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≪次月 12月(2022)礼拝説教要旨 前月≫

2022. 12. 25 クリスマス(降誕節第1主日)礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。  (ルカによる福音書2章11~12節)

 

「民全体に与えられる大きな喜び」  深見 祥弘牧師

 

< 今 週 の 聖 句 >

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。   (ルカによる福音書2章11~12節)

 

        「民全体に与えられる大きな喜び」    深見 祥弘

 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を喜び祝う礼拝です。「クリスマス」、これは「キリスト(救い主)」と「マス(礼拝)」が一つとなった言葉、キリスト礼拝という意味の言葉です。その最初のクリスマスの出来事をお話いたしましょう。

 

 今からおよそ二千年前、ユダヤの国にヨセフとマリアという若い夫婦がおりました。当時ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にあり、皇帝アウグストゥスの命令で住民登録を行なうことになりました。それは、住民から税を徴収するために行なわれるもので、人々はそれぞれ出身の町で登録をするようにとの命令でした。ヨセフとマリアは、ガリラヤ地方の町ナザレで暮らしていましたが、夫ヨセフの出身がベツレヘムでありましたので、その町まで旅をいたしました。ナザレからベツレヘムまでの距離は、およそ120キロです。この時、マリアは神の力によって身ごもっていましたので、二人はロバに乗るなどして数日かけてベツレヘムに向かいました。

 到着すると二人は、宿を探しました。でも、各地から登録に来た人々で宿は満室で、二人が泊まる部屋はありません。二人は、家畜小屋を借り、登録が終わるまでそこに滞在することにしました。そして滞在中に、マリアは月が満ちて男の子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。ヨセフとマリアは、あらかじめ主の天使から、産まれてくる子が救い主であることを聞いていましたので、この飼い葉桶の御子を礼拝いたしました。

 この出来事は、天使によってベツレヘム近郊で、夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに伝えられました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」これを聞くと羊飼いたちは出かけて行って、飼い葉桶の御子を探し当て、礼拝をいたしました。このようにしてヨセフとマリア、そして羊飼いたちによって、最初のクリスマス(キリスト礼拝)が守られました。

 

 ルカ福音書2章1~20節には、キリストが飼い葉桶に寝かされていたことを三度も書いています。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(6~7)、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(12)、「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(16)、何だか、これを読むわたしたちにも、飼い葉桶の御子を見つけなさい、探し当てなさいと呼びかけているようです。

 キリストはどこにおられるのか、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7)、この宿屋(カタルーマ)には、他に客間、部屋という意味もあります。キリストは、人の居住場所でないところに産まれました。また「飼い葉桶」と書いているので、御子は家畜のいる場所に産まれたということでしょう。ある人は、岩の洞穴を家畜小屋とし、その上に宿屋があったのだと考えています。つまりそこは宿泊者が乗ってきた馬やロバを入れておく家畜小屋です。また飼い葉桶も、比較的柔らかい石灰岩を加工して作られたものです。ヨセフとマリアは、宿の下の(または近くの)旅人が乗ってきた馬やロバを入れておく洞穴に滞在し、産まれた御子を岩で作った飼い葉桶に寝かせました。

 

 世々の教会は、「飼い葉桶のキリスト」を、信仰をもって探してきました。

 東方教会が描いたキリスト誕生の場面は、飼い葉桶を石の棺のように、キリストを布にくるまれた遺体のように描いています。洞穴は墓をイメージし、キリストは死ぬものとして産まれられたこと、しかしやがて復活し墓を破るお方であることを告白しています。

 また、西方教会の絵画では、キリスト誕生の同じ場面で、飼い葉桶を祭壇として描いています。それは、キリストを天から降ってきたパン、その身を裂き分け与える十字架のキリストであると告白しているからです。ベツレヘムという町の名は、パンの家を意味しています。

 中世のドミニコ会修道院の修道女たちは、クリスマスの時期、ロウで作ったキリストを抱いてあやすなどして世話をします。修道女たちは自らを飼い葉桶とし、共にいてくださるキリストを礼拝するのです。ところで、わたしたちがよく思いえがく馬小屋と木製の飼い葉桶は、同じく中世ヨーロッパの農家をイメージしたものです。木でできた馬小屋と飼い葉桶のキリストは、農民と共にいるキリストをあらわしています。

 

 宗教改革者ルターは言いました。「聖書はその中にキリストが横たわる飼い葉桶である。母親が、赤ん坊を見い出すだけの目的でゆりかごに行くように、わたしたちは、キリストを見出すだけの目的で聖書を読むべきだ。」ちょうど羊飼いたちが、闇の中で飼い葉桶のキリストを、目をこらして見出したように、聖書を読む人は、その言葉の中にキリストを見出すのです。「飼い葉桶のキリスト」を礼拝することは、この御子の中にすべての人を救おうとする神の愛を見出し、感謝の礼拝をすることなのです。

 

 わたしたちは、「飼い葉桶のキリスト」を礼拝しクリスマスを祝います。

それは、御子によって次の四つのことを見出すからです。

 まず、わたしたちは、わたしという飼い葉桶の中に、またわたしの生活の場に、御子を見出すことができます。飼い葉桶のキリストは、わたしと共にいるために、またわたしたちと共にいるために、そして全ての人々と共にいるために、お生まれになられました。

 つぎにわたしたちは、教会(パンの家)の聖餐台のパンに、御子を見出すことができます。キリストはご自分の体を裂いてわたしのために、わたしたちのために、そして全ての人々のために罪の贖いとなってくださる十字架のお方であります。

 さらにわたしたちは、死をも共にし、墓の棺の中にいてくださるキリスト、さらに新しい命をお持ちになっておられる復活のキリストを見出すのです。

 最後に、聖書の中に、そして語られる説教の中に、わたしに対する、私たちに対する、そして全ての人々に対する神の愛の実現であるキリストを見出すことができるのです。

 

「飼い葉桶のキリスト」は、時代や場所を超えて、また国や民族や社会的な立場を超えて、民全体に与えられる大きな喜びとして来て下さったお方です。すなわち「飼い葉桶のキリスト」は、戦いのあるところに平和を、憎しみのあるところに愛を、飢えのあるところにパンを、病のあるところに癒しを、悲しみのあるところに慰めを、死が支配するところに命を与えてくださいます。

 飼い葉桶のキリストをお迎えし、来る主の年2023年が、私たちにとって、また全ての人々にとって幸いな日々であることを祈ります。

 
2022. 12. 18 降誕前第1主日礼拝(アドベントⅣ)
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< 今 週 の 聖 句 >

すると、天使は言った「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」            (ルカによる福音書1章30節)

「 思いの外から 」     仁村 真司 教師

 

< 今 週 の 聖 句 >

すると、天使は言った「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」            (ルカによる福音書1章30節)

「 思いの外から 」         仁村 真司

 来週はクリスマスです。やっぱりクリスマスは待ち遠しいですね。

 近頃は時間の流れがあまりに早く、時に激しく。冷たく感じられることもあって、もう少しゆっくりと穏やかに流れてくれれば・・・と思います。でも何故かクリスマスは待ち遠しい、「やっぱり」とはそういうことです。

 どうしてだろうかと考えてみると、「神の御子がお生まれになった日で・・・」というようなことはすぐには出て来なくて、クリスマスの感じ―暗闇に小さな光、明かりが灯る、あまり芯の出ていないろうそくに小さな灯が灯る時のような―そんな感じが好きで引かれるからなんだろうと思います。これから少しずつ、でもきっと明るくなって行くだろうという予感・期待とでもいうのでしょうか・・・。

 クリスマスが12月25日になったのは4世紀のことです。イエスの誕生日が何月何日か、聖書には書いていないので本当はわかりません。ですが、12月25日はローマ暦の冬至、一年中でもっとも暗い(時間が長い)日で、そこから少しずつ明るくなって行く。クリスマスにピッタリだと思います。

 それと、冬至は暗いだけではなく、寒くて冷たい。そして、そこからまたもっと寒さ、冷たさは厳しくなって行きますが、そんな時に小さな光、かすかな明るさと共にほのかな温かさも感じられる。これもまた私が好きで引かれているクリスマスの感じだと思います。

 「でも、それはクリスマスが冬だからそんなふうに感じるのではないのか」と言われれば確かにそういうところもあると思います。また、聖書にはイエスが生まれたのは冬だったとも書いていません。もしかしたら真夏だったのかもしれない・・・。

 なのですが、聖書に記された主イエスの降誕物語から、深い、深淵の暗さ、冷たさの中に、小さな光、ほのかな温かさがもたらされる、そんなふうに感じるというのは多分私だけではないと思います。

  1)

 マタイ福音書とルカ福音書がクリスマスの出来事を伝えているのですが、内容はかなり違っています。両方をつなぎ合わせようとしても、どうしても辻褄が合わないのですが、今日の聖書箇所、ルカ福音書の「受胎告知」とマタイ福音書でヨセフが天使からマリアが身ごもっているのは聖霊によることを知らされる場面は巧い具合につながると言うか、対になっているかのようです。ます、ここを見ておきます。マタイ福音書1章18~21節・・・

  イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと 

婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっているこ

とが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを

表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考

えていると、主の天使が現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリ

アを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マ

リアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民

を罪から救うからである。」・・・

 この記述からするとヨセフはマリアとの離縁を決心して気持ちに区切りがついたのではなく、それからもずっと辛かった、苦しんでいたはずです。

 聖霊によって身ごもったことを知らなければマリアは姦淫、律法によれば死刑相当の重罪を犯したことになります。「夫ヨセフは正しい人であった」とはヨセフは神の言葉、律法に従う人であったということです。ヨセフとしては罪を犯したマリアを妻にする訳にはいかない。赦されることではない。といって縁を切ったことを公にすれば、マリアの罪も公になる。

 「ひそかに縁を切ろうと決心した」、ここから「マリアを守りたい、でもどうすることも出来ない、してはならない、それでも・・・」というヨセフの深い苦悩、ヨセフが暗闇の中にいたことが読み取れます。そこに天使が現れ、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げます。

 目の前がパッと明るくなったということではないでしょう。現実的な保障も裏付けも何もない。それどころかこの後更に暗く、そして冷たい状況に置かれることになります。でも、マリアを、生まれて来る子どもを守れるかもしれない、自分が守ってもいい。かすかな、本当に小さな光がヨセフの心に灯ったと思います。

 暗闇の中に小さな光が灯るというクリスマスの感じは、主にマタイ福音書のここから来ているような気が私はしています。

  2)

 では、自らが身ごもるのは夫ヨセフの子ではなく、神の御子であると知らされたマリアはどうだったのでしょう。ルカ福音書の今日の箇所から・・・

 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう恵まれた方。主があなた 

と共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のこ

とかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。

あなたは神から恵みをいただいた。」(1章28~30節)そうして神の御子を身ごもることが告げられます。マリアは「お言葉どおり、この身に成ますように」と(38節)決心・決断としてというのではなく、おそらくは戸惑いもためらいもなく、心穏やかに受け入れたのだと思います。

 因みに「マリアはこの言葉に戸惑い」(28節)というのは、言葉の内容そのものに戸惑ったというよりも、見ず知らずの男の人(天使ガブリエル)が突然やって来て「おめでとう」(直訳は「幸あれ」)なんて言うのでびっくり仰天したという極めて当たり前の普通の話だと思います。

 ルカ福音書の記述からもマリア(とヨセフ)が置かれたであろう厳しい状況は察せられるのですが、どういう訳か特にマリアにまつわる記述からは穏やかさ、そしてほのかな温かさが伝わって来るような気がします。

  3)

 この温かさはどこから来るのでしょうか。

 天使ガブリエルのマリアへの言葉「あなたは神から恵みをいただいた」(30節)の直訳は「あなたは神のもとで恵みを見出している」、神の目から見ればあなた(マリア)は恵まれた存在になっているということです。

 この恵みは「一方的な」ものです。善い行いをした、特別に正しい人であった・・・そうであったとしても、そういうことに対して、あるいはそういう人に対して与えられるものではない。マリアに、その人に、根拠・理由をさがした所で何もない、人の思いの外からもたらされるものです。

 そしてまた「神のもとで、神の目から見れば」には、人の思いの中では、必ずしも恵まれたとは言えないという意味合いも含まれていると思います。人の目から見ればとても恵まれているとは見えない。しかし、確かに、間違いなくあなたは神のもとで恵まれているということだと思います。

 これは私の全くの想像ですが、ルカ福音書のクリスマス、特にマリアにまつわる記述から伝わってくるほのかな温かさは、人々のマリアへの思いから来ているように思えます。

 この人々の思いは、「聖母マリア」への思い(神の選びを受け、キリストの救いの業に協力した第一の人物であるとして崇拝する)とは違います。

 早い時期からマリアを崇めた人も少しはいたかもしれませんが、それよりも貶めようとする人が多かったと思います。その暗さ・冷たさの中、全くの思いの外からもたらされた数奇な「運命」を生きたマリアへの思い、自らも暗さ・冷たさ、厳しい現実を生きた人々の温かさなのではないか・・・。

 クリスマスは私たち一人一人の心に小さな光をもたらします。そしてまた、その小さな光によって一人一人の心、思いの奥底にある他者への温かさが呼び起こされる、そういう時でもあるのではないかと私は思います。

 
2022. 12. 11 降誕前第2主日礼拝(アドベントⅢ)
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< 今 週 の 聖 句 >

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」      (ルカによる福音書1章13節)

 

「その子をヨハネと名付けなさい」  深見 祥弘牧師

 

< 今 週 の 聖 句 >

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」           (ルカによる福音書1章13節)

 

        「その子をヨハネと名付けなさい」    深見 祥弘

 5日、明治安田生命保険は、2022年に生まれた子どもの名前ランキングを発表しました。これは今年9月時点の同社の個人保険、個人年金保険の契約者情報を元に、男の子8952人、女の子8561人を調べたものです。

男の子の1位は同数で「蒼(あお)」と「凪(なぎ)」、女の子の1位は「陽葵(ひまり)」でした。「蒼」の字を辞書で調べると、いかにも青いさま、一面に青いさまと書かれています。広報部の担当者は、男の子の名前について「コロナ禍に加え、ロシアのウクライナ侵攻など、将来への不安を感じさせる年となった。海や空を連想させ、不安を払拭するようなすがすがしく、平和なイメージの名前が人気だったのではないか」と分析しています。ちなみに男の子の3位は「蓮(れん)」、女の子の2位は「凛(りん)」、3位は「詩(うた)」でありました。皆さんのお孫さんやひ孫さんに、同じ名前の幼子がいるかもしれません。(毎日新聞6日朝刊)

 

 聖書の時代、子に名前を付けるのは父親でした。旧約時代は誕生後間もなく、新約時代は誕生後8日目に行なわれる割礼の日に、命名式も行なわれました。そうした中、父親に与えられている命名の権利を行使できず、神が名付けの父親となった二人の幼子のことをお話します。一人はヨハネ(バプテスマのヨハネ)であり、もう一人はイエスです。ヨハネの父親は、祭司ザカリアで、天使ガブリエルより「その子をヨハネと名付けなさい」と命じられました。イエスの父親はヨセフで、彼もまた、ガブリエルより「その子をイエスと名付けなさい」(マタイ1:21)と命じられました。ザカリアとヨセフは、神の大いなる力と業を感じ、生まれてくる子のまことの父親が神であることを受け入れ、示された名を子に付けました。

 それゆえに、二人の子の名には、父なる神の願いやご計画があらわれています。「その子をヨハネと名付けなさい」、このヨハネという名は、「主はあわれみ深い」を意味します。また「その子をイエスと名付けなさい」、このイエスという名は、「主は救い」という意味の言葉です。父なる神は、闇の中にいたイスラエルの人々に対して、アブラハム以来の契約と預言者たちの預言を、この二人によって実現すると語っておられるのです。アブラハムの契約とは、「あなたは、多くの国民の父となる。・・・王となる者たちがあなたから出る。」(創世記17:4、6)、預言者たちの預言とは、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」(イザヤ11:1)です。

 ユダヤの王ヘロデの時代(BC44~AD4)、祭司集団アビヤ組にザカリアという人がいました。彼の妻はエリサベトといい、大祭司の家系であるアロン家の出身でした。二人は、神の戒めを忠実に守る人でした。また二人には子はなく、すでに年をとっていました。 

 さて、アビヤ組が、神殿奉仕の当番となりました。祭司たちにとって一番の奉仕は、香を神殿奥の聖所にある香壇に運び、そこで香をたき、祈りをする務めでありました。しかし、アビア組には千人近くの祭司がいて、くじを引いてこの奉仕者を決めますので、この奉仕に携わることは容易なことではありませんでした。祭司たちは生涯の内に一度でいいので、この奉仕をしたいと願っていました。結局このくじは、ザカリアが引き当てて、その務めを果すことになりました。ザカリアは、聖所で香をたき、祈りました。「なんじの民、全イスラエルに平和といつくしみと祝福、恵みと憐みを与えたまえ」すると、そこに主の天使ガブリエルがあらわれて、こう告げました。「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」、イスラエルに慈しみと憐みを与えたまえという祈りが聞かれたというのです。

その上で天使は、イスラエルに対する慈しみと憐みが次の事で始まると告げました。まず、妻エリサベトが男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。ヨハネは、イスラエルの救いの始まりを告げる者になる。ヨハネは、イスラエルに悔い改めを迫り、救い主がおいでになる道備えをする。その子は、この使命に生涯をささげる。

これを聞いてザカリアは、とまどいを覚え「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えると、天使は「わたしはガブリエル、神の前に立つ者、あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事が起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げたのでした。

 お告げのとおり、ザカリアは口が利けなくなり、妻エリサベトは身ごもりました。彼女も、五か月の間、身を隠しました。夫ザカリアと同様に、この間、自ら語ることをせず、神が語り行なうことに委ねたのでした。

 月が満ちて、ザカリア・エリサベト夫妻に男の子が与えられました。二人にとってこの子は、主のいつくしみとなりました。またこの子が、イスラエルの人々にとっても、主のいつくしみと憐みとなることを、二人は知っていました。父ザカリアは自分の名を、母エリサベトは自分の家系アロン家の名をむなしくし、天使が告げた「ヨハネ」という名を受け入れて、主の名を高くしたのでした。

 

 教会は、年に一度、教区・教団に「年次報告」を提出します。その報告の中に、年代別の教会員数を報告する欄があります。教会員30歳未満の男、女、からはじめて、80代以上の男、女までです。私たちの教会は、60代から80代の教会員が多く、この世代が全教会員の2/3をしめています。ときにこの状況を見て、悲観的にとらえることもあります。決して楽観はできませんが、良いところもあるのです。60代~80代の方々は、お元気ならば、毎週礼拝に出席し、教会のいろいろな奉仕をしてくださいます。若い人や働き盛りの世代は、そのようにはいきません。

 60代~80代の皆さんが、礼拝において、神の民とされた全教会員のために、祈りをささげていただきたいと思います。「なんじの民に平和といつくしみと祝福、恵みと憐みを与えたまえ」と。そうするならば、その祈りはふさわしく整えられて、わたしたちの思ってもみない姿で、実現をみることができると思うのです。すなわち、わたしたちもヨハネ誕生の予告を聞くのです。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答える者であったわたしたちが、主のいつくしみと憐みを告げる者をここに生み出し、主イエスの降臨(再臨の主)のために、道備えをすることができるのです。

 

 「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」、このように言う私たちではありますが、礼拝すること、祈ること、そして主を賛美することに仕えるならば、わたしたちは神の憐み(ヨハネ)を告げる者を生み出すことができるでしょうし、すべての世代の兄姉に神の救い(すなわち主イエスの再臨・到来)を示すことができるでしょう。

 今日お話してきた祭司ザカリア、エリサベト夫妻のように、また御子誕生後に登場するシメオンや女預言者アンナのように、迷いなくすがすがしい信仰と奉仕によって、主イエスの到来を告げ知らせることができるでしょう。

 
2022. 12. 4 降誕前第3主日礼拝(アドベントⅡ)
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< 今 週 の 聖 句 >

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。    (イザヤ書55章3節)

 

 「わたしのもとに来なさい」   深見 祥弘牧師

 

 アドベント第二の日曜日を迎えました。アドベント・クランツに二つ目の光が与えられました。クランツは、古代において勝利のしるしで、勝者の頭にかぶせられました。

 アドベント・クランツは、来るべき主への敬意のしるしであり、主の勝利を証しするものです。またクランツは、主イエスによってわたしたちの命が完全なものとされる、永遠の命のしるしです。さらにクランツは、バラバラになっているわたしたちが、主イエスによって一つとされる、愛と救いのしるしであります。わたしたちは、アドベント・クランツの光を見つめながら、敬意をもって主への信仰に生きることができたのか、また隣人を愛することができたのかを顧みる時といたしましょう。

 ドイツの家庭では、アドベント期間中の土曜日の夜に、クランツを囲んで座り、ローソクに火を灯します。そしてアドベントの歌を歌い、旧約聖書のイザヤ書から、イエスの誕生を預言する箇所を朗読し、静かに光を見つめて過ごします。 

 

 イザヤ書は、「第一イザヤ」、「第二イザヤ」、「第三イザヤ」の三つに分けられ、それぞれ語られた時代も場所も異なります。

「第一イザヤ」(1~39章)は、南ユダ王国エルサレムで、BC740~701年、アッシリア帝国の脅威を感じる中で預言されました。預言者は、自らの軍事力や大国との同盟に頼ることなく、主にのみ頼れと語りました。

「第二イザヤ」(40~55章)は、捕囚地バビロンで預言されました。ユダの国の人々は、捕囚地で、もうエルサレムに帰れないと絶望していましたが、預言者は解放と故国への帰還を預言しました。預言者は、そのために異教の神々を離れて主のもとに来るがよいと語りました。

「第三イザヤ」(56~66章)は、エルサレムに帰還した人々に対する預言です。ユダの人々は、ペルシャ王キュロスの解放令で帰国しました。しかし帰国後、周辺の人々による妨害でエルサレムの再建が進みませんでした。預言者は、信仰に堅く立ち、律法を守り、正義と公正をもって貧しい人を顧みよ、そうするならば主は復興へと導いてくださると語りました。

 先ほどアドベントの期間中、ドイツの家庭では、クランツを囲んでイザヤ書からイエスの誕生を預言する箇所を朗読すると言いました。それは、どのような箇所でしょうか。 

「第一イザヤ」では、9章の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・・ひとりのみどりごわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」であるとか、11章の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」といった箇所をあげることができます。 「第二イザヤ」では、55章の「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ」(3)をあげることができます。これについては、後で詳しくお話いたします。 「第三イザヤ」では、61章の「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」(1)といった箇所です。今日の聖書日課の一つはイザヤ書55章、もう一つはルカ4章14~21節です。イエスが宣教を始められた頃、安息日に御自身が育ったナザレの会堂で聖書朗読と説教をなさいました。イエスが聖書朗読のためにお立ちになられると、係りの者からイザヤ書の巻物が渡されました。その日の聖書日課は、イザヤ書61章1~2節でした。イエスはこれを読むと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21)と語られたのでした。

 

 「第二イザヤ」の55章は、ユダの人々がバビロンに滞在中に語られた預言者の言葉です。ユダの人々は、その地で貧しさに苦しんでいました。預言者は、人々に「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1)と呼びかけました。主がすでにその代価を支払ってくださっている。主により頼みなさい。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。」(2)、これは偶像への献げ物や奉仕によって、人々が生活に窮している状態をあらわしています。自らを救い主と称する者に多額の献金や奉仕を強いられ、家庭が崩壊してしまった統一協会の信者さんやその二世のことを思わされます。

 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。」(3) 預言を聞いて、来て、求めるならば、命を得ると言います。「とこしえの契約」とは、ダビデの子孫であるイエス・キリストのことです。神は創造者であり、世界と人は被造物です。神はこれらを神の言葉によってつくられました。しかし、やがて神と人との間に、また人と人の間に断絶(罪)が生じました。神は慈しみをもって新しい「神の言葉=契約」を与え、断絶している神と人、人と人の間を再び結んでくださるのです。イザヤ書54章10節には、「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」とあります。

 天と地を結ぶものは、雨と雪です。それは、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはありません。大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせて、種蒔く人に種を与え、食べる人に糧を与えます。 同じように、神の口からでるこの言葉(契約、イエスキリスト)も、むなしく神のもとには戻りません。神の言葉は、神の望むことを成し遂げ、神が与えた使命を果します。「わたしの口から出るわたしの言葉」(11)イエス・キリストによって、この世界を再創造し、信仰と愛を完成させると語っているのです。

 

 イザヤ書55章の言葉をもう一度、振り返ってみましょう。

「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3) 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(6) 「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。」(7) 「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(9) 「それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果す。」 (11) これらの言葉には、主なる神の人々に対する、深い憐みと赦し、そして救いを成し遂げようとする強い意志を感じます。神は、愛する御子をわたしたちに与え、十字架と復活による贖いと赦し、永遠の命を与えてくださるのです。 

 

 わたしたちは、今日「わたしのもとに来るがよい」と主の呼びかけによってここに集まりました。わたしたちは光であるイエス・キリストに目を注ぎ、言葉であるイエス・キリストに耳を傾け、「来てください。(マラナタ)」とお答えをして、勝利の王、愛と救いの主をお迎えする準備をいたしましょう。

 
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