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≪次月 11月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 11. 26 降誕前第5主日 
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< 今 週 の 聖 句 >

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」                                  (マルコによる福音書4章28節)

「 時が許すと・・・ 」       仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」         (マルコによる福音書4章28節)

「 時が許すと・・・ 」       仁村 真司

今回はイエスによるたとえ話の中から「ひとりでに成長する種」、そして「からし種」のたとえ話を合わせて見て行きます。

マルコ・マタイ・ルカの三つの福音書は沢山のたとえ話を伝えていますが、実は元々何をたとえて語られたのか分からないものが殆どです。

それで、それぞれの福音書を書いた人たち、特にマタイは大半を神の国(天の国)のたとえ話としていますが、マルコが神の国のたとえ話としているのは「ひとりでに成長する種」と「からし種」だけです。この二つは元々神の国のたとえ話であった、おそらくそうだろうと考えられます。

1 )

「ひとりでに成長する種」のたとえ話はマルコ福音書にしか記されていませんが、「からし種」はマタイ福音書(13章31〜32節)にもルカ福音書(13章18〜19節)にも神の国(天の国)のたとえとして記されています。

・・・イエスの宣教と共に始まった神の国は、はじめはからし種のように小さいが、大きく育つ力が秘められている。「空の鳥が巣を作れるほど」とは全ての民族がその枝に連なるほどの大きな枝を張るということ。神の国はやがて世界中に広がり、最後には驚くべき大きな完成を見る。

「からし種」のたとえ話はこのように受け止められ、迫害下・周囲の無理解など困難の中にあってイエス・キリストを信じる人たち、伝えて行こうとする人たちを支えるキリスト教・教会の展望となって来たと思います。

また、現にキリスト教・教会は世界中に広がったと言えなくもない今ならば、キリスト教・教会の歴史が示されていると考える人もいるでしょう。

「ひとりでに成長する種」のたとえ話も基本的には同じように受け止められて来てました。「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(29節)は終末、神の国の完成時を示しているとされます。

「でも・・・」と、ここでふと頭を過るのは、マルコがこのように受け止めていたのならば「からし種」を先にして、次に「ひとりでに成長する種」を記したのではないか、その方が伝わりやすいのでは?ということです。

  2)

実際にはイエスがどちらを先に語ったのか分かりませんし、二つのたとえ話を続けてではなく、多分別々に語ったのではないかと思いますが、ともかく今度は「ひとりでに成長する種」から先に考えてみます。

 26〜27節「・・・人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は

芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

この訳は堅すぎると言うか何と言うか⋯。種が成長することについての見識や知識が有るとか無いとか、これはそういう話ではないのですから・・・「人が土に種を蒔いたら、あとは夜昼、寝たり起きたりしているうちに、知らない間に、種は芽を出し成長する」、そして「土はひとりでに実を結ばせて、豊かな実ができる」⋯と、こんな感じだと思います。

マタイもルカも各々の福音書に「ひとりでに成長する種」の話は記さずに削除したのは、おそらくは「寝たり起きたり、知らない間に」では教訓、「教え」にならない、この話に宗教的な意味はないと考えたからでしょう。

ですが、だとしても、イエスの言葉です。多少なりとも感ずるところがあれば、付け足すなり書き換えるなりして記したのではないか⋯。マタイ福音書にもルカ福音書にもそういう箇所は沢山あります。

私はパレスティナ方面に行ったことがないので何とも言えないのですが、行った人によると、「寝たり起きたりしているうちに、土はひとりでに実を結ばせる」ように感じるのは、豊かな果樹と農産物に囲まれたガリラヤのような所の人たちで、エルサレムとかヨルダン川のほとりとか、自然の情景が荒れ野に近い所の人たちや、例えばパウロのような「都会人」なら、まずこんなふうに感じないし、言わないだろう。だれかから言われたとしてもこのような感じはきっと伝わらないだろうということでした。

マタイやルカにとっての自然の情景がどのようなものだったのか分かりませんが、「土はひとりでに実を結ばせる」と言われても全く感ずるところがなく、「寝たり起きたりしているうちに」などいうのは怠惰としか思えなかったのかもしれません。

「人が種を蒔いて、あとは寝たり起きたり、知らない間に、種は芽を出し、土はひとりでに実を結ばせる。さあ収穫だ、いただきます。」

「いただきます」は余計ですが、ガリラヤの人イエスはこんな感じで語ったのだと思います。そして、神の国はこういうものなのだと言った。

「ひとりでに成長する種」に現されているのは、イエスの自然の恩恵に対する、延いては自然を造った神に対する徹底した信頼感です。徹底しているからこそ「あとは寝たり起きたり・・・」と楽天的にもなるのでしょう。

私は「からし種」のたとえ話にもイエスの自然と神に対する楽天的な信頼感が現されていると思います。

・・・からし種はごく小さいが、人が何もしなくても、他の畑を荒らす程に蔓延り、鳥が巣を作れるほど大きくなる。神の国とはそういうものだ。

   3)

そもそもイエスの時代にはキリスト教も教会もないのですから、キリスト教・教会の成長、広がりと結び付けて考えることもないのですが、では、イエスは「ひとりでに成長する種」と「からし種」、この二つのたとえ話によって神の国について、どんなことを示し、伝えているのか。

当時のユダヤ教において、初期のキリスト教においても、神の国はすぐに来る、もうそこまで来ているというのが一般的な考え方、思想でした。

となると、人々の関心事は、神の国が広がって行くかどうかではなく、神の国はいつ来るのか、自分は神の国に入れるのか、どうすれば入れるのかということになります。

こういう状況になると、いろいろなことを言う人たちが出て来ます。洗礼者ヨハネもその内の一人ですが、何と言ってもエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教社会でのことです。律法を十全に守って生きて行く敬虔なユダヤ人、ユダヤ教徒が担う、そういう神の国が待望されていました。

もっとも、そんな神の国を待ち望めるのはユダヤ教の指導者、それと生活にある程度以上の余裕がある人たちです。そういう人でないと律法に十全に従うことなど出来るはずがありません。そうではない多くの人々にとって神の国が来るという考えは、ひどく窮屈で陰鬱で不安、時には恐怖さえ引き起こすものだったのではないかと思います。

そして、律法に従っては到底生きて行けない貧しい人々、罪人とされ疎外されていた人々には神の国が来る時は、この世で既に切り捨てられている自分たちが更にはっきりと切り捨られる時だったのではないでしょうか。

当時の多くの人たちにとって神の国を思うことがもたらすのは希望ではなく、不安であり恐怖であり絶望であった。今の私たちが死を思うことに似ているのかもしれません。愛する人の死に際して、あるいは自らの死を思う際の痛み、悲しみ、不安や恐怖の大部分は、自分が、自分だけが、切り離されるという思いから来るのではないか⋯と近頃私は考えています。

イエスはそんな多くの人々におおらかに、楽天的に、語りかけた。そして今の私たちにも語りかけています。「神の国はそんなものじゃない」と。

説教題の「時が許すと」は29節の「実が熟すと」の直訳(らしい)です。

ああでなければ、こうしなければとジタバタすることはない。いつ来るかいつ来るかとオドオト、ビクビクすることもない。時が許すと、その時が来れば、知らない間に、ひとりでにその中に入っている。そこではこの世の現実で切り離された人たちとも、新たなつながりがもたらされる。

イエスが語った、イエスが示す、神の国はこういうものだと思います。

2023. 11. 19 降誕前第6主日 特別伝道礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

(マタイによる福音書13章31-33節)

 

「 あなたの居場所はありますか? 」   山下 智子

< 今 週 の 聖 句 >

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

(マタイによる福音書13章31-33節)

 

「 あなたの居場所はありますか? 」   山下 智子

学校や職場、あるいは家庭で、なんとも居心地悪く思うことはないでしょうか?たとえその一員であったとしても、頼りにできる人もなく、孤独や不安で、「ここにいてよいのだ」と実感できないということは、残念ながら起こりえます。

 近江八幡といえば、W.M.ヴォーリズが建築家、社会事業家、信徒伝道者として幅広い活躍をした町です。意外なことに、そんな彼であっても、この町に到着した直後は寄る辺なく、逃げ出したいけどそのお金も力もない、「精も根も尽き果てた失敗者の恐怖と悪夢の時」を経験したといいます。しかし、だからこそ彼は、この地から主イエスの示した「天の国」を実現していくことに、大きな意味を感じ、生涯をささげることができたのでしょう。

主イエスの「天の国」は「天国」、「神の国」ともいわれますが、これは死後だけの世界ではありません。むしろ私たちが生きる現実世界のことです。例えばこの世で悲惨な戦争や災害、事件や事故などが起こり、目を覆いたくなる状況を「生き地獄」と表現しますが、「天の国」は、いわば「生き天国」です。私たちが互いに愛し合い、互いを大切な一人とすることにより実現する愛の世界です。

「天の国」は、たとえその始まりは小さな「からし種」のようであっても、大きな木に育つもの、あるいはわずかな「パン種」のようあっても、生地全体を大きく膨らますものだといいます。そして「天の国」では、弱く小さな鳥たちも安心して巣をつくれる、多くの心身がおいしく満たされる、つまりすべての人に温かな居場所が用意されるのです。

孤独や不安を力に変え、この世界を「生き天国」とするための、愛の働きに参加する私たちでありたいと願います。

2023. 11. 12 降誕前第7主日 収穫感謝合同礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。  

               (ルカによる福音書6章1節)

     「良いものみな神から来る」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。                  (ルカによる福音書6章1節)

 

         「良いものみな 神から来る」     深見 祥弘

 今日は、私たちの教会の収穫感謝日礼拝です。(キリスト教暦11月26日収穫感謝日・謝恩日) 礼拝堂の前に、野菜や果物・穀物など秋の実りを飾りました。今日の夜は、これにお肉などを加えて鍋にしておいしくいただきたいと思います。ささげられた野菜や果物、そしてお肉は、命あるものです。その命をいただくのですから感謝していただきたいと思います。

 はせがわ ゆうじさんの作品に「もうじきたべられるぼく」(中央公論新社 2022年8月)という絵本があります。この作品は、「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」という言葉ではじまります。ぼく(牛)は、

最後にひと目だけおかあさんを見たいと思い、列車に乗って生まれた牧場に出かけます。列車の中でぼくは、馬のように草原をのびのびと走りまわりたかったな、動物園の象やきりんみたいにみんなに愛されたかったなと思います。牧場は、あのころとおなじ風、おなじにおいがして、おかあさんもそこにいました。ぼくは、しあわせそうなおかあさんを見て「悲しませるために きたんじゃないや・・・」と思い、ふたたび列車に乗り込みさよならをしました。(おかあさんは、列車からさよならするぼくに気づいて、追いかけてきました) この作品の最後は、「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」「せめて ぼくをたべた人が 自分のいのちを大切にしてくれたら いいな」という言葉で終わります。

 

 ある安息日のこと、イエスと弟子たちが麦畑の中を通って行かれた時、弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べました。マタイ福音書は、「弟子たちは空腹になったので」(12:1)と書いています。ファリサイ派の人々は、これを見てイエスと弟子たちに「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言いました。ファリサイ派の人々は、他人の畑の麦の穂を無断で摘んだことを、とがめているのではありません。律法には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:25~26)とあります。 この律法は、貧しい人や飢えている人を助けるものでした。ファリサイ派の人々がとがめたのは、その日が「安息日」であったからです。

 「安息日」については、十戒に定めのあることをご存じでしょう。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。・・・あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」(申命記5:12~15)

 かつてイスラエルの人々がエジプトで奴隷生活をしていた頃、人々は休みなく使役されました。主はイスラエルの苦しみの声を聞き、エジプトから救い出して自由を与えてくださいました。さらに主は、荒れ野の旅の途中で十戒を与え、再び解放と自由を失わないように「安息日」を定められました。しかし時を経てこの「安息日」の定めは、主による解放と自由を喜ぶことから、仕事をしないことに力点がおかれるようになりました。

 ファリサイ派は、安息日の禁止事項を細かく定め、「収穫」「脱穀」「料理」の禁止も明記しました。弟子たちが麦畑で麦の穂を摘むことは「収穫」であり、穂を手でもむことは「脱穀」を、それを食べたことは「料理」であるとみなしたのです。

 イエスは、ファリサイ派の人々に「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」と言いました。これはサムエル記上21章に書かれている出来事です。主の霊がサウル王を離れ、若きダビデに注がれるようになると、サウルはねたみからダビデの命をねらうようになりました。ダビデはサウルから逃れ、ノブの町の祭司アヒメレクを訪ね、飢えていたので主にささげられたパン(祭司のほか食べることを禁じられていた)をもらい、供の者たちと食べたのでした。 イエスは「律法」が人々の命を守るための定めであり、「安息日」は人を主との交わりへと導き、主の恵みである自由と解放を覚えるための定めであることを教えられました。

 

 以前、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史上・下」(河出書房新社 2016年)を読みました。ハラリさんは、イスラエル人の歴史学者です。

この本の中には、小麦のことが書かれていて大変興味深く読みました。一万年前、小麦は中東の狭い範囲に生える野生の草にすぎませんでした。ところがその後、数千年のうちに、世界中で生育されるようになりました。それまで狩猟採集によって暮らしていた人が、小麦の栽培に多くの労力を注ぎこむようになったからです。小麦は岩や石を嫌うので人は、汗水たらして畑からそれらを取り除きました。小麦は場所や水、養分を他の植物と分かち合うのを嫌うので、人は来る日も来る日も草取りに勤しむようになりました。小麦は、病気や疫病に弱く、イナゴやうさぎの餌になるので、人は絶えずそうしたものから守らねばなりませんでした。

 こうした努力にもかかわらず、人が多種多様なものを食べていた狩猟採集の時代から、小麦や米、ジャガイモといった単一の主要食料に依存する農耕生活へと移行したことによって、多くの餓死者を生むこととなりました。小麦は干ばつやいなごの来襲、病気等によって全滅することがあったからです。狩猟採集時代は、様々なものを食べてしのぐことができましたし、敵に襲われたときは、その場所から移動をすればよかったのですが、農耕をはじめると、家も農地も蔵もすべてを失い、飢え死にすることとなりました。小麦は、人に食べられるかわりに、人を奴隷として使役し、世界中に増え広がることを成し遂げたのです。

 

 イエスは、過越しの食事の席で、パンを取り「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」と言い、杯を取り「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(22:19~20)と言われ、その後、十字架で命を捨ててくださいました。わたしたちはこのイエスを記念してパンとぶどう酒をいただくのです。十字架の死を経験し、それを成し遂げられたイエスの願いは、「ぼくをたべた人が 自分のいのちを 大切にしてくれたら いいな」でありました。小麦は食べられることで、人を奴隷にしていますが、パンであるイエスは食べられることで、わたしたちを束縛から自由にしてくださり、世界中にその愛と恵みを拡げてくださるのです。神から来る良きものとは、イエスによってもたらされる愛と恵みのことです。

「人ははたらき あせをながし、しずかな夕べ ねむりにつく。

めぐみの神は 昼も夜も、み守りあたえ ささえられる。

よいものみな 神から来る。そのふかい愛を ほめたたえよ。」

(こども讃美歌103  3番)

2023. 11. 5 降誕前第8主日 永眠者記念礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章16節)

 

        「独り子を信じる者」   深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章16節)

 

           「独り子を信じる者」       深見 祥弘

 教会は、11月第一日曜日を「聖徒の日・永眠者記念日」とし、ご遺族と共に召天された兄姉を記念する永眠者記念礼拝を行ってまいりました。しかし、この3年間は、コロナによってご遺族をお迎えしての記念礼拝を行うことができませんでした。このようにご遺族の皆様と共に天上のご家族を偲び、慰めと希望をいただくことのできます幸いを感謝いたします。

 この記念礼拝では、近江八幡教会員であった天上の兄弟姉妹656名、および近江八幡教会員に連なる教会員外の7名の方々、合わせて663名の方々を記念いたします。特に、昨年11月の記念礼拝から今日までの間に召天された10名の方々の御霊の平安と、ご家族の皆様に主の慰めが与えられることをお祈りいたします。(10名の方々とは、1月2日に召天された仁村喜恵子姉、1月9日に召天された高橋洋平さん、2月15日に召天された貝ノ瀬勝利兄、5月14日に召天された村田久子姉、7月1日に召天された高橋清兄、7月19日に召天された折田映子さん、7月22日に召天された大村芳子姉、8月14日に召天された安藤清兄、9月23日に召天された永芳稔兄、10月12日に召天された持田芳和兄です。)

 

 さて天上のご家族は、何を信じ、望みとしてそのご生涯をお過ごしになられたのでしょうか、また神は、この方々をどのように愛し、何を成し遂げてくださったのでしょうか。聖書に書かれていることから、お話いたします。聖書の天地創造物語には、神が人を造られた時、神に「かたどって創造され」(創世記1:27)たと書かれています。この「かたどる」というのは、人を神と交わりのできる者として造った、神の意志(み旨)を知り、行う者として造ったという意味があります。人は神のみ旨に従って、神がお造りになられた被造物を守り治める者として造られました。時を経て人は、自分が神に造られた者であること、神と交わりのできる者であること、そして神より被造物を委ねられた者であることを忘れてしまいます。人は、自分本位になって自らを神のごとき者とし、神がお造りになられた被造物を自らの利得のために用いたり破壊したりするようになりました。また他の人をも支配し、神をすら自分の思いのままにしようとする者になったのです。こうして人は「神のかたち」を失い、「罪」を得て死ぬものとなりました。旧約聖書は、こうした人の罪の歴史を書いていますが、同時に不完全ながら「神のかたち」を失わず、信仰に生きた人々のことをも紹介しています。新約聖書には、神がそのような人を憐み、まったき「神のかたち」として、イエス・キリストを人として生まれさせてくださったことが書かれています。イエスは、父なる神との交わりの中で、「神のかたち」をもつ者としてその生涯の日々を歩まれました。さらにイエスは、人の罪の贖い(赦し)のために、十字架に架かってくださいました。イエスは、ご自分より過去に生きた人、また現在・未来に生きる人の罪を自ら担い、罪をもつ人の身代わりになって十字架に死に、その罪を滅ぼしてくださいました。また、その死から3日目に復活し、人に新しい命を備えてくださいました。

 人は、この恵みにより、また聖霊なる神の導きによってイエスを救い主と信じることで、罪赦され、失っていた「神のかたち」を回復させていただくことができます。また人は、神との交わりによって、神がお造りになられたすべての被造物に仕え、その愛を世界に広げてゆくことを使命とするのです。

 そして人が使命を終えて、死の時を迎える時、十字架のイエスがその人と共にいてその痛みや苦しみを共にしてくださいますし、墓に葬られる時、イエスがそこに身を横たえ共にいてくださいます。さらに復活のイエスが、信じる者に永遠の命と神の国を与えてくださるのです。

 私たちに連なる天上の家族は、聖霊の導きによって「イエスは主である」(Ⅰコリント12:3)と告白し、神のみ旨に生きられました。決して完全ではありませんでしたが、神はこの方々を愛し、死を越えて、信仰によって神の国と永遠の命に生きるものとしてくださったのです。

 

 今日読まれたヨハネによる福音書3章は、ニコデモのことを紹介しています。彼はファリサイ派に属する教師で、議員でありました。宗教上の定めを忠実に守り、人々から尊敬されていました。その彼が、夜、人目を避けながらイエスのところを訪ねました。彼の属するファリサイ派の多くの者は、イエスのことを快く思っていなかったからです。しかしニコデモは、イエスの行うしるしを見て、イエスが「神のもとから来られた教師」(3:2)であり「神が共におられる」(3:2)と思って訪ねてきたのです。イエスは、すぐに彼が、神の国と永遠の命を求める者であることに気づきました。イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)と言われました。これを聞いたニコデモは、歳をとっている自分が「新たに生まれる」ことは、母の胎からもう一度生まれるのと同じように不可能なことであると答えました。しかしイエスは、定めを守ることよって「新たに生まれる」のではなく、水と霊による洗礼によって、新たに生まれることができると教えられたのでした。

 14節に「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と書かれています。これは旧約聖書・民数記21章4~9節に記載されている出来事です。かつてイスラエルの人々が、エジプトを脱出し荒れ野を旅した時、飢えや渇きを覚え、エジプトで奴隷であったほうが良かったと、神とモーセに不平を言いました。神は、怒って「炎の蛇」を人々に送り、噛まれた人の多くが亡くなりました。人々が助けを求めると、モーセは主の言葉に従い、青銅でつくった蛇を旗竿の先に掲げました。それ以降、蛇が人を噛んでも、この青銅の蛇を仰ぐと救われたのでした。人々がこの竿の蛇のように、十字架に上げられたイエスを仰ぎ見ることで、救われ、命を得ることができるようになったのです。

 夜の闇の中、イエスを訪ねたニコデモは、後にイエスが十字架に架けられた時、イエスの遺体の引き取りをアリマタヤ出身で議員であったヨセフと一緒に申し出て、イエスを墓に葬りました。彼は、十字架に上げられたイエスを見て、自らの救いと命はここに備えられていると確信したのです。ニコデモは、それまで隠していたイエスに対する信仰を、地位や名声を失うことや危険をも顧みず、公然とその信仰を明らかにし「新たに生まれた」ことを証ししたのでした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16) 私たちは、自分の力で神の国と永遠の命を獲得することはできません。神の愛である独り子イエス、この方を救い主と信じ仰ぎ見ることで、神の国と永遠の命をいただくことができるのです。

 

 天上のご家族も、自分の力で信じ、救いを得たのではありません。神の愛の到来を、ヴォーリズさんや父母、また友人から知り、聖霊の働きが与えられて、「イエスは主である」との告白に導かれました。「あなたがたも新たに生まれなければならない」(3:7)と天上のご家族は、ここに集う私たちにも呼びかけをしておられます

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