11/1)、武藤久子姉(12/24)、津田愛姉(3/3)、森本理兄(7/21)、檜山秋彦兄(7/24)、西川寬子さん(9/5)、奥村文子姉(9/23)です。]

 

688名の兄弟姉妹と教師が連なったこの教会は、来年2026年5月に創立125周年を迎えます。ご出席の皆さんの中には、この教会のことをよく知らないという方もおられることでしょう。この教会の歩みを簡単にお話いたします。滋賀県にプロテスタントのキリスト教を伝えたのは、新島襄をはじめとするアメリカンボードの宣教師たち、また同志社英学校(1875年創立)を卒業した牧師たちでした。1879年6月、彦根教会と八日市教会が設立されました。八日市教会が設立されたその日、信徒広瀬又治が教会設立の感動を胸に近江八幡の友人野間憲吉を訪ね、この近江八幡にキリスト教の種が蒔かれました。野間は、翌年1880年に自宅を開放し、八日市教会の牧師を招いて家庭集会・聖書研究会を始めました。近江八幡教会が産声をあげた時です。1880年、この年は東京YMCAが創立された年、またヴォーリズが誕生した年でもありました。この集会は、様々な困難を経験しながら1888年に「八幡基督教講義所」となり初めて牧師(宮川友之助)を迎えることができました。さらにこの講義所は、1901年5月9日「八幡組合基督教会」となりました。彦根や八日市では、比較的短期間で教会の設立に至りましたが、この教会は教会設立までに20年余りの時が必要でした。

 教会創立から4年後、1905年、W.メレル.ヴォーリズが来幡し、県立商業学校の英語教師として赴任いたしました。ヴォーリズ、24歳の時でした。2年後、英語教師を解職されると、ヴォーリズはYMCAを組織し、教会信徒の協力により為心町に「八幡キリスト教教育会館」を建築しました。教会も同じ時にこの地に会堂を建築しています。ヴォーリズは「近江ミッション」(近江兄弟社)を設立し、その発展とともに教会も教勢を拡大し、やがて教会は近江兄弟社と一体化することとなりました。近江兄弟社教務部に属する社員が近江八幡教会の牧師であり、近江兄弟社の社員が近江八幡教会の教会員でありました。これによって少数であった教会員が劇的に増加することとなったのです。また近江兄弟社は、滋賀県下に伝道し、各地に「基督教会館」(教会)を設立しますが、近江八幡教会はこうした教会の精神的核心となりました。1940年、教会は近江兄弟社学園内に移転、1941年、日本基督教団近江八幡教会と改称しました。戦後、教会は再び為心町の会堂に戻り、やがて近江兄弟社と教会が一体化している関係を解消し、創立当初のように町の教会として福音宣教にあたるようになりました。

ご出席の皆さんに連なる天上のご家族は、どの時代に教会に連なり、ご奉仕をしてくださったでしょうか。それぞれの時代状況の中にあって、懸命に祈り働きをしてくださった皆様を覚え、創立125年を迎えるにあたり心から感謝を申し上げます。

 

 今朝の聖書は、ヨハネによる福音書16章16~24節、これは「イエスの決別説教」の一部です。イエスは弟子たちに別れの時が迫っていること、これによってもたらされる悲しみは喜びに変わることを伝えています。  

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16) 「しばらくすると」とは、イエスの逮捕と処刑(十字架刑)を指しています。イエスは、ユダヤ当局者から「自らをメシアと称する者」、神を侮辱する者として狙われていました。それを知ってイエスは、間もなくユダヤ当局者に捕らえられ、「自らを王と称する者」としてローマ総督に引き渡され十字架に架けられる。しかし、復活と聖霊降臨によって「またしばらくすると」、わたしを見るようになると言われたのです。

 けれども、イエスのこの説教は、弟子たちには理解されませんでした。弟子たちは、「何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」と言って論じ合いました。これを見てイエスは、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」(20)と言われました。イエスが捕らえられ十字架に架けられると、あなたたちは悲嘆にくれるが、ユダヤ当局者は喜ぶ。しかしあなたがたの悲しみは、3日後のイエスの復活により、50日後の聖霊降臨によって喜びに変わるというのです。イエスの復活がもたらす喜びは新しい命の出現です。そして、聖霊降臨がもたらす喜びはこれまで分からなかったイエスのことがよくわかるようになり、弟子たちを信仰告白に導くことです。イエスと弟子たちを引き裂く別れがおとずれ、弟子たちは絶望と悲嘆を経験することになる。その時イエスの説教の言葉、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる」、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」を思い起こしてほしいと勧めているのです。

 

 ルドルフ・ボーレン(1922~2010)は、スイスに生まれ、ハイデルベルク大学で教えた神学者です。彼のお連れ合いさんは、重いこころの病でありました。著書「天水桶の深みにて―こころ病む者と共に生きて」は、お連れ合いさんと一緒に病と戦ってこられた日々を書かれています。ボーレンは、その日々において絶望と悲嘆を経験しました。困難に四方を囲まれどうしょうもないと思った時、彼は天が開いていることに気づき、天を仰いで祈りをささげました。さらに天さえ塞がれてしまい、くず折れてしまった時、祈りさえできない彼の内から、蓄えてきたイエスの言葉が自ら語りはじめ、彼を慰め、耐えさせ、立ち上がらせてくださることを経験したのです。「パートナー(御言葉)を得る。孤独のままではない。このパートナーは、初めは沈黙しているが、やがて語りはじめる。私が行くところ、立つところ、御言葉も私と共に行き、私と共に立つ。私を正し、立ち上がらせる。重いこころの病に抗して。」

 

 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。…願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(23.24)

  私は、命の終わりを間近にする兄弟姉妹や召天者の家族に、「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン」とお祈りくださいとお勧めをいたします。「わたしの名によって願いなさい」とあるように、「イエス・キリスト」の名によって祈ります。「イエス・キリスト」とは、「イエスは救い主」という意味です。「インマヌエル」とは、「神は我々と共にいます」という意味です。そして「アーメン」とは、「(そのことは)ほんとうです」という意味です。すなわち「イエスは(私の・私たちの)救い主、過去も今も未来も一緒にいてくださる。このことは本当です。」という信仰告白なのです。イエスは、十字架で亡くなった後、復活し、信じる私たちに新しい命を与えてくださり、聖霊によってイエス・キリストを理解し、信んじる私たちを新しいものにつくりかえてくださいます。

 今日、ご出席の皆様の内に留めていただきたいことは、「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン」この言葉、この祈り、この信仰告白です。

私は牧師として働きを始めて43年、近江八幡教会に来て13年になります。

「お前は牧師として何を伝えたいのか、ひと言で言え。」と言われるなら、

それは「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン。」このことですと答えるでしょう。

 「イエス・キリスト」その名によって願うならば、「その悲しみは喜びに変わる」のです。愛する人を失って悲嘆と絶望にくれる時、四方は囲まれていても天が開いています。「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン」と祈りましょう。また天も塞がれくず折れてしまった時、心のうちに蓄えてあった「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン」、この言葉が、この祈りが、この信仰告白が、あなたの内にあって自ら語りはじめ、あなたを慰め、癒し、希望と力に満たしてくださることでしょう。「悲しみが喜びに変わる」これは、この祈りによって可能なのです。

 

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