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≪次月 9月(2025)礼拝説教要旨 前月≫

2025. 9.28 聖霊降臨節第17主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐものとなさったではありませんか?

(ヤコブの手紙2章5節)

​  「憐れみは裁きに打ち勝つ」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。

                 (ヤコブの手紙2章5節)

 

          「憐れみは裁きに打ち勝つ」     深見 祥弘

 NHKの朝ドラ「あんぱん」の放送が終わりました。毎朝、楽しみに見ていたので、少々寂しくもあります。朝ドラを見て「アンパンマン」が世に出るまでに、多くの苦労があったことを知りました。アンパンマンは、ボロボロのマントを羽織り、お腹をすかせている人の所に行き、あんぱんでできている顔を食べさせます。帰りは半分無くなった顔で、よたよたと空を飛んで帰ります。でもアンパンマンは、ジャムおじさんに新しい顔を作ってもらうと、再びお腹をすかせている人のところに飛んでいきます。

 作者やなせたかしさんの言葉です。「子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては、正義は行なえませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば、物価高や、公害、餓えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。アンパンマンは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、餓える人を救います。それでも顔は、気軽そうに笑っているのです。さて、こんな、アンパンマンを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。」(やなせたかし「アンパンマンの遺言」P194、岩波書店)

 朝ドラの主人公『朝田のぶ』のモデル池田のぶさんは、クリスチャンです。1927年4月17日、母池田とめさんが日本基督教団高知教会で洗礼を受けた際、のぶさんは、幼児洗礼を受けました。(教団新報、7月12日号)   

 わたしはアンパンマンの姿とイエスさまの姿を重ねて考えました。イエスさまは、スーパーヒーローではありません。ボロボロの衣をまとい、貧しい人のところに行って、ご自分の体であるパンを与えてくださいます。イエスさまは権力のある人によって十字架に架けられ死んでも、復活して飛び立ちます。世に英雄とよばれる人は多くいますが、その人々の築いた正義は、やがてひっくりかえります。しかし、決してひっくり返らない正義(愛)がイエスさまにはあるのです。伝道者たちは、イエスさまが救い主であることを知らせ、人々を導くために大変苦労をいたしました。同様にアンパンマンの正義を人々に知らせるためにも多くの苦労があったのです。 

 

 御言葉はヤコブの手紙2章1~13節です。ここには「イエスを信じること」と「人を分け隔てること」は相容れないと述べられています。1章1節に「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」とあります。この手紙にはイエスの実の兄弟ヤコブ(ゼベダイの子ヤコブではない)の名がつけられています。しかしこの手紙はヤコブより後の時代、AD100年頃シリアにおいて、「教師」と呼ばれる指導者によって、離散しているユダヤ人キリスト者に向けて書かれました。

 この頃教会において富める者と貧しい者が、その身なりなどによって異なる扱いを受けることがありました。集まりに金の指輪をはめた立派な身なりの人が入ってきたら、特別に目を留めて「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、汚らしい服装の貧しい人が入ってきたら「あなたはそこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言ったのです。

 ユダヤ人キリスト者である「教師」は、同胞のキリスト者に対し、「あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい」(レビ19:15)と律法に書かれていることを示します。さらに「教師」は、神があえて貧しい人々を選んで教会に連ならせ、この人たちの信仰を富ませ、神の国に属する者とされたことを教えています。過ぐる日イエスは、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と教え、このために身を献げられました。

 同時に「教師」は、この神の選びとイエスの教えにもかかわらず、教会が富んでいる人にへつらい、貧しい人をないがしろにする事実を指摘しています。まず「教師」は、これまで教会や信者たちを「ひどい目に遭わせ」、「与えられた尊い名(イエス・キリストのこと。キリスト者はその名によって洗礼を受けた)を冒瀆し」たのは、富んでいる者たちではなかったかと述べます。次に「教師」は『隣人を自分のように愛しなさい』(マタイ19:19)という一句に律法全体が集約されるが、あなたがたが「人を分け隔て」しているなら有罪とされると指摘します。さらにあなたがたは「自由をもたらす律法(イエスの言葉と行為)」によって「いずれ(終末の時)は裁かれる者」になるけれど、その際神は、憐みのない者には憐みのない裁きを下し、憐み深い者には憐みを与えてくださる、「憐みは裁きに打ち勝つのです」と述べています。

 

 ここで「神の公平」について考えてみましょう。先ほども紹介しましたが、旧約では「あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者にはおもねってはならない」(レビ19:15)と教えました。しかしこの律法の公平は、イエス・キリストにより、その意味することが変わりました。5節に「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐものとなさったではありませんか」とあります。神は、イエス・キリストにより「あえて」貧しい者を偏りかばわれるのです。神の偏愛です。この神の偏愛にはどのような意味があるのでしょうか。人は、誰もすべての律法を守ることなどできません。なぜなら神が律法を与えたのは、人がそれを完全に守ることのできない存在であることを教えるため、すなわち全ての人が罪人であることを教えるためでありました。そうしたことの中で、神があえて貧しい人を選んで約束の国を受け継ぐ者とされたのは、イエス・キリストを信じるならば誰でも神の憐みをいただき、約束の国にまねかれることを教えるためです。富める者も貧しい者も、唯一、イエスを救い主として信じることにより神の国が与えられる、ここに神の公平があると言っておられるのです。神は、裁かれなければならないあなたがたを憐れんでイエスを与えてくださり、このイエスへの信仰によって、富める者も貧しい者も救いに導かれます。イエスの憐みは、裁きに打ち勝つのです。

 先ほどアンパンマンをイエスに重ねることができると言いましたが、同時にアンパンマンの姿は、イエスの憐みをいただいたわたしたちが、憐みに生きる姿とも言えます。けっして格好よくないわたしたちですが、餓えている人がいたら持っているものをさしあげます。それによってわたしたちは痛みや傷を負いますが、イエスの十字架と復活への信仰によって、わたしたちも憐み深くなれるのです。わたしたちは「憐み深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受ける」(マタイ5:7)というイエスの言葉にアーメンと告白し、「憐みは裁きに打ち勝つ」という「教師」の言葉に励まされ、これからも憐み深くありたいと願います。

2025. 9.21 聖霊降臨節第16主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

「しかし神は、 『愚かな者よ、 今夜、お前の命は取り上げられる、 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

            (ルカによる福音書12章21節)

 

「 冷ややかに… 」      仁村 真司教師

< 今 週 の 聖 句 >

「しかし神は、 『愚かな者よ、 今夜、お前の命は取り上げられる、 お前

が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

(ルカによる福音書12章21節)

 

「 冷ややかに… 」      仁村 真司

福音書に記されているイエスの言葉には、 言葉だけが伝わっていて、 それが語られた元々の状況であるとか、イエスはどんな人にどんなつもりで語ったのか等は定かではない、そういうものも多くあるはずです。

ヨハネ福音書にはありませんが、 共観 (マタイ・マルコ・ルカ) 福音書にある沢山の (数え方にもよりますが合わせて四十三の) 譬え話はその殆どが、譬えの部分だけが伝わっていて、 イエスが何を (どんなことを)譬えて語ったのかは伝わっていなかったと考えられます。

そういったイエスの言葉を、 それぞれの福音書を書いた人が 「イエスはこんなつもりで言ったのだろう」、 譬え話ならば 「こういうことを譬ているのだろう」・「こういう教えに違いない」 とそれぞれに考えて、それぞれに伝えています。

一見殆ど同じ言葉・話であっても、 よく読んでみると福音書によって微妙に、時に大きく、 その示す所が違うのは主にこういう事情に拠ります。

  1)

今日の箇所の「愚かな金持ち」 の譬え話 (16~21節)については、 元々伝わっていたのは20節までで、21節の 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」はルカが引き出した (イエスがこの譬え話によって示していると考えた) 「教訓」・「戒め」でしょう。

この後に記されている「烏のことを考えてみなさい」(24節)・「野原の花がどのように育つかを考えなさい。… 栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった」(27節) 等の言葉と合わせて、イエスは「この世の富、自分のために富を積むことの虚しさ」を示し「天に富を積むこと」を説いているとルカは受け止め、そのように伝えているということです。

「愚かな金持ち」の譬え話はルカ福音書にしかありませんが、 「烏のことを考えてみなさい、野原の花がどのように育つかを考えなさい」はマタイ福音書にもあります (マタイ福音書6章26節 「空の鳥をよく見なさい」、28節 「・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」)。 ですが、

これらの言葉によってイエスが説いたとされる教えはかなり違っています。

(マタイ福音書では6章33~34節「・・・神の国と神の義を求めない。…明日のことまで思い悩むな。…その日の苦労はその日だけで十分である。」)

こういう場合、「ではマタイとルカ、 どちらが正しいのだろうか?」等と思い悩むことに然したる意味はないと思います。

イエス・キリストを信じ、 伝えるべく福音書を記した人たちの間で見解が分かれるのは、それぞれが伝える“イエス・キリスト像 (イメージ)”が違うからです。 例えばマタイ福音書が伝えるイエス・キリストは「律法の完成者」です。マタイはイエスの多くの言葉を旧約律法をより厳しく徹底した「新しい律法」「律法の完成形」として受け止めて伝えています。

では、イエスは折々の言葉、一つ一つの譬え話で、何を、どんなことを伝え、また伝えようとしていたのか。「正解」 に至ることは多分出来ない。

でも、多少なりとも、少しずつでも近づくことは出来るかもしれない…。

イエスは難しいことは言っていないはずです。 聞く人たちがわかりやすい、伝わるような語り口だったはずです。 そして確かに伝わり、 巧く言い表せなくても、人々の心・記憶に残った。だから、時間的にも地理的にも遠く離れた今の私たちにも伝わっている…。このことがイエスの言葉を受け止めて、近づいてゆこうとするに際しての道標になると思います。

  2)

人から人への伝達では、言葉や身振り手振りで意識的意図的に「伝える」ことと、自然に 「伝わる」 乃至 「伝わってしまう」こととがあります。

さて、イエスが 「伝える」ことは多くの場合、今日の箇所でも、語っていることは言葉としては平易でわかりやすい。 譬え話の筋も単純で、 特に独創的と言える所もありません。旧約聖書続編 (「アポクリファ」)にも「愚かな金持ち」の譬え話とよく似た、殆ど同じ主旨の記述があります。

生活を切り詰め、 強欲に富を蓄える人もいる。

だが、どんな報いがあると言うのか。

「これで安心だ。

自分の財産で食っていけるぞ」 と言っても、

それがいつまで続くのか知るよしもなく、

財産を他人に残して、死んでいく。

シラ書 [集会の書] 11章18~19節)

死ねば財産は役に立たないということは、古代人でも現代人でも多くの人が珍しくなく普通に思いつくことです。 だからといって 「なんだ、イエスと同じことを言っている人はいくらでもいるんだ」などとガッカリしたり、イエスの言葉から他にはない独自性や独創性を引っぱり出して、 それを向きになって言い立てる必要もないと思います。

同じことであっても、どんな人に伝えられるかによって伝わって来ることが変わるという経験は多くの人にあると思います。 伝える場合には、同じことを伝えるつもりでも、伝える相手によって、伝える状況等によっても、伝え方や伝える内容まで変わる (変わってしまう)こともあります。

ですから、たとえそれが在り来りの言葉であったとしても、イエスが伝えた、聞いた人々に伝わるものがあった…その一つ一つの場面には、一回限りの、再現できない、独自性・独創性があるということです。

  3)

今日の箇所では、群衆の一人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言ったのに対してイエスが「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と断り (13~14節)、そして譬え話を語り出したことになっていますが、ここと15節は譬え話とは別に伝わっていたイエスのエピソード、言葉だと考えられます。従って元々イエスがどんな人々に、どんな状況で、「愚かな金持ち」の譬え話を語ったのかはわかりません。ですから聞いていた人々に語るイエスから伝わったことを想像するのは難しいということになります。

ただ話の内容、その身も蓋も無い結末からすれば、イエスは自分で蒔いたり散らしたり、刈り取ったり集めたりせずに (それをした小作人の苦労や暮らし向きなど全く顧みず)、「豊作だどうしよう」と気を揉んだ挙げ句、さも良いことを思いついたとばかりに大きな倉を建て、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」 と自分に言い聞かせている、このようなある意味で滑稽な、しかしながらこの世の現実においては絶大な力を持っている金持ち (支配する側の人たち) の姿を冷ややかに、素っ気なく語ったのではないかと思います。

13節の 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」については、イエスは律法学者として、あるいは律法学者のように振る舞うことを断固として拒否しているということです。

当時の律法学者は一般の人々への律法教育、 律法に従っての裁判を行っていましたが、これらを通してユダヤ教支配 (律法に従えない人々の疎外、貧しい人々への圧迫等) を社会に行き渡らせる役割を担っていました。

今日の箇所の取り付く島もないような拒絶の言葉、おそらくは冷ややかに語ったであろう譬え話からも、イエス自身が本当に貧しさを生き、虐げられた人々の友となり、 共に生きたことが伝わって来ると私は思います。

そして今はわからない、またはわかった気になっていても、イエスに従って生きようとする中で、 新たに伝わって来ることがきっとあると思います。

2025. 9.14 聖霊降臨節第15主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。

(列王記上3章11~12節)

 

  「聞き分ける心を与えて下さい」  深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。

(列王記上3章11~12節)

 

         「聞き分ける心を与えて下さい」     深見 祥弘

 2019年NHKの番組で、「AI美空ひばり」が新曲を歌って話題になりました。AI(人工知能)が、生前の美空ひばりの映像データを学習して再現したものです。2021年、アメリカで、AIによって故人をデジタル空間に再現するサービスが始まり、中国、韓国に続いて、昨年、日本でも複数の冠婚葬祭事業会社によりこのサービスが始められました。それは生前のインタビュー動画などを基に故人を再現し、故人と会話をすることもできるというものです。

 生成AIの登場で、本人の音声や映像、文書など生前のデータを用いて、本人の言いそうなことを、本人のような口調で語らせることができるようになりました。これによって遺族の喪失感を軽減したり、故人と生前話せなかったことを話したりして、「死者との出会い直し」も可能となるそうです。これらが、「AI故人」の良いところでしょうか。

 反面「AI故人」によって、遺族が死を受け入れるプロセスを妨げられ、現実と向き合うのを難しくする恐れもあります。またカリスマ性のある人物を再生させ、「都合のいい死者」を作り上げ利用することも可能です。現在日本では、AIで故人を再現することを規制する法律はありません。AIによる故人の再現は、遺族の癒しや記憶の継承という側面とともに、多くの倫理的・法的な課題を抱えている現状です。(9/3毎日新聞・論点「AIで故人『再生』、論者:松原仁、中島岳志、吉永京子各氏)

 

 今朝の御言葉は、旧約聖書・列王記上3章4~15節、主がソロモン王に与えた知恵について書いている箇所です。ソロモンは、今からおよそ3千年前に活躍したイスラエルの王です。父ダビデより王位を継承し、イスラエルが最も繁栄した時代の王であり、また統一国家イスラエル最後の王でありました。

 ソロモンは、王になるとエジプトの王の娘を王妃として迎えいれました。

また彼は、ダビデの町エルサレムに、宮殿、神殿、城壁などの造営を計画し、完成を待っていました。これらは、ソロモンの力を示すものでありました。

 しかし最も大切なこととしてソロモンの心を満たしていたのは、父ダビデの遺言でありました。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう。」(2:2~4)

  ソロモンは、父の遺言を心に留め自らの力に慢心することなく、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」(3:3)のでした。

 まずソロモンは、ギブオン(エルサレムから北西に20キロ)の聖なる高台に、一千頭のいけにえ(焼き尽くす献げ物)を献げました。「聖なる高台」は、かって豊作を願ってカナンの神々にいけにえを献げた場所でしたが、ソロモンの時代には、主なる神に関する祭儀を行う場になっていました。この頃は、まだエルサレムに神殿が完成していなかったからです。

 

 いけにえを献げたソロモンは、その夜、ギブオンで眠りました。すると主がソロモンの夢枕に立って「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。この呼びかけに彼は、夢の中でこう答えました。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」 ソロモンは、自分が王に立てられたのは神の恵みであるとし、自分は未熟な存在であり、この国の民は多く複雑であるので、聞き分ける心を与えてくださるようにと願ったのでした。

 主はこのソロモンの願いを聞いて喜び、求めどおりに「知恵に満ちた賢明な心」を与えることを告げられました。さらに主は、求めなかった富と栄光、そして長寿をも彼に与えると約束されました。ソロモンは、目を覚まして、それが夢であることを知りました。彼はエルサレムにもどると、主の契約の箱の前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。

 列王記上3章16節~28節ソロモンの裁判物語は、主より与えられた知恵を証しするものです。

 それは、二人の遊女からの訴えでした。二人の遊女は同じ家に住んでいて、同じころに子を産み、育てていました。ある晩、母親の過失で子が亡くなりました。その母親はそれに気づくと、もう一人の母親から子を取り、死んだ我が子をこの母親のふところに寝かせました。朝が来て、子を取り替えられた母親が、死んでいる子は我が子ではなく、取り替えた母親が抱いている子が我が子であると言いました。しかし取り替えた方の母親は、それを認めず、取り替えられた母親が訴えました。

 二人はソロモン王の前でも言い争いました。「生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です」「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのがわたしの子だ」。ソロモンは、家臣に剣を持ってくるように言い、「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」と命じると、生きている子の母親は「この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言いました。ソロモンは、「この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」と宣言したのでした。

 ソロモンが、偉大な父親ダビデから継承したことは、「心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩め。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向っても、良い成果を上げることができる」という遺言でした。ソロモンは死んだ父親の言動を思い起こし、それを自らの内に再現することで、自らの王としての在り方の指針とすることはありませんでした。なぜなら、父ダビデの遺言は、生きて働く主に寄り頼み、主の掟や戒めに従って、王として働きを行えということだったからです。そうするならば主は、王としての使命を果すに必要な知恵のみならず、必要とするすべてを与えてくださるのです。

 

 今年度の教会標語は、「後の世代に語り継ごう」です。創立125年を迎えるこの教会には、多くの信仰の先達たちがいました。この標語は、先達の言葉や業を、また自分たちの業を、後の世代に語り継ごうと呼びかけている訳ではありません。人の業ではなく人の信仰を語り伝える、すなわちその人に与えられた主の恵みを語り伝えるのです。先達たちが、「心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩め」と語られたことを覚え、私たちは主に対し「聞き分ける心を与えて下さい」と祈り願いつつ、その信仰を「後の世代に語り継ぐ」ことを願っているのです。

2025. 9.7 聖霊降臨節第14主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』

(マタイによる福音書13章29~30節)

 

  「育つままにしておきなさい」     深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』

(マタイによる福音書13章29~30節)

 

          「育つままにしておきなさい」     深見 祥弘

 先日和歌山に住むいとこから新米が届きました。手紙には、「当家は、今年の4月28日に田植えをしました。和歌山県産米「キヌヒカリ」無事に収穫することができました。」と書かれていました。

今年の米騒動では、米の店頭価格が高騰し、主食でありながら消費者が買いづらい状況となりました。そんな中で前農水大臣が、「(いろいろと関係の方から米をいただくので)米を買ったことがない。売るほどある」と発言し、辞任に追い込まれました。現大臣は、備蓄米を大量に放出し、それによって全体の米の価格を下げようとしました。それはある程度効果があり、米の価格が下がりました。しかし新米の店頭価格は、これまで以上に高くなっています。

 米をめぐる報道から、改めて農家の苦労を知ることとなりました。米の店頭価格が5キロ二千円代の時、諸経費で赤字となり、高齢化ともあいまって、米を作ることをやめてしまう農家が多くいました。加えて最近は高温や水不足といった天候の影響や、害虫害獣被害や雑草の繁茂などで、収穫量が少なくなることもしばしばです。生産者と消費者、中間業者や小売店、みんながウィンウィンになることの難しさを知りました。

 

 今日の聖書日課は、マタイによる福音書13章24~33節、「毒麦」のたとえと「からし種とパン種」のたとえです。イエスは、ガリラヤ湖のほとりに人々が集まってきたので、舟を漕ぎ出し、岸辺の人々に話をされました。それが「種を蒔く人」のたとえでありましたが、加えて「毒麦」のたとえ、「からし種とパン種」のたとえも話しました。いずれも天の国のたとえです。

 「種を蒔く人」のたとえは、良い土地に蒔かれた種が多くの収穫をもたらすことを教えました。けれども良い土地だからといって、必ず豊作となるわけではありません。そこには、雑草が繁茂したり、害虫が発生したりして、収穫が少なくなることもあります。「毒麦」のたとえは、そのことを示しています。

 ある人が良い種(麦)を畑に蒔きました。ところが夜の間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていきました。それに気づいた僕が「行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう。』」と言いました。

 「毒麦」は、誤って食べると嘔吐や下痢、めまいやしびれを引き起こします。収穫時期になると「毒麦」は、麦よりもひげが長く、色も黒くなるので見分けがしやすくなります。しかしそれまでは、麦と毒麦を見分けることは難しいのです。成長の段階で「毒麦」を抜こうとすると、間違えて麦を抜いてしまうこともありますし、麦と毒麦の根が土の中で絡まり合っているので、一緒に抜いてしまうおそれもあるのです。

 13章36~43節をお開きください。そこには「毒麦」のたとえの説明が書かれています。イエスは家にもどると、弟子たちに対して、たとえの説明をなさいました。

「良い種を蒔く人」とは、イエスのことです。「畑」はこの世界、「良い種」とは御国の子らのことです。(「良い種」とは、ここではみ言葉・福音ではありません) 「毒麦」とは悪い者の子ら、「毒麦を蒔いた敵」は悪魔のことです。さらに「刈り入れ」とは世の終わり、「刈り入れる者」は天使たちです。

 世の終わりの日(終末・天の国の到来の日)、イエスは天使たちを遣わし、悪い者の子ら(天の国と神の義を拒む者たち)を集めて燃え盛る炉の中に投げ込ませる。それに対し「正しい人々(御国の子ら)はその父の国で太陽のように輝く」のです。

 

 イエスはまた、舟の上から「からし種」のたとえと「パン種」のたとえを話されました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 「からし種」とはクロガラシのことで、成長すると3~4mの高さになります。ここでは、天の国の拡大する生命力と、ユダヤ人だけでなく外国人をも迎え入れる包容力をたとえています。「パン種」とは、イーストのことで、粉に混ぜると、やがてパン全体を膨らませます。「三サトンの粉」とは36ℓです。この二つのたとえは、からし種もパン種もはじめは小さなものであるが、驚くべき生命力を宿していることを表しています。すなわち「からし種」は外的に成長し、「パン種」は内的に膨張します。世にあって御国の子らは小さな存在ですが、やがて外にも内にも激烈な力をもって拡大膨張し、天の国の到来を実現するのです。

 

 今朝の御言葉「毒麦」と「からし種」と「パン種」のたとえは、何を私たちに教えているのでしょうか。

 一つ目は、正しい者と悪い者を分けることは、私たちの仕事ではなく、主が遣わす天使たちによってなされることです。天の国の到来の時、天使たちは悪い者たちを先に集めて束にし、炉に投げ込みます。その後天使たちは、正しい者たちを刈り入れ、倉(天の国)に入れ、その者たちは太陽のように輝く者となるのです。そもそも私たちには、一緒に成長している隣の人が、正しい人か、悪い人かを判別することはできません。それがわかるのは、刈り入れの時です。その時まで同じ畑の中で、正しい人と悪い人が一緒に成長するのです。天使たちが刈り入れの時まで待つのは、私たちが正しい人を裁くことのないように、またその裁きによって自分だけでなく、まわりの正しい人をも傷つけないためです。 

 二つ目は、正しい人(御国の子ら)には、からし種やパン種のように、力強く成長していく主の力が与えられていることです。正しい人は、与えられた力によって大きく成長し、豊かな実りをいただくのです。同時に自分を正しいと考える人は、まわりの人や同じ畑にいる人を悪い人と判断し、「行って抜き集めておきましょうか」と言って裁こうとします。種を蒔くのは「人の子・イエス」であって、私たちではありません。私たちは、畑であるこの世界に蒔かれた「麦」でありますし、もしかすると私たちは悪魔が蒔いた「毒麦」であるかもしれません。私たちは、終わりの日に豊かに実を実らせ刈り入れられ天の国に入れられる「麦」であるか、刈り入れられて炉に投げ込まれる「毒麦」であるかのいずれかなのです。

 

「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」、生物学的には、

麦が毒麦になったり、毒麦が麦になったりすることはありません。しかし、イエスはご自分の十字架と復活により、毒麦が悔い改め、赦しの恵みにあずかって、豊かな実りをなす麦に変わることを期待し、愛をもって忍耐をしておられるようにも思えます。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)

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