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≪次月 11月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 11. 8 降誕前節第9主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。      (創世記18章12節)

 

    「神は笑いをお与えになった」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。      (創世記18章12節)

 

          「神は笑いをお与えになった」    深見 祥弘

 年を重ねると、不甲斐ない自分に気づかされ落ち込むことがあります。先日、東京に行ったときのことです。新幹線の改札を出た際に、乗車券を取り忘れてしまいました。手には、近江八幡~東京の乗車券と米原~東京の特急券を持っていて、自動改札機にこの二枚を入れると特急券は改札機に回収されますが、乗車券は再び出てきます。それを取り忘れたのです。乗車券がないことに気づいたのは、駅出口の改札で、もう一度新幹線の改札に戻って、駅員に取り忘れたことを伝えました。しかし「ここにはありません、出たのはこの改札でしたか。ほかの改札に行ってみてください。」と言われ、もしかしてと行ってみましたがそこにもありません。しばらく歩き回り、途方にくれていると、駅員さんが改札を出ることのできる券を発行してくれて、ようやく東京駅の外に出ることができました。若い頃、東京の国分寺や埼玉の所沢に暮らし、鉄道で都心にも来ておりましたが、こんなミスをすることはありませんでした。年をとりミスをするわたしを自らひそかに笑い、これからの日々に不安を覚えたことでありました。

 

 今朝のみ言葉は、旧約聖書・創世記18章1~15節、年をとったアブラハムとサラ夫妻の天幕に三人の旅人が訪れ、来年の今頃には男の子が生まれていると伝えたことが書かれています。しかし天幕の中でこの言葉を聞いたサラは、ひそかに笑ったのでした。

 アブラハムとサラには子どもがなく、既に二人とも年をとっていました。ある時、主の言葉がアブラハムに臨みました。「恐れるな、アブラハムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(15:1) 彼はこれを聞いて「わたしには子供がありません」と答えました。子がなくわたしは死んでしまうので、「報い」をいただいてもしかたがありません、「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」と伝えました。エリエゼルは、アブラハムの家の僕でありました。しかし主は「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言い、アブラハムを天幕から外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」と約束されました。無から「天」や「星々」をつくられた主は、アブラハムから多くの子孫を生み出すことができると言われ、彼はそれを信じたのでした。

 

 それから十年が経ちました。この歳月の中でアブラハムの信仰は再びゆらぎ、主は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われたが、その子は妻サラとの間の生まれる子と限定されたわけではないのかもしれないと考えました。妻サラも同様に思い、自分の僕ハガル(エジプト人)を夫に与えることにいたしました。やがてハガルは身ごもりました。身ごもったハガルは、主人サラを軽んじるようになり、サラも彼女に冷たく接するようになり、ついに夫アブラハムに「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように(離婚しましょう)」と言いました。これを聞いたアブラハムもだらしがありません。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(16:6)、その結果、ハガルは家を出ますが、主のみ使いが荒れ野の泉のほとりにいたハガルのところにあらわれ、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」「やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエル(主聞きたもう)と名付けなさい。」と言いました。ハガルは感謝して「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と答えました。こうしてハガルはサラのもとに帰り、男の子を産み、生まれた子にイシュマエルと名付けました。イシュマエルは、後にアラビヤ人の祖となります。アブラハム86歳の時のことでした。

 

 それからさらに13年が過ぎ、アブラハムは99歳、サラは89歳となりました。神はアブラハムに対して「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」(17:16)と告げました。アブラハムは神の前にひれ伏しますが、しかし笑ってひそかに言いました「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。神は「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と言われたのでした。

ある日アブラハムが、暑い真昼に天幕(マムレの樫の木のところにあった)の入口に座っていて、ふと目を上げると三人の人(主と従者)が彼に向って立っていました。アブラハムが走り出て迎え、ひれ伏して、ここで休息をしてくださるように願い、天幕の中にいたサラに食事を準備するように伝えました。 食卓が整えられ、三人が食事を始めると「あなたの妻のサラはどこにいますか」(18:9)と尋ねました。「はい、天幕の中におります」と答えると、一人が「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言いました。天幕の入口で聞いていたサラは、これを聞いてひそかに笑いました。自分も主人も年老いていると思ったからでした。主は「なぜサラは笑ったのか。主に不可能なことがあろうか。サラには必ず男の子が生まれている。」と言うと、サラは恐ろしくなって「わたしは笑いませんでした」と答えました。しかし主は「いや、あなたは確かに笑った」と言われました。

 

 み言葉から気づいたことの一つは、アブラハムが「ひれ伏す」という敬虔な姿をとりながら、「ひそかに神を笑」(冷笑)ったことでした。それは主が約束されたにもかかわらず、遅延により年を重ねていることに対する彼の失望からくるものでした。時の経過の中でアブラハムは、13歳になるイシュマエルの祝福を願いました。しかし主は「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」とその願いを退けました。主は、人が絶対に子を宿すことの出来ない状態になった時、主のご計画の中でイサク(笑い)を与えてくださったのです。

 

 米国のアレン・クラインさんに「笑いの治癒力」(1997年・創元社)という著書があります。この本は、笑いがなぜ人を元気にするのか、その理由を解き明かしています。人が象のつま先をながめて悩んでいる時、「笑い」は人を「一歩後ろに引き下がらせて」象の全体像が見えるようにしてくれる、「笑い」は人の視野を広くし、人を一回り大きな人間に成長させてくれると書いています。

ひれ伏しつつひそかに笑ったアブラハム、天幕の中でひそかに笑ったサラ、主は彼らの目を上げさせ、天を仰いで星を数えるように促します。閉じこもり常識に捕らわれていたアブラハムとサラが、目を上げ、天を仰ぐことによって、心からの笑いをもたらしてくれるイサクの誕生、さらにイサクとその子孫に与えられる祝福を見出すことができたのです。自分を笑うこと、主を笑うこと、そして十字架のイエスを笑うことは、たとえ冷笑であってもゆるされています。そこからわたしたちは、天を仰ぐことに導かれ、まことの笑い(赦し)が生まれ、救いの約束の実現を見ることができるからです。

2026. 11. 1 降誕前節第8主日礼拝(聖徒の日)
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< 今 週 の 聖 句 >

 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

(マルコによる福音書5章35~36節)

 

         「ただ信じなさい」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

(マルコによる福音書5章35~36節)

 

            「ただ信じなさい」      深見 祥弘

今朝は「聖人の日・永眠者記念日」です。召天された兄姉に連なるご家族やご親族の皆さま、今日はお休みの日ではありますが、こうしてご出席くださりありがとうございます。この礼拝では、昨年11月から今年10月末までに召された新召天者4名を含む、692名の方々を記念いたします。

 

8世紀、アイルランドのカトリック教会は、11月1日を「諸聖人・殉教者を覚える日」、翌日の2日を「すべての逝去者を記念する日」と定めました。プロテスタント教会は、聖人崇敬を廃止しましたが、11月第一日曜日を「召天者を記念する日」といたしました。

英語で11月1日は「ALL HALLOWS」(HALLOWS=SAINTS召天者)と言います。その前の晩は「ALL HALLOWS EVE」で、これが「HALLOWEEN(ハロウィン)」になります。先ほど8世紀のアイルランドで「諸聖人の日」が始まったと話しましたが、同地ではキリスト教が伝えられる前から10月31日の夜、「精霊たちを祭る祭り」が行われていました。教会において11月の始めに逝去者を記念するようになったのは、このような由来があったのです。

 

今朝のみ言葉は、マルコによる福音書5章21節~43節です。ここにはヤイロの娘が死よりよみがえった出来事が書かれています。命を創り与える父なる神と復活の主イエスが共にいてくださるなら、命への希望は死によっても打ち砕かれることはない。「恐れることはない。ただ信じなさい。」このように伝えています。

イエスがガリラヤ湖の対岸ゲラサ人の地方より舟に乗って戻ってくると、湖のほとりに大勢の人々が集まって来て、その中に会堂長ヤイロもおりました。ヤイロはイエスの足もとにひれ伏し、けんめいに願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

この会堂長とは、ユダヤ教の会堂の責任者です。幾つかの会堂の会堂長たちは、この時イエスを良く思っていませんでした。なぜならイエスは安息日(働いてはいけないと定められている日)に、彼らが管理する会堂で病人や体の不自由な人を癒すという医療行為を行ったからです。ヤイロも同様の思いでありました。ところが自身の娘が重い病気になったとき、ヤイロの心に最後に思い浮かんできたのはイエスでした。彼は娘の癒しのため、良い医者がいると聞くと、願って来てもらいましたし、良く効く薬があると知ると出かけて行って購入するなど、様々に手立てをいたしましたが癒されませんでした。ついにいかなるものも娘の命を救うことができないと分かったとき、彼は自分の立場を捨ててもかまわない、自分の会堂で癒しをおこなったイエスの力を信じようとの思いに至ったのでした。彼は、湖のほとりでイエスの到着を待ち、岸に降り立ったイエスの足もとにひれ伏して、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と願いました。

 

 ヤイロは、一刻も早くイエスを娘のところに連れて行こうとしますが、妨げに会いました。まず大勢の群衆が、イエスのところに押し寄せて来て、なかなか進めません。さらに12年間出血の止まらない女によって、イエスの歩みは完全に止まってしまいました。女は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、後ろからイエスの衣に触れたところ癒されました。しかしこの時ヤイロには、この女が癒されたことも希望にはならず、かえっていらだちをおぼえたのでした。ヤイロの娘もこの女も、12年間病に苦しんできたこと、手を尽くしてもよくならなかったこと、最後にイエスによりすがろうとしたことなど、みんな同じです。しかし、その女は生きているからこそ癒されたのであって、たとえ難しい病気を治すことができるイエスでも、死んでしまった者にはもうどうすることもできないというのが、ヤイロの思いでした。

 

このヤイロの心配が現実となりました。ヤイロの家から使いの者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言いました。会堂長という立場も誇りもみんな捨てて、イエスの前にひれ伏した結果がこれかと力を落とすヤイロに、イエスは言いました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」 あれだけ先を急いでいたヤイロが、この知らせを聞いて立ちすくんでしまった時、今度はイエスが彼に歩みだすよう促しました。

 彼らがヤイロの家に到着すると、人々が大声で泣きわめいていました。泣くことを職業とする人々がすでに来ていたのです。イエスは、この人々を家の外に出し、ヤイロとその妻、弟子のペトロとヤコブ、ヨハネを連れて娘のいる所に入っていき、娘の手を取って「タリタ・クム」(少女よ、起きなさい)と言いました。すると娘はよみがえり、起き上がって歩き出しました。娘はこれまで病気で一度も立って歩いたことがありませんでしたが、もう12歳になっていたからです。

 

主と教会にお仕えするようになって44年になります。この間、たくさんの兄姉の死に立ち会ってきました。その中には、幼い子どももいますし、若者もいます。「どうかお祈りください」と求められますが、いろいろな妨げによって、それを十分にはたすことのできないこともありました。「亡くなりました」とお知らせをいただいた時、立ちすくみ、血が引いていくような思いをいたします。しかし再び立ち上がり、進みゆくイエスの後に従い働きができるのは、「恐れることはない。ただ信じなさい。」というイエスの言葉によってでありました。ここにおられる皆さんの中にも、ヤイロと同じ思い、わたしと同じ思いをお持ちになられた方もおられることでしょう。命を創りこれを与える父なる神、そして死よりよみがえられるイエスが共にいてくださるなら、わたしたちの命の希望は死によって打ち砕かれることはありません。

 

わたしたちに与えられている命の世界は、死によって終わるわけではありません。信仰によって、わたしたちは、神が支配される命の世界(死を越えた命の世界)を見ることができると、イエスは今朝のお話によって伝えようとしているのです。愛する人の死に直面して立ちすくむ者にイエスは語ります。「恐れることはない。ただ信じなさい」 そこからは、イエスが先に立ち進み行かれるので、それに従えば良いのです。

わたしたちは今、イエスが先立って歩まれる道の途上にあります。来るべき日、イエスがわたしたちの愛する者の手をとってくださり、「わたしはあなたに言う。起きなさい。」と言って立ち上がらせてくださる日が備えられていることは、わたしたちにとっても天上の家族にとっても大きな希望です。イエスに対する信仰によって、命の世界を見せていただきましょう。

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