W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2026. 1. 4. 降誕節第3主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
(ルカによる福音書2章49~50節)
「心に納める」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
(ルカによる福音書2章49~50節)
「心に納める」 深見 祥弘
新年、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。主の年2026年最初の主日、こうして教会に集い、主の名を賛美できますことを感謝いたします。この一年、主にしっかりと結ばれた生活をしてゆきたいと願います。
今朝の御言葉は、ルカによる福音書2章41~52節です。ここにはイエスが十二歳の正月に両親と宮もうでをした時のことが書かれています。
ヨセフとマリアは、御子誕生から40日目、宮もうでをいたしました。それは律法の「清めと長子聖別の定め」に従い、献げ物をするためでした。それを終えると、二人は御子をつれてナザレに帰りました。以降、イエスは神の恵みに包まれて、体も心もたくましく育ってゆきました。
十二歳の過越祭(ユダヤの正月)にイエスは、両親と共にエルサレムに出かけました。42節には「イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」と書かれています。ユダヤの成人男子は、三つの祭り(過越祭・五旬祭・仮庵の祭り)には都に宮もうでをすることが定められていました。ただヨセフたちのように遠方に住む人は、過越祭にだけ出かけました。女性や子どもには定めはありませんでしたが、同行することが多かったようです。「イエスが十二歳になったときも」と書かれているので、ヨセフは、毎年マリアとイエスと共に出かけていたのでしょう。しかし親にとって我が子の十二歳の宮もうでは、特別なものでありました。ユダヤの成人は十三歳です。親は、宮もうでのしきたりを教えるため、成人前年の我が子を必ず過越祭に連れて行きました。ヨセフとマリアも、この慣習にならって十二歳のイエスを都に連れて行ったのでした。
祭りが終わると、ヨセフとマリアは帰路につきました。この時イエスはまだ都に残っていましたが、両親はそれに気づかず、一日分の道のりを行ってしまいました。遠方から宮もうでをする際、追いはぎなどから身を守るため、人々は隊を組んで旅をしました。ヨセフとマリアの場合は、親類や知人と一団を組んでいたようです。イエスがいないことに気づいた二人は、心当たりの親類や知人の間を捜しますが見つからず、とうとうエルサレムにもどって来ました。
それから三日後のこと両親は、イエスが神殿の境内で学者たちの話を聞いたり、質問したりしているのを見つけました。やりとりを聞いていた人々はイエスの賢い受け答えに驚きましたが、両親は別の意味で驚きました。その驚きとは、自分たちの思いにはなかった神殿に我が子がいたことと、学者たちとやり取りをしていたことです。母マリアが言いました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」するとイエスは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えました。
ヨセフとマリアは、宮もうでの一団にあって、我が子イエスが自分たちと同じ方向に歩んでいる、自分たちに従っていると思っていました。しかしそうでないことに気づき、かえって自分たちがイエスを捜し求める存在であることを知ることになりました。
さらにヨセフとマリアは、我が子が自分たちの思う範囲の中にいると思っていました。そこで二人は、親類知人から捜しはじめ、エルサレムでも、イエスが行きそうなところを三日も捜しました。しかし我が子は二人の思うところにはいませんでした。そして二人にとっては思ってもみぬ場所、神殿に我が子を見出すことになりました。
両親の言葉「お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」、イエスの言葉「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」、このやりとりの中で、はじめてイエスは、ヨセフ以外の存在を「父」と呼んでいます。ヨセフもマリアも、この言葉の意味がわかりませんでした。でもマリアは、この出来事とこの言葉を、自分なりに判断したり、投げ出したりせず、「これらのことをすべて心に納め」(このことの意味が明らかになるまで待つ)たのでした。
12年前、主の天使がマリアに告げました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(1:31~32) この12年間、ヨセフとマリアは、イエスを我が子として育てる中で、自分たち以外にイエスの親はいないと思うようになっていました。しかし十二歳のイエスは、二重の親子関係を認識しておられ、地上の父母と天の父、この二人の親に仕えはじめようとしておられたのです。
来週12日は「成人の日」です。私たちもまた、我が子が自分たちの思いの範囲にあり、また同じ方向に歩んでいると思っています。やがてそうでないことに気づかされる時がきます。すなわち私たちは、我が子にはもう一人の父(父なる神)がおられることを知るのです。我が子が見えなくなって捜し求めると、私たちにとって思ってもみぬところで我が子を見出し、合わせて父なる神の存在とそのご計画を知ることになります。その時私たちは、マリアのように「なぜこのようなことをしてくれたのです」と怒ったり、いらいらしたりせず、その後の彼女のように「すべて心に納めて」、それが明らかになる時まで待ってみてはいかがでしょうか。
もう一つ、今信仰生活をしているわたしたちについても、考えてみましょう。わたしたちは、長く信仰生活をしていると、御子イエスが自分の範囲におられ、同じ方向にすすんでくださっているように思っています。しかしそうでないことに気づかされることがあります。御子が見えなくなり捜し求めると、思ってもみぬところに御子を見出し、父なる神の存在にふれることになります。御子を見失った時、怒らず、いらだたず、投げ出さず、マリアのように「すべて心に納めて」、それが明らかになる時を待ってみてはいかがでしょうか。
父なる神のご計画は、マリアの胎の子をご自分の僕とし、イスラエルの民のみならず、すべての信じる人を父なる神のもとに導き、神と人とが結ばれること、人と人が結ばれることでありました。イエス十二歳の正月の宮もうでは、この父なる神のご計画を人々に現わす出来事でした。ヨセフとマリアは、この時、ご計画を知りませんでしたが、我が子イエスによって父なる神と結ばれたのです。さらに父なる神の子として我が子が十字架に架けられ復活することによって、マリアは父なる神のご計画を知ることとなりました。それまでは、すべてを心に納める日々であったのです。
この一年、わたしたちは御子イエスによって、父なる神の御元に導かれ、父なる神に結ばれている幸いと、父なる神の大いなるご計画を覚えたいものです。ときにはイエスを見失うことがあるかもしれません。その時にはいらだったり、怒ったり、放棄したりせず、イエスを捜し求めこと、「すべて心に納める」ことを大切にいたしましょう。
2026. 1. 1. 元旦礼拝

元旦礼拝説教 2026.1.1
聖書: 詩編15編1節
いかに幸いなことか、 神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず。
「主イエスにならって」 深見 祥弘牧師
元旦礼拝説教 2026.1.1
聖書: 詩編15編1~5節
「主イエスにならって」 深見 祥弘
皆様、明けましておめでとうございます。御子イエスのご降誕の恵みの中で、主の年2026年を迎えることができました。本年も、よろしくお願いいたします。
ご承知のように今年教会は、創立125周年を迎えます。またそれに際してのテーマを「後の世代に語り継ごう」、聖句は詩編78編4節「後の世代に語り継ごう 主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。」としています。125周年を迎えるにあたり、準備を進めている一つは、3月7日(土)「ハルモニウムとピアノのデュオコンサート」です。教会がこの地に立てられてきたことを多くの皆さんにお知らせするとともに、集われた方々と賛美を献げることが出来ればと願っています。準備をしている二つ目は、5月3日(日)125周年記念礼拝と祝会です。この礼拝には、小野團三牧師(元当教会担任教師・現東京山手教会牧師)をお迎えいたします。教会員とご家族の皆さん、教会に連なっておられる皆さん、そして召天者のご遺族の皆さんと共に、主の力強い働きに感謝する礼拝を献げたいと願っています。そしてもう一つは、「125年史」の発行です。これは、今年の12月クリスマスに発行を予定しています。すでに各執筆者から原稿の提出がなされ、現在編集委員が内容の点検等を行っているところです。これまで私たちの教会は25年ごとに教会史を発行してきましたが、今回の「125年史」は「百年史」の続編として、2002年以降の歩みをまとめる内容となっています。これによって神が成してくださった御業を、後の世代に語り継ぐことができればと願っています。
御言葉は、詩編15編です。詩編は全部で150編、その中で一番よく知られているのは、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる23編です。この詩編23編に次ぐ人気の詩編が、この日読みます15編です。15編は「もう一つの十戒」、また「キリストを指し示す詩編」と呼ばれるほどに大切な内容をもつ詩編です。
まず1節に「賛歌。ダビデの詩。」と小さく書かれています。この詩編は、巡礼者たちが神殿に到着した際に歌われましたが、ダビデによって書かれたとするならば、エルサレムにはまだ神殿はありません。人々は幕屋で礼拝をしていました。神殿で礼拝をするようになるのは、ダビデの息子ソロモンの時代です。この神殿完成後、巡礼者たちが入口でこの詩編15編を歌い、門をくぐって中に入り礼拝をいたしました。私たちも、年の初め、まずこの詩編を読んで、主を礼拝いたします。
1節でダビデは、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。」と問うています。「幕屋に宿る」「聖なる山に住む」とは、主と人との交わりをあらわしています。ダビデは、主に対し、どのような人が「幕屋に宿るように、聖なる山に住むように」交わりを保つことができますかと尋ねます。ダビデがどのような時期にこう問うたのかはわかりませんが、主との関係に揺らぎを感じていたのではないでしょうか。
主はこの問いに、「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実な言葉がある人」と答えています。この①「完全な道を歩く人」とは、「主の道を歩く人」(主の教えに従う人)、主に対して誠実な人のことです。また②「正しいことを行う人」とは、隣人に対して正しいことを行う人のこと、隣人に対して誠実な人のことです。さらに③「心には真実な言葉がある人」とは、自分に対しても誠実な人のことです。つまり主はダビデの問いに、主に対しても、隣人に対しても、そして自分に対しても誠実である人が、主と交わりを続けることができると答えています。
3節からは、今お話した誠実な人について7つの例を書いています。
まず、④「舌には中傷をもたない人」、⑤「友に災いをもたらさない人」⑥「親しい人を嘲らない人」です。「中傷」も「友への災い」も「嘲り」も、人の内から出てくるものです。「それらをしない」ということは、その人が自分に対しても人に対しても誠実な人であるということです。
次に、⑦「主の目にかなわないものを退け 主を畏れる人」➇「悪事をしないとの誓いを守る人」です。信仰者には不信仰を見分け、それを退ける力が与えられます。これは主に対しても自分に対しても誠実な人のことです。
さらに⑨「利息を取らない人」➉「無実な人を陥れない人」です。利息を取ってはいけないことは、律法(レビ25:36~38)に定められています。「その人に金や食料を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。わたしはあなたたちの神、主である。わたしはカナンの土地を与えてあなたたちの神となるために、エジプトの国から導き出した者である。」主が奴隷で貧しかったイスラエルの人々をエジプトから導き出し、カナンの土地を委ねてくださいました。しかし主は人々に土地を委ねたからといって、委ねた人から利息を取ることはなさいません。それゆえに人が貧しい仲間にお金や食料を貸した場合も、利子や利息をとってはなりません。貸したお金は、本来主から委ねられたもの、主の持ち物であるからです。また不正をはたらいた者から賄賂を取り、その者に有利な証言をして、無実な人を陥れてもなりません。これは主と人に対して誠実な人の例です。
詩編15編は、お話してきた3つの誠実な人と7つの例、合わせて10ありますので「もう一つの十戒」と呼ばれます。またここに示される人間像は、イエス・キリストに見ることができるとして「キリストを指し示す詩編」とも言われます。5節b「これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう」。2節に書かれている3つの誠実な人、十の戒めを守る人は、主との関係に不安定さを感じることなく、その関係は「とこしえに揺らぐことがない」というのです。
旧約・ミカ書にも詩編15編と同様のことが書かれています。「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるのかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
主の年2026年私たちは、主の日毎に詩編15編の言葉を覚え、主イエスにならって、主に対しては義に、人に対しては慈しみに、そして自分に対しては謙遜に生きることを心ざしましょう。御子イエスへの信仰が、義と愛と謙遜に生きることを可能とし、主との変わらぬ交わり(幕屋に宿り、聖なる山に住む)へと導いてくださることでしょう。私たちにとって、このことが「後の世代に語り継ぐ」、最も大いなることであります。