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≪次月 2月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 2. 22. 復活前第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。    (ヘブライ人への手紙2章18節)

 

 「救いの創始者」        深見 祥弘

< 今 週 の 聖 句 >

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。    (ヘブライ人への手紙2章18節)

 

           「救いの創始者」        深見 祥弘

 2月も残すところ1週間、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」と言いますが、時が経つのは早いものです。先週18日(水)は、キリスト教の暦で「灰の水曜日」でした。カトリック教会の「灰の儀式」では、前年の棕梠の主日に用いたシュロの枝を燃やし、その灰で司祭が信者の額に十字のしるしをつけます。この灰には「あなたは土から生まれたので、土に帰る」という回心の意味があります。今年は18日「灰の水曜日」から4月4日(土)まで、受難節(レント)と呼ばれる期間です。わたしたちは、額に灰を塗ることはいたしませんが、毎週の礼拝でキリストの苦難と十字架の出来事を心に刻みながら、これからの時を過ごしてゆきましょう。

 

 はせがわゆうじさんの作品に「もうじきたべられるぼく」(中央公論社)という絵本があります。「ぼく」とは牛のことです。この絵本は「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」という言葉で始まります。「ぼく」はある牧場で生まれ、まだ小さかったころに今いる牧場にやってきました。それからだいぶ月日が過ぎたけれど、「ぼく」はとても大きくて やさしかったお母さんのことを覚えています。今いる牧場では、毎日、ふとれふとれと言われます。いっぱい牧草を食べさせられて、あぶら身 多いと思うけど、太ったうしほど高く売れるんだって。「ぼく」は、一度でいいからスリムになって馬のように草原を走りまわってみたかったし、動物園のぞうやきりんみたいに、みんなに愛されたかった。でも「ぼくは、もうじきたべられるのだそうだ」、このことを知った時、最後にひとめだけお母さんに会いたいと思い、行くことにしました。お母さんのいる牧場に到着すると、あのころとおなじ風、おなじにおいがしました。「おかあさんだ、しあわせそうだな、あんなところにもうじきたべられるぼくが現れたら、おかあさん かなしむかな」、「悲しませるために、来たんじゃないや、さようなら おかあさん」。なにも言わずに電車の乗って帰っていく「ぼく」にお母さんがきづいて、ずっと追いかけてきます。「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ せめて ぼくをたべた人が自分のいのちを たいせつにしてくれたら いいな」と願いました。 こんなお話です。

  今朝のみ言葉は、ヘブライ人への手紙2章10~18節です。ここには、イエス・キリストがどのように御方なのかを三つの表現で書いています。

 まずイエス・キリストをあらわす一つの表現は、「救いの創始者」(10)です。「救いの創始者」であるイエス・キリストは、「源(10、11)」である方(父なる神)が多くの子らを栄光に導くためにお立てになられた方であり、数々の苦しみを通して完全な者とされた方であります。「数々の苦しみ」とはイエスの十字架をあらわし、「完全な者」とは復活のキリストをあらわしています。父なる神は、人々を救うために、イエス・キリストを十字架に架け、三日目に復活させ、「救いの創始者」とされました。

 イエス・キリストがどのような方かをあらわす二つ目の表現は、「人を聖なる者となさる方」(11)です。父なる神は「人を聖なる者となさる」ためにイエスを遣わし、「聖なる者とされる」人もまた父なる神によって創造されたものであるので、父なる神にとってイエスと人々は兄弟です。そしてイエスは、この人たちを兄弟と呼ぶことを恥とはされません。この人たちは、罪(神でないものを神としている)のために栄光の冠を獲得できないでいるのですが、父なる神はイエス・キリストの十字架と復活によってこの人々を聖なる者とされるのです。

「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」(12)、これは詩編22編23節の言葉です。この詩を作ったダビデは、来るべき時に救い主がおいでになられること、その救い主は苦難を担われる(2~22)こと、しかしついに恵みの御業を成し遂げて(23~)くださることを覚え賛美をしています。ヘブライ人への手紙の著者は、この詩編に告げられていたことが実現したと告げています。

「わたしは神に信頼します」(13)、これはイザヤ書8章17節bの引用です。預言者イザヤは、彼の語る言葉に人々が耳を傾けない状況を長く経験しましたが、神への信頼を失うことはありませんでした。この手紙の著者は、イエスもまた、主ご自身の語る福音に人々が聞こうとせず、十字架上で父なる神がその御姿を隠しておられるように思う経験をされましたが、父なる神への信頼を失うことはなかったと告げています。

「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(13)これはイザヤ書8章18節aの引用です。人々はイザヤの預言を受け入れなかったが、イザヤは確かにここにいるし、わずかであるが彼の弟子たちがいました。手紙の著者もまた、人々は福音を受け入れないけれど、救い主イエスは確かにここにおられるし、弟子と信じる人々もまたここにいると告げています。

 イエス・キリストがどのような方かをあらわす三つ目の表現は、「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」(17)です。イエス・キリストは、人と同じく血と肉を備えた方として生まれました。それはご自分の死によって、死をつかさどる者(悪魔)を滅ぼし、死の恐怖や支配から人々を解放するためでした。そのためにイエスは「憐み深い、忠実な大祭司」となって、人々の罪の償いをなさいます。レビ記16章にこう記されています。「贖罪の日」大祭司は、まず自分の罪を贖うために雄牛を屠り、次に人々の罪を贖うために二匹の雄山羊を選んで一頭を屠り、もう一頭に人々の罪を担わせて荒れ野に追いやるのです。大祭司イエスは、「憐み深い、忠実な大祭司」でありました。ご自分には罪がないのに自らを雄牛とし、また二匹の雄山羊とし、十字架において血を流し人々の罪の償いの献げ物となられました。ヘブライ人への手紙9章11節は、「キリストは、…恵みの大祭司としておいでになったのですから、…雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と記しています。これらの業は、「アブラハムの子孫」、すなわちイエスを救い主と信じる人々の救いのためになされました。キリストは、血肉をもつ人として、また人々の贖いをおこなう大祭司として試練と苦難を経験されました。ですからわたしたちが経験する試練や苦難で、キリストが経験されなかった試練や苦難は一つもありません。

 

 はじめに絵本「もうじきたべられるぼく」を紹介しました。牛の「ぼく」は、自分の運命を受け入れています。他の動物が、駆けまわったり、可愛がられているのを見てうらやましく思います。どうして「ぼく」はだれにも知られずに食べられるのかと思いつつ、「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」と言って示された道を歩みます。イエスも、贖罪の日にささげられる若い雄牛として、人々の罪を背負わされ荒れ野に追いやられる雄山羊として死なれます。でもイエスは人々の罪の贖いを成し遂げ、3日目によみがえられました。「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」牛の「ぼく」は、せめて「ぼくをたべた人が自分のいのちを大切にしてくれたらいいな」と言っています。キリストの体をあらわすパンとぶどう酒を食べる者であるわたしたちも、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」、「わたしは神に信頼します」、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と主の命の恵みに感謝し、告白と賛美をささげてまいりましょう。 

2026. 2. 15. 降誕節第8主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

(ルカによる福音書15章4節)

   

「『一匹の羊』 と 『放蕩息子』」  仁村 真司  

< 今 週 の 聖 句 >

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

(ルカによる福音書15章4節)

   

「『一匹の羊』 と 『放蕩息子』」  仁村 真司     

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。       (1~2節)

この場面でイエスは「失ったものが見つけ出される」という同じテーマの譬え話を三つ続けて語った。ルカ福音書15章はそのように伝えています。

一つ目は、百匹の羊の内の「一匹を見失った」(4節)。そのいなくなった、失った、一匹を捜して見つけ出す「失った羊」。

二つ目は8~10節、十枚の銀貨の内の一枚が無くなる。その見失った一枚を家中大捜しして見つけ出す「失った銀貨」。

三つ目は『放蕩息子』としてあまりにも有名ですが、父親が戻って来た息子を「遠く離れていたのに•••見つけて」(20節)、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言っていますから (24節)、二人の息子(兄弟)の内の一人(弟)がいなくなる、失う。

その失った一人を見つけ出す「失った息子」の譬え話と言えるでしょう。

  1)

「失った羊」の譬え話が語られた後の「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (7節)

「失った銀貨」の後の「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 (9節)

そして「失った息子」のおわり、もう一人の息子(兄)への父親の言葉、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。…だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」 (31・32節)

「失った羊」も「失った銀貨」も「失った息子」も悔い改める罪人を表し、一人の罪人が悔い改めれば、そこには (失わなかった他の「九十九匹」「九枚」・「一人」についてよりも大きな)喜びがある。イエスが「罪人」 を迎え入れるのは、つまりはそういうことなのだという訳です。「見つかる (見つけられる)」というのは「罪の赦し」を表すのでしょう。

「放蕩息子」と呼ばれ、「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(18・21節)と自ら認める「失った息子」は、なるほど罪人。 でも、「失った羊」や「失った銀貨」、特に銀貨が罪を犯した、罪人の譬えというのは何とも言えないモヤモヤした感じがすると思います。

それと「失った息子」を「放蕩息子」とするのは多分 “濡れ衣” です。

13節の「放蕩の限りを尽くして」。ここは「不安定な生活を送り」、強めに訳しても精々「破滅的な、自堕落な生活を送り」ぐらいで、「酒色に溺れる」という意味合いを持つ「放蕩」はちょっと訳し過ぎだと思います。

「放蕩息子」でないのなら「失った息子」が犯し、悔い改め、赦された罪とは一体何なのか。その同じ罪を「失った羊」も「失った銀貨」も犯し、見つけられ、赦される。とすれば、本来の所有者のもと、本来在るべき場所からいなくなる、離れること、それが罪ということになります。

「本来の所有者」とは言うまでもなく神です。そしてルカは、信者となって教会に加わるのは「悔い改め、罪赦された人」と考えています。ルカにとって「本来在るべき場所」とは具体的には教会ということになります。

従って、「失った息子」は「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いした」とありますが (13節)、悔い改めねばならない罪は、それが本当だとしても放蕩や無駄遣いではなく、父(なる神)のもとを離れたことです。仮に遠い国で施し等の善行を行ったとしても、罪を犯したこと、犯した罪に変わりはないということになるでしょう。

  2)

でも、やはり、「一匹の羊」や「一枚の銀貨」が「一人の罪人」というのは、どうにもこうにもイエスっぽくないという気がして仕様が無いです。

また、『放蕩息子』ではないとしても「失った息子」の話については、話そのものがイエスっぽくないと言いますか、イエスが語った他の譬え話とは随分と質が異なり、話の筋も不自然でぎこちないと思います。

例えば「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」。有り金残らず使ったのなら、飢饉が起こっても起こらなくても、食べるのに困ります。また「ぶどう園の労働者」の譬え話 (マタイ20章1~16節)からも窺い知れるように、豚の世話ではなくとも、貧しさの中その日その日の仕事をさがして何とかするしかない、飢饉等が起これば更に困窮する、そういう「不安定な暮らし」を送っている人々の現実をイエスはよく知っています。そのイエスが「豚飼いになり、落ちるところまで落ちて、そこで我に返り、裕福な父親のところに帰る」、そんな話を悔い改め、罪の赦しの譬えとして語ったとは考えにくいです。

かといって、「失った息子」はイエスが語ったものではないという絶対的な根拠はありません。また後半 (25節~) の「もう一人の息子」、兄の言動には普通の、自然な人の感情が表現されていると思います。方や父親のもとを離れる、方や父親のもとに留まる。別々の生き方をする二人の息子、弟と兄の話をイエスが悔い改め 罪の赦しではない何か別の譬えとして語った可能性はあると思います。それが教会の教えに合わせて語られていく内に『放蕩息子』になったのかもしれない等と私は想像しています。

  3)

「失った息子」とは反対に、間違いなくイエスが語ったと思えるのは、「失った羊」です。「一匹の羊」が「一人の罪人」とされている不自然さにも拘わらずです。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失 

ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すま

で捜し回らないだろうか。」               (4節)

マタイ福音書もほぼ同じ筋書きの話、イエスの言葉を伝えています。

「…ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十 

九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」

(18章12節)

イエスが言っていることは明瞭です。「その場にいる九十九匹よりいなくなった一匹、当たり前だろう」ということです。

ところが、このイエスの当たり前が理解出来ない。「一より九十九」が当たり前というのがこの世の現実です。そこで「九十九より一」が当たり前になる「九十九」とは?「一」とは? あるいは「九十九より一 」が当たり前になるのはどんな状況か等と考えることになります。

そうして、ルカは「一」は罪を悔い改めて、罪赦されて教会に加わる一人、「九十九」は悔い改める気のない、教会に加わる気のない人々とした。

マタイの場合、「山」は教会の譬えですから危険な場所ではなく、留まっておくべき場所です。そこから「迷い出た一匹」とは、教会の教えに反したり、教えとは違ったことを言ったり行ったりする人のことで、そういう人であっても、見捨てないで、教会の教えに立ち返らせるようにしなさいという弟子たちや教会指導者の心得のような話になっています。

それぞれに「なるほど」という所も無い訳では無いです。なのですが、私が「間違いなくイエスが語った」と感じたのは普通には当たり前でないことを当たり前と言い切る、さらりと言う、そんなイエスの “迫力”です。

虐げられた一人、苦しむ一人、悲しむ一人のもとに赴くイエスには、当たり前に、いつでも「九十九より一」だったのではないでしょうか。

2026. 2. 8. 降誕節第7主日(信徒立証)礼拝
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< 信徒立証 >

小出 悦子姉

 立証「わたしの歩いてきた道」

  マタイによる福音書 5章13節

  マルコによる福音書9章50節

 

​西 哲男兄

 立証「わたしの信仰」

  ルカによる福音書11章9~13節

< 信徒立証 >

小出 悦子姉

 立証「わたしの歩いてきた道」

  マタイによる福音書 5章13節

  マルコによる福音書9章50節

 

西 哲男兄

 立証「わたしの信仰」

  ルカによる福音書11章9~13節

2026. 2. 1. 降誕節第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

(マルコによる福音書4章8節)

 

     「徒労でないかもしれない」    深見 祥弘

< 今 週 の 聖 句 >

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

(マルコによる福音書4章8節)

 

           「徒労でないかもしれない」    深見 祥弘

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書4章1~9節、「種を蒔く人」のたとえです。このたとえは、イエスが自らの生涯とその働きについて述べたものです。しかし、これを聞いた人々皆にわかってもらいたいとの思いではなく、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9)と語るように、イエスはご自分を求める人にわかってもらいたい、そうでない人には隠しておきたいとの思いでありました。

 

 ある日、イエスは湖のほとりで教えを始めました。やがておびただしい群衆が集まってきたので、舟に乗り込み、湖の上から教えられました。そこで教えられたのはいろいろなたとえで、その一つが「種を蒔く人」のたとえでありました。

 イエスは「よく聞きなさい」と群衆に呼びかけました。集まってきた群衆に、それぞれが抱いているイエスへの期待や疑念をひとまず置いて、自らの教えに耳を傾けてほしいと呼びかけました。イエスは、ご自分がこれからどのような日々を過ごすのか、そこで行うことはどのようなことなのかを聞いてほしいと願われたのです。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(3) 「種を蒔く人」とはイエスのことです。「種」とはみ言葉のこと、具体的には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)、この言葉です。また「悔い改めて福音を信じなさい」の「福音」とは、これもイエスのことです。イエス・キリストは、このみ言葉を携えて伝道に出かけて行ったと述べているのです。 

「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」(4)

これは、サタン(15)に支配される人への伝道を語っています。サタンに支配される人とは、ユダヤ教指導者たちのことです。15節を見ますと、彼らに御言葉が語られても、すぐにサタンが来て、御言葉の種を持っていってしまうというのです。イエスは、働きを始める前に、荒野でサタンの誘惑を受けますが、御言葉によって誘惑を退け勝利をされました。イエスは、ユダヤ教の指導者(祭司長や律法学者といった人々)に御言葉を語りました。でもサタンがすぐに奪い去ったので、彼らは悔い改めることはなく、かえってイエスを殺してしまおうとの思いに満たされるようになりました。彼らの憎悪が、イエスを十字架に追いやることとなり、結果、彼らに救いの道が備えられるようになりました。

「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」(5・6)。これは、イエスの群衆への伝道の様子を語っています。群衆は、はじめイエスを救い主と信じ熱狂しますが、つまずきを経験することで、イエスを十字架に追いやります。すなわちイエスがエルサレムに入場した時、群衆はしゅろの葉を振り「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」と叫びました。それなのに幾日も経たぬうちに、彼らはイエスを「十字架につけろ」と叫び立てる者になりました。彼らの期待と失望が、イエスを十字架に追いやることになり、結果、彼らにも救いの道が開かれることになりました。

「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」(7)。これは、弟子たちへの伝道の様子を語っています。「種は茨の中に落ちた」とは、繁茂する茨の中に種が落ちたということではありません。その土地は、きれいに整地されているのですが、土の中に茨の根が残っていて、種が芽を出しても、茨の成長が早く、やがて種から出た芽を覆いふさいでしまって実を結べません。弟子たちは、内に裏切りの根を持っていて、イエスを裏切り売り渡したり、逃げ出してしまいます。イスカリオテのユダは、大祭司と銀30枚でイエスを売り渡す約束をし、ゲッセマネの園においてイエスへの接吻を合図に、大祭司の手下に引き渡してしまいました。また、最後の晩餐の席で「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロは、大祭司官邸の中庭で、イエスの仲間だと言われ、「そんな人は知らない」と三度も誓ったのでした。弟子たちの弱さが、イエスを十字架に追いやり、結果、彼らにも救いの道が備えられるようになりました。

 「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(8)。これは、イエスの十字架と復活ことです。神の言葉であるイエス・キリストが、地に落ちて死ぬことで、蒔かれた神の言葉が豊かな実りをもたらすことになるというのです。「三十倍、六十倍、百倍」この信じがたい豊かな実りは、「神の国」をあらわしています。

 イエスの十字架と復活の後ペトロは、聖霊を受けて「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38~39)と説教をしました。この言葉を聞いた群衆(熱しやすく冷めやすい人々)は、三千人ほど仲間に加わりました。さらにファリサイ派でキリスト者への迫害者であるパウロが回心し、ローマ軍の百人隊長コルネリウスとその家族も回心をいたしました。

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24) 「種を蒔く人」のたとえは、イエス・キリストの生涯と十字架と復活の使命を語るものです。イエスは、ユダヤ教の指導者に、群衆に、そして弟子たちに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道をしました。でもイエスが生きていた時、その伝道は徒労に終わったかのように思えました。ところが罪なきイエスが、人々の罪を負い十字架に死に復活されたことで、サタンに支配されイエスに敵対した人も、世の風潮に流された人も、裏切りの根を宿した人も、すなわち主が招く者ならだれにでも救いが与えられ、神の国の一員となることが許されました。この「種を蒔く人」のたとえは、イエスの生涯と働きが「徒労ではなかった」との信仰を与えてくれます。さらにこの信仰は、今を生きる私たちに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えるように促しています。このたとえは、伝道によって経験するであろうことを私たちに示し、苦難の中にあっても、神の国への希望を失うことのないように励ましをあたえます。

 

 私たちの伝道は、御言葉を語っても、瞬時にサタンが取り去ってしまうことがありますし、熱意をもって受け入れてくれた人が試練や誘惑によって御言葉を絶やしてしまうことも、内に宿していた裏切りの根によって御言葉の芽を覆いつくしてしまうこともあります。でもこのたとえによって徒労とも思える伝道は、たとえ直ぐには成果を見ることができなくても、十字架と復活のイエスによって、「徒労に終わることはない」との確信をいただくのです。「種を蒔く人」のたとえは、私たちへの応援歌です。

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