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≪次月 4月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 4. 26 復活節第4主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」                                      

                   (ルツ記2章12節)

 

       「報いて下さる主」       深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」                                          (ルツ記2章12節)

 

            「報いて下さる主」       深見 祥弘

 本日は礼拝後、定期教会総会を開催いたします。この総会で「近江八幡教会創立125周年宣言」について審議していただきたいと思います。これは、昨年11月に開催いたしました「これからの教会を考える会」で出席された皆さんに約束をしたことに関わることです。この会は、「わたしたちは後の世代に何を語り継ぐ」をテーマといたしました。教会創立125周年を迎えるに際し、「今を生きるわたしたちが、後の世代に伝え委ねる形あるもの」とは何かを考え創りあげたいとお話をさせていただきました。

 

 その一つが「ハルモニウム&ピアノのデュオコンサート」でした。ハルモニウム(仏・デュモン社)は、1929年(S4)5月5日献納式(音楽会)を行って以来、97年を迎えます。125周年に際し「今を生きるわたしたちが、後の世代に伝え委ねる形あるもの」の一つが、このハルモニウムであると思います。楽器としての価値のみならず、このハルモニウムをめぐる物語、さらにこれを用いて礼拝をささげてきたその事実と神からの恵み(報い)を、わたしたちは後の世代に伝え委ねたいのです。このことを、教会に連なるわたしたちが覚えるとともに、広く一般の方々にも知っていただきたいと願い、3月には、コンサートを開催いたしました。

 また「125年史」も、「今を生きるわたしたちが、後の世代に伝え委ねる形あるもの」の一つです。前準備を含め足掛け3年の期間を経て、今年12月に発行いたします。ハルモニウムと同じように、わたしたちは、「125年史という本」を後の世代に委ねようとしている訳ではありません。そこに記している教会の営みを、またわたしたちの奉仕を後の世代に伝え委ねることを願っているのです。

 そして「今を生きるわたしたちが、後の世代に伝え委ねる形あるもの」のもう一つが、今日の総会に提案いたします「近江八幡教会創立125周年宣言」です。これは、わたしたちが信仰の先達たちから受け継いだものと、今を生きるわたしたちが次の世代に委ねることを述べています。

         「近江八幡教会創立創立125周年宣言」

一、わたしたちは、近江八幡の地に主の教会、近江八幡教会が立てられて

   いることを心から喜ぶ。すべては、この地に住む者への主の憐みによ

   るものである。

二、わたしたちは、主によって招かれてきた信徒と牧者との共同の奉仕に

よって、教会の営みを続ける。

三、わたしたちは、主がこの地に「神の国」を建設しようとする業に参与

する。神の御業は「からし種」のたとえに示されるように、まことに  

力強きものである。神の国への参与の業は、ヴォーリズらの信仰と奉 

仕に見ることができる。

四、わたしたちは、世の風潮に流されず、主の福音を基として揺るぐこと

なく証しの生活をおこなう。

五、わたしたちは、イエス・キリストにならい、主の平和を創り出す者と

して祈り奉仕する。またあらゆる差別や抑圧を退け、その束縛や偏見

から自らを解放するとともに、人々の解放のために祈り奉仕する。

六、わたしたちは、諸教会・諸団体との連帯を深め、共祈、共助、共働を

もって主の栄光をあらわす。

七、わたしたちは、これらをもって「近江八幡教会125周年宣言」とし、

教会創立150周年に向けて歩みを始める。

 

 今朝のみ言葉は、旧約聖書ルツ記2章4~16節です。ここには、ルツがボアズの畑で落穂拾いをした時のことが書かれています。ルツ記に記されていることを、簡単にお話いたします。時代は紀元前11世紀、士師の時代のことです。ユダのベツレヘムにエリメレクとナオミという夫婦が暮らしていました。夫婦は飢饉により二人の息子たち(マフロン、キルヨン)をつれて、死海の東、隣国モアブに逃れました。息子たちはモアブの女を妻としましたが幸せは続かず、ナオミは夫エリメレクを、そして二人の息子たちを亡くしました。飢饉も去りナオミは、ベツレヘムに帰ることにしました。ナオミは、二人の嫁(オルパ、ルツ)にこの地に残り、新しい生活を始めるように勧めました。しかし一人ルツは、「わたしは、あなたの行かれる所に行きます。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。」と言って、姑ナオミに従ったのでした。

 ベツレヘムに到着した頃は、麦の刈り入れの時期で、ルツは生活のために落穂拾いにいきました。エリメレク・ナオミ夫妻は、家も土地も売ってモアブに出発しましたので、戻ってきた時、何もなかったのです。ルツが落穂拾いをしたそこは、エリメレクの親戚で豊かなボアズの畑でした。ボアズが刈り入れの始まった畑を見回りに来ると、見慣れぬ女が落穂を拾っています。畑作業の監督に聞くと、モアブからナオミと一緒に来たルツであることを知りました。ボアズは監督に命じ、刈り入れをする者たちがルツの落穂拾いを妨げることなくまた落穂をわざと落としておくように、さらに休憩時間には、刈り入れをする者たちと一緒におらせ、水やパンなどの食事をさせるように言いました。ルツがボアズに「よそ者のわたしにこれほど…厚意を示してくださるのは、なぜですか」と問うと、ボアズは「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たこと」などをあげ、「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。」と答えました。

 ルツ記に登場するルツ、ナオミ、ボアズは、互いのことを第一に考え行動をいたしました。ルツは一人ぼっちのナオミの幸せを願い、異国の町ベツレヘムに来て落穂を拾い、ボアズと結婚いたします。ナオミは、ルツの幸せを願い、親戚のボアズの畑に続けて行くように勧め、刈り入れの済んだ夜に麦の番をするボアズの傍らに身を横たえるように言いました。ボアズはルツとナオミの幸せのためにルツを妻とし、エリメレクの財産を買戻しました。そしてルツとの間に生まれてくる子にその財産を与え、エリメレクの家の再興を図ったのでした。

 三人は、相手の幸せを思ってなした行いを、自分の業とするのではなく、主のなされる業への奉仕としてこれを行い、「どうか、主があなたの(相手の幸せのためになされた)行いに豊かに報いてくださるように。」と言って主の大いなる恵みを祈ったのです。こうしてボアズ・ルツ夫妻にオベドが生まれ、オベドにはエッサイが、エッサイにはダビデが生まれ、そしてこのダビデの子孫としてベツレヘムに生まれたのがイエスでありました。このイエスの誕生こそ、自分を空しくして人々の幸せを願ったルツたちの行いに対する「主の豊かな報い」でありました。

 「125周年宣言」四は、「わたしたちは、世の風潮に流されず、主の福音を基として揺るぐことなく証しの生活をおこなう。」です。125周年礼拝を前に、わたしたちは「主の豊かな報い」として到来してくださったイエス・キリストの福音を基とし、人々の幸せのために証しの生活を続けることを力強く「宣言」いたしましょう。

2026. 4. 19 復活節第3主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「はっきり言っておく。 世界中どこでも、 福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

           (マルコによる福音書14章9節)

 

「この人の思い出として」    仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「はっきり言っておく。 世界中どこでも、 福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

(マルコによる福音書14章9節)

 

「この人の思い出として」    仁村 真司     

厳密に言えば・・・という程のことでもないですが、 イースターはイエスが復活した日ではなく、イエス・キリストの復活を記念する日です。 そして、そうすると以降の復活節、今日も、復活したイエスが現れたこと(復活顕現)、復活したイエスが示したとされることを思い起こす、記念する時節ということになるのでしょうか。まずは復活顕現について聖書が伝えている所から考えてゆきます。

 1)

…(キリストが) 三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。…(中略)…次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ…

(コリントの信徒への手紙一15章4~7節)

これは福音書よりも早い時期の復活顕現を伝える記述ですが、パウロはこう記して続けて「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。…(中略)…わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」と述べています (8~10節)。

パウロが復活顕現を語るその眼目は「自分にも復活のイエスが現れ、なすべきことを示された」、だから (イエスがこの世に在った時に弟子ではなかった) 自分も使徒なのだということのようです。

マタイ福音書では復活したイエスは最初にマグダラのマリアともう一人のマリアに現れますが (28章9~10節)、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(パプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられたのは (ユダを除く)十一人の弟子 (使徒) たちであったとされています (28章16~20節)。

そしてルカは使徒言行録に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1章3節)、要するに復活したイエスは使徒にだけ現れ、語り、ミッションを示したということです。

最初は「イエスは本当に復活した」ということだったのかもしれません。

ですが、復活顕現は何十年かの内にキリストの復活を言い表すことよりも、キリスト教・教会の権威、とりわけ指導者 (使徒)の権威とその起源を示すこと、平たく言えば “権威づけ” に重点が移っていったと考えられます。

こんなふうに復活顕現を捉えることにガッカリしたり、「けしからん」と思う人もいるかもしれませんが、少しホッとできる面もあると思います。

と言うのは、復活顕現がどうしても、あるいは正直な所、信じられないという人(は少なからずいるのではないかと思いますが)も、それで復活を信じていない、信じられないということにはならないからです。

  2)

復活顕現について一切触れていないマルコ福音書によると、マグダラのマリア・ヤコブの母マリア・サロメがイエス(の遺体)に油を塗るために墓に行くと、そこいたのはイエスではなく白い長い衣を来た若者です。

若者は言った。「…あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。… さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。  (マルコ福音書16章6~8節)

マルコが、復活のイエスがエルサレムやその周辺で弟子 (使徒)たちに現れたという話を知らなかったはずはないです。ペトロ辺りから直接聞いていた可能性もあると思います。兎も角知っていた。そしてペトロたち弟子がガリラヤに行っていないことも知っている。その上で、イエスは「先にガリラヤに行かれる」・「そこでお目にかかれる」と記している訳です。

マルコはイエスの復活を信じ、伝えている。しかし、それは弟子 (使徒)たちの「復活のイエスが現れ、こう語った」という話に拠ってではないということです。マルコ福音書においてイエスの復活を信じるとはどういうことなのか。私は今日の箇所に現されていると考えています。

イエスは、イエスに香油を注いだ女性について「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」、より正確には「…この人がわたしにしてくれたことも、この人の記念(思い出)として語り伝えられるだろう」と言います(9節)。ポイントは、何故女性の行為というよりも、この女性がイエスからこれほどまでの称賛を受けたのかということです。

  3)

一人の女性が、非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎます。それを無駄遣いだ、香油を売って貧しい人々に施すべきだったと言って咎めた「何人か」(4節) は弟子たちでしょう。この人たちにイエスは「するままにさせておきなさい (彼女の邪魔をするな)」と言います (6節)。

イエスに触れてもらうために子供たちを連れて来た人々を叱った弟子たちにイエスが憤って「子供たちを…来させなさい。妨げてはならない(来るままにさせておきなさい)」(10章14節) と言っていますが、ここと同じ言い方です。いずれの場合も弟子たちはイエスに忖度して従っているつもりなのですが、的外れで全く理解できていなかったことが露呈します。

では、イエスに香油を注いだ女性はイエスのことを理解していたのか...。

マルコは、イエスの十字架上の死を見守っていた女性たちのことを伝えています (15章40~41節)。マグダラのマリアたちについての後に「なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた」とあります。この“そのほかの婦人たち大勢”の内の一人がイエスに香油を注いだ女性ではないかと私は思います。

イエスはエルサレムへの道程において「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」(9章19節)、今日の箇所では「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と(7節) と自らの受難・死を予め知らせ、そのイエスに従うとはどういうことなのか示しました。

「いちばん先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい。」

(9章35節)

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」 (10章43~44節)

使徒の権威、その起源を語るのに重点が置かれた復活顕現の話とは真逆と言える程に違うと思いますが、受難・死を前にしたイエスの教えを弟子たちが理解することはありませんでした。しかし、名もなき一人の女性はしっかりと理解した。それは前もってイエスに香油を注ぎ、埋葬の準備をしたことに現れている。故に世界中どこでも、福音が宣べ伝られる所で、この人がイエスにしたことも、この人の思い出として語り伝えられる。

マルコが伝えるイエスの復活は、信じるとか信じないとかいうものではありません。イースターは新しい信仰の始まりではなく、信仰の継続です。

受難・死に赴くイエスを理解した女性は、同時にイエスが生きて働き続けることを信じた。そしてだれよりも早くイースターを迎えたと思います。

葉は、コリントの信徒への手紙第二4章です。4章は、「落胆しません」(1)という言葉ではじまり、「落胆しません」(16)という言葉で結ばれています。この手紙は、パウロによって書かれました。彼に何があったののでしょうか、そして、なぜ「落胆しない」と言っているのでしょうか。

 

 カウンセリングに「来談者(クライアント)中心療法」という療法があります。これを提唱したのは、アメリカのカール・ロジャース(1902~1987)で「カウンセリングの創始者」と呼ばれています。彼は「カウンセラーのところに自分でやって来るクライアントは、問題をかかえているだけでなく、問題を解決する力を自分に中に持っている」と考え、カウンセラーは、そのクライアントの力を十分発揮できるように援助するのが仕事であると主張しました。クライアントの悩みに対して、先生という立場の人が答えを与えるというそれまでの形をくつがえしました。

 ロジャースは、カウンセラーが三つの姿勢をもってクライアントとやりとりを続けるならば、必要な変化はおのずと相手の中に起きてくると考えました。一つは、クライアントに対して無条件の肯定的関心を持つこと、二つ目は、クライアントが言わんとするところを共感的に理解すること、三つ目は、言葉と行いが一貫した者としてそこにいる、ということです。

 ところで、人と接することを仕事とする人々の中に、「バーンアウト」症候群という状態になる人がいます。その場合、疲労やストレスの中で、援助の相手に対して、機械的に接したり務めを行ったりするようになります。そして「私ってだめだ」といつも否定的に考えてしまいます。また、うまくバーンアウトを避けて仕事をしている人も、内心では「私ってちょっとずるい」と思っているのです。 

 多くの人は、自分を肯定的にとらえることができず、他者をも否定的にしか見ることができません。話を聞くにしても、自分の苦しみの体験と相手のそれが一緒になって、さらに否定的な思考に陥ってしまいます。カール・ロジャースは、自分を肯定的にとらえ、他者をも無条件に肯定的に見て、互いに共感的理解をもつ時、人は生きる力を見出すことができると提唱したのです。

 コリントの人々は、パウロに対して、次のような否定的な見解(批判)を持っていました。 一、パウロは悪賢く隠れて行動し、自分の都合の良いように神の言葉を曲げている。この批判に対して、パウロは反論をいたしません。彼は、自分の努力や学問によって伝道者となったわけではありません。それどころか、かつては教会の迫害者でありました。そんな彼が使徒に変えられたのは、神の憐みによるものでありました。パウロは、神が良しとしてくださった(無条件の肯定)のだから、そのことにすべてを委ねているのです。 二、パウロは、すべての人の救いを説いているにもかかわらず、彼につまずいて教会を離れる人がいたり、信じようとしない人がいるとの批判です。これに対してパウロは、すべての人の救いを教える福音に誤りがあるわけではないし、つまずく人や信じようとしない人が悪いわけでもないと言います。それは「この世の神(サタン)」(4)が、人々の目を閉ざし、福音の光を見えないようにしているためです。「この世の神」がなそうとすることは、人が自分を肯定できないようにすることと、他者を否定することです。パウロは、主が自分をも他者をも良しとし救ってくださることに信頼し、サタンの業を退けようと呼びかけます。 三、パウロは、説教で自分のことばかり述べているとの批判です。これに対してパウロは、かつて自分は教会の迫害者であり、神に否定されねばならない者であったのに、神は憐れみ、こんな自分も肯定してくださったことを述べました。そして、自分は憐れんでくださった神を宣べ伝えているのであって、決して自分を宣べ伝えているわけではないと答えます。 四、コリントの人々は、パウロを安い素焼きの器、土の器にすぎない者と批判しました。これに対しパウロは、「土の器」にすぎないという言葉をそのまま受け入れます。しかしその土の器の中に、今は宝を納めている、その宝とはキリストの復活の命であると言っています。

 パウロはその宝(キリストの命)によって、「四方から苦しめられても行き詰らず」、「途方に暮れても失望せず」、「虐げられても見捨てられず」、「打倒されても滅ぼされない」、すなわちどんなことがあっても「落胆」しないといいます。それは、その宝によって、滅ぶべき土の器である者が、そうではないものに変えられると言うことです。土の器である私が「いつもイエスの死を体にまとい」「絶えずイエスのために死にさらされている」のは、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためだと語っています。さらに土の器である私が今、死にさらされながらも働いているのは、コリントの人々に命が働くためであると語っているのです。

 「こういうわけで、わたしたちは、……落胆しません」(1)ではじまり、「だから、わたしたちは落胆しません」(16)で結ばれている今朝のみ言葉は、「この世の神」(4)が否定(滅び)の言葉によって支配しているこの世界に、「主であるイエス・キリスト」(5)による肯定(救い)の言葉の到来を力強く告げています。パウロは、決して自分が正しいと言っているわけではありません。自分が滅ぶべき土の器であることを知っていますし、人々から批判されても当然であることを承知しています。でもパウロが自分を肯定できるのは、そのような彼を肯定してくださる方がいるからです。その御方・神は、まったき御方であるにもかかわらず、パウロをはじめすべての人々をそのままに無条件に肯定してくださり、主イエスによって良しとしてくださるのです。わたしたちは、わたしたちを創り「良し」としてくださった神と十字架と復活のイエス・キリストによって、自分を肯定し、他者を認め、どんな状況にあっても生きる力や勇気をいただくことができるのです。

 

 他者を肯定できない人は、自分をも肯定できずにいます。コリント教会の人々がそうでありました。パウロは、「バーンアウト」しているコリントの人々を自己否定から自己肯定へ、他者否定から他者肯定へと導くために、自分に与えられている宝(キリストの命)を、イエス・キリストの福音の光によって照らし出し、証しするのです。同時にパウロは、すでにコリントの人々の内にも宝(キリストの命)が与えられていることを信じ、主の僕としてその力が十分に発揮できるように援助をしているのです。

 

 新年度を迎えました。今日に至るまでに私たちは、様々な経験をしてきました。友の洗礼に立ち会い、新たに兄姉を迎え、友を御元にお送りし、親しい友と別れ、125周年を迎える備えをしてきました。また、世のことに心を痛めることもありました。パウロは、今朝のみ言葉の中で「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(15)と書いています。

これはコリントの人々に向けての言葉です。でもわたしたちは今、この言葉をパウロからわたしたちへの言葉として受け止めています。わたしたちの経験したすべてのことは、わたしたちのためであり、またそのことで多くの人々が豊かな恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すためでありました。主イエスによって与えられた宝を内に宿しつつ、新たな歩みをはじめましょう。

2026. 4. 12 復活節第2主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

        (コリントの信徒への手紙第二4章7節)

 

     「土の器に宝を」       深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

                    (コリントの信徒への手紙第二4章7節)

 

             「土の器に宝を」       深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、コリントの信徒への手紙第二4章です。4章は、「落胆しません」(1)という言葉ではじまり、「落胆しません」(16)という言葉で結ばれています。この手紙は、パウロによって書かれました。彼に何があったののでしょうか、そして、なぜ「落胆しない」と言っているのでしょうか。

 

 カウンセリングに「来談者(クライアント)中心療法」という療法があります。これを提唱したのは、アメリカのカール・ロジャース(1902~1987)で「カウンセリングの創始者」と呼ばれています。彼は「カウンセラーのところに自分でやって来るクライアントは、問題をかかえているだけでなく、問題を解決する力を自分に中に持っている」と考え、カウンセラーは、そのクライアントの力を十分発揮できるように援助するのが仕事であると主張しました。クライアントの悩みに対して、先生という立場の人が答えを与えるというそれまでの形をくつがえしました。

 ロジャースは、カウンセラーが三つの姿勢をもってクライアントとやりとりを続けるならば、必要な変化はおのずと相手の中に起きてくると考えました。一つは、クライアントに対して無条件の肯定的関心を持つこと、二つ目は、クライアントが言わんとするところを共感的に理解すること、三つ目は、言葉と行いが一貫した者としてそこにいる、ということです。

 ところで、人と接することを仕事とする人々の中に、「バーンアウト」症候群という状態になる人がいます。その場合、疲労やストレスの中で、援助の相手に対して、機械的に接したり務めを行ったりするようになります。そして「私ってだめだ」といつも否定的に考えてしまいます。また、うまくバーンアウトを避けて仕事をしている人も、内心では「私ってちょっとずるい」と思っているのです。 

 多くの人は、自分を肯定的にとらえることができず、他者をも否定的にしか見ることができません。話を聞くにしても、自分の苦しみの体験と相手のそれが一緒になって、さらに否定的な思考に陥ってしまいます。カール・ロジャースは、自分を肯定的にとらえ、他者をも無条件に肯定的に見て、互いに共感的理解をもつ時、人は生きる力を見出すことができると提唱したのです。

 コリントの人々は、パウロに対して、次のような否定的な見解(批判)を持っていました。 一、パウロは悪賢く隠れて行動し、自分の都合の良いように神の言葉を曲げている。この批判に対して、パウロは反論をいたしません。彼は、自分の努力や学問によって伝道者となったわけではありません。それどころか、かつては教会の迫害者でありました。そんな彼が使徒に変えられたのは、神の憐みによるものでありました。パウロは、神が良しとしてくださった(無条件の肯定)のだから、そのことにすべてを委ねているのです。 二、パウロは、すべての人の救いを説いているにもかかわらず、彼につまずいて教会を離れる人がいたり、信じようとしない人がいるとの批判です。これに対してパウロは、すべての人の救いを教える福音に誤りがあるわけではないし、つまずく人や信じようとしない人が悪いわけでもないと言います。それは「この世の神(サタン)」(4)が、人々の目を閉ざし、福音の光を見えないようにしているためです。「この世の神」がなそうとすることは、人が自分を肯定できないようにすることと、他者を否定することです。パウロは、主が自分をも他者をも良しとし救ってくださることに信頼し、サタンの業を退けようと呼びかけます。 三、パウロは、説教で自分のことばかり述べているとの批判です。これに対してパウロは、かつて自分は教会の迫害者であり、神に否定されねばならない者であったのに、神は憐れみ、こんな自分も肯定してくださったことを述べました。そして、自分は憐れんでくださった神を宣べ伝えているのであって、決して自分を宣べ伝えているわけではないと答えます。 四、コリントの人々は、パウロを安い素焼きの器、土の器にすぎない者と批判しました。これに対しパウロは、「土の器」にすぎないという言葉をそのまま受け入れます。しかしその土の器の中に、今は宝を納めている、その宝とはキリストの復活の命であると言っています。

 パウロはその宝(キリストの命)によって、「四方から苦しめられても行き詰らず」、「途方に暮れても失望せず」、「虐げられても見捨てられず」、「打倒されても滅ぼされない」、すなわちどんなことがあっても「落胆」しないといいます。それは、その宝によって、滅ぶべき土の器である者が、そうではないものに変えられると言うことです。土の器である私が「いつもイエスの死を体にまとい」「絶えずイエスのために死にさらされている」のは、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためだと語っています。さらに土の器である私が今、死にさらされながらも働いているのは、コリントの人々に命が働くためであると語っているのです。

 「こういうわけで、わたしたちは、……落胆しません」(1)ではじまり、「だから、わたしたちは落胆しません」(16)で結ばれている今朝のみ言葉は、「この世の神」(4)が否定(滅び)の言葉によって支配しているこの世界に、「主であるイエス・キリスト」(5)による肯定(救い)の言葉の到来を力強く告げています。パウロは、決して自分が正しいと言っているわけではありません。自分が滅ぶべき土の器であることを知っていますし、人々から批判されても当然であることを承知しています。でもパウロが自分を肯定できるのは、そのような彼を肯定してくださる方がいるからです。その御方・神は、まったき御方であるにもかかわらず、パウロをはじめすべての人々をそのままに無条件に肯定してくださり、主イエスによって良しとしてくださるのです。わたしたちは、わたしたちを創り「良し」としてくださった神と十字架と復活のイエス・キリストによって、自分を肯定し、他者を認め、どんな状況にあっても生きる力や勇気をいただくことができるのです。

 

 他者を肯定できない人は、自分をも肯定できずにいます。コリント教会の人々がそうでありました。パウロは、「バーンアウト」しているコリントの人々を自己否定から自己肯定へ、他者否定から他者肯定へと導くために、自分に与えられている宝(キリストの命)を、イエス・キリストの福音の光によって照らし出し、証しするのです。同時にパウロは、すでにコリントの人々の内にも宝(キリストの命)が与えられていることを信じ、主の僕としてその力が十分に発揮できるように援助をしているのです。

 

 新年度を迎えました。今日に至るまでに私たちは、様々な経験をしてきました。友の洗礼に立ち会い、新たに兄姉を迎え、友を御元にお送りし、親しい友と別れ、125周年を迎える備えをしてきました。また、世のことに心を痛めることもありました。パウロは、今朝のみ言葉の中で「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(15)と書いています。

これはコリントの人々に向けての言葉です。でもわたしたちは今、この言葉をパウロからわたしたちへの言葉として受け止めています。わたしたちの経験したすべてのことは、わたしたちのためであり、またそのことで多くの人々が豊かな恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すためでありました。主イエスによって与えられた宝を内に宿しつつ、新たな歩みをはじめましょう。

2026. 4. 5 復活節第1主日イースター礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

婦人たちは墓を出て逃げ去った。・・恐ろしかったからである。 

            (マルコによる福音書16章8節)

 

     

「復活の主に会える場所」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

婦人たちは墓を出て逃げ去った。・・恐ろしかったからである。 

                   (マルコによる福音書16章8節)

 

           「復活の主に会える場所」     深見 祥弘

 イースターおめでとうございます。2月18日に始まった受難節(レント)も終わり、この喜びの日を迎えることができました。この時は、イースターの喜びとは何かについてみ言葉に聴いてまいりましょう。

 今朝は、一人の姉妹が洗礼をお受けになられます。姉妹と準備会をいたしましたが、そこで洗礼は、十字架のイエスと共にこれまでの自分に死に、復活のイエスと共に主が備えてくださった新しい命に生きることであると学びをいたしました。ひとたび水に身を沈めて死に、新しい命をいただいて立ち上がる、この恵みが与えられることは、姉妹のみならず、この場に集まるわたしたちにとっても大きな喜びであります。

 またこの礼拝で、新しい生活を始められる6人の若い方々のためにお祈りをいたします。この方々の中には、受験のために長い時間をかけて準備をし、この喜びの日を迎えられた方もいます。神様がそうした日々を覚えて労いを与えてくださり、またこれから始まる新しい生活を祝福し励ましてくださることを願います。

 

 今朝のみ言葉は、マルコによる福音書16章1~8節、イエスの墓を訪れた女たちが、若者からイエスの復活を聞いたときのことを書いています。

金曜日の午後3時、イエスは十字架上で息を引き取りました。安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)が近づく中、アリマタヤのヨセフが総督ピラトに願い出て、イエスの遺体の引き取り、準備していた墓に納めました。その際彼は、イエスの体を亜麻布で包みましましたが、香油を塗ることはできませんでした。彼は、イエスの体を墓に納めるとその入口を大きな石で塞ぎました。またこの様子をマグダラのマリアとヨセの母マリアが見つめていました。

 安息日が終わると(土曜日の夜)、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメの3人はイエスの体に塗るために香油を買いもとめ、日曜日の朝ごく早くに墓に行きました。彼女たちはうつむきながら、墓の入口をふさぐ非常に大きな石をだれか転がしてくれるだろうかと、道々、話しをしました。墓に到着し、目を上げて見ると、すでに大きな石は転がしてありました。墓の中に入ってみると白くて長い衣を着た若者(天使)がいて、彼女たちをひどく驚かせました。天使は、イエスが復活したことと、ガリラヤで会えることを話し、このことを弟子たちに告げなさいと言いました。しかしこれを聞いた三人は、震え上がって正気を失い、墓から逃げ去って行きました。「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われましたが、彼女たちはだれにも何も言いませんでした。恐ろしかったからです。

 

 イエスの墓とされる聖墳墓教会と園の墓に行ったことがあります。聖墳墓教会は、その名のとおり教会の中にイエスの墓があります。墓を覆うようにして教会が造られ、その墓には人がようやくすれ違うことのできるほどの狭い通路を通って入っていきます。墓の中には祭壇があり多くの人々が祭壇にキスをし、祈りをささげていました。教会内にはイエスの体を安置した場所とされるところもありました。またこの教会とは別の場所に、園の墓があります。美しい花が咲く公園のような場所で、そこにイエスの墓とされる穴の空いた岩山があり、中に入ることができました。こちらは比較的広い空間でした。いずれの墓も恐ろしさを感じることはありませんでした。

 

 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)

 マルコ福音書は、この言葉で終わります。見ていただくとわかるとおり、その後の9~20節は、かっこがつけられていて「結び 一」と書いていますし、20節後半には「結び 二」と書いています。いずれも後に書き加えられたものです。書き加えた人は、8節以降の部分を紛失したと考え、他の福音書の復活記事を引用するかたちで書き加えをいたしました。

 またマルコ福音書は16章8節で終了していると考える人もいます。この福音書は、イエスの十字架の贖罪とイエスの復活、この両方によって救いがなしとげられたと伝え、この言葉で終わりにしたと言うのです。 

 マルコ福音書は紀元60年代に書かれました。当時の教会には霊的熱狂主義者がいました。この人たちは、ユダヤ戦争(66年~70年頃)によりエルサレムが陥落すると、終末が来て、再臨のメシアがあらわれると信じていました。そしてこの人々は、復活のイエスと霊的な交わりをもつならば救われると信じ、イエスの復活を重んじる考えをもっていました。この福音書は、十字架を軽んじる彼らの主張に否を言っているのです。

 女たちは、天使からイエスの復活を聞いた時、恐ろしいと思いました。彼女たちにとって復活は、受け入れがたい出来事であったからです。そのことを福音書の記者は、ありのままに書いているのです。すなわち復活は神の業です。死者の中からイエスを復活させることができるのは、神のほかにありません。ですからこの神の業に接した人は、これを受け入れる過程で「恐れ」との遭遇を経験したのです。つまりイエスの復活は、人々の罪を贖うためになされた十字架の死からの復活であるのです。単に復活の主と霊的に同化すれば救われるというものではないのです。

 結びの一、20節に「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」とあります。十字架と復活のイエスは、女たちや弟子たちによって宣教がなされることを期待しています。「恐ろしかったからである」は、女たちの罪の赦しと新しい歩みの原点といえるものです。罪人であった者が神の業によって赦され立ち上がることへと導かれました。そこには「恐れ」がありました。でも女たちや弟子たちは、神の業に対する恐れの中で、イエスと共に働きますし、彼らの語ることが真実であることを、主がしるしによってお示しくださるのです。

 「恐れ」は、わたしたちにイエスの十字架による贖いの恵みを覚えさせるものであり、わたしたちをあるべき場所に送り出す神の働きの原点となるものです。説教題を「復活の主に会える場所」といたしました。イエスはかねてより弟子たちに「ガリラヤ」で会えると話していました。「ガリラヤ」は、イエスと従う人々の生活の場であり、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるように社会の中で疎外されている人々が多く暮らす場でもありました。そこでイエスに会えるとは、そうした人々に宣教をしなさい、イエスも共に働きをするからと言っておられるのです。またイエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われました。そこでもわたしたちは「復活の主に会える」のです。

 

 これから新しい生活を始められる皆さんは、喜びや期待と共に不安や恐れもあるでしょう。でもその生活の場に十字架と復活のイエスが共にいてくださいますし、「イエスの名によって集まるところ」(教会)にもイエスは共にいてくださいます。「恐れ」は、わたしたちが神の業である十字架と復活とに深くむすばれていることを示しています。わたしたちが生きている時も死んだ後も、十字架と復活のイエスは共にいてくださいますし、その恵みによってわたしたちは、感謝と喜びへと導かれるのです。 

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