top of page

≪次月 7月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 7. 5 聖霊降臨節第7主日礼拝
DSC04969.JPG

< 今 週 の 聖 句 >

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。        (ガラテヤの信徒への手紙5章6節)

 

    「愛の実践を伴う信仰」       深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。        (ガラテヤの信徒への手紙5章6節)

 

           「愛の実践を伴う信仰」       深見 祥弘

 今朝の御言葉は、ガラテヤの信徒への手紙5章2節~11節です。パウロは、ガラテヤ地方の教会において、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者に対し「割礼」を受けるように強くもとめ、異邦人キリスト者を悩ませているとの報告を聞きました。かつてパウロは律法主義者であり教会の迫害者でありましたが、ダマスコ途上においてキリストより与えられた罪の赦しと愛の恵みの体験をしました。彼はこのことを証しし、ユダヤ人キリスト者に対して「割礼」に象徴される律法主義に立ち返ることによって、キリストの恵みを失うことのないようにと勧めたのでした。

 

「ガラテヤ」は、小アジア(現トルコ)中央北部の地方です。パウロたちが第2回・第3回伝道旅行でこの地を訪れ、伝道をいたしました。パウロは、第3伝道旅行でガラテヤを訪れた後、さらに西のエフェソに向いました。そして彼は3年近くこの町に滞在いたしますが、その滞在中にガラテヤ地方の教会に起こった「割礼」をめぐる問題について知らせを聞きました。これを受けてパウロは「ガラテヤの信徒への手紙」を書きました。紀元54年頃のことです。

ところでこの「割礼」とは、男性器の包皮を切除する行為で、ユダヤ教では宗教儀礼として生後8日目に行われました。また、異邦人がユダヤ教に改宗する際も、割礼を求めました。

 

 パウロは手紙に、まず数年前に行われた「エルサレム会議」に出席した時のことを書きました。その時パウロはギリシャ人であるテトスと共に出席しましたが、人々はテトスに割礼を求めませんでした。(2:3) 異邦人キリスト者に割礼を強制しないこと、これが公式の教会の方針でありました。しかし、この方針に反してガラテヤ地方の教会において、ユダヤ人キリスト者が異邦人のキリスト教入信にあたり割礼を求めたのでした。パウロは、この手紙で割礼を求めたガラテヤ地方の教会をとても厳しい言葉で非難しています。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。…そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」(5:2~4) ガラテヤの信徒への手紙は、パウロのこうした厳しい言葉を記していますので「たたかいの書簡」と呼ばれます。

 パウロの厳しさには理由がありました。それはパウロ自身の体験によるものです。その体験とは、彼がユダヤ教ファリサイ派に属する律法主義者であったことと、その彼がキリスト者を迫害するためにダマスコに向う途中に、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)というキリストの声を聞いたことでありました。律法において最も大切なことは、「あなたの神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」(ルカ10:27)です。ダマスコ途上パウロに現れたキリストは、なぜあなたはわたしを迫害するのか、なぜ隣人を迫害するのか、と問われました。パウロは、この問いかけに衝撃を受け、自分は誰よりも熱心に律法を守る義なる者だと思っていたのに、なぜキリストを迫害し、隣人を悩ませることをしてしまったのだろうかとの思いに満たされ、回心へと導かれました。

 

 パウロはこの回心の体験から、律法を守ることで自分の思いは実現できても、キリストの願っていることやご計画を実現することはできない。また律法を守ることで自分の思いは実現できても、隣人をないがしろにしてしまうことに気づかされました。にもかかわらず、キリストはパウロを見捨てず十字架の死をもって彼の罪を贖い、聖霊の働きによって生まれ変わらせ、宣教という使命を与えてくださったのです。パウロはイエス・キリストを信じ愛することによってのみ、人は義とされ、神のご計画である人々の救いが実現することを知りました。それゆえにパウロは、ガラテヤ地方の教会で行われている「割礼」についてだまっていることができなかったのです。

 

 ところでパウロは、この手紙によって「割礼」を強制しようとしたガラテヤのユダヤ人キリスト者たちを敵とし、教会から排除しようとしたのでしょうか。そうではありません。次の言葉はパウロの思いを表しています。ローマの信徒への手紙9章「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(2~3) パウロは、同胞を深く愛していました。そして神が迫害者であったパウロに愛を示されたように、割礼を強制しているユダヤ人キリスト者に対しても神の愛が示されることを信じているのです。。

 

 今日、宗教に関わる対立に「原理主義者」の姿を思い起こすことができます。熱心であればあるほど対立が深まり、悲惨な事態にいたることもあります。先ほどガラテヤの信徒への手紙は、「たたかいの書簡」と呼ばれるといいました。しかしパウロは「敵と味方」「義と悪」という関係の中で、自分を「義」とし、敵や悪と戦っているのではありません。かえってパウロは自分の内にいる敵や悪との戦いを示すことによって、同胞のキリスト者の悔い改めを願いこの手紙を書いているのです。

© OMI HACHIMAN CHURCH. All rights reserved. W.M.ヴォーリズが愛した教会

bottom of page