W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2025. 3.23 復活前第4主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
(マタイによる福音書16章21節)
「わきへ連れ出す者」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
(マタイによる福音書16章21節)
「わきへ連れ出す者」 深見 祥弘
先週日曜日(16日)、石山教会で日本基督教団滋賀地区総会が開催されました。そこで「2025年度の展望について」という議案が提出されました。
この議案では、5つの取り組みを承認しましたが、その一つが「滋賀地区は、19教会・伝道所、関連施設、信徒・教師のつながりを密にしながら、
諸課題を笑顔で、楽しく担っていく。」でありました。これについてある議員が、「諸課題を笑顔で、楽しく担っていく」とはどのようなことかとの質問を出しました。地区長は、「滋賀地区内の教会・伝道所、関連施設(幼稚園・保育園・こども園等)は、少子高齢化の波を受け10年後どうなっているかを想像することにおそろしさを感じる状況にあります。」といわれました。またご自分が働きをする教会のことも含めてこのように話をされました。「わたしが働きをする教会は、80代・90代が多いですが、みんな笑顔で礼拝に出席し、笑顔で奉仕をしてくれています。わたしはここに未来への希望を感じています。滋賀地区においても、この働きを委ねてくださっている主に信頼をし、決して孤立することなく、笑顔で楽しく諸課題を担ってゆくことを願っています。」
今朝のみ言葉は、マタイによる福音書16章13~28節です。イエスは、エルサレムに向うに先立ち、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に行きました。(聖書地図6 ガリラヤ湖北40キロ) その地方は、旧約時代バアル・ガドと呼ばれました。「バアル」は天候(雨)の神です。ギリシャ時代にはパネアスと呼ばれ、森の神パンの祭壇が設けられていました。そしてヘロデ王の時代、彼はパンの祭壇の近くに神殿を造り、ローマ皇帝アウグストゥスの像を置きました。ヘロデの息子フィリポが治めるようになると、この時の皇帝カイサルと自分の名をもってこの地を、フィリポ・カイサリアと名付けました。この地方は、自然崇拝と人間崇拝の場でありました。
この地に到着すると、イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人(モーセ)」と次々と名をあげました。人々は、イエスをメシヤ到来の前にあらわれる先駆者のだれかだと考えていたのです。
次にイエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねると、ペトロが「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と答えました。彼は、イエスが自然の神でも、人間の神でも、先駆者でもなく「メシヤである」と信仰を告白し、また木や石で造られた偶像ではなく「生ける神の子」であると告白しました。
イエスはペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。・・・あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。ペトロの信仰告白は、天の父の導きによってなされたもの、主は信仰告白をしたペトロを岩とし、その上に教会を建てると言われました。さらにイエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と告げられました。つまりペトロは天の国の執事となり、その鍵で天の国の門の開閉を司ることになると言われたのです。
ペトロが信仰を告白して後、イエスは「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに話しはじめました。しかしこれを聞いたペトロは、イエスをわきへお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめました。ペトロは天の父によって「あなたはメシア」と告白しましたが、彼はイエスがユダヤをローマ帝国の支配から解放するメシヤ(政治的メシヤ)であると期待していたのです。
イエスはペトロに「あなたは・・・神のことを思わず、人間のことを思っている」と言い、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と諭しました。人間の願いや思いに生きるのではなく、神の願いや思いに生きるようにしなさい。そしてあなたの内に湧き上がってくるであろう人間的な思いを、あなた自身の十字架として背負い、わたしに従いなさいと言われたのでした。
初めに地区総会のことを話しました。滋賀地区内の教会・伝道所・関連施設・信徒・教師は、それぞれに課題や困難を負うています。わたしは、主の働きにおいて与えられる苦難や試練には、意味があると思います。主は諸課題や苦難を通して、教会やそこに連なる一人一人につながりを与え、救いを実現しようとしておられるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」、このペトロの信仰告白は、天の父の導きによるものですから完全なものです。でもペトロ自身は次々に湧き上がる人間的な思いにゆらぐ存在であり、完全ではありません。彼はイエスを自分の願いを適えてくださる御方と見ていたからです。それでもイエスは、この不完全なペトロの上に主の教会を建て、天の国の鍵をゆだねられました。
この時から主イエスは、ペトロたちが正しく「メシア」と信仰告白できるように、様々な苦難や試練を与えるようになりました。またこの時から主イエスは、ペトロたちが主の教会を自分たちの教会にしたいという誘惑から守るために、苦難や試練を与えるようになりました。さらにこの時から主イエスは、ペトロが天の国の鍵を使って人々を導き入れるにもかかわらず、ペトロ自身が陰府に降ることのないように苦難と試練を与えるようになりました。そしてこの時から主イエスは、彼らの内にある「(主を)わきへ連れ出す者(サタン)」を退けるため、苦難と試練を与えるようになったのです。
ペトロたちの苦難の体験は、わたしたちの苦難の体験につながるものです。わたしたちは今、自分の十字架を背負って主イエスに従い歩む者です。それによってわたしたちは、十字架の主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白する者と変えられるのです。
わたしたちは今、自分たちの十字架を背負って歩む群れです。わたしたちの教会は、つながりあって歩むことで、主の教会とされるのです。
わたしたちは今、自分の十字架を背負って歩む働き人です。ペトロと同様にわたしたちは、天の国の鍵を委ねられるまことの働き人として主イエスにお仕えすることができるのです。わたしたちが、地上で禁じることは天上でも禁じられ、地上でゆるすことは天上でもゆるされる、そのような働き人になるためです。
教会の歴史を顧みると、苦難のない時代、苦難のない教会はありません。試練を経験したことのない教会もありません。もしそのような教会があるとしたら、それは主の教会ではありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、この主イエスの言葉に生きる教会は、必ず苦難や試練を負うことになるからです。
わたしたちにのぞみ来る苦難や試練は、わたしたちをまことの信仰告白に導くため、まことの教会に導くため、まことの働き人に導くため、そしてわたしたちを天の国・永遠の命に導くためのものであるのです。
2025. 3.16 復活前第5主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書3章16節)
「神はそれほどに・・」 仁村真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書3章16節)
「 神はそれほどに・・・ 」 仁村 真司
まず今日の箇所の手前、2章の終わりを見ておきましょう(23〜24節)。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ・・・
イエスが神の子である以上その行為が「しるし(奇跡)」となることも避け難くある。けれども、そういう「しるし」を見てイエスは神的な特別な存在だと知って、信じても、そんなのは本当の認識でも信仰でもないという見解が示されています。そして3章のはじまり、ニコデモの登場です。
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 (1〜2節)
ニコデモが言っているのは丸ごと「イエス御自身は・・・信用されなかった」
(2章23節)とはっきり否定されたばかりの「しるしを見て知る・信じる」ということです。そんなニコデモにイエスはどんなふうに、どんなことを語るのだろうか・・・。
1 )
・・・と思って読んで行くと11節、「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。」・・・イエスとニコデモの一対一の対話だったはずなのですが、ここでは「わたしたち」が「あなたがた」に、複数の人たちが複数の人たちに語っているかのようになっています。
また、13節「・・・人の子(イエス)のほかには、天に上った者はだれもいない」。イエスが復活後天に上ることが「上った」と既に完了した、過去のことのように語られています。でも、イエスが天に上るのはニコデモに語っているこの時点ではそう遠くはなくてもまだ先(未来)のことです。
それと5節のイエスの言葉、「だれでも水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」。この「水」は洗礼、「水と霊によって生まれる」とは洗礼を受けてキリスト教徒になることと考えられます。
そうすると6節の「肉から生まれたもの」とは割礼を受けた(だけの)ユダヤ教徒のこととなり、いきおい「水と霊によって」、洗礼を受けてキリスト教徒になって「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」(3節)ということになります。
なのですが、イエスの時代にキリスト教徒になる、教会の一員となる儀式
としての洗礼はないです。そもそもキリスト教会が未だありません。
どうやら今日の箇所はイエスとニコデモの一対一の対話という形を取りながらも、内容的には後の時代のキリスト教徒とユダヤ教徒との議論、乃至問答といったものになっているようです。
2)
ただ、これらのイエスの後の時代、キリスト教・教会が成立していることを前提とした文言は、如何にも“取ってつけたような”感じがします。
「わたしたち」となっているのは11節だけで、12節では「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば・・・」と「わたし(イエス)」一人が語っているようになって(戻って)います。
また、イエスが天に上ることについては14節では「・・・人の子もあげられねばならない」とこれから(未来)のこととして語られています。
そして5節の「水と霊によって生まれなければ・・・」が「洗礼を受けなければ・・・」ということであったとしても、6節では「霊から生まれたものは霊である」、「水」はなくなっています。でも、これは「水」がなくなったのではなく、5節は元々「霊から生まれなければ・・・」だった。そこに後から「水」が付け加えられたのでは・・・と考える方が普通だと思います。
5節に「水」がなく「霊から生まれなければ・・・」となっていて、そしてまた「わたしたち」・「あなたたち」となっている11節がなく、イエスが天に上ることが既に完了したこととして語られている13節もない、そのようなヨハネ福音書の原本は勿論のこと、写本は現存しません。
・・・が、それでもヨハネ福音書が元々(元々のヨハネ福音書が)伝えていたのはイエスとニコデモとの一対一の対話だったのではないか・・・。そう推測するのは、それほど無茶なことでも無理なことでもないと思います。
加えて、ニコデモはファリサイ派で議員(1節)、ユダヤ教の指導者の一人ですが、議論や問答のためにやって来たのではないです。「しるし」を見たのがきっかけではあった。でもそれ以上の何かをイエスに感じた。
もっとイエスを知りたいと思った。それでイエスを訪れたのだと思います。
3)
・・・と言う訳で、最初に戻って、最初に言いましたように、そんなニコデモにイエスはどんなふうに、どんなことを語ったのかということです。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 (3節)
イエスは「しるしを見てイエスを知る・信じる」ことを批判・否定してではなく、ニコデモを見て、ニコデモという人に対して、答えて(応えて)「新たに生まれなければならない」と言ったのだと思います
ニコデモがイエスを訪れたのは夜です(2節)。何故夜だったのか・・・。
その(イエスの十字架上での死の)後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。・・・(中略)
・・・そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 (19章38~39節)
ニコデモは普通の良い人だと思います。イエスに感じる所があって、訪ねて、対話して、更に惹かれるようになった。それはイエスの受難・死に際しても変わらなかった。でも、ヨセフとは小さくはない違いがあります。
マルコ福音書によればヨセフも議員ですが、「勇気を出してピラトのところへ行き」(15章43節)とあります。ニコデモはこっそりヨセフ(の勇気)に便乗した訳です。イエスを夜訪ねたのも、人々や他のユダヤ教指導者たちに知られないように、闇に紛れて、こっそりと・・・ということです。
「議員でなければ、こんな世でなければ、世が変われば、私もイエスに従うのだが・・・」。ニコデモは多分こんなふうに思っていたと思います。
そしてニコデモのような人にとって「しるしを見て知る・信じる」とは、世のだれもが否定できない、認める、この世での立場・地位が脅かされない
“安全な範囲で信じる”、そこから踏み出さないということです。が、私は思います。私も同じなのではないか。「〇〇でなければ、こんな世だから、いつかは」とイエスに従うことを先延ばしにしているのではないか。
こう思い至ると、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」・・・何も考えずに諳じてきたこの言葉がとても不思議に感じられます。
神は、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために、それほどに、何故“こんな世”を愛されたのでしょうか。信じる者(だけ)を愛する方が手っ取り早いように思えます。
ですが「永遠の命を与えられるため」ではなく「得るため」、ここです。
いつかではない。今、この世において新たに生まれイエスに従う。そうして永遠の命を得るようイエスは、ニコデモに、私たちに、示しています。
2025. 3.9 復活前第6主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。
(申命記30章15~16節)
「わたしの前に置かれた死と命」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。
(申命記30章15~16節)
「わたしの前に置かれた死と命」 深見祥弘
皆さんは、聖書を毎日お読みですか。わたしは牧師という立場から、半ば「強いられて聖書を読み語る」という日々です。先週を振り返ると、2日主日礼拝(マタイ14章)、4日葬儀(ヨハネ2章)、6日朝の祈祷会(エレミヤ19章)、7日世界祈祷日礼拝(詩編139編)、そして今日の主日礼拝(申命記30章)といったぐあいです。同時にわたしは、強いられてではなく毎日聖書を読んでいます。それは、ローズンゲン(LOSUNGEN)という小さな本によってみ言葉をいただくのです。ローズンゲンは、一年365日、一日一日読む旧約聖書と新約聖書の言葉を記しています。これは、ドイツのヘルンフート兄弟団により1731年に発行されて以来毎年発行され今日に至ります。そして今では、約50の言語に翻訳されています。ローズンゲンとは、「くじ」を意味する言葉です。毎年5月ヘルンフート兄弟団は、旧約聖書の箇所をくじで選び、その内容にふさわしい新約聖書の箇所を兄弟団で選びます。くじを用いるのは、人の思いではなく神の御心を尋ねるために行います。葬儀のために、祈祷会のためにわたしが選んだ言葉ではなく、神が選んでくださったその日の言葉に触れることで、わたし自身がリフレッシュすることができます。
今朝のみ言葉は、旧約聖書・申命記30章15~20節です。申命記は、どんな書でしょうか。1章3~5節にこう書かれています。「第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。・・・モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。」
モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、四十年間の荒れ野の旅を経て、ヨルダン川の東側モアブの平野に至りました。川を隔てて、神が約束してくださった地カナンを望むこともできました。モーセは出発に先立ち、もう一度、民に律法を教えました。その時のモーセの言葉が、「申命記」(「くり返される律法」を意味する)です。モーセと共にエジプトを出た世代の人々はみな、ヨルダン川を渡ることはできません。新しい世代のイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地に入るのです。
モーセは、人々に何を語ったのでしょうか。申命記には、多くのことが語られていますが、最も大切なこととして語られたのは次のことです。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。」(30:15~18)
四十年間の荒れ野の旅において、イスラエルの民は「主を愛し、その道に従って歩む」ことに失敗しました。荒れ野を旅する中で、主への不信を募らせ、エジプトの神々の一つである金の子牛を礼拝しました。また荒れ野を旅する中で、飢えや渇きを覚えて主への不信を募らせ、マサの地で主を試みました。モーセもまた主を信頼できずにいたのです。主がモーセに杖で岩を打つように命じられ、モーセがそうすると岩から水が出ました。また主は、人々にマナを与え養ってくださったのです。モーセは、主の言葉としてイスラエルの民に語りました。主を愛し、命と幸いを得よ、決して偶像を拝して死と災いを得ることのないようにしなさい。
モーセの言葉にもかかわらず、約束の地カナンに入った民は、やがて主を軽んじ、カナンの偶像バアルやアシェラを拝するようになりました。その結果、主はアッシリアやバビロンを用いて国を滅し、人々は、かつてエジプトで経験した奴隷生活をバビロンで再び経験することとなったのです。
イエスは荒れ野で四十日間、サタンから試みを受けたとき(マタイ4:1~11)、申命記の言葉で試みを退けられました。サタンが「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言うと、イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えられました。このイエスの言葉は、申命記8章3節の言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
サタンが「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたたちのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と言うと、イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われました。このイエスの言葉は、申命記6章16節の言葉です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」
サタンがイエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄を見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うと、イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と答えられました。このイエスの言葉は、申命記6章13節の言葉です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」
サタンの誘惑の話は、かつてイスラエルの民が受け失敗した試みを、イエスもお受けになられて勝利したことを告げ、イエスを信じることによって、人は誘惑や試みを退け、命と幸いを得ると語っています。
申命記30章は、「今日」という言葉(15、16、18、19節)をくり返し用いています。モーセは、「命と幸い」か「死と災い」か、どちらかを選ぶ人々にとって、「今日」がいかに大切であるかを教えます。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」人々の日々の歩みは、「命と幸い」か「死と災い」かの選択の連続です。それでは、何を基準にして選択していけばよいのでしょうか。今朝の御言葉の前、申命記30章14節には「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」と書かれています。御言葉を基準にしなさいということでしょうか。ではわたしたちを「命と幸い」へと導く御言葉とは何でしょうか。
律法の専門家が「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問うた時、イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。そうすれば命が得られる」(ルカ10:25~28)と答えました。イエスは、「神を愛し、隣人を愛する」これが基準だと教えられたのです。
わたしたちは、聖書を身近に置き、日々たゆみなく読むことで、また口と心にそれを宿すことで神と人を愛し、「命と幸い」すなわち永遠の命と神の国の恵みをいただくのです。わたしたちは、聖書によって悔い改めに、そしてイエスへの信仰によって「命と幸い」に導かれるのです。
2025. 3.2 降誕節第10主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
(マタイによる福音書14章28~29節)
「ペトロの挑戦」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
(マタイによる福音書14章28~29節)
「ペトロの挑戦」 深見 祥弘
新しい年を迎えたとばかりに思っていましたが、早三月となりました。「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」と言われますが、ぼやぼやしていたらこの月もすぐに去って行ってしまいます。年度の終わりの月でもありますので、心してこれからの一日一日を過ごしてゆきたいと思います。
わたしたちの教会の最大の課題は、高齢化です。決してわたしたちが歳をとることを悪いと言っている訳ではありません。問題は、次の世代の人々が少なくなっているということです。将来、近江八幡教会という舟がなくなってしまうのではとの危機感をも覚えます。でもそのことのために自分たちで特別に何かをしなければとは考えず、今の時に安らぎをいただき、喜んで教会に集うことができていればよいとも思います。
教会に集う人々の高齢化、このことは、わたしたちの教会に限らず多くの教会でみられることです。先週お訪ねした京都市内の教会も、礼拝に出席された方々(15名ほど)の多くがご高齢で、10代~30代の若い方はおられませんでした。都会の住宅地にある教会であり、幼稚園を併設する教会であり、近くに大学が幾つもある教会ですが、やはり高齢化の波の中にあるように思いました。でもアットホームな教会で、出席された皆さんは、そこにいることを心から喜んでおられる様子でした。
今朝のみ言葉は、マタイによる福音書14章22~36節、イエスが湖の上を歩いた出来事、そしてゲネサレトで病人を癒した出来事を書いています。イエスは、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させた後、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のゲネサレトに行かせ、ご自分は祈るために山に登り夕方までそこにおられました。
弟子たちは向こう岸へと舟を漕ぎ出しましたが、陸から何スタディオンか来たところで、逆風のため波に悩まされることとなりました。「何スタディオンか離れており」とありますが、1スタディオンは185mです。同じ出来事を書くマルコ福音書は「舟は湖の真ん中に出ていたが」(6:47)と書いていますし、ヨハネ福音書は「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」(6:19)とあります。陸からおよそ5㎞ほどのところです。
ガリラヤ湖は、旧約聖書にはキンネレテの湖と書かれています。「キンネレテ」とは竪琴のことで、形がそれに似ていることからそう呼ばれました。琵琶湖も同じように楽器の琵琶の形に似ているところからそのように呼ばれます。また琵琶湖では、午後になると急に山から吹き下ろす強い風によって波立つことがあります。学生の頃、琵琶湖に泳ぎに来た際、比良山から吹き下ろす風に悩まされ、少し沖から岸に戻るのに苦労したことがありました。ガリラヤ湖でも夕方になると、周辺の山々から風が吹き下ろすことがあるようです。舟に乗った弟子たちは、日が沈む頃、強い風と波を受けて転覆するのではないかと不安や恐れを覚えました。
夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちは、これを見て「幽霊だ」と言って恐怖のあまり叫び声をあげました。湖には、蛇かワニのような怪獣レビヤタンがいると考えられていて、それが現れたと思ったのです。しかし来たのはイエスで、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話かけられました。ペトロが、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言うと、イエスは「来なさい」と言われました。ペトロは舟を降りて水の上を歩き、イエスの方へ進みました。ところが途中強い風が吹くと、ペトロは急に怖くなり(イエスへの信頼が揺らぎ)、それによって沈みかけ「主よ、助けてください」と叫びました。イエスは、すぐに手を伸ばして彼を捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエスとペトロが舟に乗り込むと、風は静まりました。舟にいた弟子たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝みました。
彼らが向こう岸ゲネサレト(カファルナウムの南)に到着すると、土地の人々は病人をイエスのところに連れて来て「その服のすそにでも触れさせてほしい。」と願いました。そして触れた者は皆癒されました。
ここで疑問の解き明かしをいたします。それはイエスがなぜ「強いて」弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせたのかということです。それは、弟子たちの将来に対する配慮によるものでした。イエスと弟子たちとは、やがて別れを経験することになりますが、イエスが共にいてくださるということはどういうことなのかを教えるためでした。
またイエスは山に登って一人何を祈っておられたのでしょうか。イエスは「大勢の群衆を見て深く憐み、その中の病人をいやされた」(14:14)とあるように、こうした人々の救いを祈られました。また弟子たちの不信仰を心配して彼らのために祈り、人々の救いのためになさねばならないご自分の使命(十字架)のためにも祈られました。
ペトロたちが乗り込み漕ぎ出した舟は教会を表し、湖は世を表しています。イエスが使命とする十字架と復活を果し昇天した後、ペトロをリーダーとする初代教会は、嵐にたとえられる闇の時代、迫害の時代に漕ぎ出し、働きを始めました。そのときペトロたちは、このガリラヤ湖での出来事を思い起こして勇気づけられました。あの時弟子たちは、イエスの不在を覚え、自分たちの力で舟が沈まないようにしなければならない、イエスより与えられた使命をなさねばならないと思っていました。しかし逆風と波に悩まされた時、イエスは湖の上を歩いて来て下さり、彼らの信仰を整えて共にいることを教えてくださったのです。
ペトロをリーダーとする初代教会においても、イエスは天よりすべての人々の救いのために祈り、働きをするペトロたちのために祈ってくださいました。さらにイエスは、時を越えて彼らのところに来て下さり、教会の中に共にいて平安を与えてくださいました。また教会の外にあっても、彼らのそばに立っていてくださいました。立っていてくださるイエスは、教会を出て時代の嵐の中で働きをしようとするペトロのような挑戦者の手を取り、支えと助けを与えてくださいました。
初めにわたしは、このまま高齢化が進むと、教会がなくなってしまうかもしれないと申しました。そうした中わたしたちは、何とかして自分たちの力で次の世代の人たちに伝道をと願い働きをしますが、うまくいきません。そんなわたしたちに今朝のみ言葉は、不安や恐れを感じるとき、舟(教会)にイエスがいてくださることを知りなさい、信頼をもって働きをしなさいと励ましを与えてくれます。また、わたしたちが挑戦的な働きをするときも、イエスがそこに立っていてくださっていることを告げています。それゆえに主は、わたしたちが共にいてくださるイエスを信じ「本当に、あなたは神の子です」と告白し、教会に連なることを喜びとすることを求めておられるのです。とりわけわたしたちが聞くべきは、「恐れるな」という言葉です。わたしたちは、いずれの場や時代においても、イエスと共にある平安を発見し、信頼と喜びをもって救いを求める人のもとに舟(教会)を進め、湖(世)に踏み出すのです。