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≪次月 6月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 6. 25 聖霊降臨節第5主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。

(使徒言行録8章31節)

 

      「手引きする人フィリポ」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。

(使徒言行録8章31節)

 

          「手引きする人フィリポ」      深見 祥弘

 わたしが洗礼を授けた一人目の方は、東京の教会のМさんです。ある時まで、二人目は〇〇さん、三人目は△△さんと覚え、受洗記念日のカードを出していましたが、やがてそのことを行わなくなりました。転任を経験する中で、それを続けることが、後任の伝道者やその教会に対する越権行為になるのではと考えたからです。洗礼を授けた方々にわたしができることがあるならば、こちらの教会、あちらの教会と働きの場が変わっても、それぞれの教会で従順に御言葉の手引きをすること、その方々が「わたしに洗礼を授けた牧師は、今、あの町の教会でめげずに働きをしている」、そのことが、その方々の励みになるように思います。

 

 今朝の御言葉は、使徒言行録8章、フィリポによるエチオピアの高官への伝道です。フィリポは、十二使徒により選ばれた七人の執事の一人です。執事は、主に信徒への日々の分配の奉仕をいたしました。しかし、執事であるステファノの殉教を機に、エルサレム教会への大迫害が起こると、執事や信徒たちは、周辺の地域に逃れて行きました。フィリポは、サマリアに逃れると、それまでの分配の働きを超えて、その地の人々にイエスこそメシアであると宣べ伝え、足の不自由な人々を癒すなどいたしました。その結果、サマリアの人々は福音を信じ、洗礼を受けたのでした。

 フィリポは、次に異邦人のところに遣わされます。主の天使が現れ、彼に「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と命じました。それは、エルサレムからガザを経由してエジプトに向う道です。この道は、当時荒廃した寂しい道でありました。しかし彼は、主の命じられることであるので、すぐ出かけていきました。

 フィリポがその道を行くと、前を行く馬車からイザヤ書を朗読する声が聞こえてきました。霊が、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じたので、フィリポは走り寄り、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけると、その人は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答え、馬車に乗り込みそばに座るように頼みました。

 この人は、エチオピアの女王カンダケの財産を管理する高官であり宦官でありました。また彼は神を敬う人で、エルサレムに礼拝に来て帰る途中でした。当時、彼のような異邦人、また宦官は、律法(申命記23章)において神の救いから除外されていました。しかし同時に彼は、預言者イザヤが異邦人も宦官も救いに入れられると預言していることを知っていました。「主のもとに集まって来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。・・・その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:3~5) 

でも彼は、その救いがどのようにして実現するのかをまだ知らなかったのです。

  高官が、馬車で朗読していたのは、イザヤ書53章、苦難の僕の到来を預言する箇所でした。「彼は、羊のように屠殺場に引かれて行った。・・・」(イザヤ53:7~8) 彼は馬車に乗り込んだフィリポに「どうぞ教えてください。預言者は、誰についてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」とたずねました。フィリポは、その苦難の僕とは十字架に架かられたイエス・キリストであること、イエス・キリストは救いの外にあるとされる人々のために苦しみを受け、その人々がイエスを救い主と信じるならば、イザヤの預言のとおり異邦人であり宦官であるあなたも救われると、解き明かしをいたしました。

 フィリポの語った福音は、この高官の心に届きました。道を行くと水のあるところに来たので彼は、フィリポに「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と尋ねました。そこで車を止め、二人は水の中に入り、フィリポが彼に洗礼を授けました。そして彼らが水から上がると、主の霊はフィリポを連れ去りました。フィリポはそこから北に行ったアゾト、さらに北の地中海沿岸の町々に福音を告げ知らせ、最後はフィリポ自身の家があるカイサリアに到達しました。他方、エチオピアの高官は、喜びに溢れて旅を続け、エチオピアに帰って行きました。

 

 さて、この箇所を読んで、三つのことに気づかされました。

一つは、36節と38節の間に †十字架のようなしるしが置かれていて、37節がないことです。このことについては、P272に「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあります。底本とは、「ギリシャ語新約聖書修正第三版」(聖書協会世界連盟)です。この底本ではない本(異本)に、「37 フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。」とあり、一度はこの文が異本より挿入されましたが、再び外されることとなりました。実は異本にある37節は、①ある人が洗礼を志願する。②洗礼を執行する者が試問する。③志願者が「イエス・キリストは神の子であると信じます」と信仰を告白する。④洗礼が執行されるという「信仰告白の定式」です。ここでは、エチオピアの高官が自らの意志で信仰を告白し、洗礼が行われたと記すことを意識的に排除しているのです。つまり高官が救われたことは、イザヤが預言した神の計画であり、イエス・キリストの十字架の恵みによるものであることを大切なメッセージとしているのです。

 二つ目は、エチオピアの高官を救いに導く伝道の主体は、26節「主の天使」、29節「霊」、39節「主の霊」であることです。伝道の主体は、聖霊であり、フィリポはその指示に従い働きをするのです。例えば29節「すると、霊がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」と書いてあるとおりです。

現在の教会に力がないのは、洗礼志願者が自覚的に信仰を告白することを重んじ、伝道者が聖書を解き明かすことや、人々を信仰へ導くこと、そして洗礼を授けることを重んじることにより、伝道者が聖霊の働きを待ち、これに従い働きをすることに欠けているからなのかもしれません。

 三つ目、フィリポの働きは手引きをすることです。わたし自身のことを思っても、主の霊の命令で近江八幡教会という馬車に近づき、「読んでいることがお分かりになりますか」と問いかけ、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」ともとめられて、皆さんのそばに座って働きをしています。そしてわたしをここに導いた聖霊が、わたしの口を用いて語っているのです。けれどもそれはひと時のことです。主の霊がわたしを連れ去られるならば、わたしはそれに従うからです。それゆえに、御霊よ、わたしの口を、手を足を用いてくださいと祈りつつ、ひとときひとときを大切にして、働きをしなければならないと思うのです。

 

 伝道者が聖霊とともに働きをしているかどうか、それは喜んで働いているか否かでわかります。信徒が聖霊とともに働きをしているかどうか、それは喜んで信仰の旅を続けているか否かでわかります。そして教会が聖霊によって建てられているかどうかは、喜びをもって手引きの奉仕に携わっているか否かで分かります。わたしたちは、聖霊によって与えられる導きと喜びをもって、救い主イエス・キリストを宣べ伝えてまいりましょう。

2023. 6. 18 聖霊降臨節第4主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。  

                                                            (使徒言行錄4章32節)

 

「 心も思いも・・・ 」      仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。   (使徒言行錄4章32節)

 

「 心も思いも・・・ 」      仁村 真司

今日の箇所の始め、4章32〜35節とはぼ同じ内容の信者の生活についての報告は2章にもあります。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としる 

しが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を

共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じ、皆がそれを分

け合った。                  (2章43~46節)

財産や持ち物を売り払って、私有財産をなくして、すべての物を共有して、必要に応じて分配する・・・。「原始キリスト教団の共産主義」等とよく言われますが、これはキリスト教に限ったことではなく、当時のユダヤ教において、そして多分ユダヤ教においてだけではなく、めずらしいことではなかったようです。そのような中にあってもイエス・キリストを信じる人々の群れ、教会は見劣りするのものではない、素晴らしいのだ・・・。使徒言行録(著者のルカ)は4章32節以下でそのことを示そうとしています。

1)

ユダヤ教においては、例えばクムラン教団というのがありました。そこでははっきりと、厳格に、教団員になるにはだれでも全財産を教団に寄付し、共有化することになっていたのですが34節、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」。申命記15章4節に「あなたの神、主は、・・・必ずあなたを祝福されるから、貧しいものはいなくなる」とあります。この約束が教会において成就されているのだということなのでしょう。

また、「すべて共有していた」(4章32節)は、当時のヘレニズム世界(ローマ帝国領)に流布していたギリシアの格言「友人のものは共有」を思わせる表現だそうです。教会での持ち物の共有は「友人のものは共有」と同じように(制度や決まり、強制によるのではなく)、愛(信仰の兄弟姉妹愛、隣人愛)によるものであるということだと思います。

使徒言行録、ルカは、イエス・キリストを信じる教会は、ユダヤ教の伝統からしても、ギリシア・ヘレニズムの思想からしても理想、どこに出しても恥ずかしくない、「心も思いも一つにし」た(4章32節)人々の集まりであると当時の人々に広く伝えようとしていると考えられます。

今の私たちは、ここから「元来教会はこういうものであった」、「だから教会は本来こうあるべきである」という「教会論」、「理想の、目指すべき教会像」を語ることも出来そうです。が、その前に「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き・・・」(34〜35節)、この具体例が挙げられています。それを見ておきましょう。

36~37節「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―『慰めの子』という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足元に置いた」。

そして、更にもう一つ例が挙げられます。

2)

5章1~2節「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた」。

「土地を売り」、「代金をごまかし」・・・本当はその一部なのに「全部です」と言って献金した。この偽りを見抜いたぺトロが「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言うとアナニアは死んでしまいます。

三時間ほどたって夫の死を知らずにやって来た妻サフィラに、ペトロが話しかけます。「あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」。サフィラが「はい、その値段です」と言うと、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう」、こうペトロが言うと、その足もとに倒れてサフィラも死んでしまいます。そして11節、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」。

使徒行録で「教会」という言葉が出て来るのは、実はここが最初です。決して見せかけではない、嘘偽りなど入り込む隙など全く無い、本当に心も思いも一つにして信じた人々の群れ、それが教会なのだ。・・・アナニアとサフィラの話はこのことをはっきりと示す具体的、典型的な例として語られていたのでしょう、ルカはそれを殆どそのまま記したのだと思います。

使徒言行録5章までの記述の大部分は、キリスト教の「聖なる出発点」を伝える伝説化された話に基づいています。そこでは十二使徒はキリスト教を

創設した聖者として崇拝の対象となっています。

「伝説化された話」というのは、勿論その全てが想像の産物ではなくて、元になった事実はある訳ですが、アナニアとサフィラの死にまつわる話につ

いてはその殆ど、ペトロの件などは全て作り話だと私は考えています。

アナニアさんという信者が(おそらく多額の)献金をしてその直後に突然亡くなった。そのショックによる所が大きかったと思います、可哀想に妻のサフィラさんもほどなく亡くなった。事実はこれぐらいでしょう。

不幸としか言いようがなくて、使徒たちも言葉を失ったのかもしれませんが、当時のイエス・キリストを信じる人々の群れ、教会は未だ少数派、今ならカルトと言われてもおかしくない。あんなものを信じるからこんなことになったんだと言う人たちもいたのかもしれません。信者の間に動揺が走って、教会が不安に覆われたとしても不思議ではありません。

そこで、だれかが「そうではない、あの夫妻は何か悪いことをしたに違いない」等と言い出した。これが使徒(ぺトロ)崇拝と合わさって、ペトロはそれを見抜いていた、夫妻が相次いで死んだのは聖霊を冒涜した、赦されない罪を犯したからだという話になった・・・おそらくそんな所でしょう。

3)

使徒言行録が伝えているのは、著者ルカが直接間接に目にし耳にして知り得た、伝説化された話が含まれているとは言え、キリスト教・教会の歴史―歴史の中でのキリスト教・教会の動き、して来たこと―です。

ここから「教会論」や「理想」を語ることも出来なくはないですが、現在に引き継がれているキリスト教・教会の、今の私たちの課題、「宿題」を見つけて、それに取り組む、考える、やっぱりこれが大切だと思います。

「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はな<、すべてを共有していた」(4章32節)。これは出来て間もない教会の目標・理想ではあったかもしれませんが、教会が事実こうであったということではないです。もし事実であったのならば、教会の指導者であるぺトロが信者であるアナニアに「売らないでおけば、あなたのものだったし、また売っても、その代金は自分の思いどおりになったではないか」(5章4節)等と言うのは、作り話の中だとしても、随分とおかしなことです。

・・・にも拘わらず、アナニアとサフィラの話は教会の中で語られ、教会が心も思いも一つとした人々の群れであることを示すとされて来たようですが、ここに示されているのは今私たちが取り組むべき課題だと思います。

不幸に見舞われた人たちを貶めることによって、自分たちはあの人たちとは違うのだからと不安を拭い去ろうとする、また受け入れ難い事態に際し、それに関わる人たちを蔑み、時に「脅威」・「敵」とすることによって他の人たちは一つであろうとする。今も繰り返されていることです。

しかし、イエスは罪人とされ、蔑まれ、疎外されていた人々の元に自ら赴いて行きました。不慮の事故、理不尽な暴力によって命を失った人たちを貶める人々を厳しく批判しました(ルカ福音書13章1〜5節)。

イエス・キリストと信じる人々の群れ、教会が「心も思いも一つに」とはどういうことなのか⋯。問い直し、問い続けることが私たちの課題です。

2023. 6. 11 こどもの日花の日CS合同礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。                

                                          (マルコによる福音書2章5節)

 

     「お友だちの信仰を見て」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。                   (マルコによる福音書2章5節)

 

          「お友だちの信仰を見て」      深見 祥弘

 今朝は、礼拝堂に花を飾り、「子どもの日・花の日」礼拝を子どもも大人も一緒に守っています。野山に咲く花は、100%神さまにお委ねし、陽の光や雨、そして風の恵みをいただき美しい花を咲かせます。人が種を蒔き、育てる花は、種を蒔き世話をする人の願いや働きによって美しい花を咲かせます。同様に子どもたちも、お家の方や周りの人々の祈りと奉仕によって成長してゆきます。そしてわたしたちは、見えるところ見えないところに与えられる神の愛を共に覚え、神を賛美いたします。

 

 イエスさまがお働き(宣教)を始められたのは、ガリラヤ地方で、その働きの中心は、弟子のペトロとアンデレの家があったカファルナウムの町でした。イエスさまは、そこから出かけていってガリラヤの町や村を巡り、会堂で教えをし、病気の人や悪霊に取りつかれた人を癒しました。その結果イエスさまの評判は、ガリラヤ中に広まりました。

 イエスさまがカファルナウムのペトロの家に戻られると、そのことが町の人たちや周辺に住む人々に知れわたりました。すると大勢の人々が集まって来て、家の中ばかりか、戸口のあたりまですきまのないほどになりました。イエスの教えを聞こうとする人、病気を癒して欲しいと願って来た人や付き添いの人たちがたくさん集まって来たのでした。

 イエスさまが家の中で教えをしていると、四人の男の人が「中風の人」(直訳:体の麻痺した人)を床(担架)に乗せてやってきました。体の麻痺した人は、良いお医者さんがいると聞くと、遠くても出かけて行きましたが、よくなりません。よく効く薬があると知ると、高価であってもそれを買って飲みましたが、よくなりません。そのうえ病気が長引くと、人々から何か悪いことをしたからそうなったのだ、「罪人」だと言われるようになり、そのことにも苦しむようになりました。そんな中、この人の友だちは、「よくなりますように」と神に祈りをし、この人を担架に乗せて医者のところに連れて行ったり、薬を買いに行ったりしていたのです。

 あるときこの友だちは、最近イエスというお方が各地で教えをしたり、病人を癒したりして、評判になっていることを知りました。そしてイエスが近くの町カファルナウムに来ておられると聞いて、体の麻痺した人を担架に乗せ、この家にやってきたのでした。ところが来てみると、戸口あたりまで人が溢れていて、多くの人が自分たちと同じように病気の人を連れているのを見ました。このままでは、いつイエスさまの前に進み出ることができるかもわからず、だからといってあきらめて帰ることもできません。そこで四人の友だちは、担架にこの人を乗せたまま、家の屋根の上に運び上げ、イエスさまのおられるあたりの屋根をはがして大きな穴をあけ、ロープで担架ごとこの人をつり降ろしたのでした。

 このことで家の中は大騒ぎ。バリバリと音がすると、土埃で部屋が真っ白になる中、担架が下りてきたからです。でもイエスさまは、動じることなく、担架の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。それは屋根の上にいる四人の友人たちの信仰を見て言われたのです。

 そこには数人の律法学者たちがいて、心の中で「この人はなぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神のみが罪を赦すことができるのに。」と思いました。イエスは彼らの心の中を見抜き、「体の麻痺した人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのとどちらが易しいか。わたしが罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。そして体の麻痺した人に「(罪の赦しの権威を持つ神である)わたしは、あなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と告げると、この人は起き上がり、長年彼を束縛してきた担架を担いで出ていきました。これを見た人々は、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神を賛美いたしました。

 

 イエスさまは、過日、神さまのもとから、天を破って人々のところに降りてきてくださいました。そして人々の友となってくださり、「子よ、あなたの罪は赦される」と言ってくださいました。律法学者たちは、自ら責任を担うことなく、人を「罪人だ」と言って裁きます。しかしイエスさまは、こうした人から「罪人」との烙印を押され人々をその束縛から解放するために、自ら「罪人」となって十字架にお架りになられました。父なる神さまは、人々の友となったイエスさまの信仰を見て、人々の救いを成し遂げてくださったのです。

 わたしたちは、イエスさまがわたしたちの友だちになってくださり、救いを与えてくださっていること知っています。ですから、わたしたちの友だちをイエスさまのところに導き、わたしたちの信仰を見て、友だちにも救いが与えられるように願いたいと思います。

2023. 6. 4 三位一体主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。                              (使徒言行録2章32~33節)

 

        「ペトロの宣教」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。                              (使徒言行録2章32~33節)

 

           「ペトロの宣教」        深見 祥弘

 作家の村上春樹さんは、今年4月に長編小説「街とその不確かな壁」(新潮社)を出版されました。これは、1980年に発表した中編小説「街と、その不確かな壁」を新たな構想で書き直した作品です。高い壁に囲まれ、静かで平穏だが自らの影を失った人々の住む「街」に、40代半ばの「私」が入り込み、少年の頃に恋人だった少女に会う。その街にとどまるかどうか迷った末、不思議な成り行きで現実の世界に戻った「私」は、福島県の小さな図書館に勤めることになり、そこで出会う人たちと関わる中で、少しずつ謎を解いていく、そうした内容です。

 村上さんは、今年1月から5月まで招かれて米ウェルズリー大に滞在し、学生たちのクラスに出席したり、教職員を対象とする4回のセミナーを担当したりいたしました。4月下旬に行われた講演会は、「疫病と戦争の時代」をテーマとし、今回書き直した「街とその不確かな壁」についても言及されました。グローバル化し経済的、文化的な依存関係が強まった世界で大きな戦争は起きないと思われていたが、ウクライナへのロシアの侵略でこの考えは崩れ落ちたと指摘し、日本を含む他の国々も同様に軍事攻撃を恐れるようになり、人々は要塞の中で暮らしているように見えると語りました。新型コロナのパンデミックに際しても、とにかく壁を作って寄せつけまいという意識がみんな強くなりました。そして今、「壁の中に隠れて安全を維持し、現状を守るか、あるいはリスクを承知で壁の向こうの、より自由な価値体系を持つ世界へ出ていくのか、誰もが選択を迫られている」と話されました。そのうえで「簡単に分かる答えではなく、僕たちは深い所ヘの探求という時間のかかる作業をするように求められて」いる、しかし「優れた物語の力を信じてください」と呼びかけられました。

    (5/28毎日新聞 文化の森「村上春樹さん単独インタビューより)

 

  今朝の御言葉は、使徒言行録2章ペトロの説教です。五旬祭の日、使徒たちや婦人たち、そしてイエスの母マリアとイエスの兄弟たちがある家に集まって祈っていると、この人たちの上に聖霊が降りました。すると一同は聖霊に満たされて、ほかの国々の言葉で話しだしました。エルサレムの住民の中には、各国で生まれ育ち、この都に戻ってきた人々がいましたが、自分たちの生まれ育った国の言葉で使徒たちが話しているのを聞き、「この人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。」と言って驚き戸惑いました。また「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者もいました。あざける者たちは、使徒たちが新しいぶどう酒を飲んで悪酔いし、ろれつがまわらない言葉を話し、それがいろいろな国の言葉を話しているように聞こえるだけだといったのです。

 これを聞いて、ペトロが集まっていた人々に説教をいたしました。2章14節から36節までが、ペトロの説教です。まずペトロは、今は朝の九時なので、酒に酔っているのではないとあざける者らの言葉を否定しました。「朝の九時」は、朝の祈りの時間です。信仰に熱心である使徒たちは、この時間より前に食事をすることはなく、まして食事の時のぶどう酒も飲んでいないと言ったのです。 

 その上でペトロは、「聖霊」について話します。<あなたがたが見たこの出来事は、かつて神が預言者を通して預言していた聖霊降臨の実現です。それは、旧約の預言者ヨエルが預言していたことです。(使徒2章17節~21節の言葉は、ヨエル書3章1~3節の言葉の引用です。) 聖霊降臨は、「終わりの時」(主の日)の到来の始まりで、その日、聖霊がすべての人に注がれると、若者も老人も神の恵みの言葉を自由に語ります。さらに聖霊降臨による終わりの時が始まると、主の名を呼び求める者は皆、救われます。>

 次にペトロは、「イエス」について話します。<イエスは、神から遣わされた救い主でありましたが、あなたがたは、この方をローマ総督ポンテオピラトの手を借りて十字架につけ、殺してしまいました。ですからイエス殺害の責任は、ユダヤ人であるあなたがたにあります。しかし同時に、イエスの死は、神がお定めになられた計画でもありましたから、神はイエスを死に支配されたままには放置されず、復活させられました。詩編16編8~11節のダビデの言葉にイエスの復活が預言されています。(2章25節から28節の言葉です。) このダビデの預言は、ダビデ自身のことを告げているようでもありますが、彼(ダビデ)は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあります。ダビデは王であり神の霊を与えられた預言者でもあったので、自分の子孫から真の王・救い主があらわれること、そのお方が死んでも神は救い主の魂を捨ておくことはせず、復活させられることを預言しました。ダビデの預言のとおりイエスは、復活されました。

自分たちがイエスの死と復活の証人であり、約束の聖霊を注がれた者であります。> 

 さらにペトロは、「神」について話します。<「主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」(2:34~35)> これは詩編110編1節のダビデの預言です。ダビデは、父なる神の言葉としてイエスの昇天をこのように預言し、合わせて終わりの時、主に敵対するものは、神によってその力を奪い取られることを告げているのです。

 最後にペトロは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と告げました。ペトロは、人々に対し罪の赦しのために、主イエスの十字架の前に悔い改めをなし、聖霊を受けよと呼びかけます。幸いなことに「主の名を呼び求める者は皆、救われる」からです。

 

 本日は、三位一体主日です。「三位一体」とは、父なる神と子なる神と聖霊なる神とが、各々三つの自存者(ヒュポスタシス)であり、かつ一つの実体(ウーシア)として完全に一致・交流することを意味します。イエスは、先在の言(ロゴス)として永遠の昔から神の独り子で、時いたって受肉し、彼をとおして父なる神が啓示されました。聖霊も父を根拠とし、子を通して派遣され、イエスの死後その働きを継続する自存者です。(岩波キリスト教辞典) ペトロは、聖霊降臨の出来事の後、「三位一体の神」について説教で語ったのでした。 はじめに村上春樹さんの「街とその不確かな壁」の紹介をいたしました。(不確かな壁とは心の内の壁をも含む)新型コロナによるパンデミックとロシアによるウクライナ侵略により、わたしたちは、壁の内にとどまること、また新たに壁をつくることで安全を維持しようとしました。同様に聖霊が降る前の使徒たちも、ある家に鍵をかけて閉じこもっていました。しかし、聖霊が降り、家を出て、福音宣教のために世界に出ていくよう導かれたのです。それは、父と子と聖霊なる神に導き出されてなされたことでした。村上さんは「優れた物語の力を信じてください」と先に紹介した講演で語られましたが、わたしたちもペトロが説教で語った神の紡ぎだす壮大な救いの物語(主の名を呼び求める者は皆、救われる)を信じ、聖霊の導きによって、壁(すなわち外なる壁と自らの内なる壁)を打ち破り飛び出してゆきましょう。

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