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「躍り上がってイエスのところに」(マルコによる福音書10:46-52)



-僕たちは弟子のまま-

 今年の8月発売された『みんなちがって、みんなダメ』(KKベストセラーズ)という本をご存知でしょうか。著名なイスラーム法学者・中田考先生の新著です。「『君たちはどう生きるか』を読むとバカになる!」という痛切な帯文が目印になっているので、よければ手にとってみてください。

 この本のテーマは一つです。現代の人間が生きにくい理由は、ミミズが自分をヘビだと勘違いしているからだ、と。つまり、できもしない夢に魅せられて、自分の器以上のものになろうとするから、実際それが叶わずに苦しむのだ、ということです。そのような夢に触発されるのは、「生きる意味を果たしていない自分は自分ではないからだ」という、昨今の「生きる意味」ブームによる圧力があるせいだ。人間には元々生きる意味などないのである……

 なかなかグサッとくる話ですね。ここでいう「生きる意味」には多くの場合、金や職業といった要素が絡んできます。要は「自分には金がないから思っているような暮らしができないんだ」「自分にはよりクリエイティブな適職があるはずだ」「自分に然るべき社会的地位が用意されていないから辛いのだ」という話です。昨今、受験や就職など様々な機会が民主化されているがために、身の丈に合わない行動をしようとして気を病み続ける……まったく、書いていて僕自身のことを言われているみたいでゾワッとしてきます。

 書店の新書コーナーを見れば時勢が分かると言いますが、その点で言えば、現在は先述のとおり「生きる意味」ブームでしょうね。すべての人間が人間らしく生きなければこの世の中は嘘だ、と主張する『君たちはどう生きるか』が今になって再ブレイクしているのは最たる例でしょう。うーん、「生きる意味」か……

 僕は実践神学のことは詳しく解しません。けれど、原始キリスト教以来、ペストの大流行や宗教改革を経て、どのように終末を迎えるか=どう生きるか、というテーマに焦点を当ててきたキリスト教の「生きる意味」を問い直すことは必要なプロセスだと感じます。「生きる意味」というものが本当にあるとすれば、その本義を取り違えると、たちまちお金や適職の話に矮小化されてしまうからです。あるいは中田先生の書かれているとおり「生きる意味」など、人間には最初から無かったのかもしれませんしね。

 そもそも、なぜこのようなことを書いているのかというと、今回の聖書箇所(「マルコによる福音書」10章46-52節)において、イエスにむかって「私を憐れんでください」と叫んだ物乞い・バルティマイを排斥しようとした弟子や群衆たちが気になったからです。

 この弟子たち、ヤコブとヨハネは、この少し前にイエスにあるお願いをしています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10章37節)

 これは、弟子たちの浅はかな願い事としてよく取り扱われる出来事です。弟子たちは、一般的なユダヤ人と同様、ユダヤ民族の独立回復をもたらす存在としてのメシヤを求めていました。弟子たちにとってそれはまさにイエスその人。つまり、彼らは、イエスがエルサレムに王権を築き、それによって神の国が成就されると考えていたのでした。先ほどのお願いとは、その新たな国家において高位を授けられることだったのです。

 もっとも、彼らは国務大臣や官房長官などのような、現世的なポストを求めていたわけではありません。神の国とは、現世とは異なる世界にあるわけですから、そこでの高位によって高給や栄誉が与えられるわけではない。

 神の国における高位とは、わかりやすく言えば「現世でこれだけストイックに信仰しているのだから、今はダメでもあの世では報われて名誉を受けられるよね」ということです。一見すると何でもないお願いですが、これはつまり打算です。マタイ福音書5章以下における山上の垂訓においてイエスは、誰かに見える場所で善い行いをしてはならない、つまり打算で徳を積んではならないと仰っているのに、現世のものではないとはいえ敢えて褒賞を得ようとしている、そこに矛盾があるのです。

 当時のパレスチナでは、ユダヤ教の中でも貴族主義的なサドカイ派と、大衆的なパリサイ派が大勢を成していました。その中で原始キリスト教という当時の異端教団は絶えず迫害を受ける存在でありました。その時一体弟子たちはどう考えていたのでしょう。正直、現代日本人の僕には、生活レベルまで根差した宗教的対立というのは実感がありませんから、ある程度想像するしかないのですが、それでもこう思っていたはずです。

「お前ら、今はマジョリティ気取りで威張っているけど、今に見てろよ……神の国では正しい信仰をもった俺たちが一番偉いんや」

 社会的な基盤を持たず、マイノリティとして迫害されながら、神の国における自身の褒賞を求める生き方……これがニーチェがルサンチマンと呼び、吉本隆明が「底意地の悪い隷従」と称した概念なのです。

 今回の聖書箇所において、深見先生の仰ったとおり、弟子たちはイエスがエルサレムに向かう本当の目的に気づいていませんでした。実際イエスは、王権を樹立するなどとは意図しておらず、処刑されたのですから。彼らは「今はまだ神の国が到来していないから、自分たちの生きる意味を果たせていないのだ」と考えているかもしれない。だからこそ、王権の樹立というもっとも分かりやすい形で、自分たちのユートピアが興ることを夢見ています。しかし、盲人バルティマイにはわかっていたのです。イエスはそのために来られたのではない。自身がはりつけられる十字架を通して、生者を憐れむために来られたのだと。

 言葉は悪いですが、盲人かつ物乞いのバルティマイは、「生きる意味」など考える必要など無かったのかもしれません。その日に運よく食事にありつければ生き延びて神に感謝し、飢餓のうちにあればひたすら神に祈る。別にインテリになりたいとは思わないし、上級官吏などにも興味はない。だから、身の丈をわきまえないルサンチマンの瘴気にあてられることもなく、ただ己を憐れんでくれるイエスに「躍り上がって」付き従ったのではないでしょうか。

 「生きる意味」を考えても、多分幸せにはならないでしょう。でも、それは人間に生きる意味がないことを直ちに意味しないとも思います。バルティマイは、自分が何のために生きているのかについて考えることはなかったと思いますが、イエスに愚直に付き従うという人生が無意味だと断言できる人はそういないはずです。

 余計なことを考えず、ただ外部からやってくるなにかを真に受けること、それこそが信仰の目なのでしょうね。周囲を見渡してみても、クリスチャンの是非を問わず、やはり信じる人は強いです。


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