W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2026. 1. 25. 降誕節第5主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
(ルカによる福音書10章38節)
「続 普通の人々」 仁村 真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
(ルカによる福音書10章38節)
「続 普通の人々」 仁村 真司
前々回 (11月)、伝統的に「善いサマリア人」と呼ばれて来た有名な譬え話について、これは特別に「善い」一人の人 (サマリア人)の話ではないという主旨で「普通の人々」と題してお話ししました。
今回見ていくのはマルタ・マリア姉妹とイエスとの関わり、やり取りの話です。「続 普通の人々」としたのは、このやり取りが直前 (25~37節)の所謂「善いサマリア人」の譬え話が語られる律法の専門家とイエスとのやり取りの続きとして記されている、ルカはそのつもりで記したと考えられるからです。
1)
譬え話を語り(30~35節)、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問う(36節)イエスは、「隣人愛」とはどのようなものか示し、その実行を促していると受け取れます。ですが、イエスがはじめに実行するように言ったとされるのは「隣人愛」だけではありません。
彼(律法の専門家)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、 思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。・・・」 (27~28節)
つまり「神への愛」と「隣人愛」を実行しなさいということです。ところが、律法の専門家は「わたしの隣人とはだれですか」(29節)と「隣人愛」にしか関心を示さず、「行ってあなたも同じようにしなさい」(37節)と「隣人愛」の実行(だけ)が命じられる(ことになってしまった)。
そこで「神への愛」と「隣人愛」、それぞれがどのようなものか、それぞれを実行するとはどういうことなのか、そういったことを示すために続けてマルタ・マリア姉妹とイエスとのやり取りが記される。
ここでイエスの足もとに座って話に聞き入るマリアは「神への愛」を、もてなしのために忙しく立ち働くマルタは「隣人愛」を、それぞれに実行する人々の姿を表すと考えられます。そうすると、マルタがイエスに言った「(マリアに) 手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)とは、マリアに隣人愛を行うよう言ってくださいということになります。
これに対してイエスは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と答える (42節)。
マリアが選んだ「良い方」とは「神への愛」です。そして「隣人愛」も良いのだけれども、「神への愛」の方が良いということです。では「それを取り上げてはならない」、「隣人愛」を行うよう促すのがどうして「神への愛」を取り上げることになるのか…。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは「あなたの全てで神への愛を実行せよ」ということです。この全てでなければならない「神への愛」を行っている人が「隣人愛」を(も)行えば、「神への愛」が全てではなくなってしまう。
だから「神への愛」を取り上げることになるということです。
2)
ここで示される「神への愛」と「隣人愛」のあり方からすれば、隣人を愛する人には神を愛することはできない、神を愛する人には隣人を愛することはできない、そして隣人を愛する人も良いが、神を愛する人の方がより良いということになります。そうすると勢い「隣人愛」を行うマルタも良いが、 「神への愛」を行うマリアの方がより良いとなって、より良い程度に違いはあれど、今日の箇所は「多くのことを思い悩み、心を乱している」マルタをイエスがたしなめる話というふうに受け取られて来ました。
これに対して近年では(と言っても結構以前から)イエスがマルタを批判してマリアを評価したとする解釈はマルタ的な能動的女性よりマリア的な受動的女性を好ましいとする男性の価値観によるという見解が示され、この話は受動的女性を好む男性ルカによる創作と主張する人もいます。
ルカがマルタよりマリアを好んでいたかは兎も角、またルカの創作とまで言えるかどうかも兎も角として、ヨハネ福音書はマルタとマリアにはラザロという弟がいて、ベタニアに住んでいた。そして以前からイエスとはかなり親しい間柄であったことを伝えています。 (11章4節 「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」)
これらはおそらく事実です。ベタニアはエルサレムのすぐ近くで、マルコ福音書ではイエスはエルサレム入城後も夕方にはベタニアに出て、翌朝ベタニアからエルサレムに行きます。ルカ福音書でエルサレムに到着するのは19章、今日の箇所は10章ですからまだまだ先のことですが、マルタとマリアが住んでいたのがベタニアとなるともうエルサレムに着いてしまう。
しかしルカとしては「神の愛」と「隣人愛」のあり方を示すのにこれ以上の話はない、あるいは間違いなく「神の愛」と「隣人愛」のあり方が示されていると考えたのか・・・。マルタとマリア、この姉妹とイエスの関わりの一部を切り取ってここ (10章38~42節) に持って来たのだと思います。
3)
このようにしてルカが示している、乃至示されていると考えた、「神の愛」と「隣人愛」が間違っているというのではありません。ですが、ちょっと釈然としないというのは私だけではないと思います。
マルタは「神への愛」を行っている、マルタは「隣人愛」を行っている。マルタも良いがマリアの方がより良い、そんなふうに思ってイエスが二人と関わっていたとは考えられません。それよりもマルタとマリア、二人のイエスとの関わり、そのほんの一部を切り取ったのであろう今日の箇所からもイエスとマルタ・マリア姉妹の生き生きとした、そして親しい間柄故のほのぼのとした雰囲気が伝わって来るような気が私はします。
ここまで来てこんなことを言うのは “元も子もない” と思われるかもしれませんが、私は今日の箇所においても、直前の律法の専門家とのやり取りにおいても、イエス自身は「神への愛」についても「隣人愛」についても直接的には語っていません、そして間接的にも示していないと思います。
もう一度事の起こり、27~28節を見てみましょう。
彼(律法の専門家)は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。…」
律法の専門家が「神への愛」と「隣人愛」とは違うことを言ったとしてもイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言ったと思います。
「あなたがそう言うのなら、本気でやってみなさい」ということです。
そして、所謂「善いサマリア人」の譬え話で示されているのも「隣人愛」と言えなくもないですが、「隣人になる」ということです。
そして今日の箇所については、マリアはイエスの「御言葉に聞き入っていた」(口語訳) のではありません。もしかしたらイエスの話がすごく面白かったからなのか、話に聞き入っていた。そこでマルタは「ちょっとちょっと」と声をかけた、そんな感じだったのかもしれません。
元々は久しぶりに訪れたイエスとマルタとマリアの、ラザロもいたのか、親しい間柄の人たちのごく普通の関わりの一コマだったのではないかと思います。「イエスは真に人」とは「普通に人」ということでもあります。
「神への愛とは斯く斯く」、「隣人愛とは然々」と、普通の人々の現実から懸け離れた所から語るのではなく、命じるのではなく、真に人、普通に人であるイエスは私たちの隣人となる。 そして共に在るのだと思います。
2026. 1. 18. 降誕節第4主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
(マルコによる福音書9章35節)
「一体誰を受け入れるのか」
桂教会 熊谷 沙蘭牧師
< 今 週 の 聖 句 >
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
(マルコによる福音書9章35節)
「一体誰を受け入れるのか」
桂教会 熊谷 沙蘭
今日の箇所でイエスは、弟子たちが「誰が一番偉いか」と論じ合っているのを聞き、呼び寄せられました。「いちばん先になりたい者は、すべての後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられ、その教えを表すこととして、子どもを真ん中に立たせ抱き上げられました。
社会で最も弱い立場に置かれた子どもを真ん中に立たせ、抱き上げることによって、すべての人に仕える者とはどのように行動する者か、そしてそれが神の国に入ることだと教えられたのです。
イエスは「一番偉い者」の意味を逆転させます。この世界では仕えてもらうことが偉い人の証しですが、神の国ではそうではありません。「仕える」とは、奴隷や女性たちがやってきたケアの仕事に使われてきた言葉です。イエスはそのような仕事を率先してやることが、神の国の身分だと言われます。
子どもに代表される弱い存在は、強い者にコントロールされ、制限されます。しかし、コントロールするのではなく、ありのままを受け入れ、その存在を喜ぶこと、これがイエスの教えられる「仕える」という方法での神の国に生きることです。
小さく弱い子どもが受け入れられる世界は、弱さを持つ誰も受け入れられる世界になります。誰かの弱さが救い上げられる世界は、この私の弱さが救い上げられる世界なのです。イエスは子どもを抱き上げられましたが、そのことを通して「あなたも受け入れる」と人々に伝えておられます。
強さに支配される生き方よりも、イエスがなされた、共に痛みや苦しみを経験するその姿こそが自分を力づけ、明日を生きていく力になる、これこそが私たちにとっての福音の1つです。
2026. 1. 11. 降誕節第3主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
(ヨハネの手紙第一5章11~12節)
「御子と結ばれている人」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
(ヨハネの手紙第一5章11~12節)
「御子と結ばれている人」 深見 祥弘
明日12日は、「成人の日」です。2007年生まれの新成人(18歳)は、109万人です。この数は、昨年と同じで、2024年の106万人に次ぐ少なさです。新成人数が最も多かったのは、第1次ベビーブーム世代(1947年~49年生まれ)が成人した頃の1970年で246万人、次いで多かったのは第2次ベビーブーム世代(1971年~74年生まれ)が成人した90年代前半で200万人でした。ちなみに1957年3月生まれの私が、新成人となった年(1978年1月)の新成人数は156万人でありました。
私の第2の誕生日とも言うべき日は、同じ年1978年12月24日、洗礼を受けた時(永遠の命をいただいた)です。今朝の御言葉、ヨハネの手紙第一5章1節に「イエスがメシヤであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」とあります。受洗者は式の中で「イエスは主です」と信仰告白をいたします。それまで「私が主です」という生き方をしてきた私が、洗礼によって(水に沈んで)一度死に、「イエスが私の主(あるじ)です」と告白し、いただいた新しい命(永遠の命)に生きることを始めるのです。
今朝の御言葉は、ヨハネの手紙第一5章1~12節です。ここにはイエスがメシアであると信じる者は「神から生まれた者」であると書いています。
ヨハネの手紙第一は、ヨハネ福音書が書かれた後、1世紀末から2世紀はじめにエフェソを中心とする小アジアで、教会指導者(ヨハネ教団)によって書かれました。その内容は、各教会に生じていた信仰上の混乱を治めるために、信仰をもう一度確認することを目的に書かれました。2章には「反キリスト」「イエスがメシアであることを否定する者」、4章には「偽預言者」と呼ばれる人のことが記述されています。この人たちは、イエスがメシヤであることを否定し教会を去っていった人たちですが、尚、教会にはこの人たちに同調する者がいました。その考えの一つがグノーシスで、教会や連なる信徒たちに混乱が生じていたのです。
「わたしたちの信仰」(5:4)は、肉体をとって来られたイエスが神の子であり、わたしたちはこの受肉のイエスをキリスト(救い主)と信じています。それに対しグノーシスは天的キリストと地上のイエスを分け、神の受肉を否定しました。彼らは、イエスはただの人間であったが、キリストがイエスの洗礼の時に臨み、そして十字架の死の直前に去ったと教えます。
「わたしたちの信仰」は、人が罪人(自分が主であると告白すること)であり、イエスの血による贖いによってのみ罪を赦され清められると信じています。それに対してグノーシスは、人は神から生まれたので、神との交わりをもつかぎり罪はないと主張します。
「わたしたちの信仰」は、神の愛がキリストに倣う義と互いの兄弟愛において実現すると信じます。それに対しグノーシスは、神と個人との交わりを重んじ、人と人との交わりや愛を軽視します。
これまでも述べてきましたが、小アジアの諸教会(ヨハネ教団)では「偽預言者たち」(4:1)によって混乱が生じていました。教会指導者は、この手紙によって、自分たちの信仰を確認すること、そして交わりの重要性について言及しています。
まずこの手紙において、この世に来られ人として生き、苦しみを受け、十字架に架けられたイエスが、メシア(救い主)である、これが自分たちの信仰であると述べます。信じる者は、一度洗礼によって自分(自分中心の生き方)に死に、御子の内にある命をいただいて「神から生まれた者」(キリスト者)となります。それゆえキリスト者は、「生んでくださった方(神)」を愛し、「その方から生まれた者(他のキリスト者)」を愛します。
4章21節には「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」と書かれています。そしてこの信仰と愛が、「世に打ち勝つ勝利」をもたらすと信じています。御子イエスによって人々に救いを与えようとする神のご計画、これに反抗する世の勢力は敗北し、わたしたちには勝利があると告げています。
神の子イエスは、「水と血を通って来られた方」です。「水」とはイエスの洗礼のこと、「血」とはイエスの十字架のことです。グノーシスは、イエスはただの人間であったが、キリストがイエスの洗礼時に臨み、十字架の死の直前に去ったと教えました。しかしわたしたちは、イエスが初めからキリストであり、水と血の両方を通った御方であると信じているのです。罪なきイエス・キリストが、人々と同様にバプテスマのヨハネより悔い改めの洗礼をお受けになられ、人々の罪を担い十字架で血を流されました。これによってイエスを救い主と信じる人には、罪の赦しと永遠の命が与えられ、「世に打ち勝つ勝利」へと導かれるのです。
さてイエスがキリストであることを証しするのは、「霊」です。ヨハネ福音書15章26節に「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずです。」とあります。一般の裁判の席では、2~3人の証言によって真実と見なされました。対して神の証言は、「霊と水と血」の3者によって真実が示されます。十字架と復活の出来事の後、イエスの弟子たちには聖霊が降り、「イエスは主です」と証言をはじめました。イエスの弟子たちと同様に、信じる人にはその人の内にこの証しがあります。
以前にもお話しましたが、わたしは高慢な思いのまま(自分中心の思い・罪人)で洗礼を受けようとしました。しかし十字架のキリストの名による洗礼により、罪人である私が死に、聖霊によって信仰告白へと導かれ、新しい命をいただくことができました。神が永遠の命を与えてくださったこと、その命は確かに御子の内にあることを、「霊と水と血」が証ししています。御子と結ばれている人にはこの命が与えられているのです。
「御子と結ばれている人」、直訳すれば「御子を持つ者」となります。聖書協会共同訳は「御子を持つ人は命を持っており」と訳しています。聖クリストファーは、3世紀の聖人です。彼は世界で一番強い王にお仕えしたいと望んでいました。でもなかなか見つかりません。見つけたと思っても、すぐにもっと強い王が現れるからです。そこで彼は、大きな川の渡し守をしながら一番強い王に出会うチャンスを待つことにしました。ある日、小さな男の子が、川を渡らせてくださいとやってきました。お安いご用とその子を担いで川を渡りはじめると、どんどん重くなってゆきます。ようやく岸につき「ほんとうに危ないところだった。なんて重いのだろう」と言うと、男の子は「世界の王、この世の創造者であるわたしを乗せたのだから、重いのは当然です。わたしは世界中の重荷を担っているのだから」と言いました。この時から彼はこの子に仕えるようになり、「クリストファー」(キリストを背負う者)と呼ばれるようになりました。「御子に結ばれる人(御子を持つ者)」もまた、キリストに結ばれて生きる時、キリストの苦難の一端を担うものですが、同時にキリストの命をも持ち、勝利への確信の中で働きができるのです。老いも若きも御子の命の恵みに与りましょう。
2026. 1. 4. 降誕節第2主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
(ルカによる福音書2章49~50節)
「心に納める」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
(ルカによる福音書2章49~50節)
「心に納める」 深見 祥弘
新年、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。主の年2026年最初の主日、こうして教会に集い、主の名を賛美できますことを感謝いたします。この一年、主にしっかりと結ばれた生活をしてゆきたいと願います。
今朝の御言葉は、ルカによる福音書2章41~52節です。ここにはイエスが十二歳の正月に両親と宮もうでをした時のことが書かれています。
ヨセフとマリアは、御子誕生から40日目、宮もうでをいたしました。それは律法の「清めと長子聖別の定め」に従い、献げ物をするためでした。それを終えると、二人は御子をつれてナザレに帰りました。以降、イエスは神の恵みに包まれて、体も心もたくましく育ってゆきました。
十二歳の過越祭(ユダヤの正月)にイエスは、両親と共にエルサレムに出かけました。42節には「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」と書かれています。ユダヤの成人男子は、三つの祭り(過越祭・五旬祭・仮庵の祭り)には都に宮もうでをすることが定められていました。ただヨセフたちのように遠方に住む人は、過越祭にだけ出かけました。女性や子どもには定めはありませんでしたが、同行することが多かったようです。「イエスが十二歳になったときも」と書かれているので、ヨセフは、毎年マリアとイエスと共に出かけていたのでしょう。しかし親にとって我が子の十二歳の宮もうでは、特別なものでありました。ユダヤの成人は十三歳です。親は、宮もうでのしきたりを教えるため、成人前年の我が子を必ず過越祭に連れて行きました。ヨセフとマリアも、この慣習にならって十二歳のイエスを都に連れて行ったのでした。
祭りが終わると、ヨセフとマリアは帰路につきました。この時イエスはまだ都に残っていましたが、両親はそれに気づかず、一日分の道のりを行ってしまいました。遠方から宮もうでをする際、追いはぎなどから身を守るため、人々は隊を組んで旅をしました。ヨセフとマリアの場合は、親類や知人と一団を組んでいたようです。イエスがいないことに気づいた二人は、心当たりの親類や知人の間を捜しますが見つからず、とうとうエルサレムにもどって来ました。
それから三日後のこと両親は、イエスが神殿の境内で学者たちの話を聞いたり、質問したりしているのを見つけました。やりとりを聞いていた人々はイエスの賢い受け答えに驚きましたが、両親は別の意味で驚きました。その驚きとは、自分たちの思いにはなかった神殿に我が子がいたことと、学者たちとやり取りをしていたことです。母マリアが言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」するとイエスは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えました。
ヨセフとマリアは、宮もうでの一団にあって、我が子イエスが自分たちと同じ方向に歩んでいる、自分たちに従っていると思っていました。しかしそうでないことに気づき、かえって自分たちがイエスを捜し求める存在であることを知ることになりました。
さらにヨセフとマリアは、我が子が自分たちの思う範囲の中にいると思っていました。そこで二人は、親類知人から捜しはじめ、エルサレムでも、イエスが行きそうなところを三日も捜しました。しかし我が子は二人の思うところにはいませんでした。そして二人にとっては思ってもみぬ場所、神殿に我が子を見出すことになりました。
両親の言葉「お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」、イエスの言葉「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」、このやりとりの中で、はじめてイエスは、ヨセフ以外の存在を「父」と呼んでいます。ヨセフもマリアも、この言葉の意味がわかりませんでした。でもマリアは、この出来事とこの言葉を、自分なりに判断したり、投げ出したりせず、「これらのことをすべて心に納め」(このことの意味が明らかになるまで待つ)たのでした。
12年前、主の天使がマリアに告げました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(1:31~32) この12年間、ヨセフとマリアは、イエスを我が子として育てる中で、自分たち以外にイエスの親はいないと思うようになっていました。しかし十二歳のイエスは、二重の親子関係を認識しておられ、地上の父母と天の父、この二人の親に仕えはじめようとしておられたのです。
来週12日は「成人の日」です。私たちもまた、我が子が自分たちの思いの範囲にあり、また同じ方向に歩んでいると思っています。やがてそうでないことに気づかされる時がきます。すなわち私たちは、我が子にはもう一人の父(父なる神)がおられることを知るのです。我が子が見えなくなって捜し求めると、私たちにとって思ってもみぬところで我が子を見出し、合わせて父なる神の存在とそのご計画を知ることになります。その時私たちは、マリアのように「なぜこのようなことをしてくれたのです」と怒ったり、いらいらしたりせず、その後の彼女のように「すべて心に納めて」、それが明らかになる時まで待ってみてはいかがでしょうか。
もう一つ、今信仰生活をしているわたしたちについても、考えてみましょう。わたしたちは、長く信仰生活をしていると、御子イエスが自分の範囲におられ、同じ方向にすすんでくださっているように思っています。しかしそうでないことに気づかされることがあります。御子が見えなくなり捜し求めると、思ってもみぬところに御子を見出し、父なる神の存在にふれることになります。御子を見失った時、怒らず、いらだたず、投げ出さず、マリアのように「すべて心に納めて」、それが明らかになる時を待ってみてはいかがでしょうか。
父なる神のご計画は、マリアの胎の子をご自分の僕とし、イスラエルの民のみならず、すべての信じる人を父なる神のもとに導き、神と人とが結ばれること、人と人が結ばれることでありました。イエス十二歳の正月の宮もうでは、この父なる神のご計画を人々に現わす出来事でした。ヨセフとマリアは、この時、ご計画を知りませんでしたが、我が子イエスによって父なる神と結ばれたのです。さらに父なる神の子として我が子が十字架に架けられ復活することによって、マリアは父なる神のご計画を知ることとなりました。それまでは、すべてを心に納める日々であったのです。
この一年、わたしたちは御子イエスによって、父なる神の御元に導かれ、父なる神に結ばれている幸いと、父なる神の大いなるご計画を覚えたいものです。ときにはイエスを見失うことがあるかもしれません。その時にはいらだったり、怒ったり、放棄したりせず、イエスを捜し求めこと、「すべて心に納める」ことを大切にいたしましょう。
2026. 1. 1. 元旦礼拝

元旦礼拝説教 2026.1.1
聖書: 詩編15編1節
いかに幸いなことか、 神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず。
「主イエスにならって」 深見 祥弘牧師
元旦礼拝説教 2026.1.1
聖書: 詩編15編1~5節
「主イエスにならって」 深見 祥弘
皆様、明けましておめでとうございます。御子イエスのご降誕の恵みの中で、主の年2026年を迎えることができました。本年も、よろしくお願いいたします。
ご承知のように今年教会は、創立125周年を迎えます。またそれに際してのテーマを「後の世代に語り継ごう」、聖句は詩編78編4節「後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。」としています。125周年を迎えるにあたり、準備を進めている一つは、3月7日(土)「ハルモニウムとピアノのデュオコンサート」です。教会がこの地に立てられてきたことを多くの皆さんにお知らせするとともに、集われた方々と賛美を献げることが出来ればと願っています。準備をしている二つ目は、5月3日(日)125周年記念礼拝と祝会です。この礼拝には、小野團三牧師(元当教会担任教師・現東京山手教会牧師)をお迎えいたします。教会員とご家族の皆さん、教会に連なっておられる皆さん、そして召天者のご遺族の皆さんと共に、主の力強い働きに感謝する礼拝を献げたいと願っています。そしてもう一つは、「125年史」の発行です。これは、今年の12月クリスマスに発行を予定しています。すでに各執筆者から原稿の提出がなされ、現在編集委員が内容の点検等を行っているところです。これまで私たちの教会は25年ごとに教会史を発行してきましたが、今回の「125年史」は「百年史」の続編として、2002年以降の歩みをまとめる内容となっています。これによって神が成してくださった御業を、後の世代に語り継ぐことができればと願っています。
御言葉は、詩編15編です。詩編は全部で150編、その中で一番よく知られているのは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる23編です。この詩編23編に次ぐ人気の詩編が、この日読みます15編です。15編は「もう一つの十戒」、また「キリストを指し示す詩編」と呼ばれるほどに大切な内容をもつ詩編です。
まず1節に「賛歌。ダビデの詩。」と小さく書かれています。この詩編は、巡礼者たちが神殿に到着した際に歌われましたが、ダビデによって書かれたとするならば、エルサレムにはまだ神殿はありません。人々は幕屋で礼拝をしていました。神殿で礼拝をするようになるのは、ダビデの息子ソロモンの時代です。この神殿完成後、巡礼者たちが入口でこの詩編15編を歌い、門をくぐって中に入り礼拝をいたしました。私たちも、年の初め、まずこの詩編を読んで、主を礼拝いたします。
1節でダビデは、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。」と問うています。「幕屋に宿る」「聖なる山に住む」とは、主と人との交わりをあらわしています。ダビデは、主に対し、どのような人が「幕屋に宿るように、聖なる山に住むように」交わりを保つことができますかと尋ねます。ダビデがどのような時期にこう問うたのかはわかりませんが、主との関係に揺らぎを感じていたのではないでしょうか。
主はこの問いに、「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実な言葉がある人」と答えています。この①「完全な道を歩く人」とは、「主の道を歩く人」(主の教えに従う人)、主に対して誠実な人のことです。また②「正しいことを行う人」とは、隣人に対して正しいことを行う人のこと、隣人に対して誠実な人のことです。さらに③「心には真実な言葉がある人」とは、自分に対しても誠実な人のことです。つまり主はダビデの問いに、主に対しても、隣人に対しても、そして自分に対しても誠実である人が、主と交わりを続けることができると答えています。
3節からは、今お話した誠実な人について7つの例を書いています。
まず、④「舌には中傷をもたない人」、⑤「友に災いをもたらさない人」⑥「親しい人を嘲らない人」です。「中傷」も「友への災い」も「嘲り」も、人の内から出てくるものです。「それらをしない」ということは、その人が自分に対しても人に対しても誠実な人であるということです。
次に、⑦「主の目にかなわないものを退け 主を畏れる人」➇「悪事をしないとの誓いを守る人」です。信仰者には不信仰を見分け、それを退ける力が与えられます。これは主に対しても自分に対しても誠実な人のことです。
さらに⑨「利息を取らない人」➉「無実な人を陥れない人」です。利息を取ってはいけないことは、律法(レビ25:36~38)に定められています。「その人に金や食料を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。わたしはあなたたちの神、主である。わたしはカナンの土地を与えてあなたたちの神となるために、エジプトの国から導き出した者である。」主が奴隷で貧しかったイスラエルの人々をエジプトから導き出し、カナンの土地を委ねてくださいました。しかし主は人々に土地を委ねたからといって、委ねた人から利息を取ることはなさいません。それゆえに人が貧しい仲間にお金や食料を貸した場合も、利子や利息をとってはなりません。貸したお金は、本来主から委ねられたもの、主の持ち物であるからです。また不正をはたらいた者から賄賂を取り、その者に有利な証言をして、無実な人を陥れてもなりません。これは主と人に対して誠実な人の例です。
詩編15編は、お話してきた3つの誠実な人と7つの例、合わせて10ありますので「もう一つの十戒」と呼ばれます。またここに示される人間像は、イエス・キリストに見ることができるとして「キリストを指し示す詩編」とも言われます。5節b「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう」。2節に書かれている3つの誠実な人、十の戒めを守る人は、主との関係に不安定さを感じることなく、その関係は「とこしえに揺らぐことがない」というのです。
旧約・ミカ書にも詩編15編と同様のことが書かれています。「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるのかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
主の年2026年私たちは、主の日毎に詩編15編の言葉を覚え、主イエスにならって、主に対しては義に、人に対しては慈しみに、そして自分に対しては謙遜に生きることを心ざしましょう。御子イエスへの信仰が、義と愛と謙遜に生きることを可能とし、主との変わらぬ交わり(幕屋に宿り、聖なる山に住む)へと導いてくださることでしょう。私たちにとって、このことが「後の世代に語り継ぐ」、最も大いなることであります。