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≪次月 12月(2023)礼拝説教要旨 前月≫

2023. 12. 31 降誕節第1主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。                          (マタイによる福音書2章14~15節)

 

           「第二の出エジプト」       深見 祥弘

< 今 週 の 聖 句 >

ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。                          (マタイによる福音書2章14~15節)

 

           「第二の出エジプト」       深見 祥弘

 主の年2023年も、今日が大晦日です。いろいろなことのあったこの一年でしたが、主に守られてきたことに感謝を献げ、新しい年を迎える備えをいたします。

 エリ・ヴィーゼルさん(1928~2016)は、ハンガリー出身でアメリカのユダヤ人作家です。16歳の時(1944年)アウシュヴィッツに送られ、生還した体験をお持ちです。この体験を自伝的に記し、1986年ノーベル賞平和賞を受賞されました。また2005年、「希望の未来」と題して講演をされました。講演の中でこのようなたとえを語られました。「男が森の中を歩いていて道に迷ってしまった。どういけば森から出られるかわからない。一日過ぎ、もう一日過ぎた。三日目には、お腹が空き、水もみつからず、もう死にそうなのに出口はまだ分からない。その時、別の人間に出会った。『ありがとう。ここにいてくれてありがとう。森からどうやって出られるか教えて下さい。』相手が言う。『私も道に迷っているのですよ。とにかく私の来た道を行っては駄目ですよ。それしか私には言えない。』」

エリ・ヴィーゼルさんは、この後、「これが過去からの教訓かもしれない。ほんとうに恐怖、幻想に満ち満ちた過去だった。他の人間に対して何をなし得るかについて、全員が絶望を感じた時代だった。そんな時代にもどってはいけない。新しい道を探さなければならない。」と話されました。

 

 東方の博士たちが、ベツレヘムの御子のもとを訪れ、別の道を通って自分の国に帰って行った後のことです。主の天使がヨセフにあらわれ、幼子イエスと母マリアを連れてエジプトに逃れるように伝えました。ユダヤの王ヘロデが、博士たちにだまされたと気づき、御子を殺そうと決心したからでした。では、なぜ逃れの場所がエジプトであったのでしょうか。福音書記者マタイは、預言者ホセアの預言が実現するためであったと書いています。ホセア書11章1節に「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」とあります。マタイ福音書は、幼子イエスをまことのイスラエルとし、ホセアの預言の実現をイエスに見ているのです。

 さてヘロデ王が御子を殺すために行ったことが、幼児虐殺でした。ヘロデは、博士たちが東方で星を見い出した時から計算して(一年以上の時をかけて来た)、ベツレヘムと周辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺したのです。福音書記者マタイは、これも預言者エレミヤの預言の実現であったと書いています。エレミヤ書31章15節「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちはもういないから。」ここに登場するラケルは、ヤコブ(別名イスラエル)の妻です。彼女はヨセフとベニヤミンを産んだ後、亡くなりラマに葬られました。エレミヤは二度にわたるイスラエル民族の母ラケルの嘆き悲しみを預言しました。一度目は、バビロンに引かれて行く人々が、ラケルの墓のそばを通るときであり、二度目は、ベツレヘムと周辺で子供たちが虐殺されたときです。

 ヘロデ王が死んだのは、BC4年過越し祭の直前のことです。主の天使がエジプトにいるヨセフに現れ、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」と告げました。ヨセフは、イエスとマリアを連れて帰りました。しかしユダヤの地は、父ヘロデと同様に残虐なアルケラオが支配していると聞き、夢の導きによりガリラヤ地方ナザレで暮らすこととなりました。福音書記者マタイは、これも預言の実現であると告げています。「彼はナザレの人と呼ばれる」、この言葉は聖書にありません。しかし預言者イザヤは、救い主が人々からさげすまれること(イザヤ書53章)を預言していましたし、当時人々は、ナザレから何の良いものが出ようかと言っていたのです。

 

 エレミヤは、嘆き悲しむラケルについて書いた後、続けてこう告げます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」(31:16~17)ここで

エレミヤは、捕囚地からイスラエルの民が帰ってくると預言し、ラケルの嘆きに慰めと希望が与えられる、神の民に新時代がやってくると預言しました。この預言を受け福音書記者マタイは、エジプトからまことのイスラエルである御子イエスが帰ってくる。そのことでベツレヘムの母親たちの嘆きに慰めと希望が与えられ、新しい時代が到来すると告げているのです。

 ヘロデ王の手から救われた幼子イエスで思い起こすのは、かつてエジプトの王ファラオの手から救われたモーセのことです。エジプトで神の祝福をいただいたイスラエルの民は、人口を増やしました。しかしエジプトを飢饉から救ったヨセフを知らない王になった時、王はイスラエルの民に脅威を感じました。王はイスラエルの民を奴隷として使役し、生まれてくる子が男の子ならば殺せと命令を出しました。幼子モーセはそうした中、難を逃れ、成長すると民をエジプトから導き出したのです。マタイ福音書では、ユダヤの王ヘロデとエジプトの王が、また幼子イエスと幼子モーセが重ね合わされています。エジプトを脱出した幼子イエスは、時を経て民を苦難の中から救い出してくださると伝えているのです。

 主の天使が父ヨセフに示した御子の名は、イエス(神は救い)、そしてインマヌエル(神は我々と共にいます)でありました。御子は自ら苦しみを受けられた御方であり、私たちの苦しみを知っておられる御方でありますから、嘆き悲しむ私たちと共にいてくださり、私たちを救い出してくださる御方であります。

 

 初めに作家のエリ・ヴィーゼルのことを話しました。彼は「希望の未来」と題する講演のたとえで「私も道に迷っているのです。とにかく私の来た道を行っては駄目ですよ。それしかわたしには言えない。」と話されたことを紹介しました。

 マタイ福音書2章13節に記されている幼子イエスは、道(かつて兄たちに売られてエジプトに来たヨセフの道、ファラオのもとでのイスラエルの民の苦難の道、モーセがイスラエルの民と共にたどった出エジプトの道)に迷う私たち人間がどうしても脱出できないところに分け入ってくださり、御子ご自身がその苦しみや悲しみを知ってくださり、歩むべき道を示して、そこから救い出してくださることを福音として語っているのです。

「そんな時代にもどってはいけない。新しい道を探さなければならない」と作家は言いましたが、すでに私たちには御子イエスがいます。この共にいてくださる御方に従うならば、新しい道を見出すことができるのです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。私たちは聖家族のエジプトへの旅と帰還の旅の重さに心をとめ、御子によって実現された福音によって新しい年を始めたいと願います。

 「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。

あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」

(エレミヤ31:16~17)

2023. 12. 24 クリスマス礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

(マタイによる福音書2章2節)

 

 「神の御子を探す旅」        深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

(マタイによる福音書2章2節)

 

           「神の御子を探す旅」        深見 祥弘

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

3年に及ぶコロナ禍も終息し、今年は、京都をはじめとする観光地に、たくさんの外国人観光客の姿をみることができました。政府観光局11月発表統計によると、10月の訪日外国人数は252万人で、1~10月では1千989万人余りとなります。国別では、韓国63万人、台湾41万人、中国25万人、米国21万人と続き、東南アジア地域や欧州豪地域からもたくさんの人々が訪れました。対して日本人出国者数は、100万人でした。

 それでは、訪日外国人が日本に来た目的とは、何でしょうか。

一位は日本食を食べることです。70%の人々が寿司やラーメンを食べることで、居酒屋にいくことを楽しみにしていると回答した人もいます。二位はショッピング53%、ドンキホーテに行くことを楽しみにしている人もいました。三位は、自然・景勝地観光で43%、富士山や桜・紅葉を見ることです。四位は繁華街の街歩きで37%、新宿や渋谷などが人気で治安の良いこともよく知っています。五位は温泉入浴で35%、後はアニメや漫画、伝統文化・工芸、相撲、祭りなどとなっています。

 

 聖書には、旅する人々がたくさん出てきます。旧約聖書では、アブラハムのウルからカナンへの旅、モーセと民とがエジプトからカナンに向った出エジプトの旅、新約聖書では、イエスと弟子たちの宣教旅行やパウロたちの伝道旅行も思い浮かべることができます。今朝は、マタイによる福音書2章「東方の博士たちの旅」についてお話いたします。

 御子イエスの誕生は、東方の博士たち(占星術の学者たち)に知らされました。夜、博士たちが星を見ていると不思議に輝く星が現れました。彼らが、その星について調べると、ユダヤの国の王子の誕生を知らせるしるしであることがわかりました。かつてバビロン捕囚によりイスラエルの人々がチグリス・ユーフラテス川の流域で暮らしたことと関係があるのかもしれません。博士たちは、これを確かめるためにユダヤの国の都エルサレムまで旅をしました。彼らがエルサレムに到着すると、ヘロデ王にこう尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」しかし、ヘロデ王のもとに王子は誕生していませんでした。途方に暮れる博士たちに、預言者の言葉が示されました。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現われ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」さらに、東方で見た星が再びあらわれ、彼らをベツレヘムの幼子のいる場所まで導きました。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。彼らはひれ伏して御子を拝み、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬を献げました。そして博士たちは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国に帰って行ったのでした。

 

 この東方の博士たちの旅の話は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。まず「東の方」という言葉についてお話します。先ほどチグリス・ユーフラテス川周辺と申しましたが、他にペルシャ・メディア地方、アラビア地方など幾つかの説があるようです。しかしそれがどこであるかより、それがどのような意味で用いられているかが大切のようです。

 広く古代世界では、生者は東方に住み、死者は西方にいると考えました。聖書で思い浮かぶのは、「エデンの園の東」です。最初の人アダムとエバが神に背いて罪を犯し、追放された所が「エデンの園の東」(創3:24)でした。また、神に対抗してバベルの塔を建てようとした人々は、「東の方から移動してきた人々」(創11:2)でした。聖書において「東」は、神から追放された人間や神に敵対する人間の住む所をあらわしています。東方の博士たちは、罪を得て追放された知恵ある人間を象徴しているのです。

 博士たちの東方から西方への旅は、天地創造に始まり終末(神の国)に終わる世界の歩みをあらわし、また誕生から死に至る人間の生涯をあらわしています。そうした中、人間は自らの知恵(神に背く企みも含む)によって、死や滅びにあらがい救いを見出そうとしてきました。しかし、知恵や技術を駆使しても、なかなかうまくいきません。格差社会の問題や地球温暖化の問題、大国の覇権争いや、戦争・紛争などがクローズアップされた現代と通ずるものがあるかもしれません。

 東方の博士たちは、自らの知恵によって王子を探す旅をします。彼らは、この世の王に救い主を見出すことができると考え、ヘロデ王のところを訪ねます。しかし彼らは、王子を見出すことができませんでした。途方にくれる博士たちを導いたのは、預言者の言葉でありました。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」博士たちがこの言葉を信じた時、東方で見た星が再び現れ、先立って進み、ついに幼子のところに彼らを導いたのです。

 ベツレヘムの家におられた幼子・救い主、そこは彼らの知恵では絶対にたどり着くことのできない所でありました。博士たちは、御子に占星術の道具(人間の知恵)である黄金、乳香、没薬をささげ、それに対して御子から神の知恵をいただきました。この御子は、ユダヤ人にとどまらず外国人である彼らの王であり、大祭司であり、十字架の主であることを、神の知恵としていただいたのでした。そして博士たちは、もはやこの世の王に頼る必要がなくなり、別の道を通って、自分たちの国エデン(神の国・命の国)に向い、救いを見出すことができたのです。

 先ほども申しましたが、東方の博士たちの西方への旅は、私たち一人ひとりの人生の旅路をあらわすものです。私たちは生者の国から死者の国に旅する者です。私たちはその旅路において、労苦や悲しみ、思い煩いや痛みにさいなまれ、救ってくださるお方を探し求めます。そのような私たちを神は憐れんでくださり、み言葉と導きによって御子イエスの御元に招いてくださいました。私たちは御子イエスを救い主と信じて礼拝することで、死者の国に至る道ではない別の道、神の国(命の国)に至る道を歩むことができるようになったのです。私たちの生から死への旅路に、御子イエスがいてくださり、別の道を通って永遠の命と神の国へと歩みはじめることができますことに感謝いたします。

 

 今年は、教会員のお宅に2人の赤ちゃんが与えられました、また8名の兄姉を神の国にお送りいたしました。1人の姉妹が転入会をしてくださり、この礼拝において3人の兄姉が洗礼をお受けになられます。生から死への旅、そして救い主との出会いの旅を続けています。私たちは、み言葉と神の導きによってここに集められ、御子イエス・キリストを礼拝して喜びに満たされ、死や滅びに向う道から方向転換して、赦しと救いに至る道、永遠の命と神の国への道を歩み始めます。私たちは、救い主を見出しました。それゆえこの時を、世界の転換点、私たちの人生の分岐点といたします。 来る主の年2024年が、すべての人々にとって御子イエス・キリストの命と平和に満ちた年となりますようにお祈りをいたしましょう。

2023. 12. 17 アドベント第3主日(降誕前第2主日) 礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

(ヨハネによる福音書1章35〜36節)

「クリスマスの諸相」      仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

(ヨハネによる福音書1章35〜36節)

「クリスマスの諸相」      仁村 真司

「イエスさま」と「クリスマス」、私はどちらを先に知ったのだろうか・・・。

ふとそんなことを考えました。

1906(明治39)年の12月25日の新聞に(既に)「キリスト教徒以外の家々でも近年はクリスマス装飾を新年飾りのひとつとして楽しんで、面白く新年を迎えることが流行している」という記事が出ていたそうですから、日本における「クリスマスのキリスト(教)離れ」は随分早くから始まっていたようです。そして今や好むと好まざるとにかかわらず、全ての人が「イエス・キリスト」より先に「クリスマス」を知る、「イエス・キリスト」を知らなくても「クリスマス」は知っている、そんな状況です。

  1)

殆どの人がイエス・キリストを知らないのに、その誕生日を特別な日にして盛り上がっている、これは由々しき事態だ⋯等とは私は思っていなくて、クリスマスオーナメントも街を彩るイルミネーションも、ものにもよりますが、嫌いではなくて、むしろ好きです。・・・が、それはさておき・・・

その人を知らないのにその人の誕生日が特別な日になるなんて奇妙なことは本来あり得ません。恋人とか夫や妻の誕生日が特別な日で忘れていたとなると場合によっては大事になるのは、誕生日が特別な日だからではなく既にその人が自分にとって"特別な人"になっているからです。

イエス・牛リストが特別なのは、「言うまでなく」と言うまでもなく、クリスマスに生まれたからではないです。この世を生きたイエスに触れて、イエスに出会って、イエス・キリストを信じた、だから特別です。

聖書の中でクリスマス、イエス・キリスト降誕にまつわる出来事を伝えているのはマタイ福音書とルカ福音書ですが、それぞれの記述はイエスをキリストと信じた人々が、その後に神の子・キリストであるイエスはきっとこのように生まれた、その時こんなことが起こったに違いない、簡単言えばそのように考えて、思って、信じて、伝えている「信仰の表現」です。

クリスマスが先にあったのではなく、まずイエスと人々との出会いがあっ

た。そして、イエス・キリストを信じて、伝える人々がいた。それから、そこから、クリスマス、イエス・キリストの誕生日、降誕日が「生み出された」ということです。

イエスに出会い、イエス・キリストを信じて、それからクリスマスを迎える・・・。この順番は、昔も今もこれからも変わりません。

  2)

では「事の起こり」、イエスと人々との出会いを聖書はどのように伝えているのかということですが、まず先に洗礼者ヨハネが登場し、ヨハネを経由してイエスと人は出会うことになる、これはマルコ・マタイ・ルカ、そしてヨハネ福音書の全てで共通しています。

マルコとマタイではイエスがヨハネの元を訪れ洗礼を受けます。ルカ福音書ではイエスの受洗の時ヨハネは既に捕らえられていて牢の中、なのでイエスに洗礼を授けたのはヨハネではないということになるのですが、ルカはイエスの誕生、クリスマスを描くのに、それよりも先に、それよりも長い、ヨハネの誕生物語を記しています。

どうしてはじめからイエスではなく先にヨハネなのかというと、「洗礼者ヨハネ」の方がよほど有名で、社会的な権威も影響力もあったからだと

考えられます。ヨハネ福音書では、今日の箇所の35〜37節。

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いてお  

られるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と行った。二人の弟子はそ

れを聞いて、イエスに従った。

ヨハネ、先生が、「神の小羊だ」等と言うものだから、二人の弟子は何

だか分からないけれども取り敢えずイエスについて行ったということです。

このヨハネの二人の弟子の内の一人がペトロの兄弟のアンデレで、アンデレに連れられてペトロはイエスの元に行きます。

ヨハネ福音書が伝える最初の弟子たちのイエスとの出会いは、マルコ・マタイ・ルカ福音書が伝える「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスが呼びかける「召命物語」とは多くの点で異なっています。

最初の弟子は元々はヨハネの弟子で、またぺトロではない(35〜42節)。

イエスが「私に従いなさい」と招いたのはフィリポだけだった(43節)等。

私は、マルコ・マタイ・ルカ福音書が伝えている「召命物語」よりも、このヨハネ福音書の「出会いの物語」の方が事実に近いと考えていますが、そう考えるのは、そしてそうでなかったとしても現実味があると感じるのは、今の私たちの経験と重なる所があるからだと思います。

「偉い先生」や家族や友人や知人等自分に少なからず影響を及ぼす人に伴われたり、促されたりして、何だかよく分からないけれども、例えば教会に行く、聖書を読む、そんなふうにしてイエス・キリストに出会ったというのは珍しくないと言うか、殆どの人がそうだと思います。

クリスチャンホームに生まれ育ったとか、キリスト数の保育聞や幼稚園に通っていて出会っていたはずなんだけれども忘れたという人もいるでしょう。私もその類いですが、「イエス・キリストとの出会い」という場合の「出会い」は必ずしも時間的に最初の出会いではなく、また最初の出会いだけを指すのでもない。やっぱり忘れられない出会いの時がある、来る。

それと、例えばすごく感動した、でもその時のことを言葉で言い表そうとすると、難しくて、上手く行かない。細かくて、さほど意味があるとは思えないことばかりが口をついて出て来てしまって、肝心なことは何も伝えられないということが(私には)よくありますが・・・

イエスについて行ったヨハネの二人の弟子は「その日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(29節)。この「午後四時ごろ」は事実なのでしょうが、特に深い意味はないと思います。何故かはっきりと覚えていたので、後々も伝えれていたというだけのことだと思います。

  3)

ではどうやって、このような忘れ難いイエス・キリストとの出会いがもたらされるのでしょうか。

ヨハネに言われてついて来た二人にイエスは言います。「来なさい。そうすれば分かる。」(39節)

「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」とフィリポが言うと、ナタナエルは「ナザレから良いものが出るだろうか」と言う。これに対してフィリポが言います。「来て、見なさい。」(45・46節)

私たちはイエス・キリストを既に知って(は)いますが、もしも知っているだけならば、それはヨハネに言われて訳が分からないまま、取り敢えずイエスについて行った時の二人と、あるいは「ナザレから良いものが出るだろうか」と思い込み、決めつけ、分かっているつもりになっていた時のナタナエルと同じ、そこに留まったままということです。

しかしまた私たちはイエス・キリストを知ったその時に「来なさい。そうすれば分かる」、「来て、見なさい」と呼びかけられている⋯。イエス・キリストを知って、見て、思って、歩いてみなさい、生きてみなさい、そこにイエス・キリストとの出会いがあるということだと思います。

そして、イエス・キリストを知って、それぞれの現実を生きて行くその先には新たなイエス・キリストの出会いがあるということでもあると思います。次週はクリスマスです。クリスマスは毎年来ますが私たちにとっては、いつもイエス・キリストとの新たな出会いの時です。

2023. 12. 10 アドベント第2主日(降誕前第3主日) 礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

                                              (マタイによる福音書1章23節)

 

  「その名はインマヌエル」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(マタイによる福音書1章23節)

 

         「その名はインマヌエル」        深見 祥弘

 18年前に、アニメ絵本「あらしのよるに」(きむらゆういち/杉井ギサブロー著:毎日新聞社2005年)が出版されました。アニメとして放映されたものを、絵本にしたものです。アニメとして放映された時には、大変話題になりましたので、覚えている方もおられることでしょう。

 「あらしのよるに」の主人公は、ヤギのメイとオオカミのガブです。彼らはあらしのよるに、こわれかけた小屋で出会いました。真っ暗の中、お互い姿が見えず、声だけで友だちになりました。あらしが去ると、彼らは明日「あらしのよるに」を合言葉に、ここで会おうと約束し帰っていきました。次の日、会ってびっくり。ヤギのメイは友だちなのにガブのことをおそろしいと思い、オオカミのガブは友だちなのにメイをおいしそうと思いました。でも「友だちは大切」、それぞれ思いに打ち勝って、友だちになりました。

 メイとガブは、ヤギとオオカミの社会の正しさに苦しみます。メイは仲間から「やつらから見たら、わしたちはただのエサだ。そういうやつらが、わしらエサとなかよくすると思うか?」と言われ、「やつらのこれからの狩りの予定なんかを聞きだしてきておくれ」と命令されました。ガブも仲間から「お前はそこで、やさしそうな顔をして、ヤギのことをいろいろ聞きだしてこい」と命じられました。メイとガブは、高い山を越えた向こう側に新しい世界があると信じて、群れから逃げ出しました。オオカミの群れがそれに気づき、メイに襲いかかりましたが、ガブはメイを守りました。でもガブは雪崩に巻き込まれ、ショックでメイのことを忘れてしまったのでした。

 高い山を越えた向こう側、新しい世界で再会した二匹は、メイの「あらしのよるに」という合言葉で、ガブはそこにいるのがメイだとわかりました。丘の上で月の光に包まれ「もうわたしたち、ずっといっしょにいられるのですね」「ずっとずっといっしょっす」と言葉を交わし、二匹の心が一つとなったのでした。

 今朝のみ言葉は、マタイによる福音書1章です。この1節から17節には、

イエス・キリストの系図が書かれています。読みづらい名前もあり、司会者にはご苦労をかけました。この系図は、本来一緒にいることのできないものが、イエス・キリストによって一緒になれるということをメッセージとしています。すなわち相容れない「人間の罪の歴史」と「神の救いの歴史」が、イエス・キリストによって結ばれ、一つになることを伝えているのです。

 この系図には、罪深い王たちの名が記されています。6「ダビデ」は、家臣ウリヤの妻を奪い取りソロモンをもうけました。10「マナセ、アモス」は、エルサレム神殿に偶像を持ち込んで礼拝をしました。またこの系図は女性たちの名も記しています。3「タマル」は、ユダの長男エルの妻ですが、しゅうとユダとの姦淫によってペレツとゼラを産みました。5「ラハブ」はエリコを偵察しにきた斥候を助けた遊女で、ユダヤ人ではありません。5「ルツ」はモアブ人でありますが、しゅうとめナオミについてベツレヘムに来ました。ルツはダビデ王のひいおばあさんです。イエス・キリストの系図は、このように罪深い王の名が記されていますし、罪を犯した女性や外国人の女性の名も記しているのです。

 その「人間の罪の歴史」において、時が満ちてイエス・キリストが生まれます。神は罪を得ている人々を救うために、救いの計画をお立てになっておられたのです。系図は、アブラハム~ダビデまで14代、ソロモン~バビロン捕囚まで14代、バビロン捕囚~キリストまで14代と三つに分けて書いています。数字の「7」は完全数、「7」の2倍の14は全き完全を表し、その「14」を3回くり返すことで、まさに時満ちてイエス・キリストがお生まれになったことをあらわしているのです。

 16「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」ご承知のように、イエスはヨセフと血のつながりはありません。ヨセフの婚約者マリアは、神の力によってイエスを宿したのです。ヨセフとマリアが結婚することで、生まれてくる子イエスは、法的に子となるのです。

ヨセフがマリアと結婚することで、ヨセフはイエスの父親となり、アブラハムからヨセフにいたる「人間の歴史(系図)」と、イエスに始まる「神の歴史(系図)」が結ばれるのです。この本来相容れないものが、ここで一つとされ「イエス・キリストの系図」となるのです。

 さて、その二人の結婚について、18節以降にこのようなことが書かれています。ヨセフは婚約中にマリアが身ごもったことを知り、ひそかに縁を切ろうといたしました。それはヨセフが「正しい人」であったからです。ユダヤの国では婚約をすると、法的に夫婦とみなされました。しかし、二人はまだ一緒に暮らしてはいません。ヨセフは、マリアが他の人と関係を持ったのだと考えたのです。「正しい人」とは、律法を忠実に守る人のことです。律法で姦淫の罪は、石打ちの刑(申命22:23~24)と定められていました。同時にヨセフはマリアを愛していましたので、このことを公にすることを望みませんでした。そこでひそかに縁を切り、この地から立ち去らせようかとも考えました。ヨセフは苦悩の中、夜を過ごしていたのです。

 するとヨセフの夢の中に天使があらわれ、20~21「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げ、その出来事は、かつて預言者イザヤ(イザヤ7:14)が告げた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」の実現であると伝えたのです。ヨセフは、眠りから覚めると、妻を迎え入れ、生まれた男の子にイエスと名付けたのでした。

 

 はじめに「あらしのよるに」の紹介をいたしました。ヤギは自らの正しさ(やつらから見たら、わしらはただのエサだ)があり、同じくオオカミは自らの正しさ(やぎはおれたちのエサだろうが)があります。決定的に相容れないもの同士が、友だちになる。自分たちの欲望や正しさが、これを阻もうとするが、相容れぬものが一緒にいられる、そんな世界があることを望みみたのでした。メイとガブの合言葉は「あらしのよるに」でありました。相容れなかった者どうしが、「あらしのよるに」友だちになれたのです。

 ヨセフは、嵐を思わされる夜、主の天使と出会い、自分の正しさや愛の限界を知り、示されたことにすべてを委ねようといたしました。ヨセフは、マリアの姦淫を疑い、心の中があらしのような状態であった時に、主の天使と出会い、彼の正しさや愛が砕かれて、一緒にいることができるようになりました。その合言葉は、「イエス・キリスト、インマヌエル、アーメン」(救い主イエスは、我々と共におられる、それは真実です)という意味です。イエスこそ私たちと共にいてくださる救い主、この方以外に私たちの罪の赦しはないと信じるならば、マリアより生まれた主を信じていることになるのです。一緒にいることの出来ない者が、イエス・キリストによって一緒にいることができる、この新しい地平を私たちも見たいものです。

2023. 12. 3 アドベント第1主日(降誕前第4主日) 礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。

                                   (イザヤ書52章10節)

            

      「神の救いを仰ぐ」       深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。

                           (イザヤ書52章10節)

            「神の救いを仰ぐ」       深見 祥弘

 アドベント第一主日を迎えました。新しい時の始まりです。その象徴として、キャンドルに一つの光が与えられました。また、教会で用いられる典礼色が、紫に変わりました。典礼色の紫は、悔い改め、節制、待望、祈りを意味します。「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリント16章22節)と祈りつつ、悔い改めの思いをもって、一つの光を見つめます。

 

 子どもの頃、手塚治虫の「鉄腕アトム」を見ながら、未来は科学の時代、希望に満ちた豊かな時代が実現すると思っていました。また二つの世界大戦を経験した20世紀が終わる時、私たちは21世紀が平和であると信じるものでありました。しかし私たちの思いや願いは、まもなく砕かれてしまいました。国々は覇権を争い、戦争や紛争は止みません。人々の人権は侵害され、暴力がまん延しています。温暖化による地球環境の問題は、年ごとに深刻さを増しています。私たちは、今、希望に満ちた豊かで平和な時代ではなく、しだいに劣化し退化しつつある世界にいるのです。

 

パレスチナ自治区ガザ地区の状況は、悲惨です。空爆と地上での戦闘によって、ガザ地区では1万3000人以上の人々が亡くなりました。水も食料も薬も電気も燃料も通信も断たれ、人々はがれきの中で飢えと寒さと恐怖に耐えています。学校や病院には、家を失った人々、病人やけがをした人々、そして子どもたちもいます。イスラエル軍は、病院や学校がハマスの拠点となっているとして、戦闘行為が禁じられている場所にもかかわらず攻撃し、多くの死傷者がでています。11月20日、シファ病院にいた新生児31人の内、28人がエジプトに、3人がガザ地区南部の病院に搬送されたと報じられました。この子どもたちは、感染症にかかっていたり、脱水症状になっていたり、体温低下の症状も見られました。ラファ検問所を通ってエジプト側に来た新生児たちは、医療スタッフにより保育器に入れられました。親と一緒にエジプトに来た子もいますし、すでに親が亡くなった子もいます。

救い主の誕生を聞いたとき、ヘロデ王はベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を虐殺しました。その際イエスは、両親に連れられてエジプトに逃れたことを思い起こします。

 

 今朝のみ言葉は、旧約聖書イザヤ書52章です。イザヤ書は、一人の預言者イザヤによって書かれたものではありません。イザヤ書は、三つに分けられます。第一イザヤ(1~39章)は、バビロン捕囚前に南ユダ王国において働きをした預言者の言葉を、第二イザヤ(40~55章)は、(バビロニアによりエルサレムは破壊され、南ユダ王国が滅亡した後、)バビロンの捕囚民と共にあって働きをした預言者の言葉を記しています。さらに第三イザヤ(56~66章)は、帰還後のエルサレムにおいて働きをした預言者の言葉です。

今朝のみ言葉イザヤ書52章は、第二イザヤと呼ばれる預言者が、バビロンにおいて捕囚民に語った言葉です。第二イザヤは、ペルシャ王クロスによってバビロニア帝国が滅亡し、解放されて祖国に帰還することができるので、悔い改めて備えをするようにと民に伝えました。

 バビロンにおいて「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。」(51:9)と解放を祈ってきた民は、ついに「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオン(エルサレムの民のこと)よ。」(52:1)との主の言葉を聞きました。そして主による裁き(主に対する民の背信の罪のため)が終わり、民は贖われ解放されるので、捕らわれの身にまとわりつく塵をはらい、縄目を振りほどき、輝く衣をまとうように命じられました。「『見よ、ここにいる』という」(6)お方、「わたしたちの神の救い」(10)というお方、「屠り場に引かれる小羊」(53:7)というお方、そして「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成した」(53:12)お方によって、人々は贖われるのです。

 次に主は、「あなたの神は王となられた」(7)、「主がシオンに帰られる」(8)と、廃墟となっているエルサレムとそこに残されている人々に告げよと命じられます。主が王としてエルサレムに帰還し、平和と救いと喜びをもってその地を治められることは、民にとってはこの上ない良い知らせであります。すなわち主が、廃墟となっているエルサレムにおいて、その御腕の力をふるい、輝く衣をまとう聖なる都に再興することによって、世界中の人々が神の救いを仰ぐことになるからです。

 いよいよ主は、捕囚の民に出発の命令を出します。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ」(11)。バビロンによって奪われていた神殿の祭具が返還されました。帰還に際し、祭具を担い持ち運ぶ祭司たちは、身を清め、ふたたび汚れたものに触れることのないように準備を命じられます。民に対しても、急ぐ必要はないので十分に準備をするように命じられました。主、イスラエルの神が、先に立ってその道を導き、またしんがりを務めて守ってくださるので、民は従って歩めばよいのです。

 次の53章には「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった。」(53:12)という身代わりの贖いの信仰を見ることができます。旧約聖書においては、まず動物の犠牲による贖罪(レビ記1~7章に見られる)にはじまり、モーセ(32:32)らにみられる執り成しの祈りを経て、イザヤ53章の贖罪信仰に至ります。キリスト教においてはこの贖罪の信仰が、神のひとり子イエスの十字架における贖罪死へと引き継がれます。神の愛は、罪人を赦すことを求めますが、それでは神の義が成りません。神は神の小羊であり真の人である、神のひとり子イエスを、義をもって十字架で裁き、復活させ、イエスを救い主と告白する信仰によって、人々を悔い改めに導き、罪を赦し、救いを与えてくださるのです。

 

 ガザの惨状を見るとき、私たちは絶望をしか見出すことができません。しかし私たちは、神がその地を心にとめてくださり、良い知らせを伝える者が、平和と救いの到来を告げる時を待っています。平和と救いの到来は、「見よ、ここにいる」(インマヌエル)と言われるお方によって実現します。すなわちガザの病院の幼子や飢えと寒さと恐怖の中で震えて人々のところに、また人質となっている人々のところに、飼い葉桶の御子の姿で来てくださるのです。主は、そのひとり子イエスを十字架にかけ、人々の罪を贖い、パレスチナの人々もイスラエルの人々も、そしてすべての人が、神の救いを仰ぐ日を来たらせてくださるのです。

 「そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然に奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。」(5~6)

 逃げてきた地でガザの人々が守られますように。人質となっている人々が家族のもとに帰れますように。戦いが終わり、欠乏が満たされますように。廃墟となったガザが、世界の人々の支援によって輝く衣をまとう都として復興し、住民が帰ってきますように。パレスチナとイスラエルを隔てる壁が取り除かれ、和解と平和がこの地に成りますように。この良き知らせを聞く人々が、共に喜び歌い、すべての人が神の救いを仰げますように。

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