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≪次月 1月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 2. 1. 降誕節第6主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

(マルコによる福音書4章8節)

 

    「徒労でないかもしれない」    深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

(マルコによる福音書4章8節)

 

           「徒労でないかもしれない」    深見 祥弘

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書4章1~9節、「種を蒔く人」のたとえです。このたとえは、イエスが自らの生涯とその働きについて述べたものです。しかし、これを聞いた人々皆にわかってもらいたいとの思いではなく、「聞く耳のある者は聞きなさい」(9)と語るように、イエスはご自分を求める人にわかってもらいたい、そうでない人には隠しておきたいとの思いでありました。

 

 ある日、イエスは湖のほとりで教えを始めました。やがておびただしい群衆が集まってきたので、舟に乗り込み、湖の上から教えられました。そこで教えられたのはいろいろなたとえで、その一つが「種を蒔く人」のたとえでありました。

 イエスは「よく聞きなさい」と群衆に呼びかけました。集まってきた群衆に、それぞれが抱いているイエスへの期待や疑念をひとまず置いて、自らの教えに耳を傾けてほしいと呼びかけました。イエスは、ご自分がこれからどのような日々を過ごすのか、そこで行うことはどのようなことなのかを聞いてほしいと願われたのです。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(3) 「種を蒔く人」とはイエスのことです。「種」とはみ言葉のこと、具体的には「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)、この言葉です。また「悔い改めて福音を信じなさい」の「福音」とは、これもイエスのことです。イエス・キリストは、このみ言葉を携えて伝道に出かけて行ったと述べているのです。 

「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」(4)

これは、サタン(15)に支配される人への伝道を語っています。サタンに支配される人とは、ユダヤ教指導者たちのことです。15節を見ますと、彼らに御言葉が語られても、すぐにサタンが来て、御言葉の種を持っていってしまうというのです。イエスは、働きを始める前に、荒野でサタンの誘惑を受けますが、御言葉によって誘惑を退け勝利をされました。イエスは、ユダヤ教の指導者(祭司長や律法学者といった人々)に御言葉を語りました。でもサタンがすぐに奪い去ったので、彼らは悔い改めることはなく、かえってイエスを殺してしまおうとの思いに満たされるようになりました。彼らの憎悪が、イエスを十字架に追いやることとなり、結果、彼らに救いの道が備えられるようになりました。

「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」(5・6)。これは、イエスの群衆への伝道の様子を語っています。群衆は、はじめイエスを救い主と信じ熱狂しますが、つまずきを経験することで、イエスを十字架に追いやります。すなわちイエスがエルサレムに入場した時、群衆はしゅろの葉を振り「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」と叫びました。それなのに幾日も経たぬうちに、彼らはイエスを「十字架につけろ」と叫び立てる者になりました。彼らの期待と失望が、イエスを十字架に追いやることになり、結果、彼らにも救いの道が開かれることになりました。

「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」(7)。これは、弟子たちへの伝道の様子を語っています。「種は茨の中に落ちた」とは、繁茂する茨の中に種が落ちたということではありません。その土地は、きれいに整地されているのですが、土の中に茨の根が残っていて、種が芽を出しても、茨の成長が早く、やがて種から出た芽を覆いふさいでしまって実を結べません。弟子たちは、内に裏切りの根を持っていて、イエスを裏切り売り渡したり、逃げ出してしまいます。イスカリオテのユダは、大祭司と銀30枚でイエスを売り渡す約束をし、ゲッセマネの園においてイエスへの接吻を合図に、大祭司の手下に引き渡してしまいました。また、最後の晩餐の席で「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロは、大祭司官邸の中庭で、イエスの仲間だと言われ、「そんな人は知らない」と三度も誓ったのでした。弟子たちの弱さが、イエスを十字架に追いやり、結果、彼らにも救いの道が備えられるようになりました。

 「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(8)。これは、イエスの十字架と復活ことです。神の言葉であるイエス・キリストが、地に落ちて死ぬことで、蒔かれた神の言葉が豊かな実りをもたらすことになるというのです。「三十倍、六十倍、百倍」この信じがたい豊かな実りは、「神の国」をあらわしています。

 イエスの十字架と復活の後ペトロは、聖霊を受けて「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38~39)と説教をしました。この言葉を聞いた群衆(熱しやすく冷めやすい人々)は、三千人ほど仲間に加わりました。さらにファリサイ派でキリスト者への迫害者であるパウロが回心し、ローマ軍の百人隊長コルネリウスとその家族も回心をいたしました。

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24) 「種を蒔く人」のたとえは、イエス・キリストの生涯と十字架と復活の使命を語るものです。イエスは、ユダヤ教の指導者に、群衆に、そして弟子たちに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と伝道をしました。でもイエスが生きていた時、その伝道は徒労に終わったかのように思えました。ところが罪なきイエスが、人々の罪を負い十字架に死に復活されたことで、サタンに支配されイエスに敵対した人も、世の風潮に流された人も、裏切りの根を宿した人も、すなわち主が招く者ならだれにでも救いが与えられ、神の国の一員となることが許されました。この「種を蒔く人」のたとえは、イエスの生涯と働きが「徒労ではなかった」との信仰を与えてくれます。さらにこの信仰は、今を生きる私たちに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えるように促しています。このたとえは、伝道によって経験するであろうことを私たちに示し、苦難の中にあっても、神の国への希望を失うことのないように励ましをあたえます。

 

 私たちの伝道は、御言葉を語っても、瞬時にサタンが取り去ってしまうことがありますし、熱意をもって受け入れてくれた人が試練や誘惑によって御言葉を絶やしてしまうことも、内に宿していた裏切りの根によって御言葉の芽を覆いつくしてしまうこともあります。でもこのたとえによって徒労とも思える伝道は、たとえ直ぐには成果を見ることができなくても、十字架と復活のイエスによって、「徒労に終わることはない」との確信をいただくのです。「種を蒔く人」のたとえは、私たちへの応援歌です。

 

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