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≪次月 12月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 12.28 降誕節第1主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった。」

(マタイによる福音書2章23節)

 

         「真(まこと)に人」   仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われたことが実現するためであった。」

(マタイによる福音書2章23節)

 

            「真(まこと)に人」      仁村 真司

これもクリスマスの出来事に含まれるのか、それともクリスマスの “余

波”とでもいうべきことなのでしょうか。 16節・・・

…ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。

そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレ

ヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、 一人残らず殺させた。

神の御子、救い主がお生まれになった。なのに、それにまつわって、どうしてこんな悲劇が引き起こされるのか・・・。「メリークリスマス!」 等と言っている場合ではない。なのですが、これは史実ではありません。

私は小学生の時そうと知って何というかホッとしたのをよく覚えていますが、ではどうしてマタイ福音書はクリスマスの出来事をこれ程暗く悲惨な物語として伝えているのか・・・。そしてまた、私たちはこのような聖書の記述をどう受け止めるのか…。今回はこういったことを考えてゆきます。

  1)

釈迦が生まれとき、一方の手で天を指し、一方の手で地を指して七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという話がありますが、“偉人・聖人の伝説”程のものではなくても、事実か否かは兎も角、自分が生まれたときの“物語”を聞かされたという人は多いのではないかと思います。人が人生の重大事、嬉しいことだけではなく大きな悲しみや苦しみを受け止めるのに、物語や物語ることは欠くことの出来ないものなのかもしれません。

長崎の潜伏キリシタン・隠れキリシタンに伝わる『天地始之事』という書物、物語があります。元は宣教師から伝えられたのであろう聖書の物語なのですが、長期間口伝されてゆく内に随分と違った話になっています。

例えばアダムとエバが「禁断の木の実 (悪の実)」を食べて楽園喪失というとき。二人は神に何とかもう一度楽園 (天国)の快楽を受けさせて欲しいと願います。すると、「天帝 (神)きこしめされ、さもあらば、四百余年後悔すべし。其節はらいそ (天国) に、めしくわゆるなり」、つまり罪は (四百余年と長年かかるにしても) 赦され、無くなるということです。

露見すれば自分も仲間も無事ではいられない。およそ二百五十年にわたる禁教下で隠れて信仰を守り続けるには、絵踏みという罪を定期的に犯さざるを得ない。そのような状況を受け入れて生きるしかない人々には、罪赦される物語が必要で、支えでもあったでしょう。ですから、「正統な信仰を捨ててしまった」等と見るのは全くのお門違いだと私は思います。

ただ、罪が無くなるのであれば 「原罪」は在り得ません。そうすると、イエスが十字架についたのは人々の罪の贖いのためという考え方も出て来なくなります。ではイエスは何故十字架につくことになるのか...。

『天地始之事』では、ベツレヘムが訛った「ベレンの国」の王様、ヘロデが訛った「ヨロウテツ」が、キリストが生まれたということで、二歳以下ではなく七歳までの子供を全部殺してしまう。それを見て神がイエスに「お前のためにこれだけ子供が殺される。これだけ子供が殺されたら、お前はもう天国へ帰って来られないかもしれない。だからお前は十字架について苦しんで死ぬことによって自分の罪を贖って天国に帰って来ることになるだろう」と、そういうことから十字架につくことになります。

正統とされる教義・教理からすれば「これはいくらなんでも」という話ではありますが…。戦争や災害、事故、事件、虐待や迫害等に遇いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人たちが亡くなったのに自分だけが助かったことに対してしばしば罪悪感 (サバイバーズ ギルト) を抱いて、自分を責めたり苦しむことがあります。苛酷な状況を生きる、生き抜かなければならなかった人たちの心の動き・働きに結び付いてこのような話になった、そういう面もあったのではないだろうかと私は考えています。

  2)

マタイ福音書のイエスの誕生物語は旧約聖書・ユダヤ教のスーパースター、モーセの誕生物語が下敷きになっています。

出エジプト記では「(イスラエル人の) 生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほおり込め」というエジプト王の命令が出されていた時にモーセは生まれたとされていますが、一世紀にはそもそもこの命令はモーセを殺すことを目的としていたとされる、その他にも多くの点でマタイのイエス誕生物語に重なる「拡大版モーセ誕生物語」が流布していたようです。

マタイ福音書は、イスラエルの人々をエジプトから救い出したモーセの誕生に擬えることによって、イエスの誕生を神の子の降誕とし、自分たちを導き、自分たちが信じ従うイエスはモーセを遥かに超える、全ての人々を救うキリストであると示しています。そして、それだけはなく・・・。

マタイ福音書が記されたと推定される後80~90年頃は、後70年にローマ

によってエルサレムの町全体とともに神殿も破壊され壊滅状態になったユダヤ教が必死になって建て直しを図っていた時期と重なっています。

そんな時にマタイたちキリスト教徒は、よりによってローマ帝国の極刑、 十字架刑によってなす術もなく殺されたイエスがキリスト、神の子だと主張している。ユダヤ教側の怒り、憎しみは大変なものだったはずです。マタイたちは厳しい弾圧迫害を受けていました。その苦しみ、痛み、悲しみが、暗く悲惨なマタイ福音書の降誕物語に現れている。とすれば、この世の圧倒的な力が生まれたばかりのイエスを殺そうとしている、イエスをキリストと信じる私たちをよってたかって滅ぼそうとしている。しかし、イエス・キリストは死なない、私たちは滅びない…。

マタイ福音書が伝えるイエスの誕生、神の子の降誕は困難に在るキリスト教徒を支え導く物語でもあったと考えられます。

  3)

では今、私たちはどう受け止めるのか。今日の箇所にあることは史実ではないです。それにヘロデ王は実際に酷いことを沢山したのですが、だからといって、やっていないことまでやったことにするのは良くないです。

しかしながら、為政者や権力者たちの思惑、野望によるのか不安によるか、 その強大な力によって、一顧だにされることもなく、多くの人々、子どもたちの生活や命が塵のように吹き飛ばされ、奪われたという史実は枚挙にいとまがありません。そして今の事実としても繰り返されています。

また、生還できたとしても、心にも体にも癒し難い傷を負いその後も深い苦しみの内に在り続ける人たちがいます。このような人たちは、『天地始之事』の「これだけ子供が殺されたら、お前は十字架について苦しんで死ぬことによって自分の罪を贖って天国に帰ってくることになるだろう」と言われたイエスと重なるのではないか...。

先程言いましたように、マタイ福音書はイエスの誕生を神の子の降誕として、つまりはイエスはこの世においてある時点で神の子になったのではなく、 生まれながらにして神の子であると示しています。

「しかし」と言うべきか、「それと共に、同時に」と言うべきか…私は今日の箇所から示されるのは、イエスが立ちも歩きも話せもしない、文字通りの、当たり前に無力の“人の子”として、私たちと同じ病み得る、傷つき得る心と体をもって、この世に生まれて来た。そしてこの世に、この世の人々の様々な思惑に曝されたということだと思います。

マタイ福音書は、イエスの十字架上での死に際して「そのとき、神殿の垂れ幕が、…真っ二つに裂け… 地震が起こり、岩が裂け・・・」と数々の天変地異が起こり、それを見た百人隊長らが「本当に (真に)、この人は神の子だった」と言ったと伝えています。

真に人。真に神。これがマタイ福音書の示すイエス・キリストです。   

2025. 12.21 降誕前第1主日(クリスマス)礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。            (ルカによる福音書2章10~12節)

 

   「闇を見つめる者に光」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。            (ルカによる福音書2章10~12節)

 

            「闇を見つめる者に光」      深見 祥弘

 クリスマスおめでとうございます。神の御子イエス・キリストの誕生を共に祝うことができ感謝いたします。皆さんにとってこの年は、どんな日々であったでしょうか。平穏な1年でしたと答えられる方もおられるでしょうし、いろんな意味で大変でしたと言う方もおられることでしょう。御子の誕生を祝うこの時が、労いと平安に満たされることを願います。

 先日、この年をあらわす漢字に「熊」という字が選ばれたと報じられました。全国各地の人里に熊が出没し、襲われて亡くなられたり怪我をされたりする方が出ました。また農作物や家畜に被害が出たり、時には家や店に入り込んだりもして、もし熊に遭遇したらどうしようかと人々に不安や恐れを与えました。

またパンダ(熊猫)が中国に帰った年でもありました。貸与期間の終了が理由ですが、その後、私たちの国と中国との関係が悪化しましたので、再貸与にはなっていません。関係の悪化によっていろいろと影響が出ていて、これからどうなるのかと不安や恐れを感じています。

 

 イエスの降誕物語を読んで、気づかされることがあります。それは降誕の出来事に関わった人々の多くが、不安や恐れを覚えたことです。 

 祭司ザカリアが神殿の聖所で祈りをささげていると、天使ガブリエルがあらわれ、彼は恐怖に襲われました。さらに天使が、「恐れることはない。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と告げた時、彼は不安を覚え「何によってそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えました。

 マリアは、天使ガブリエルより「恐れることはない。…あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と告げられた時、戸惑いや恐れを感じ「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と答えました。また夫ヨセフは、婚約者のマリアが身ごもっていることを知ると、ひそかに縁を切ろうとしました。しかし彼の夢に現れた天使ガブリエルは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げました。

 羊飼いたちが夜、羊の群れの番をしていると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らすと、彼らは非常な恐れを感じました。天使は「恐れるな。…今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。…あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」と告げました。

 ユダヤの王ヘロデは、東の国の博士たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」との言葉に不安を抱きました。そしてこのヘロデ王を見て、エルサレムの人々が不安を抱いたのでした。

 

 このように御子イエスの誕生に関わった人々が、恐れや不安を覚えたのはなぜでしょうか。それは、この出来事によって、人々の生活が中断し、それぞれにこれまでの生き方に変化を求められたからではないでしょうか。

 ザカリア・エリサベト夫妻は、長年、子どもが与えられることを願っておりましたが、歳を重ねるにつれてその願いをあきらめ、今では最後まで二人で平穏な日々を過ごしたいとの思いでありました。ところがその生活は中断されることとなりました。また、ヨセフ・マリアもこれから二人で生活を築いてゆこうとしていましたが、その願いは中断されてしまいました。  

羊飼いたちは、天使の来訪によって羊の群れの番を中断することとなりましたし、東の国の博士たちは、不思議に輝く星の出現によって、東の国での働きを中断することとなったのです。

 

 ところでこの神の中断は、神の愛の業でありました。始まりは祭司ザカリアが聖所で「イスラエルを憐れんでください」と祈ったこと、この祈りを神が聞いてくださったことによります。このイスラエルの人々への憐みは、ザカリア・エリサベトの子ヨハネによって準備がなされ、ヨセフ・マリアの子イエスによって実現いたします。この福音が、羊飼いに、東の国の博士に、ヘロデ王に、そしてエルサレムの住民に伝えられることとなりました。

 

 そしてこの中断を受け入れ、ベツレヘムに飼い葉桶の御子を訪ねて旅をし、礼拝した人々(羊飼いたち、東の国の博士たち)は、恐れや不安が取り除かれ、この御子に大きな喜びを見出し、これまでとは違った道を歩み始めます。この人たちは救い主イエスと共に歩む生活を始めたのです。博士たちが、「ヘロデのところへ帰るなと夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とあるとおりです。

一方ヘロデ王は、御子誕生の知らせを聞いても、中断を望まず御子を訪ねませんでした。そのことで彼の内に生じた小さな不安が、やがて大きな不安や恐れ高ぶりとなり、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず虐殺することに至りました。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

天使がこう告げると、羊飼いたちは羊の群れの番を中断し「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と言って出かけて行きました。そしてその子を探し当てると、この飼い葉桶の御子が自分たちの救い主であることを知り、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのでした。

 

 人々に対するヘロデ王の支配、ユダヤの国に対するローマ帝国の支配、今を生きる私たちに対するこの国とこの世界の支配は、その大義のために、一人ひとりの「主よ憐み給え」との祈りを押しつぶしながら、それを実現しようといたします。それは人々に、さらなる恐れと不安を与えます。

しかし神の愛の業である御子イエスの誕生は、ザカリア・エリサベトの祈り(あきらめていた子が与えられること)、ヨセフ・マリアの祈り(闇を思わせる中に光を見出すこと)、羊飼いの祈り(救われない者とされていた自らの救い)、東の国の博士たちの祈り(真理である御方、まことの王を見出すこと)、こうした一人ひとりの祈りをむなしくすることなく、むしろその祈りを実現することによって、民全体の救いを実現いたします。

 

 今、主の天使がこの場にいる私たちに近づき、栄光でつつみ、こう語りかけてくださいます。「恐れるな。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 私たちは、ヨセフとマリア、羊飼いたち、東の国の博士たちのように、それぞれに生活の場を一時離れ、ここに来ました。ここで見出した飼い葉桶の御子は、労いと平安に満ちています。

私たちは、この憐みを実現してくださった神を礼拝し賛美しながら、御子イエスと共に救いの道を歩み始めましょう。飼い葉桶の御子は、わたしたち闇を見つめる者の光であるのです。 

2025. 12.14 降誕前第2主日(アドベントⅢ)礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」                       (ルカによる福音書1章42~43節)

 

   「わたしを幸いな者と言う」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」                       (ルカによる福音書1章42~43節)

 

           「わたしを幸いな者と言う」     深見 祥弘

 先週の礼拝で、天使ガブリエルが聖所で奉仕する祭司ザカリアを訪れ、年を取ったザカリアと妻エリサベトに男の子が生まれることを告げ、驚きや戸惑いを与えたことをお話しました。

 エリサベトに子が宿って6ケ月目、天使ガブリエルはナザレにいたマリアを訪れて言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」マリアがこの言葉に戸惑いをおぼえると、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」と言いました。すなわちその子が、預言者ナタンがダビデに告げていた救い主であると告げたのです。それは、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(サムエル記下7:12~13)に示されています。 マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えると、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。…神にできないことは何一つない。」と告げました。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えました。

 この時、マリアは天使の言葉にうながされ「お言葉どおり、この身になりますように」と答え飛躍をいたします。飛躍とは、主に委ねて人の思いを越えた状況に飛び出ることです。マリアは、ダビデ王の子孫ヨセフと婚約をしていました。マリアも「あなたの親類のエリサベト」とあるように、大祭司の家系アロン家と関わりがありました。さらにマリアは、ダビデの子孫に救い主が生まれることを知っていました。まさか自分がヨセフと結婚する前に、聖霊によって救い主を身ごもるとは思ってもいませんでしたが、マリアは、主に委ねることを決心したのです。これがマリアの飛躍です。

 マリアの婚約者ヨセフは、マリアが身ごもっていることを知ると、ひそかに縁を切ろうと決心しました。天使ガブリエルはそんな彼の夢に現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20~21)と告げました。ヨセフは眠りから覚めると、彼もまた飛躍し、マリアと胎の子を迎えいれ、生まれた子にイエスと名付けたのでした。

 

 今朝の御言葉は、ルカによる福音書1章39~56節です。ここには、マリアがユダの山里にいたエリサベトを訪問したときのことが書かれています。マリアはザカリアとエリサベトの家を訪れ、エリサベトに挨拶をいたしました。その時エリサベトは、6ケ月になる胎の子ヨハネが喜びおどるのを感じて、マリアの胎の子主イエスの訪問を知り、聖霊に満たされて言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 エリサベトは、彼女の胎内でヨハネがおどったことで、イエスの訪問を知り、聖霊の働きによってイエスを「わたしの主」と告白いたしました。また彼女は、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼びました。年をとったエリサベトが若いマリアをそのように呼び、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」、本当ならばわたしが訪問をしなければなりませんのにと言いました。さらにエリサベトは、自分に今起こっていることが主の救いの業に深く関わることであることを知り、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言って委ねたのでした。エリサベトもこの訪問と出会いによって飛躍をしたということです。

 こうしてエリサベトはマリアを親類の娘ではなく、「わたしの主のお母さま」として迎えることができました。マリアもまた、エリサベトと胎の子ヨハネによって、自身に宿るイエスを知り、聖霊の働きによって「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。」と、心から主を賛美することができたのです。

 私たちが使っている新共同訳には、「主のはしため」(38、48)という言葉が用いられています。2018年に出版された聖書協会共同訳は、「主の仕え女」(38、48)という言葉に改訳をいたしました。「はしため」(端女・婢)という言葉は女性の召し使いの古語で、「はした」は完全でないものを意味し差別的な表現と判断されたのでしょう。ギリシャ語では「ドゥーレー」という言葉で、「ドゥーロス」(奴隷)の女性形です。共同訳の「仕え女」は、人に仕えて身のまわりの世話をする女性のことで僕とは限りません。ここで注目したいのは、マリアが「わたしは主のはしためです」と言っていること、すなわち「主にお仕えする僕である」と自覚的に語っていることです。「身分の低い、この主のはしため」(48)という言葉もまた、世あって身分は低いが、わたしは「主のはしため」であり、主以外にわたしが僕として仕える者はいない解き放たれた自由な者であるとの告白がなされています。

 

 天使ガブリエルの訪問は、エリサベトとザカリア、マリアとヨセフで終った訳ではありません。ガブリエルの訪問は、主の憐みによるものでありました。祭司ザカリアが聖所の中で香をたきながら「なんじの民、全イスラエルの平和といつくしみと祝福、恵みと憐みを与えたまえ」と祈りをささげたことに対する神の応答でありました。

 ここで注目したいのは、マリアが「その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(50)と歌っていることです。つまり主を畏れる者であるわたしたちも、主の憐み (永遠の命と神の国)をいただけるということです。わたしたちもまた「神にできないことは何一つない」(37)という言葉にうながされ、マリアのように「お言葉どおり、この身になりますように」(38)とお答えし、主の僕として飛躍しお委ねしたいものです。

 

 教会では、「恐れることはない。あなたは恵み(主イエス)をいただいた。」(30)と集う者に呼びかけがなされます。また教会では、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(45)と言い、相互に分かち合いをいたします。マリアのエリサベト訪問がそうであったように、私たちの交わりが、互いの内に主が宿っておられることを確認し、その恵みや困難を分かち合うことを通して、共に信仰を告白し賛美することへと導かれるように願います。そうするならば主の僕として生き、世のあらゆるものから自由であるわたしを、「今から後、いつの世の人も 幸いな者と言うでしょう。」(48)。 

2025. 12.7 降誕前第3主日(アドベントⅡ)
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< 今 週 の 聖 句 >

彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

      (マルコによる福音書1章7~8節)

 

        「主の道を整える者」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

                   (マルコによる福音書1章7~8節)

 

            「主の道を整える者」        深見 祥弘

 アドベント第二の主日を迎えました。「アドベント・クランツ」に二つ目の光が与えられました。先週礼拝で「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語アドベントゥスに由来するとお話をしました。それは、二千年前のキリストの到来を記念するクリスマスを迎える準備のときであるとともに、第二の到来であるキリストの再臨にも心を向けて、悔い改めつつ主の到来を待ち望むことです。また「クランツ」は、古代において「勝利のしるし」で勝者に与えられました。「アドベント・クランツ」は、来るべき主の勝利を証しするもの、すなわち主イエスによってわたしたちの命が完全なものとされること、すなわち永遠の命のしるしであります。さらにわたしたちの不完全な愛が主イエスによって全き愛とされるしるしです。わたしたちは今、アドベント・クランツの光を見つめながら、主の勝利を信じ、永遠の命への希望に生きることができているか、そして隣人への愛に生きることができているかを顧みるひと時を過ごしましょう。

 

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書1章1~8節です。ここには、神の子イエス・キリストが世にあらわれる前になされた、バプテスマのヨハネの働きを書いています。この御言葉から新たに示されたことがありました。それはこの箇所が、旧約聖書であるということです。2節に「預言者イザヤの書にこう書いてある。」とありますが、それだけではありません。

 

 まず旧約聖書の最初の書、創世記が出てきます。1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。「初め」(アルケー)で思い出すのは、創世記1章1~2節「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」という言葉です。マルコ福音書の「初め」は、これからイエス・キリストの話がはじまりますという意味ではありません。この「初め」は、神が神の子イエス・キリストによって喜びの出来事(福音)をはじめられます、新しい創造がはじまりますと告げているのです。神によって創造された天と地は、人の罪によって荒れ野に変えられました。そのことに心を痛められた神が、神の子イエス・キリストをお遣わしになられ、もう一度天地創造を行おうとしておられます。マルコ福音書は、1節の言葉によって、これが第二の創世記であると宣言をしているのです。

 2節に「預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」とあります。でも、かっこで結ばれている2節は、イザヤの言葉ではありません。出エジプト記23章20節の言葉、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わし、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。」です。これは、主がエジプトを脱出し荒れ野を旅するイスラエルの人々に語った言葉です。「使い」とは、モーセでありヨシュアであります。彼らが道を整え、人々を約束の地カナンに導き入れると言うのです。

 次に3節、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」は、イザヤ書40章3節「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」です。イザヤ書40章は先週礼拝でお話した第二イザヤで、捕囚地バビロンで預言者として働きをいたしました。彼は、捕囚民の罪を指摘し悔い改めを叫びますが、同時に悔い改めによって捕囚生活からの解放と故国への帰還をも預言いたしました。

 さらに2節の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」は、旧約聖書最後の書マラキ書3章1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」の言葉でもあります。マラキは、これまで神が預言者によりイスラエルの民に約束されたことを思い起こしながら、必ず神の救いが実現すること、それは使者である者によって主の道が整えられ、その後救い主がおいでになられると預言をいたしました。そしてマラキの預言は、使者であるバプテスマのヨハネと優れた方主イエスによって実現することになります。

 

 バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを授けました。これまでヨルダン川で行うバプテスマは、外国人がユダヤ教に改宗する際に行われました。ユダヤの人々はというと、毎日水で身を清めることを習慣としていました。ところがバプテスマのヨハネは、この時、ユダヤの人々に対しても外国人と同じように、ヨルダン川で一度限りの悔い改めのバプテスマを受けるようにと呼びかけたのでした。それはかってイスラエルの人々が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り約束の地に入った、その時のことを思い起こす(ヨシュア記3章)ためでありました。荒れ野を40年間旅してきたイスラエルの人々が、数々の試練を経験するなかで悔い改めに導かれ、ヨルダン川を渡り、約束の地に到着したことを思い起してほしいと願ったからです。救い主の到来を前にして、人々がヨハネに導かれてヨルダン川の水をくぐり抜けてバプテスマを受け、救いの恵みをいただくために整えられるのです。

  またバプテスマのヨハネの姿は、かっての預言者エリヤの姿「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」(列王記下1:8)を思い起させるものでした。毛衣を着、腰に革帯を締め荒れ野の預言者として迫害の中で働きをしたエリヤ、救い主がおいでになる前に再びあらわれると信じられていたエリヤでした。ですから人々は、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」るヨハネの姿を見て、エリヤが再来したと思い、救い主の到来を予感したのでした。

 バプテスマのヨハネはこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(7~8) この言葉もまた預言者エゼキエルの言葉を覚えてのものでした。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。…わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。」(エゼキエル36:25~26) 天地創造が、神の言と霊によって行われたように、これから行われる第二の天地創造も、言であるキリストと新しい霊の働きによってはじまるのです。

 

 はじめにマルコ福音書1章1~8節は、旧約聖書であると言いました。

わずか8節の中に、幾つもの旧約聖書の言葉が覚えられていました。それは、創世記、出エジプト記、ヨシュア記、列王記、イザヤ書、エゼキエル書、マラキ書でありました。すなわち律法、歴史書、預言書、これらに示された神のご計画が、マルコ福音書1章に示されていたのです。神が計画しお遣わしになられたバプテスマのヨハネと神の子イエス・キリスト、この二人によってわたしたちに新しい命が与えられ、荒れ野が新しい天地・神の国(1:15)に変えられるのです。「アドベント・クランツ」の光を見つめながら、その時を待ち望みましょう。  

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