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≪次月 10月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 10. 29 聖霊降臨節第23主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。                     (創世記1章26~27節)

 

          「かたどる」      深見 祥弘​牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。                                  (創世記1章26~27節)

 

          「かたどる」          深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、旧約聖書創世記です。旧約聖書は、律法、預言書、そして諸書に分けられます。「律法」は、創世記、出エジプト記、レビ記、 民数記、申命記の五書で、「モーセ五書」と言われます。「預言書」はイザヤ書やエレミヤ書など、「諸書」は詩編、ヨブ記、箴言、ルツ記、雅歌、コヘレトの言葉などです。

さて「モーセ五書」は、四つの資料を用いています。①ヤッファウェ資料(J)は、神の名を「ヤッファウェ」(訳:主)と呼びます。BC850年頃南ユダ王国で書かれました。②エローヒム資料(E)は、神の名を「エローヒム」(訳:神)と呼びます。BC750年頃北王国で書かれました。③祭司資料(P)は、

神の名を「エローヒム」(訳:神)と呼びます。BC550年頃捕囚の地バビロンで書かれました。④申命記資料(D)です。

 今朝のみ言葉は創世記1章、神の名を「神」と訳しています。この1章の創造物語は、捕囚地バビロンで書かれた祭司資料によるものです。2章にも創造物語がありますが、神の名を「主なる神」と訳しています。2章4節以下は、南ユダ王国で書かれたヤッファウェ資料によるものです。これからお話する創世記1章は、捕囚地バビロンにおいて書かれた創造物語です。ところでこの書を編集した者は、なぜ年代の古い2章の創造物語を先にせず、年代の新しい1章の創造物語を先にしたのでしょうか。編集者は、「初めに、神は天地を創造された。」(1:1)これを見た時、この言葉こそ

この書の、そして聖書全体の巻頭を飾るにふさわしい言葉と考えたのです。「初めに、神は天地を創造された。」この言葉は、人を含め天地の一切のものは、その存在の意味を神に置いていると宣言しているのです。

 

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(1:1~2) ここに出てくる「創造」は、へブル語のバーラーという言葉で、無から有を造るという意味があります。それに対し材料を用いて何かを造ることを意味する言葉はアーサーで、ここでははっきりと区別をしています。1章2節に出てくる「地」、「闇」、「水の面」は、「地」が10節、「闇」が5節、「水」が6節において造られますので、ここでのそれらは、まだ混沌の状態であったということでしょう。そして、天地創造の働きをしたのは、「神」と「神の霊」、そして神より発せられる「言」でありました。

 神は「光あれ。」との言によって、1日目に光を創造されました。太陽や星、月は後で造られますので、神はここでは光そのものをお造りになられ、闇と分け、光を昼、闇を夜と呼ばれました。呼んだ(名付けた)とは、これを支配する、責任を持つことを意味します。

 2日目、神は大空と水をお造りになられました。混沌を2つに分け、大空の上の水(雨)と大空の下の水に分けられました。3日目、神は天の下の水を1か所に集め、水の集まったところを海、乾いたところを地と呼びました。また地には植物を芽生えさせました。4日目、神は天体を造り、神の支配のもと季節のしるし、そして日や年のしるしとされました。5日目、神は水に生きる生き物、翼のある鳥を、6日目、神は地の生き物をお造りになられ、これを見て良しとし「産めよ、増えよ」と祝福されました。神は人を6日目に創造されました。

 

 この神による人の創造(26~31節)については、すこし丁寧にみてゆきましょう。「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(26)ここで神が言われる「我々」とは、誰のことを言っているのでしょうか。まず、この「我々」とは、神ご自身のことであるように思われます。人を造る前にいたのは、生き物たちであり、神が生き物たちに呼びかけて人を造るとは考えにくいからです。そうすると「神は言われた。我にかたどり、我に似せて、人を造ろう。」と言っておられるのですが、これを編集者が「我々」と複数形を用いることで、尊敬(尊称の複数)を表わす表現にしているのです。また、キリスト教会においては、この「我々」を父なる神、子なる神、聖霊なる神、すなわち「三位一体の神」を意味すると読んできました。神が人を造るとき、父なる神と子なる神、そして聖霊なる神の交わりの中で、それをなしたということです。

 他の被造物とは異なり、人は三位一体の神の交わりの中で造られました。神は、人とも交わりを持ち、この世界を治めてゆきたいとの願いがあったからです。そして人が神との交わりをもつことのできるものとして造られたものであることを、「我々にかたどり、我々に似せて」という表現で表しているのです。神が、人を交わりの持てる存在として造られたのは、神がお造りになられたものすべてを、支配するという使命を与えるためでありました。

「そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(26) 人が神より権限をいただいて被造物を治めるのです。その時、人は委ねられた被造物を自分の利得のためにそれらを用いたり破壊したりすることのないように、神と交わりを持つ存在、み旨を知りそれを行う存在として造られたのです。

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(27)  三位一体の神の愛と交わりのように、人も互いに愛し合い、子や孫が生まれ、その子孫に引き継がれ、地上に広がってゆくことを願っておられるのです。

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(31)  神は、「極めて良かった」と人を含む被造物のすべてを見て言われました。

 

 私たちは「神のかたち・似姿」として造られました。しかし私たちは、神によって造られた者であること、神と交わりをもつことのできる者であること、また神より被造物を支配する使命を委ねられた者であることを忘れてしまうこともありました。神のみ旨に生きることを忘れ、自分本位になること(罪)で、神のかたちを失ってしまったのです。

 しかし神は、そうした私たちを憐み、「神のかたち」としてのイエス・キリストを、人として私たちの元に生まれさせてくださいました。イエスは、その生涯を父なる神との交わりによって、まったき「神のかたち」をもつお方として歩まれました。さらにイエスは、私たちの罪の贖いのために十字架に架かってくださいました。私たちは、この方を救い主として信じることで、罪赦され、「神のかたち」を回復させていただくことができます。

 「神のかたち」を回復していただいた私たちは、神との交わりによりみ旨を知り、この世界を神のみ旨に適うかたちで管理してゆかなければなりません。さらに私たちを救ってくださった愛を、神のお造りになられた世界に広げてゆくことをも使命としています。私たちは、神にかたどられた者として、委ねられていることを行ってゆきたいと願います。

 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい

  清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:24)

2023. 10. 22 聖霊降臨節第22主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

(へブライ人への手紙12章1節)

 

         「忍耐強く走り抜こう」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

(へブライ人への手紙12章1節)

 

           「忍耐強く走り抜こう」      深見 祥弘

 中国・杭州で行われたアジア大会でのことです。ローラースケート男子三千メートルリレー決勝、ゴール前で勝利を確信した韓国チーム(3名の走者)の最終走者が両手を上げてガッツポーズをする間に、追ってきた台湾チームの最終走者が思いっきり足を伸ばしてゴールをしました。台湾チームのタイムは、4分5秒692、韓国チームのタイムは4分5秒702で、わずか0.01秒でした。韓国メディアは、「(アジア大会での銀メダル、)最後まで全力を尽くしたという前提であれば、拍手を受けられる結果だ。選手は謝罪したが国民の怒りは止まっていない。金メダルを取れなかったからではなく、最後まで最善を尽くしていなかったからだ。」と報じました。

 

 今朝のみ言葉は、「ヘブライ人への手紙」です。この手紙の著者や執筆場所はわかりません。書かれた年代は、ローマ皇帝ドミティアヌス(AD81~96)の治政と考えられます。その名のとおり、この手紙はユダヤ人キリスト者にむけて書かれたもので、旧約の出来事や聖書の引用が多数出てきます。また「手紙」と名がつけられていますが、はじめに挨拶の言葉はなく、すぐに内容に入っていることから、これは教会で朗読するために書かれた説教と考えられます。皇帝ドミティアヌスは、キリスト者を迫害しました。そうした状況の中、著者はユダヤ人キリスト者に対して旧約の信仰者から受け継いだ信仰を携え、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走り抜くように勧め励ましています。

 「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(11章10節)旧約時代の人々は、神が来るべき日に堅固な土台を持つ都を与えてくださるとの約束を信じていました。すなわち彼らは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰をもっていたのです。それは、神がその言葉によって世界を創造されたように、神の言葉によって堅固な土台を持つ都をも創造してくださると信じていたのでした。

 著者は、まず旧約時代の人を選び、その人が信仰によっていかに神に認められたかを紹介しています。今朝は、この手紙に書かれている何人かを取り上げてみましょう。

 ノアは、神が箱舟を造るように命じられとき、その言葉に従いました。彼は洪水という「まだ見ていない事柄」(7)を信じて箱舟を造り、「信仰に基づく義を受け継ぐ者」(9)になりました。

 アブラハムは、カルデアのウルに暮らしていましたが、神に召しだされると、これに従い、行き先も知らずに出発しました。彼と家族は、カナンの地に到着しましたが、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表し、生涯天幕で暮らしました。また彼らは故郷ウルに帰る機会もありましたが、それをしませんでした。それは、彼らがまだ見ぬ天の故郷の実現を熱望し、確信していたからです。

 そしてこの信仰は、息子のイサク、孫のヤコブ、そしてヨセフ、モーセと引き継がれてゆきました。

 

 今朝は、11章32節以下を読んでいただきました。著者は、エジプト脱出と荒れ野の旅の後、カナンに入った後の時代の信仰者を紹介しています。 ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、この人たちは、士師です。ダビデはイスラエルの王の代表で、ダビデの名を上げることで、それ以降の王たちのことも覚えられています。サムエルはイスラエルの預言者の代表で、サムエルの名を上げることでそれ以後の預言者たちのことも覚えられています。

 ここで心に留めさせられたのは、35~38節に書かれている人々です。

「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。」(35) この女たちとは、預言者エリヤに子を生き返らせてもらったサレプタのやもめであり、預言者エリシャに子を生き返らせてもらったシュネムの女のことです。彼女たちは、飢饉や病いによって亡くした子を救ってもらい、信仰を新たにしました。「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。」(35) 迫害を経験した人たちは、復活を信じ、拷問を受けました。「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。」(36) 預言者エレミヤ、ミカヤ、イザヤ書に出てくる苦難の僕はこうした体験をしました。「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったからです。」(37.38) 石で打ち殺された祭司ヨヤダの子ゼカルヤ、のこぎりで引かれたイザヤ、剣で切り殺された預言者ウリヤ、皮を着て放浪したエリヤ、エリシャなども同じような体験をしたことが思いおこされます。

  39~40節は、11章のまとめです。旧約時代の信仰者たちは、神が約束されたもの(神の国と永遠の命)を手にすることは出来ませんでした。手にしたのは、アブラハムが妻サラのために購入した墓であり、サレプタのやもめの子の生き返りでありました。その上で手紙の著者は、彼らを信仰の模範とするユダヤ人キリスト者に対し、神が「さらにまさったものを計画」(40)してくださっていることを告げます。それは、神の「言」(ヨハネ1:14)であり、過越しの小羊であり、大祭司であるイエスにより、神の国と永遠の命を実現しようとしておられることです。

 著者は、旧約時代の信仰者たちが見守っているのだから、「わたしたち」(12:1)も与えられた区間をしっかりと走りぬこうと呼びかけます。信仰の先達たちは、それぞれ与えられた区間を走り終え、次の走者にバトン(信仰)を渡して今は声援を送ってくれています。リレーですから、ゴールインするのは、最終走者だけです。先に走った走者は、バトンを受け取った走者がしっかり走ってくれないと、自分の頑張りが無駄になってしまいます。

 そうした中、著者は信仰の走路を走りぬくために必要なことを二つ書いています。一つは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、・・・忍耐強く走りぬくことです。」(12:1)すなわち、すべての重荷や罪をイエスにお委ねすることです。二つ目は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」(12:2)ることです。それはイエスが喜びを捨てて、十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになっておられる姿です。イエスは信仰の創始者であり完成者でありますが、人として神より与えられた競走を走り抜かれました。わたしたちは、このイエスを信じ、先に走った信仰者たちと一緒に、神の国と永遠の命をいただくのです。

 

 趣味の作品展では30数名の皆さんが、「ぶどうの木」につける祈りを書いてくださいました。私は、「教会創立125周年に向けて-つなぐ-」と書きました。信仰の先達たちから信仰というバトンを受け取った私たちは、日々悔い改めつつイエスを見つめ、与えられた走路を忍耐強く走りぬき、次の兄姉に信仰のバトンを手渡してゆきたいと心から願っています。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(12:2)がいてくださいますから、私たちはあきらめず油断せず、自分の競走を忍耐強く走り抜きましょう。

2023. 10. 15 聖霊降臨節第21主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」                               

(ルカによる福音書17章20~21節)

 

  「神の国はあなたがたの間にある」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」                               

(ルカによる福音書17章20~21節)

 

        「神の国はあなたがたの間にある」    深見 祥弘

 10月7日朝、パレスチナ自治区ガサ地区を支配するイスラム組織「ハマス」が開始したイスラエルとの戦闘以降、イスラエル、パレスチナ双方に多数の死者や被害が出ています。「ハマス」は、多数のロケット弾をイスラエル南部の町に向けて発射するとともに、戦闘員数百人がイスラエル側に侵入し、多数の民間人や兵士を人質としてガザに連れ去りました。これに対しイスラエルは、ガザへの空爆をくり返すとともに、多くの戦車や船舶をガザ周辺に配置し、地上侵攻の準備をすすめています。(11日現在) 

 今回の戦闘の要因の一つは、イスラエルのネタニヤフ政権が2020年に、アラブ4ケ国(アラブ首長国連邦、バーレーン、スーダン、モロッコ)との

国交正常化を実現し、さらに現在、サウジアラビヤとの国交正常化にむけて交渉中であることと言われます。「ハマス」は、孤立感を深め、「(イスラエルとの国交樹立は)恥だ。アラブ諸国にイスラエルとの関係を断つように求める」(「ハマス」ハマド報道官)とし、そのメッセージとして、これらの攻撃を行ったと考えられています。

 

 今朝のみ言葉は、ルカによる福音書17章20~37節です。ここでは、「神の国の到来について」(20~21節)と「人の子の到来について」(22~37節)を取り上げています。

 まず20~21節は「神の国の到来について」述べています。ファリサイ派の人々が、イエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。イエスとファリサイ派の人々は、神の国について異なる理解を持っていました。ファリサイ派は、見える形で神の国が到来する、「ここにある」「あそこにある」という形で神の国が実現すると考えていました。具体的には、メシア(真の王)が現れて、大国の圧制(ローマ帝国)に苦しむイスラエルを救い出し、神の国(栄光の王国)が実現すると信じていたのです。

 これに対してイエスは、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えました。神の国が国土的な領域を意味するのではなく、神の支配を意味すると考えています。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」この部分を、新しく出版された聖書協会共同訳は「神の国はあなたがたの中にあるからだ」と訳しています。「神の国はあなたがたの間にある」「神の国はあなたがたの中にある」とは、イエスの誕生と宣教によってすでに神の国(神の支配)は始まっていて、あなたがたのすぐそばにあると言っているのです。

 ルカによる福音書11章14~23節には、イエスが口を利けなくする悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出した出来事が書かれています。イエスが悪霊を追い出すのを見た群衆の中には、「(イエスが)悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者もいました。イエスは「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめをすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか・・・しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われました。

 

 次に22~37節は「人の子の日の到来」について述べています。「人の子の日」とは、救い主の再臨の日・最後の審判の日のことです。イエスは、弟子たちに言いました。あなたがたは、救い主が到来する日の前に、その予兆を見出すことができるのではないかと思うかもしれないが、それを知ることはできない。

 その時、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と声をかけてくる人がいるけれども、その誘いに乗って出ていってはいけないし、その人について行ってもいけない。人の子の到来は、その様をゆっくりと見ることができる状態ではなく、一瞬に、天空をきらめきわたる稲妻のように現れるからだ。それは、ノアの時代に人々が飲み食いし、めとり、嫁ぐなどしていた時に、突如洪水に襲われて滅んでしまった出来事のようだ。またロトの時代にも同じようなことが起こった。人々が食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた時に、火山の爆発が起こり、火と硫黄が天から降って来て、一人残らず滅びてしまった。その時は、突然に来るのだ。

 ロトの妻が、後ろを振り向いて救いの機会を失ってしまったように、あなたがたも、持てる物に執着するならば、最後の瞬間に自分の命を失うことになる。「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を(自分の持っている物で)生かそうと努める者は、それを失い、(自分の持っている物)それを失う者は、かえって保つのである。」

 また人の子の到来の日、同じ寝室で男二人が寝ていれば、一人は救われ、一人は滅びてしまう。女二人が臼をひいていれば、やはり一人は救われ、一人は滅びてしまう。

 これを聞いた弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と問うと、イエスは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と言われました。人の子が到来する日は突然やってきます。持っている物に執着してはいけません。このことさえ知っておけば、その日その時は明白にわかるのです。

 

 「神の国はあなたがたの間にあるのだ」、このイエスの言葉は、イエスにおいてすでに神の国(神の支配)が始まっていること、そしてあなたがたのすぐそばにあることを示しています。

 これらのことを話されたイエスは、同時にご自身がこれから苦難と十字架を経験しなければならないとも話されました。私たちには、イエスの苦難と十字架、そして復活後も、苦しみや悲しみ、そして死が臨んできます。逃れの術も時も与えられず、何でこんなことが起こるのかと思う出来事にも遭遇します。しかし私たちは、イエスの誕生と宣教によってすでに神の国が始まっていることを信じる者です。わたしたちのすぐそばに神の国があること、イエスがおられるまさにここに、神の国があることを信じます。共にいてくださる主から目をそらさせようと「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」という者もいますが、主イエスが苦しみや死の時もわたしたちと共にいて、神の国(神の支配)を見せてくださることを信じて、主を賛美いたしましょう。苦難と十字架と復活の主イエスがいてくださるならば、わたしたちには、ほかに何も必要ありません。主イエスに100%委ね、このお方に従う信仰に立つならば、今この時、イエスと私の間に、また私と人々との間に、神の国を見出すことができます。そして、主イエスの再臨の時、主イエスの到来の日をも知ることができるのです。

 主イエスが、苦しみや悲しみを経験しているパレスチナ、イスラエル双方の人々と共にいてくださり、悪魔的な支配のもとにあえぐ人々が、一日も早く解放されることを願っています。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

2023. 10. 8 神学校日・伝道献身者奨励日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。                        

            (ローマの信徒への手紙14章8節)

 

   「わたしたちは主のものです」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。                         (ローマの信徒への手紙14章8節)

 

        「わたしたちは主のものです」     深見 祥弘

 皆さんは、アンコンシャス・バイアス(unconscious bias)という言葉をお聞きになったことがありますか。これは、「無意識の偏見」を意味する言葉で、例えば「性別、世代、学歴などで相手を見ることがある 」、「性別で任せる仕事や役割を決めている」といったことです。アンコンシャス・バイアスは、2010年代に注目されるようになりました。アメリカの大手IT企業において、従業員の「人種」や「性別」の構成比に偏りのあることが明らかになったことがきっかけでした。この企業は「問題の背景にアンコンシャス・バイアスがある」と指摘を受け、それの解消に向けた取り組みを始めました。またこのことが端緒となり、人々の「多様性(ダイバーシティ)」を認め、すべての人に情報や機会などのアクセスを公正に保障する「公正性(エクイティー)」を担保し、人々の多様性を受け入れる「受容・包含(インクルージョン)」を進めていく動きが世界的に広がりました。私たちの身近でも、内閣府男女共同参画局発行「共同参画」(2021.5)に特集「アンコンシャス・バイアスへの気づきは、ひとりひとりがイキイキと活躍する社会への第一歩」(守屋智敬著)という啓発記事が掲載されたり、各企業でもこれをテーマとして研修が行われるようになっています。

(引用資料:内閣男女共同参画局「共同参画」(2021)、「アンコンシャスバイアスとは?職場での具体例とともにわかりやすく解説」 (d’s JOUNAL編集部)

 

 今朝の御言葉は、ローマの信徒への手紙です。この手紙の著者はパウロで、第三伝道旅行(AD55~57年)中、3ヶ月滞在したコリントでローマの教会に宛てて書きました。パウロはこの時、マケドニアとアカイヤの教会の献金を携えて、エルサレムにむけて出発しようとしていました。彼は、かねてより割礼や律法からの自由を説いてきましたが、ユダヤ人キリスト者の中には激しく反発する人々がいました。AD49年頃、エルサレム使徒会議が開かれ、パウロの主張が認められましたが、尚、両者の対立は残ったままでした。そのため彼は、会議で約束した、異邦人教会におけるエルサレム教会の援助を実行することにより、和解と一致を図ろうとしていたのです。パウロは、訪れたことのないローマ教会にも手紙を書き、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」(16:31)祈ってほしいと願ったのです。

 14章1~9節でパウロは、教会の中に律法主義的な傾向をもつ人々と、そのことから自由であろうとする人々がいて、互いに裁き合う問題について書いています。パウロは、ローマ教会の信徒に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」と書きました。「信仰の弱い人」とは、律法的な考え方にとらわれている人(主にユダヤ人キリスト者)のことで、彼らは肉を食べず、特定の宗教的な日を守ることを大切にしていました。この頃、偶像に供えられた肉が業者に払い下げられ、一般の肉に混ぜて販売されていました。信徒の中で、こうした肉を食べることの良し悪しについて、判断が分かれていたのです。まず「何を食べてもよいと信じている人」は、すべてのものは神によって造られたものであり、偶像も実際には存在しないのだから、供えられた肉を食べても問題ないと主張しました。それに対し「野菜だけを食べている人」は、偶像に供えられた肉を食べることは偶像礼拝に参与することになると考えました。(偶像を礼拝する人々は、供えられた肉で祝宴を催した)

 またパウロは、もう一つ「特定の日を重んじる人」と「すべての日を同じように考えている人」の問題についても述べています。それは、教会の中に、ユダヤ教に由来する祝祭日を守ることを大切と主張する人と、そうした日からは自由であるべきだと考える人がいたからです。

 パウロ個人は、「何を食べてもよいと信じている人」「すべての日を同じように考えている人」でした。しかしパウロは、この手紙で自らの考えを主張することをしていません。彼は、信徒において判断が異なるとしても、共通していることは、彼らが自分のためにそうしているのではなく、主のために感謝してそれを行っているのだから、互いに尊敬をはらわなければならないと言います。7節~9節には、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」と書かれています。

 肉を食べる人も食べない人も、特定の日を重んじる人もそうでない人も、

主のためにそうしているのであって、自分のためにそうしている人はいません。それは、「わたしたちは主のものである」という信仰からきているものです。

 同じく、キリストが死に生きた(復活)のは、キリスト御自身のためではなく、すべての人の主となられるためでありました。「主のために生き、主のために死ぬ」というこのキリスト者のあり方と、「キリストが死に生きたのは、すべてのものの主となるため」というキリストのあり方を理解するならば、わたしたちは他のキリスト者を軽蔑したり裁いたりできないはずなのです。パウロは「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)と厳しく問うています。

 

 アンコンシャス・バイアスの一例、「親が単身赴任中です」と聞くと、まずは「父親」を思い浮かべる。それが「母親」だとわかったとき、「単身赴任という働き方を選択するのは、普通、父親だ」という自らのアンコンシャス・バイアスに気づかず、母親に対して「母親なのに単身赴任?お子さん、かわいそう・・・」といった言動をして、母親や家族を傷つけてしまうことがあるかもしれません。また、性別で任せる仕事を決めつけてしまい、成長やキャリアに影響を及ぼすこともあるかもしれません。アンコンシャス・バイアスの正体は「自己防衛心」です。そこから生まれる言動には、「普通そうだ」「こうあるべきだ」といった決めつけや押しつけが挙げられます。大切なことは、「これは、私のアンコンシャス・バイアスかも?」と、ひとりひとりが意識することです。「これって、私のアンコン?」が、組織全体の共通語になり、互いに自己開示しあえることが、ひとりひとりがイキイキと活躍する社会、多様性を認め合う社会の実現に向けての第一歩となるのです。(引用資料:同局「共同参画)

 初代教会に起こった対立は、明確な信念にもとずくものであることも、また無意識の偏見によるものもありました。パウロが人々の気づきのために示したことは、主が対立する双方の人々を受け入れておられることと、受けいれられた人々がそれぞれ感謝して主のためにそれを行っていること、そして双方が互いに認め支え合うところに主の教会があることでした。

 今を生きる私たちも、罪の気づきのために「これは、私のアンコンシャス・バイアスかも?」と問うことが必要です。主の教会は、「わたしたちは主のものです」と告白するところに、ひとりひとりが生き生きと活躍するところに、そして多様性を認め合うところに実現するのです。 

2023. 10. 1  世界聖餐日・世界宣教の日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

それから、ひざまづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

(使徒言行録7章60節)

「 展  望 」         仁村 真司

< 今 週 の 聖 句 >

それから、ひざまづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」

と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

(使徒言行録7章60節)

「 展  望 」         仁村 真司

その長さといい、内容といい、「ステファノの説教」が語られたとされる、逮捕され、最高法院に連行され、その後殺される訳ですが、そういう緊迫した場面にそぐわないものになっている最大の要因は「旧約聖書物語」とも言えるような「説教」中の大量の旧約聖書の引用・要約ですが、その大半はステファノがその場で語ったのではなく、ステファノの主張の根拠を示し説明となるようにルカが書き加えたものだろうという私の"想像"はこの前お話ししました。それ程にステファの主張は独特で個性的であり、痛烈なユダヤ教(徒)批判でもあったということです。

ステファノのユダヤ教(徒)批判は二つの考え、主張から成っています。

一つは前回お話しした、イスラエル民族はモーセを拒絶して以来ずっと神から遣わされた預言者に逆らい、迫害して来たということです。そして、今回見て行くもう一つの考え、主張は、エルサレム神殿に対する批判です。

この互いに重なり合う二つの考えを合わせて、「神に逆らうことがユダヤ教(徒)の伝統である」、これがステファノのユダヤ教(徒)批判です。

1)

当時のエルサレム神殿は宗教的のみならず政治的・経済的にも、あらゆる権威・権力を独占していたユダヤ教社会の頂点であり、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民であるという「ユダヤ人優越意識」の拠り所です。

そのようなエルサレム神殿について、例えば商人が出入りして、売り買いがなされているのはけしからんとか、そういう運営上の、部分的な問題ではなく、神殿の全体、そのものがおかしい、間違っていると批判したのがイエス、そしてその数年後のステファノです。

ステファノの死、殉教は30年代前半ですが、イエスの場合と同様に殺害されるにいたる直接のきっかけは神殿批判であっただろうと考えられます。

ただ、ルカ福音書の記述、例えば十二歳のイエスは神殿を「自分の父の家」と言った(2章49節)等からすると、ルカはイエスが神殿そのものを批判していたとは考えていなかったと思います。またぺトロたちは神殿を批判するどころか日々熱心に神殿に出かけていたというのはルカ自身が使徒言行録に書いている通りです(例えば2章46節、3章1節等)。

そんなこんなでルカにとっては「はじめての神殿批判」です。自らが納得するためにも長い「旧約聖書物語」が必要だったのでしょう。そして長過ぎる嫌いはありますが、神殿批判の根拠・説明として筋は通っています。

アプラハムが神の命合に従って示された場所に向かって以来、エジプトにいようと、荒れ野を彷徨っていようと、どこにいようとも神は臨在している、共に在る。2〜45節を思い切って要約するとこうなります。

それなのに・・・ということです、46・47節、ダビデは「ヤコブの家のために」(この場合は「イスラエル国家、王国のために」)神の住まいが欲しいと願い、ソロモンが神のために家、神殿を建てた。建ててしまった。

そしてステファノは言います。「けれども、いと高き方(神)は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(48節)。

つまり、エルサレム神殿そのものを神の意志に逆らって建てられたものと見なして批判しているということです。

  2)

パウロはステファノと一見よく似たこと、「・・・神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」(17章24節) と言っていますが、エルサレム神殿のことではなく、異教の神殿には「お住みになりません」ということです。パウロもエルサレム神殿の権威を尊重しています。

律法を批判しつつもエルサレム神殿は批判していないのは、パウロにもペトロたちと同様に、若しくはそれ以上に、「ユダヤ人優越意識」があって、そこから抜け出していなかったからと考えられますが、ステファノの神殿批判、「神に逆らうことがユダヤ教(徒)の伝統」という考えは、優越意識等入り込む余地のない、ユダヤ人自身によるものとしては最も根本的な、これ以上はない、ユダヤ教(徒)批判です。

曖昧な所が全く無い、その明確さ故にステファノの主張はユダヤ人たちの“境界線"とされたのだと思います。

ユダヤ人(ユダヤ教徒)の中にも神殿について様々な考え、程度の違い、温度差もあったと思いますが、人々は「ステファノ目がけて一斉に襲いかかり」ます(57節)。この「一斉に」は、5章まで専らキリスト者、使徒と信者の行動について用いられて来た「心を一つにして」と同じ語です。

では、心を一つにしていた(はずの)教会はどうなったのか・・・。

・・・その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。(8章1節)

"境界線"は「信じた人々の群れ」、教会の信者たちの間にも引かれたということです。「エルサレムの教会に対して大迫害」 と言っても、迫害されたのはステファノと同じ「ギリシア語を話すユダヤ人」、ヘレニストグループの人たちだけです。日々熱心に神殿に出かけていたぺトロたち使徒を中心とする「ヘブライ語を話すユダヤ人」グループは全くの無傷です。

教会全体の指導者である(はずの)ペトロたち使徒は、ステファノの殺害に始まりヘレニストたちが命を失うほどの迫害を受けている時に何もしなかった。何もしないで、さすがに「知らない」とは言えなかったでしょうが、「ステファノと私たちは違う」というようなことは言ったのではないか、もしかしたら三回ぐらいは・・・と思います。それで無事だった訳です。

3)

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(59.60節)

ペトロたちが関係を否定したという(おそらくは)事実は別にして、ルカはステファノの死をイエスの死に準えて記しているとよく言われます。

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 (ルカによる福音書23章46節)

ただ、私は先行するイエスの死に似せて、後のステファノの死を記したというだけではなく、もしかしたらステファノの死に似せて、そこから想像してイエスの死を記したという所もあるのではないかと思っています。

少なくとも、後の時代にはステファノの死の描写からイエスの死の場面を想像した人たちはいたようです。

[その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。] (ルカによる福音書23章34節)

この箇所が括弧に入っているのはほぼ確実に後の時代の付加と考えられるからですが、このオリジナルはステファノの最期の言葉、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)ではないかと思います。

ステファノの主張を"境界線"にしたのは神殿を拠り所にして「ユダヤ人優越意識」を保っていたい、ペトロたち使徒を含む、人々です。

しかし、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、この言葉によって、このような"境界線"は一切無効、意味をなさなくなります。

ステファノの主張、ユダヤ教(徒)批判は、神に逆らって来た伝統と共にユダヤ人は特別な民であるという「優越意識」から抜け出そうという呼びかけです。そして、そこに"境界線"のない新たな地平が開かれる、神の前ではだれも特別ではなくなる、あるいはだれもが特別となる。そういう展望を示しています。

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