W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2025. 12.7 降誕前第3主日(アドベントⅡ)

< 今 週 の 聖 句 >
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
(マルコによる福音書1章7~8節)
「主の道を整える者」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
(マルコによる福音書1章7~8節)
「主の道を整える者」 深見 祥弘
アドベント第二の主日を迎えました。「アドベント・クランツ」に二つ目の光が与えられました。先週礼拝で「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語アドベントゥスに由来するとお話をしました。それは、二千年前のキリストの到来を記念するクリスマスを迎える準備のときであるとともに、第二の到来であるキリストの再臨にも心を向けて、悔い改めつつ主の到来を待ち望むことです。また「クランツ」は、古代において「勝利のしるし」で勝者に与えられました。「アドベント・クランツ」は、来るべき主の勝利を証しするもの、すなわち主イエスによってわたしたちの命が完全なものとされること、すなわち永遠の命のしるしであります。さらにわたしたちの不完全な愛が主イエスによって全き愛とされるしるしです。わたしたちは今、アドベント・クランツの光を見つめながら、主の勝利を信じ、永遠の命への希望に生きることができているか、そして隣人への愛に生きることができているかを顧みるひと時を過ごしましょう。
今朝の御言葉は、マルコによる福音書1章1~8節です。ここには、神の子イエス・キリストが世にあらわれる前になされた、バプテスマのヨハネの働きを書いています。この御言葉から新たに示されたことがありました。それはこの箇所が、旧約聖書であるということです。2節に「預言者イザヤの書にこう書いてある。」とありますが、それだけではありません。
まず旧約聖書の最初の書、創世記が出てきます。1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。「初め」(アルケー)で思い出すのは、創世記1章1~2節「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」という言葉です。マルコ福音書の「初め」は、これからイエス・キリストの話がはじまりますという意味ではありません。この「初め」は、神が神の子イエス・キリストによって喜びの出来事(福音)をはじめられます、新しい創造がはじまりますと告げているのです。神によって創造された天と地は、人の罪によって荒れ野に変えられました。そのことに心を痛められた神が、神の子イエス・キリストをお遣わしになられ、もう一度天地創造を行おうとしておられます。マルコ福音書は、1節の言葉によって、これが第二の創世記であると宣言をしているのです。
2節に「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」とあります。でも、かっこで結ばれている2節は、イザヤの言葉ではありません。出エジプト記23章20節の言葉、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」です。これは、主がエジプトを脱出し荒れ野を旅するイスラエルの人々に語った言葉です。「使い」とは、モーセでありヨシュアであります。彼らが道を整え、人々を約束の地カナンに導き入れると言うのです。
次に3節、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」は、イザヤ書40章3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」です。イザヤ書40章は先週礼拝でお話した第二イザヤで、捕囚地バビロンで預言者として働きをいたしました。彼は、捕囚民の罪を指摘し悔い改めを叫びますが、同時に悔い改めによって捕囚生活からの解放と故国への帰還をも預言いたしました。
さらに2節の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」は、旧約聖書最後の書マラキ書3章1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」の言葉でもあります。マラキは、これまで神が預言者によりイスラエルの民に約束されたことを思い起こしながら、必ず神の救いが実現すること、それは使者である者によって主の道が整えられ、その後救い主がおいでになられると預言をいたしました。そしてマラキの預言は、使者であるバプテスマのヨハネと優れた方主イエスによって実現することになります。
バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを授けました。これまでヨルダン川で行うバプテスマは、外国人がユダヤ教に改宗する際に行われました。ユダヤの人々はというと、毎日水で身を清めることを習慣としていました。ところがバプテスマのヨハネは、この時、ユダヤの人々に対しても外国人と同じように、ヨルダン川で一度限りの悔い改めのバプテスマを受けるようにと呼びかけたのでした。それはかってイスラエルの人々が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り約束の地に入った、その時のことを思い起こす(ヨシュア記3章)ためでありました。荒れ野を40年間旅してきたイスラエルの人々が、数々の試練を経験するなかで悔い改めに導かれ、ヨルダン川を渡り、約束の地に到着したことを思い起してほしいと願ったからです。救い主の到来を前にして、人々がヨハネに導かれてヨルダン川の水をくぐり抜けてバプテスマを受け、救いの恵みをいただくために整えられるのです。
またバプテスマのヨハネの姿は、かっての預言者エリヤの姿「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」(列王記下1:8)を思い起させるものでした。毛衣を着、腰に革帯を締め荒れ野の預言者として迫害の中で働きをしたエリヤ、救い主がおいでになる前に再びあらわれると信じられていたエリヤでした。ですから人々は、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」るヨハネの姿を見て、エリヤが再来したと思い、救い主の到来を予感したのでした。
バプテスマのヨハネはこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(7~8) この言葉もまた預言者エゼキエルの言葉を覚えてのものでした。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。…わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」(エゼキエル36:25~26) 天地創造が、神の言と霊によって行われたように、これから行われる第二の天地創造も、言であるキリストと新しい霊の働きによってはじまるのです。
はじめにマルコ福音書1章1~8節は、旧約聖書であると言いました。
わずか8節の中に、幾つもの旧約聖書の言葉が覚えられていました。それは、創世記、出エジプト記、ヨシュア記、列王記、イザヤ書、エゼキエル書、マラキ書でありました。すなわち律法、歴史書、預言書、これらに示された神のご計画が、マルコ福音書1章に示されていたのです。神が計画しお遣わしになられたバプテスマのヨハネと神の子イエス・キリスト、この二人によってわたしたちに新しい命が与えられ、荒れ野が新しい天地・神の国(1:15)に変えられるのです。「アドベント・クランツ」の光を見つめながら、その時を待ち望みましょう。