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≪次月 9月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 9.24 聖霊降臨節第18主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

(ルカによる福音書16章8節)

 

        「この世の子らの賢さ」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

(ルカによる福音書16章8節)

 

            「この世の子らの賢さ」     深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、ルカによる福音書16章「不正な管理人」のたとえです。

このたとえの主人公は、金持ちより財産を委ねられている管理人です。内容は、管理人が主人に対して行った詐欺横領事件で、結末は罰を受けるはずの管理人が主人から褒められます。

 このたとえが伝えようとしていることは何か、そのことについて幾つかの解釈があります。9節~13節には、その解釈が5つ紹介されています。

まず9節、このたとえは友だちを作ることの大切さを教えている、10節、このたとえは小さなことに忠実であることの大切さを教えている、11節、このたとえは、富に忠実であることを教えていると解釈しています。

12節、このたとえは、他人のものに忠実であることの大切さを教えている、13節、このたとえは、神と富に仕えることはできないと教えていると解釈しています。皆さんは、どの解釈が正しいと思われるでしょうか。そのことを判断するために、「不正な管理人」のたとえを丁寧に見てゆきたいと思います。

 

 まずこのたとえには、「金持ち」が登場してきます。金持ちは大地主で、エルサレムなど町で暮らし、離れたところにある所有地に管理人を駐在させていました。金持ちは、人々に土地を貸して耕作させ、いわゆる年貢を取っていました。また「管理人」は、人々から年貢を取るなどして主人の財産を管理していましたが、主人の目が届かないことをいいことに、主人の財産を無駄遣いしていたのです。主人のお金を使って宴会を開き、食べたり飲んだりしたのでしょうか。ぜいたくな暮らしをしていたのでしょうか。ところがそのことを主人に密告する者がいて、無駄遣いしていることがばれてしまいました。主人は、管理人を呼びつけ、事の真相を確かめるために会計報告の提出を求めました。もし、損害を与えていることが明らかになった時には、解職すると告げました。

 管理人は、職を失った後、どのように暮らしていくかを考えました。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」今までお金の勘定をしてきた自分が肉体労働に耐えうる力はない、かといって偉そうにして年貢を取り立てたりしてきた自分が、そうした人々に物乞いをすることなど恥ずかしくてできない。

 そこで管理人は、悪に悪を重ねることによって、この窮地を脱しようと決断したのです。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」

 管理人は、会計報告書を作成するために与えられていた時間を使って、主人に借りのある者たちを一人一人呼んで、証文を書き換えさせることにしました。管理人が、最初の人に「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と問うと、「油百バトス」と答えました。管理人は「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」と言いました。一バトスは23ℓですから、百バトスは2300ℓとなります。これを五十バトス1150ℓにするというのです。次の人は主人に小麦百コロスの負債がありました。管理人は「これがあなたの証文だ。八十コロスに書き換えなさい」と言いました。一コロスは230ℓですから、百コロスは23000ℓとなります。これを八十コロス、18400ℓにするというのです。そのようにして主人に借りのある人々すべての証文を書き換えさせました。負債から外された金額を合わせると、それは莫大な金額になり、負債者たちが管理人の面倒をみるに足るものでありました。負債のあった人々は、管理人の共犯者ということにもなります。

 ところが主人は、管理人が証文を書き換えさせたことを知りました。これにより主人は、財産を無駄使いされたばかりか、証文の書き換えによって大損害をこうむったのです。管理人には、まったく酌量の余地がありません。ところが、この後、驚くべき結末をむかえます。主人がこの悪に悪を重ねた管理人をほめたのです。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢くふるまっている。」主人は、管理人の不正を赦したのではありません。管理人がこの窮地を切り抜けるために行った断固たる行動に感心し、それをほめたのでした。この後、管理人は解職され、路頭にまようことになったでしょうし、管理人の共犯者となった証文を書き直した人々は、負債額をもとに戻され、罰としてさらに負債が加算されたかもしれません。

 

 このたとえには、5つの解釈が記されています。まず9節、このたとえは友を作ることの大切さを教えているとの解釈です。「不正にまみれた富」とは、「天の宝」に対する「この世の富」を意味し、不正な手段で得た金という意味ではありません。「友達」とは貧しい人々のことです。この世の富を貧しい人々に施しなさい、そうすればあなたの死の時、神の住まいに迎え入れられるというのです。

10節、ユダヤ教の指導者(小さなことに不忠実)とイエスの弟子(小さいことに忠実)とを対比しています。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実で、小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実なのです。

11節、「不正にまみれた富」は、この世の富のことです。神は、弟子たちが富を貧しい人に施すことに忠実でなければ、「本当に価値あるもの」(真理の言葉)をゆだねることはないのです。

12節、弟子たちに対して、他の人のものへの忠実と責任がなければ、神は天の宝を与えられません。

13節、この世の富は、人を惑わします。弟子であっても富に惑わされると心は神から離れていきます。神と富の両方に仕えることはできません。

 

 イエスはこのたとえによって、弟子たち(「光の子」・・・弟子たちやキリスト教会)に何を教えようとしているのでしょうか。苦難を前にしたイエスは、弟子たちに、神に対する姿勢を教えようとしています。それを教えるとき、人々の富に対する姿勢を用いるのが理解しやすいと考えたのです。あの管理人のように、たとえ「小さなこと」であっても富や生活のことなら、人は悪に悪を重ねることを決断し、窮地を乗り越えようとします。同様に弟子であるあなたがたは、「大きなこと」である天の宝である永遠の命と神の国について、大いなる決断をして苦難を乗り越え、それを得ようしなければならないと教えられたのです。

 

 「光の子」である私たちも、来るべき日に、神に人生の決算報告を提出しなければなりません。このたとえにより、私たちは今、自分の利得を優先し、神に不忠実であること、神から委ねられた真理の言葉を人に伝えることを怠り無駄使いをしていることを明らかにされました。しかし自分の力では、その罪を償うことはできません。私たちは、イエス・キリストに委ね、赦しの福音を伝える働きをし、人々の証文の負債を0に書き換えて差し上げます。また私たち自らの証文をイエスに差し出して、罪を帳消しにしていただきます。私たちは罪の赦しと永遠の命・神の国のために、断固たる決断をもってイエス・キリストを信じ、委ねられている真理の言葉を余すことなく「自分の仲間である」人々に伝えてゆきたいのです。

2023. 9. 17 聖霊降臨節第17主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」          

                                                            (創世記37章19~20節)


 

  「新しい人間にして下さる主」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」           (創世記37章19~20節)


 

         「新しい人間にして下さる主」     深見 祥弘

 今朝のみ言葉は、創世記37章、「ヨセフ物語」の始まりの部分です。ヨセフとは、どんな人物なのでしょうか。ヨセフの父はヤコブ(別名イスラエル)と言います。イスラエルの父祖はアブラハムですが、その子はイサク、そしてイサクの子がヤコブです。ヤコブには、レアとその召し使いジルパ、ラケルとその召し使いビルハという四人の妻がいました。ヤコブとレアの間にはルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンという六人の息子、その召し使いジルパとの間に、ガドとアシェルという二人の息子が生まれました。またヤコブとラケルの間には、ヨセフとベンヤミンという息子、その召し使いビルハの間にはダン、ナフタリという息子が生まれました。ヤコブには12人の息子がいました。

 ヤコブは妻ラケルを特別に愛しましたが、二人の間にはなかなか子どもが与えられませんでした。ヤコブが歳をとって与えられた子がヨセフ(11番目の子)とベニヤミン(12番目の子)でした。妻ラケルは、ベニヤミンを産むとすぐに亡くなったこともあって、父ヤコブは、ヨセフとベニヤミンを溺愛しました。その一例がヨセフのために作った裾の長い晴れ着でした。それは、父の羊の群れを飼う仕事の免除を意味しました。加えて主がヨセフと共にいて、夢をお示しになられ、それをヨセフが語りました。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」(39:23)

 兄たちは、父親が弟のヨセフをかわいがるのを見て、おもしろくありません。さらにヨセフの語る夢にも腹をたてました。それは、「麦の束の夢」でした。兄弟で麦の刈り入れをし、それぞれ束を結わえたところ、ヨセフの束が立ち上がり、他の兄弟たちが結わえた束が周りに集まって、ヨセフの束に首をたれるという夢でした。兄たちは、ヨセフを憎みましたが、父ヤコブはこれらのことを心に留めました。

 ヤコブ一家はヘブロンで暮らしていましたが、10人の兄たちが父の羊の群れをつれてシケムに行きました。ある日、ヤコブがヨセフに兄たちの様子を見に行かせました。ヨセフがシケムに着くと、お兄さんたちはいません。人に聞くとドタンに移って行ったとのことでした。ヨセフの姿を先に見つけたのは、兄たちでした。はるか遠くに晴れ着を着てやってくるヨセフを見ると、兄たちは「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」と言いました。しかし長男ルベンは、「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」と言いました。

 ヨセフが来ると、兄たちは晴れ着をはぎとり、穴の中に投げ込みました。

そして食事を始めましたが、エジプトに向うイシュマエル人の隊商がやって来るのを見つけると、ユダが「あのイシュマエル人の隊商に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。」と言いました。

 ところが兄たちが食事をしながら話をしている間に、穴のところをミデアン人の商人たちが通りかかり、ヨセフを引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人の隊商に売りました。食事の後、ルベンが穴に戻ってみると、ヨセフの姿がありません。兄たちはヨセフの晴れ着に雄山羊の血をつけ、「帰って来る途中でこれを見つけました。」と父親に示しました。父ヤコブは「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。」と言って、幾日も嘆き悲しみました。

 「ヨセフ物語」は、37章から50章まで続きます。エジプトに来たヨセフはポティファル(宮廷の役人)の奴隷となりますが、妻の誘惑を拒み、妻より訴えられて投獄されます。しかし主がヨセフと共におられ、うまく計らわれたので、ヨセフは獄の中で、侍従長の夢を解いて彼を助け、この侍従長の進言でファラオの夢を解くこととなります。ファラオの見た夢とは、大豊作とその後の飢饉の襲来を告げるものでした。ファラオの命で大臣となったヨセフは、飢饉からエジプトを救いました。さらにヨセフは、飢饉で食料を買いに来た兄たちと再会し、父ヤコブと兄弟たち家族をエジプトに迎えいれたのでした。

 

説教題を、「新しい人間にして下さる主」とつけました。物語に登場する人物が、それまでの姿と大きく変えられていることに気づいたからです。

父ヤコブは、ラケルとの間に生まれたヨセフとベニヤミンを溺愛しました。それは愛するラケルとの間になかなか子が与えられなかったこと、加えてラケルがベニヤミンを産んだ後、亡くなったことによります。それゆえ兄たちに配慮することなく、裾の長い晴れ着を着せるなどあまやかしました。ヤコブは、ヨセフの血のついた晴れ着を見たとき、「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」(37:35)と絶望しましたし、ヨセフとエジプトで再会した時、「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(46:30)と言いました。ヤコブは、ヨセフを死へと追いやった神を呪う者から、神を賛美する者に変えられたのです。それは、幼子イエスを見たとき、シメオンが「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29~30)と同じ思いです。

兄たちは、父親から特別扱いを受けるヨセフをねたみ、また神が示す夢にヨセフを憎みました。なぜ父は、羊の世話をするなどして働く自分たちを顧みてくださらないのか。でも長男ルベンは、ヨセフを亡き者にすることに反対しました。父を悲しませてはいけないと思ったからです。そして穴の中のヨセフを助けようとしたのですが、弟の姿はそこにありませんでした。後に、盗みをしたとしてベニヤミンをエジプトに残して立ち去れとヨセフに命じられたとき、ユダは「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)と歎願いたしました。兄たちは、父から寵愛を受けるヨセフとベニヤミンを憎む者から、父と弟を愛する者に変えられていました。

 ヨセフは、父ヤコブから愛されていることを兄たちに見せつけ、配慮もなく夢を語りました。でも彼は、奴隷として売られ、多くの苦難を経験する中、主が共にいて計らっていてくださることを知りました。また兄たちの悔い改めの言葉を聞いたとき、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今はわたしをここへ売ったことを悔いたり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく神です。」(45:4~)「あなたがたはわたしに悪をたくらみました。神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(50:20)と告白しました。ヨセフは兄たちを呪う者から、兄を赦し、神を賛美する者に変えられたのでした。

 ヨセフ物語は、救い主イエスの予型であると考えられます。イエスはある人からは愛され期待されますが、ある人からは憎まれ、捕らえられて殺され陰府にくだり、復活し、人々の命の救いをなしとげられました。兄たちは「あれの夢がどうなるか、見てやろう」といいましたが、神の夢は計らいの中で実現いたします。インマヌエルの主が、人を変え、新しい人間にしてくださることを、私たち自身のなかにも見出してゆきましょう。 

2023. 9. 10 聖霊降臨節第16主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」        

              (使徒言行録7章35節)

 

「 この人が・・・ 」      仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」         (使徒言行録7章35節)

 

「 この人が・・・ 」      仁村 真司

前回見た6章のはじめ(1〜7節)では、教会の業、寡婦の生活支援において生じたトラブル・矛盾を何とかしなければならないということで七人のギリシア語を話すユダヤ人、ヘレニストが選ばれました。

七人の最初に名前が挙げられているのがステファノです。今回と次回、「ステファノの説教」(7章2〜53節)からいろいろと考えて行きます。

この長い「説教」を、長さにめげずにじっくりと読んで行くと二つの両立しない、矛盾する考え―「ステファノがこんな話をしたはずはない」、反対に「他にだれがこんなことを言うだろうか、やっぱりこの話はステファノがしたのだろう」―が入れかわり立ちかわり頭の中に浮かんで来ます。

そして「ここはステファノが言ったのだろう、ここは言っていないだろう」という具合に分類しようとしても、結局全体がみじん切りみたいになっ

て訳が分からなくなってしまいそうです。なので、今回も次回も全体的に見て行くことになると思います。

1)

まず、ステファノがこんな話をしたはずがないというのはどうしてか・・・。

この話、説教は、最高法院でなされたことになっていますが、ステファノは逮捕されて最高法院に連行されている訳です(6章8節以下)。

このような緊迫した場面、現にこの後ステファノは激昂した人々によって殺されてしまうのですから(54節以下)、そんな状況で長々と、延々と話した、語れたのかというと実際問題としてそんなことは考えられません。

それとステファノが語ったとされるのは、殆どが旧約聖書の引用・要約、「旧約聖書入門」・「旧約聖書物語」のような話です。私でも小学生の頃には教会学校や聖書の授業で習って、おおよそ知っていた話が殆どです。

勿論ユダヤ人ならだれでも子どもの頃から知っています。ですから、最高法院でユダヤ教徒相手にこんな話をする意味も必要もないです。

こういったことからすると、こんな話をしたとは考えられないのですが、ステファノたち七人のヘレニストが中心となって担っていた寡婦の生活支援は「単なる食事の世話」ではなく、「これをしなければ教会ではない」いうぐらい重要な教会の業です。また、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6章8節)。

このような働きは使徒たちと何ら変わりありません。

そのようなステファノ、ヘレニストたちの思想、どのようなことを考えていたのか。それが「ステファノの説教」に現わされているのでは・・・と思って終わりまで読んで行くと、とにかくユダヤ教(徒)を批判していることは分かります。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたはいつも聖霊に逆らっています。」(51節)

2)

ここでかなり話が飛びますが、21章7・8節。

「わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイオスに着き、・・・(中略)・・・一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。」

これはパウロがエルサレムに向かう途中でのことですが、「わたしたち」の「わたし」はこの文章を書いている、使徒言行録を書いたルカです。

ルカは「例の七人の一人」、寡婦の生活支援を中心となって担うべく選ばれた七人の一人、フィリポの家に泊まった。きっとこういった機会にステファノを中心としたヘレニストたちが普段どんなことを考え、語っていたのか、ルカはフィリポから聞いて、それが「ステファノの説教」のたたき台となり基調となっているのだと思います。そして、そこに「この話はステファノがしたのだろう」と思わせる要素があるのでしょう。

ただ、これは私の想像ですが、ルカはフィリポから聞いたステファノの考えをそのまま、それだけ記すことがためらわれたのではないか。それ程に痛烈なユダヤ教(徒)批判であり、ペトロともパウロとも違う独特で個性的な考えであったということです。そこでルカはステファノの考え・主張の根拠や説明となりそうな、ルカ自身が納得するためでもあったのかもしれませんが、旧約聖書の要約・引用を沢山加え、これらを合わせて「ステファノの説教」として文章化した。その結果、長さも内容も、全体的に、語ったとされる状況にそぐわないものになったのではないかと思います。

ステファノ独特のユダヤ教(徒)批判、個性的な考え・主張がどのようなものであったのか。端的に示されているのは52節です。

「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか(・・・否いない)。彼らは、正しい方(イエス)が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方(イエス)を裏切る者、殺す者となった。」

イスラエル民族は神から遣わされた預言者に逆らい、迫害して来た。それが大昔からの一貫した姿勢であり、そうしてイエスを殺すに至った。これと、独特の神殿批判(これについては次回お話しします)とを合わせて、神に逆らうことがユダヤ教(徒)の伝統だとステファノは言っています。

ペトロもパウロも、ユダヤ人がイエスを殺したとは言っていますが、ユダヤ人は昔からずっと神に逆らって来た等とは言っていません。

3)

モーセの物語(17節以下)は主として、このようステファノの主張の根拠として語られていると考えられます。

27節「すると、仲間を痛めつけていた男はモーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。』」

39節「けれども、先祖たちはこの人(モーセ)に従おうとせず、彼(モーセ)を退け、エジプトをなつかしく思い、」

「突き飛ばして」と「退け」は原文では同じ動詞ですから、モーセはイスラエルの人々の指導者・解放者として神に遣わされる(35節)前にも後にも、エジプトでも荒れ野でも、拒絶された、ということになりますが、そのモーセの働きについて・・・

36節「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました」。

37節「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがた兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』」。「わたしのような預言者」とはイエスのこととも考えられますから(3章22節参照)、52節の「彼ら(あなたがたの先祖)は、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました」と重なっています。

38節「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです」。51・52節では「あなたがたの先祖・あなたがたが・・・」ですが、ここでは「わたしたちの先祖・わたしたちに」となっています。

人々が逆らって、突き飛ばして、退けた、「この人が、このモーセが」、「この人によってこそ今のわたしたちがある」ということだと思います。

そして、この「わたしたち」の中にステファノ自身も在ると思います。

ステファノは自分を外側に置いて、ユダヤ教徒がモーセに逆らって以来、

預言者を迫害し続け、イエスを殺したと言っているのではない。ステファ

ノのユダヤ教(徒)批判、独特の主張は、「わたしたちの先祖、そしてわたしたちが、神から遣わされて来た人々を迫害し、傷つけ、痛みを与えて来た。この事実を忘れずに、一緒に担い続けよう、語り継いで行こう」という呼びかけ、招きではなかったのか。私はそのように考えています。

2023. 9. 3聖霊降臨節第15主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

                (ルカによる福音14章11節)

 

    「末席に座りなさい」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

                    (ルカによる福音14章11節)

 

           「末席に座りなさい」      深見 祥弘

 先週の礼拝は、コロナに感染し休ませていただきました。皆さまにご心配をおかけして申し訳ありませんでした。またお祈りいただきありがとうございました。8月21日(月)~22日(火)、同志社大で全国同信伝道会神学協議会が5年ぶりに開催され出席いたしました。これには、全国から牧師や信徒260名程が参加しました。受付をすませて会場である大教室の扉を入ると、そこは教壇のある前方の入口でした。入口を入るとそこに親しい仲間がいて、「ひさしぶり」と挨拶し、そのまま空いていたそばの席に着きました。夜には、近くのホテルに宴席が設けられ、多くの方との交流を楽しみました。また次の日もわたしは同じ席、教室の前の席(上席?)に座りました。23日(水)の夕方から咳が出始め、夜には、激しく咳込むようになりました。2日間、会場の冷房で体に冷えを感じていたことと、終了後、9月に行われる教団全国会議の会場へのアクセスを確認するため、歩き回り汗をかいたことにより風邪をひいたと思いました。でも、木曜日の朝には熱が出て、これはもしかしてと思い、病院で診察を受けたところ、コロナに感染していることが分かりました。その後、同じ協議会に出席した複数の方も感染したと聞きました。

 

 み言葉は、ルカによる福音14章7~14節「婚宴に招かれた客に対する勧め、客を招待する者に対する勧め」です。加えてこの時は、15~24節「大宴会」のたとえについてもお話しいたします。

 まず7~11節を見てみましょう。イエスが安息日に、ファリサイ派の議員の家に招かれ、食事をしたときのことです。イエスは、招待された客が上席を選び座るのを見て、このように「たとえ」を話しました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより身分の高い人が来て、席を譲らざるをえなくなり、結果、残されていた一番末席に着くことになる。むしろ末席に行って座りなさい。そうすればあなたを招いた人が来て『もっと上席に進んでください』とすすめられ、面目を施すことになる。」

7~11節は「婚宴に招かれた客に対する勧め」ですが、この勧めは社交の場でのエチケットを教えているのでもなく、謙虚の美徳を勧めているのでもなく、身を低くする人が重んぜられるという処世訓を与えているのでもありません。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(11)とあるように、このたとえは、神に対する人のあり様を教えるものです。神は「高ぶる者を低く」し「へりくだる者を高める」お方です。このことを教えたイエスご自身も、自らを低くすることで、神により高められました。このたとえで婚宴の主人とは、神のことです。神の前にあっては、自らを低くしなさい、そうすれば、神の国の宴席に招かれ、上席へと導かれると伝えています。

 12~14節は「客を招待する者に対する勧め」です。イエスは、食事に招いてくれたファリサイ派の議員に言いました。「宴会を催すときには、身内の者、友人、近所の金持ちを呼んではならない。彼らは、お返しをするから。むしろ、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい。」身内の者などを招くのは、その交わりや愛が地縁血縁に限定され、それは互恵の域を出ません。ユダヤ人が「隣人を自分のように愛しなさい」(10:27)という言葉を、同胞に限るものとし、罪人や外国人を含まないのと同じです。当時、ユダヤ教では、貧しい人、体の不自由な人を「神の集会」から排除していました。しかしイエスは、そうした人々のところを訪れ、一緒に食事をされました。イエスは、この食事をかけがえのない恵みと感謝する者を顧み、神の国の宴席にも招いてくださるのです。同様にイエスは、客を招待する者に対しも、お返しができない人、招きを心から喜ぶ人を招きなさいと言われました。そうすれば、客を招待した者もまた、神の国の宴席に招待してくださるでしょう。

 

 今朝のみ言葉の後に「大宴会」のたとえ(15~24)があります。

ファリサイ派の議員の家でイエスの話を聞いた客の一人が、イエスに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。そこでイエスは、たとえを話しました。「ある人が盛大な宴会を計画して、大勢の人をあらかじめ招待していました。宴会の時刻になったので、僕を送り『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせました。ところがある人は畑、ある人は牛を買ったので出席できない、またある人は新婚なので行けないと言って、招待者の皆がことわりました。そこで主人は僕に『町の広場や路地に行って、貧しい人、体の不自由な人をここに連れて来なさい』と命じました。僕は命じられたとおりに行い『まだ、席があります』と言うと、主人は『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』と言いました。」

 これはたとえです。家の主人とは神のこと、遣わされた僕とは、1回目は旧約の預言者、2回目はイエス・キリスト、3回目は使徒です。招待をことわった招待客とはユダヤ人(ファリサイ派、律法学者)のこと、貧しい人・体の不自由な人とは当時罪人と呼ばれていた人、通りや小道から連れてこられた人とは異邦人のことです。そして主人が催す大宴会とは、神の国の祝宴のことです。招待をことわった人の中で、畑を買った人と牛を2頭ずつ5組買った人とは利益を優先する人、新婚を理由にことわった人とは人間の関係を優先する人のことです。神の国の大宴会は、人の催す宴会のようにくり返し行われません。世の宴会では、招待を受けて出席と返事をしたけれど、仕事や人との関係によって、欠席することもあります。その時人は、申し訳ないけれど、あの主人ならば赦してくれるだろう、また今度お返しすることもできると考えます。けれども、神の国の大宴会は、それが最初で最後、これを逃したら再びその席が用意されることはありません。しかも、神は招待していた人々の欠席が多いと聞いても、予定を変更することはありません。神は招待をしていなかった人々を、広場や路地、大通や小道にも行って、無理にでも集め、家を満杯にして、予定どおり大宴会を行うのです。「無理にでも人々を連れて来て」という言葉は、どんなことがあってもこれを行うという神の強い意志を感じ取ることができます。

 

 「大宴会に備えましょう」と言っても、それが何時なのかわかりません。その日その時は、神さましか知りえず、それゆえに私たちが備え、希望を持ってその日その時を待ち続けることはできません。なぜなら、私たちはこの日1日をどう過ごすかに悩み、一生懸命であるからです。しかし私たちは、この日1日ならば、何とか神の守りを信じ希望を持って生きることができるように思います。

 そんな私たちは、人の催す宴会に招かれたら、神の大祝宴に招かれたと思い、万難を排して喜んで出席し、自ら罪人であることを自覚して末席に座ります。また私たちがお客さんを招待して食事をする時は、親しい人や利害関係のある人に加えて、神の大祝宴の日を思い、これまで思いの外にいた人をもお招きします。そのようにして、私たちが1日1日の生活の中に、神の国の大祝宴の予行演習を行い備えることができるならば、「正しい者たちが復活するとき」(終末・神の大祝宴の時)、イエスが来て「さあ、もっと上席に進んでください」と迎え導いてくださることでしょう。まずは、末席に行って座ってみましょう、そこにイエスはいてくださいます。

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