W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2025. 7.6 聖霊降臨節第5主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
(コリントの信徒への手紙第二8章9節)
「豊かな者になりなさい」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
(コリントの信徒への手紙第二8章9節)
「豊かな者になりなさい」 深見 祥弘
私たちの教会は、「こころの友による文書応援伝道」(教団伝道委員会)に参加協力をしています。今年度は、「こころの友」紙を毎月、東北教区・福島県の教会に25部、それから東中国教区・岡山県の教会に10部、合わせて35部をお送りし、伝道のために用いていただいています。昨年度は、毎月6教会に合わせて100部をお送りしていましたが、私たちの教会の会計状態を考えるとともに、相互の交わりを大切にしたいとの思いから、今年度は2教会に35部お送りし、その教会の伝道に参与させていただくことといたしました。
岡山県の教会は、牧師(他教会と兼務)と教会員1名の教会です。この教会員さんは94歳の兄弟で、毎月届く10部の「こころの友」紙を知人に届けるなどして伝道に用いてくださっています。兄弟は、6月はじめに転んでおけがをされました。ご回復をお祈りいたします。この教会は、牧師が兼務している別の教会と協力し、毎日曜日と第三金曜日に合同礼拝を行っておられます。先日、感謝の手紙と写真をお送りくださいました。
福島県の教会は、牧師と教会員8名の教会です。この教会は、毎月、週報をお送りくださいます。週報には、主日礼拝の説教が全文載せてあり、読ませていただいていますが、そこから行き届いた働きをしておられることがよくわかります。「こころの友」紙が、この教会の伝道の一助になることを願っています。
今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙第二8章1~15節です。ここでパウロは、マケドニア州の教会を例にあげながら、アカイア州のコリント教会に対し、エルサレム教会を援助するように促しています。
まず、コリントの信徒への手紙第二についてお話いたします。この手紙を書いたのは、パウロとテモテです。手紙の受け取り人は、コリント教会とアカイア州に住む信徒たちです。この手紙は、紀元54~55年頃、エフェソで書かれました。
パウロたちは第二伝道旅行でコリントを訪れ、教会が創立されました。
その後、彼らはこの地を離れエルサレムに向います。そしてパウロたちが第三伝道旅行で再びコリントを訪れるまでの間に、5通の手紙を書き送ったと考えられます。⑴「先の手紙」です。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」(Ⅰコリント5:9)とあります。この手紙は現存しません。⑵「コリントの信徒への手紙第一」です。この手紙は、コリント教会の様々な問題に答えています。⑶「涙の手紙」です。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(Ⅱコリント2:4)。この手紙も現存しません。⑷Ⅱコリント1~9章「和解の手紙」。⑸Ⅱコリント10~13節「弁明の手紙」です。今朝の御言葉は、Ⅱコリント8章ですから、「和解の手紙」の一部です。
パウロたちがコリントを出発した後、この町にパウロを批判する者がやってきました。この者は、パウロたちがキリストの直弟子ではないので人を欺く者であり、いつも危機の中にあって死にかかっているようであるので神に罰せられている者であると批判し、コリント教会の人々もこの者の言葉に耳を傾けました。この事態を知ったパウロは、エフェソの町で「涙の手紙」を書き、テトスに持たせコリントに送り出しました。その後帰ってきたテトスは、コリントの人々が手紙の言葉を受け入れ、神に対する熱心とパウロに対する信頼を回復したことを報告しました。これを聞いたパウロは、再び「和解の手紙」を書きました。パウロは、コリント教会の人々を「兄弟たち」と呼び、マケドニア州の教会の働きを紹介しながら、世界の諸教会の母なる教会でありながら、貧しさの中にあるエルサレム教会の支援を再開するよう呼びかけました。
マケドニア州の教会とは、フィリピ、テサロニケ、ベレアの教会です。
これらの教会は、「苦しみによる激しい試練」と「極度の貧しさ」の中にありました。しかし彼らは、「満ち満ちた喜び」と「人に惜しまず施す豊かさ」を持っていました。すなわちこれらの教会は、「彼らの力に応じて、また力以上に」献げました。あのレプタ二枚を献げたやもめのように、金額は決して多くありませんが、彼らの力量を越える献げものをしたのでした。
またマケドニア州の教会は、「自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと・・・願い出」ました。すなわち自ずから進んで献げ、さらにマケドニア州の教会には、その献金の内に献身の思いがありました。パウロが「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と書いているとおりです。
コリント教会は、以前エルサレム教会を助ける献金を行っていました。ところが、パウロとの関係が悪化したことでその援助を中断したのです。パウロは、テトスからの知らせを聞き、信仰、言葉、知識、熱心、愛などすべての点で豊かなコリント教会が、エルサレム教会への献金を再開することで「慈善の業においても豊かな者に」なってもらいたいと願いました。同時にパウロに命じられたからそれをするのでなく、コリント教会が「主イエス・キリストの恵み」に感謝して行ってほしいと願っているのです。
「主イエス・キリストの恵み」とは、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」と書かれているとおりです。すべてに満ち満ちている神の子イエスは、私たちのために人の子となられました。人の子イエスは、全てを捨てて十字架にお架かりになられ、信じる人に神の国と永遠の命を与え豊かにしてくださるのです。
この恵みに感謝するマケドニア州の教会は、「苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさを」持つようになりました。エルサレム教会を支援してきたこれらの教会は、迫害と貧しさに耐えながらも、イエス・キリストが備えてくださった恵みに感謝し、彼らもイエスのように極度の貧しさの中に身を置きつつ、惜しまず人に施す豊かさを持つことができたのです。
パウロは、苦難の度に、主の慰めと恵みをいただく経験をしていました。その苦しみは激しいけれど、恵みはそれを覆いつくすほどに豊かなものでありました。その豊かな慰めと恵みによってパウロは、あらゆる苦難の中にいる人を慰め恵み、彼はそれによって豊かな者となったのです。そしてパウロは、コリント教会にもこの恵みと豊かさを知ってほしいと願いました。15節に「多くを集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった。」とあります。これは出エジプト16章18節、荒れ野で主が与えてくださったマナの出来事を記した言葉です。モーセの時代から、イエスの時代、そしてパウロの時代を経て今日に至るまで、私たちは神の恵みにあずかっています。主は私たちがその恵みに感謝し、施しにおいても豊かな者になりなさいと促しておられるのです。