W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2026. 4. 5 復活節第1主日イースター礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
婦人たちは墓を出て逃げ去った。・・恐ろしかったからである。
(マルコによる福音書16章8節)
「復活の主に会える場所」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
婦人たちは墓を出て逃げ去った。・・恐ろしかったからである。
(マルコによる福音書16章8節)
「復活の主に会える場所」 深見 祥弘
イースターおめでとうございます。2月18日に始まった受難節(レント)も終わり、この喜びの日を迎えることができました。この時は、イースターの喜びとは何かについてみ言葉に聴いてまいりましょう。
今朝は、一人の姉妹が洗礼をお受けになられます。姉妹と準備会をいたしましたが、そこで洗礼は、十字架のイエスと共にこれまでの自分に死に、復活のイエスと共に主が備えてくださった新しい命に生きることであると学びをいたしました。ひとたび水に身を沈めて死に、新しい命をいただいて立ち上がる、この恵みが与えられることは、姉妹のみならず、この場に集まるわたしたちにとっても大きな喜びであります。
またこの礼拝で、新しい生活を始められる6人の若い方々のためにお祈りをいたします。この方々の中には、受験のために長い時間をかけて準備をし、この喜びの日を迎えられた方もいます。神様がそうした日々を覚えて労いを与えてくださり、またこれから始まる新しい生活を祝福し励ましてくださることを願います。
今朝のみ言葉は、マルコによる福音書16章1~8節、イエスの墓を訪れた女たちが、若者からイエスの復活を聞いたときのことを書いています。
金曜日の午後3時、イエスは十字架上で息を引き取りました。安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)が近づく中、アリマタヤのヨセフが総督ピラトに願い出て、イエスの遺体の引き取り、準備していた墓に納めました。その際彼は、イエスの体を亜麻布で包みましましたが、香油を塗ることはできませんでした。彼は、イエスの体を墓に納めるとその入口を大きな石で塞ぎました。またこの様子をマグダラのマリアとヨセの母マリアが見つめていました。
安息日が終わると(土曜日の夜)、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメの3人はイエスの体に塗るために香油を買いもとめ、日曜日の朝ごく早くに墓に行きました。彼女たちはうつむきながら、墓の入口をふさぐ非常に大きな石をだれか転がしてくれるだろうかと、道々、話しをしました。墓に到着し、目を上げて見ると、すでに大きな石は転がしてありました。墓の中に入ってみると白くて長い衣を着た若者(天使)がいて、彼女たちをひどく驚かせました。天使は、イエスが復活したことと、ガリラヤで会えることを話し、このことを弟子たちに告げなさいと言いました。しかしこれを聞いた三人は、震え上がって正気を失い、墓から逃げ去って行きました。「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われましたが、彼女たちはだれにも何も言いませんでした。恐ろしかったからです。
イエスの墓とされる聖墳墓教会と園の墓に行ったことがあります。聖墳墓教会は、その名のとおり教会の中にイエスの墓があります。墓を覆うようにして教会が造られ、その墓には人がようやくすれ違うことのできるほどの狭い通路を通って入っていきます。墓の中には祭壇があり多くの人々が祭壇にキスをし、祈りをささげていました。教会内にはイエスの体を安置した場所とされるところもありました。またこの教会とは別の場所に、園の墓があります。美しい花が咲く公園のような場所で、そこにイエスの墓とされる穴の空いた岩山があり、中に入ることができました。こちらは比較的広い空間でした。いずれの墓も恐ろしさを感じることはありませんでした。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(8)
マルコ福音書は、この言葉で終わります。見ていただくとわかるとおり、その後の9~20節は、かっこがつけられていて「結び 一」と書いていますし、20節後半には「結び 二」と書いています。いずれも後に書き加えられたものです。書き加えた人は、8節以降の部分を紛失したと考え、他の福音書の復活記事を引用するかたちで書き加えをいたしました。
またマルコ福音書は16章8節で終了していると考える人もいます。この福音書は、イエスの十字架の贖罪とイエスの復活、この両方によって救いがなしとげられたと伝え、この言葉で終わりにしたと言うのです。
マルコ福音書は紀元60年代に書かれました。当時の教会には霊的熱狂主義者がいました。この人たちは、ユダヤ戦争(66年~70年頃)によりエルサレムが陥落すると、終末が来て、再臨のメシアがあらわれると信じていました。そしてこの人々は、復活のイエスと霊的な交わりをもつならば救われると信じ、イエスの復活を重んじる考えをもっていました。この福音書は、十字架を軽んじる彼らの主張に否を言っているのです。
女たちは、天使からイエスの復活を聞いた時、恐ろしいと思いました。彼女たちにとって復活は、受け入れがたい出来事であったからです。そのことを福音書の記者は、ありのままに書いているのです。すなわち復活は神の業です。死者の中からイエスを復活させることができるのは、神のほかにありません。ですからこの神の業に接した人は、これを受け入れる過程で「恐れ」との遭遇を経験したのです。つまりイエスの復活は、人々の罪を贖うためになされた十字架の死からの復活であるのです。単に復活の主と霊的に同化すれば救われるというものではないのです。
結びの一、20節に「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」とあります。十字架と復活のイエスは、女たちや弟子たちによって宣教がなされることを期待しています。「恐ろしかったからである」は、女たちの罪の赦しと新しい歩みの原点といえるものです。罪人であった者が神の業によって赦され立ち上がることへと導かれました。そこには「恐れ」がありました。でも女たちや弟子たちは、神の業に対する恐れの中で、イエスと共に働きますし、彼らの語ることが真実であることを、主がしるしによってお示しくださるのです。
「恐れ」は、わたしたちにイエスの十字架による贖いの恵みを覚えさせるものであり、わたしたちをあるべき場所に送り出す神の働きの原点となるものです。説教題を「復活の主に会える場所」といたしました。イエスはかねてより弟子たちに「ガリラヤ」で会えると話していました。「ガリラヤ」は、イエスと従う人々の生活の場であり、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるように社会の中で疎外されている人々が多く暮らす場でもありました。そこでイエスに会えるとは、そうした人々に宣教をしなさい、イエスも共に働きをするからと言っておられるのです。またイエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われました。そこでもわたしたちは「復活の主に会える」のです。
これから新しい生活を始められる皆さんは、喜びや期待と共に不安や恐れもあるでしょう。でもその生活の場に十字架と復活のイエスが共にいてくださいますし、「イエスの名によって集まるところ」(教会)にもイエスは共にいてくださいます。「恐れ」は、わたしたちが神の業である十字架と復活とに深くむすばれていることを示しています。わたしたちが生きている時も死んだ後も、十字架と復活のイエスは共にいてくださいますし、その恵みによってわたしたちは、感謝と喜びへと導かれるのです。