W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2026. 3. 29. 復活前第1(棕梠の)主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
(マルコによる福音書15章31~32節)
「あなたもそこにいた」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
(マルコによる福音書15章31~32節)
「あなたもそこにいた」 深見 祥弘
朝の連続テレビ小説「ばけばけ」の主題歌は、ハンバートハンバートが歌う「笑ったり転んだり」でした。ハンバートハンバーは、佐藤良成さんと佐野遊穂さんのデュオグループで、「笑ったり転んだり」は、佐藤良成さんの作詞作曲です。この曲の2番の歌詞が印象的です。
「日に日に世界が悪くなる 気のせいか そうじゃない そんなじゃダメだと焦ったり 生活しなきゃと坐ったり 夕日がとても綺麗だね
野垂れ死ぬかもしれないね 何があるのか どこに行くのか
わからぬまま家を出て 帰る場所など とうに忘れた 君とふたり
歩くだけ 黄昏の街 西向きの部屋 壊さぬように戸を閉めて
落ち込まないで 諦めないで 君のとなり歩むから
今夜も散歩しましょうか。」
佐藤さんたちは、主題歌を依頼された時、このドラマの時代が日露戦争の少し前で、人々が近づく不穏な気配を感じていたとの思いと、今わたしたちが感じている不安を思いこれを作ったとのことです。
ロシアとウクライナの戦争、イスラエル・アメリカとイランとの戦争などにより当事国の人々は、本当に悲惨な状況に置かれています。またそれは物価の高騰などわたしたちの生活にも大きな影響が出てきています。戦後あまり時を経ずに生まれた私の世代は、二つの戦争を経験した20世紀が終わり、21世紀は平和で豊かな世界になると信じていました。ですから日に日に世界が悪くなっていくことを受け入れられず、当初は気のせいではないか、すぐに良くなるのではないかと思っていました。でもそんな思いは完全に打ち砕かれてしまいました。そんなんじゃだめだとあせってみても、平和と対話協調を訴える人々が選挙で大敗する、それどころかわたしたちひとり一人の生活も危うくなってきていて、そちらに心を向けなければ野垂れ死ぬかもしれない。これからどうなるのか、どこに向っていくのか、わからないけれど、そして元のところに帰ることも難しいかもしれないけれど、落ち込まないで、諦めないで、君のとなり歩むから、このようにこの主題歌は歌っているように思えました。そしてわたしの隣を歩んでくださるのは、ろばの子に乗るまことの王イエスだと思うのです。
今朝は棕梠の主日、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことを記念する日、そして今日から受難週に入ります。イエスは、人々がシュロの葉を振って「ホサナ、ホサナ(どうか救ってください)」と叫ぶ中、入場されました。それは人々が、イエスをユダヤの王・救い主と信じ、ローマの支配からこの国を解放してくれると期待していたからです。ところがこの人々の願いは実現しませんでした。イエスが入場しても、ローマの支配からの解放も王位に就くこともなかったからです。それどころかイエスは、弟子たちに対してご自分の苦難と十字架と復活を予告されました。その結果、イスカリオテのユダの裏切りによってイエスは大祭司に引き渡され、十字架に架けられることになりました。
み言葉は、マルコによる福音書15章21~41節です。ここには十字架に架けられたイエスと十字架のそばにいた人々について書かれています。
通りかかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者(破壊されるイエスの体なる神殿は、イエスの復活により、信仰の共同体・教会として三日目に建てられるとの意味)、十字架から降りて自分を救ってみろ。」とののしりました。祭司長たちや律法学者たちは「他人は救ったのに、自分は救えない。メシヤ、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と侮辱しました。
世に王を名乗る者は無数にいましたが、その多くは自分を救うけれど、隣人を救わない(救えない)王でありました。でもまれに自分を救うとともに、隣人(自国の人々)を救う王がいました。しかし他人(罪人、サマリア人、異邦人など)を救うのに自分を救えない(救わない)王は、ひとりもいませんでした。イスラエルの歴代の王たちは、自分を救うために隣人を救うことはしませんでした。たとえ自国民であったとしても、預言者たちを抑圧したのです。ダビデ王は、自国の人々を救いましたが、他国の人を救うことはありませんでした。ところがこれらの王とは、まったく異なる王があらわれました。それがイエスです。イエスは、ユダヤの人々にとって他人とも言える罪人や悪霊に取りつかれた人、また異邦人を救いますが、自国民であるユダヤの指導者たちをないがしろにし、ご自分も救いませんでした。
こんなイエスを見て人々は、カルチャーショックを受けました。イエスの弟子たちがそうでありました。イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(14:27)と言われ、イスカリオテのユダは裏切りました。祭司長や律法学者たち、民衆、そしてイエスと一緒に十字架につけられた強盗の一人は、自分たちの考える王のレベルまで、イエスを引き降ろそうとして、ののしったり侮辱をしたりいたしました。祭司長や律法学者たちは「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と罵倒しましたし、民衆は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と侮辱しました。強盗の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:39)とののしったのでした。
イエスが宣教をはじめる前、サタンの試みを受けました。イエスをエルサレムに連れて行き神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(ルカ4:9)と言いました。「十字架から降りて自分を救ってみろ」という誘惑と同じです。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」(申命6:16)、このみ言葉によってその試みを退けられました。
十字架のイエスは、ののしりや侮辱を受けながらもそこから降りることなく、神のみ旨を成し遂げられました。このことを見ていたのは、ローマの兵士である百人隊長でした。彼は王である皇帝と総督ピラトに仕える者でありましたし、ピラトがイエスの無罪を知りつつ、自分の地位を守るためにイエスを十字架に架けたことを知っていました。それに比べてイエスのなんといちずなことか。百人隊長は、イエスが人々からも神からも見捨てられても、自暴自棄になって自らに委ねられた神の計画を投げ出してしまうことなく、十字架の業を成し遂げられる姿を見ました。神から見放された時イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びますが、なお人として信仰をお持ちになられ、神に委ねられたのです。そして百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」(この方こそ、異邦人であるわたしの本当の王だ)と告白するに至ったのです。それは「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と信仰を告白し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43)と言っていただいた、もう一人の強盗も同じでありました。
十字架を取り巻く人々の中には、確かにわたしたちもいます。今の世の王たちを思いながら、まことの王は、ろばの子に乗って入場された御方、人の罪の贖いのために十字架に架けられ、これを成し遂げられたイエス、この方こそが私と共に歩んでくださるまことの王であるとの告白に導かれたいものです。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、高ぶることなく雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を断つ。」 (ゼカリヤ9:9~10)
2026. 3. 22. 復活前第2主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
(マルコによる福音書10章45節)
「イエスに愛されたからこそ」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
(マルコによる福音書10章45節)
「イエスに愛されたからこそ」 深見 祥弘
先週16日(月)、沖縄県辺野古において平和学習で訪れていた高校生たちを乗せた二隻の舟が転覆し、女子高校生と船長のお二人が亡くなられたことを知り、大変驚き、なぜとの思いで満たされました。亡くなられた船長は、金井創さんです。沖縄の教会の牧師であり、平和への取り組みに長年仕えてこられました。金井さんとは、教団の委員会で働きを共にさせていただいていました。今年1月福岡での委員会では、わたしの隣の席に金井さんがおられ、2日間休憩時間にたわいもない話をしました。6月には東京で委員会が開催されますので、「先生、またお会いしましょう。お元気で。」と挨拶をして別れました。抗議船「不屈」の船長と聞くと、激しい人柄を想像するかもしれませんが、金井さんはとっても穏やかで笑顔のすてきな方でした。わたしとは年齢も近く、かまえずに話をすることができました。今回の事故では、高校生が貴い命を失い、また何人かのけがをした方々もおられます。そのことを思うと、ことばでは言い表すことのできない思いでいます。
今朝のみ言葉は、マルコによる福音書10章32~45節です。ここには、イエスがエルサレムに向う途中、弟子たちに3度目の死と復活を予告したことと、弟子たちが自分たちの願いを告げたことを記しています。
イエスたちは、ガリラヤを出発しエルサレムに向かいました。エリコの手前まで来た時、弟子たちや従う者たちは、先頭に立って進んでいかれるイエスを見て、驚きや恐れを感じました。出発に際してペトロはこのように語っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」(10:28)。ペトロと弟子たちは、このエルサレム行きにも並々ならぬ決意をもっていたことがわかります。その彼らが、イエスの姿を見て驚き恐れたというのです。
イエスは、これからエルサレムで起こることをしっかりと自覚しながら、その道を歩んでいました。そして驚きや恐れをもって従ってくる弟子たちを呼び寄せ、話しました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。(イスカリオテのユダの裏切りによって) 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。(大祭司はイエスに死刑判決をくだし、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡す) 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。(総督ピラトも死刑判決をくだし、ローマの兵士たちに引き渡す。彼らはイエスに紫の服を着せ「ユダヤ人の王、万歳」と言いながら葦の棒で頭をたたき、唾をかけ、鞭打ったあと、元の服を着せて十字架につけるために引き出す) そして、人の子は三日の後に復活する。(イエスの遺体はアリマタヤのヨセフに引き渡され、彼の用意した墓に葬られるが、三日目に復活する)」
これを聞いてヤコブとヨハネの兄弟が、このように申し出をしました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 先生、あなたがエルサレムに入場されると、神の国が実現し、王座にお着きになられます。その時、これまでいろいろと働きをしてきたわたしたちを王座の右と左の座(第二・第三の地位)につかせてください。これを聞いて他の弟子たちは、ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたと腹を立てました。彼らも同様の思いでいたからです。
イエスは、ヤコブとヨハネにこう言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。二人が「できます」と答えると、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、(父なる神が)定められた人々に許されるのだ。」と言われました。この「わたしが飲む杯」とは、イエスの苦難と十字架のことであり、「わたしが受ける洗礼」とは、イエスの死と復活のことです。これに関してはローマの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と書いています。
弟子たちが腹を立てているのを見て、イエスはもう一度弟子たちを呼び寄せて言いました。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 異邦人の世界では、今のあなたたちと同じように、人の上に立つことを望む。しかし人の上に立って自分の利得を願う世界を実現しようとする思いは罪であり(それは神のご計画からは的外れ=罪)、イエスはそうした罪人の救いのためにエルサレムに向い、命を献げるのです。そしてイエスにそのように愛されることによって、弟子たちはすべての人の僕となれるのです。
32~34節で神の救いの計画が語られ、35~45節で人間の計画が述べられています。わたしたちも、ヤコブやヨハネと同じように、的外れ(罪)の願いをするものではないでしょうか。つまりイエスに従っていれば、おのずと神の国が与えられると思ってはいないでしょうか。そして、わたしたちの計画と、神の救いの計画が異なっていることに気づいたとき、わたしたちはイエスを侮辱し、唾をかけ、鞭打ち、十字架に架けるものへと変貌することを知るのです。にもかかわらず、イエスは罪をもつわたしたちに仕えてくださり、十字架において自分の命を献げてくださるのです。十字架は、わたしたちを罪から救うためになされた愛の行為であり、わたしたちはイエスに愛されたからこそ、自らの利得のためでなく、すべての人の僕としてイエスに従うことができるのです。
46~52節には「盲人バルティマイのいやし」の話があります。イエスがエリコの道端に座っていたバルティマイに呼びかけると、彼は上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスのところに来ました。イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、「見えるようになりたいのです」と答えました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言うと、見えるようになったバルティマイは、イエスに従いました。ヤコブたちにはイエスに仕えてきたという自負がありましたが、バルティマイには主張できるものは何もありません。イエスに呼ばれた時、彼は上着をぬいで、すなわち裸・罪の姿でもって進み出、見えるようになりました。イエスが救い主であるとわかったのです。イエスのエルサレムへの歩みは、自分のためになされるものと知り信じて従ったのでした。
イエスは、わたしたちに「何をしてほしいか」(36.51)と呼びかけてくださいます。「先生、見えるようになりたいのです」と願うわたしたちに、イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って送り出してくださいます。イエスの愛に押し出されて、この週も歩みはじめましょう。
先週16日(月)、沖縄県辺野古において平和学習で訪れていた高校生たちを乗せた二隻の舟が転覆し、女子高校生と船長のお二人が亡くなられたことを知り、大変驚き、なぜとの思いで満たされました。亡くなられた船長は、金井創さんです。沖縄の教会の牧師であり、平和への取り組みに長年仕えてこられました。金井さんとは、教団の委員会で働きを共にさせていただいていました。今年1月福岡での委員会では、わたしの隣の席に金井さんがおられ、2日間休憩時間にたわいもない話をしました。6月には東京で委員会が開催されますので、「先生、またお会いしましょう。お元気で。」と挨拶をして別れました。抗議船「不屈」の船長と聞くと、激しい人柄を想像するかもしれませんが、金井さんはとっても穏やかで笑顔のすてきな方でした。わたしとは年齢も近く、かまえずに話をすることができました。今回の事故では、高校生が貴い命を失い、また何人かのけがをした方々もおられます。そのことを思うと、ことばでは言い表すことのできない思いでいます。
今朝のみ言葉は、マルコによる福音書10章32~45節です。ここには、イエスがエルサレムに向う途中、弟子たちに3度目の死と復活を予告したことと、弟子たちが自分たちの願いを告げたことを記しています。
イエスたちは、ガリラヤを出発しエルサレムに向かいました。エリコの手前まで来た時、弟子たちや従う者たちは、先頭に立って進んでいかれるイエスを見て、驚きや恐れを感じました。出発に際してペトロはこのように語っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」(10:28)。ペトロと弟子たちは、このエルサレム行きにも並々ならぬ決意をもっていたことがわかります。その彼らが、イエスの姿を見て驚き恐れたというのです。
イエスは、これからエルサレムで起こることをしっかりと自覚しながら、その道を歩んでいました。そして驚きや恐れをもって従ってくる弟子たちを呼び寄せ、話しました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。(イスカリオテのユダの裏切りによって) 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。(大祭司はイエスに死刑判決をくだし、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡す) 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。(総督ピラトも死刑判決をくだし、ローマの兵士たちに引き渡す。彼らはイエスに紫の服を着せ「ユダヤ人の王、万歳」と言いながら葦の棒で頭をたたき、唾をかけ、鞭打ったあと、元の服を着せて十字架につけるために引き出す) そして、人の子は三日の後に復活する。(イエスの遺体はアリマタヤのヨセフに引き渡され、彼の用意した墓に葬られるが、三日目に復活する)」
これを聞いてヤコブとヨハネの兄弟が、このように申し出をしました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 先生、あなたがエルサレムに入場されると、神の国が実現し、王座にお着きになられます。その時、これまでいろいろと働きをしてきたわたしたちを王座の右と左の座(第二・第三の地位)につかせてください。これを聞いて他の弟子たちは、ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたと腹を立てました。彼らも同様の思いでいたからです。
イエスは、ヤコブとヨハネにこう言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。二人が「できます」と答えると、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、(父なる神が)定められた人々に許されるのだ。」と言われました。この「わたしが飲む杯」とは、イエスの苦難と十字架のことであり、「わたしが受ける洗礼」とは、イエスの死と復活のことです。これに関してはローマの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と書いています。
弟子たちが腹を立てているのを見て、イエスはもう一度弟子たちを呼び寄せて言いました。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 異邦人の世界では、今のあなたたちと同じように、人の上に立つことを望む。しかし人の上に立って自分の利得を願う世界を実現しようとする思いは罪であり(それは神のご計画からは的外れ=罪)、イエスはそうした罪人の救いのためにエルサレムに向い、命を献げるのです。そしてイエスにそのように愛されることによって、弟子たちはすべての人の僕となれるのです。
32~34節で神の救いの計画が語られ、35~45節で人間の計画が述べられています。わたしたちも、ヤコブやヨハネと同じように、的外れ(罪)の願いをするものではないでしょうか。つまりイエスに従っていれば、おのずと神の国が与えられると思ってはいないでしょうか。そして、わたしたちの計画と、神の救いの計画が異なっていることに気づいたとき、わたしたちはイエスを侮辱し、唾をかけ、鞭打ち、十字架に架けるものへと変貌することを知るのです。にもかかわらず、イエスは罪をもつわたしたちに仕えてくださり、十字架において自分の命を献げてくださるのです。十字架は、わたしたちを罪から救うためになされた愛の行為であり、わたしたちはイエスに愛されたからこそ、自らの利得のためでなく、すべての人の僕としてイエスに従うことができるのです。
46~52節には「盲人バルティマイのいやし」の話があります。イエスがエリコの道端に座っていたバルティマイに呼びかけると、彼は上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエスのところに来ました。イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、「見えるようになりたいのです」と答えました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言うと、見えるようになったバルティマイは、イエスに従いました。ヤコブたちにはイエスに仕えてきたという自負がありましたが、バルティマイには主張できるものは何もありません。イエスに呼ばれた時、彼は上着をぬいで、すなわち裸・罪の姿でもって進み出、見えるようになりました。イエスが救い主であるとわかったのです。イエスのエルサレムへの歩みは、自分のためになされるものと知り信じて従ったのでした。
イエスは、わたしたちに「何をしてほしいか」(36.51)と呼びかけてくださいます。「先生、見えるようになりたいのです」と願うわたしたちに、イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って送り出してくださいます。イエスの愛に押し出されて、この週も歩みはじめましょう。
2026. 3. 15. 復活前第3主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
イエスはお答えになった。 「なんと信仰のない時代なのか。 いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。 いつまで、 あなたがたに我慢しなければならないのか。 その子をわたしのところに連れてきなさい。」
(マルコによる福音書9章19節)
「イエスが来ると・・・」 仁村 真司教師
< 今 週 の 聖 句 >
イエスはお答えになった。 「なんと信仰のない時代なのか。 いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。 いつまで、 あなたがたに我慢しなければならないのか。 その子をわたしのところに連れてきなさい。」
(マルコによる福音書9章19節)
「イエスが来ると・・・」 仁村 真司
今日の箇所のはじめ14節、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると」。原文では文頭に「そして」があって 「一同が」と「ほかの弟子たち」の「ほかの」に当たる語句はありません。ですから、直訳は「そして、弟子たちのところに来てみると」です。
「一同が」(口語訳「彼らが」)と主語が複数になっているのは、「来てみると」の動詞「来る」が三人称複数形だからです。そして、今日の箇所の手前 (2~13節)はイエスが弟子の内ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登り、そこでイエスの姿が変わる、伝統的に「山上の変貌(変容)」と呼ばれる話です。こことの繋がりから「そして、弟子たちのところに来てみると」 が「 (イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの) 一同が(山から下りてペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の) ほかの弟子たちのところに来てみると」と訳された、こういう事情です。(やれ動詞だ、やれ三人称複数だとややこしい話になっていますが、もう少し我慢してください。)
1)
ですが、「そして、彼が弟子たちのところに来てみると」という訳のもあります。例えば最初の英訳聖書、「欽定訳」(King James Version,“… he came to [his] desciples…” )。これはどういうことなのか…。
「原文」とは言っても、マルコが書いた元々のものはないので写本です。勿論コピー機でも印刷機でもなく、手書きで、「写本の写本」、「写本の写本の写本の・・・」といった具合ですから、写し間違い・書き間違いもあれば「訂正・修正」、意図的な書き換え書き足し等もあります。
従って、「原文」が数種類あるということになって、「そして、弟子たちのところに来てみると」については「来る」が三人称複数の「一同 (彼ら) が… 来てみると」と三人称単数の「彼が・・・来てみると」との二種類があるということです。「彼が…来てみると」の場合の「彼」は言うまでもなくイエス、「イエスが来てみると」です。
では、元々どうだったのか。マルコには前の段落の場面との繋がりを気にせず、新しい段落を全く別の場面で始める傾向があります。一方でよく用いるのが、一つの話を二つに分けて、その間に別の話を挟み込んで二つの話を一つにして、テーマの繋がりを示すという手法です。例えば、5章21~43節ではヤイロの娘の癒しの話が十二年間出血の止まらない女性の癒しの話を、11章12~25節ではいちじくの木を呪う話が、神殿から商人を追い出す話をサンドイッチしています。一緒に味わうようにということです。
このようなマルコの書き方の特徴からすると、8章31節~9章1節は一回目のイエスによる弟子たちに対する受難・死、復活の予告です。
続く「山上の変貌 (変容)」は、イエス・キリストの復活の栄光の予示、予告とされますが、マルコの力点は後半 (9節~)でしょう。ここは分かりにくいですが、イエスはペトロ・ヤコブ・ヨハネに対して復活云々の前に受難と死の事実にしっかりと目を注ぐことを示しているのだと思います。
イエスは自らが受難・死、十字架へと赴くことをはっきりと示し、弟子たちに対してゆく。弟子たちはどう受け止めるのか、あるいは受け止められないのか。こういったテーマの繋がりの中での今日の箇所の場面です。
やはりイエスは一人で来て弟子たちに対する。従って、「一同がほかの弟子たちのところに」ではなく、「そして、イエスが弟子たちのところに来てみると・・・」とマルコは書いた。そう考えて今日の箇所を見てゆきます。
2)
イエスが弟子たちのところに来ると、イエスと高い山にいたペトロもヤコブもヨハネもその中にいて、大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論している。イエスが「何を議論しているのか」と尋ねたのは弟子たちに対してです(16節)。でも多分何をどう言えば良いのか分からず、弟子たちが答えに窮していると、群衆の中のある者が「(息子に取りついた)霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、出来ませんでした」と答えます (18節)。そこでイエスが言います。19節・・・
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわた
しはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなけ
ればならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい。」
「なんと信仰のない時代なのか」は「おお、不信(仰)の者たちよ」とも訳せます。その場の群衆や広くこの世の人々に対してではなく、「霊に取りつかれた子」、苦悩する父親、あれやこれやと言い立てる人々を前にして、その中にあって、ただオロオロするだけの弟子たちに対して「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とイエスは言っています。しかし、弟子たちは何も言えず、何もなせず、何ら応じることができない。
イエスが霊を追い出した後にようやく弟子たちは口を開き、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます (28節)。
イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。 (29節)
3)
教会暦では今日は受難節第4主日ですが、今の私たちは受難節に「もうすぐイエスがいなくなる。しっかりしなければ」等と思うことはなく、そんなふうに思う方が「不信(仰)」なのでしょう。ですが、だからと言って、受難・死を予告したイエスが弟子たちのところに来て、その有り様を見て、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言った。その言葉が、そしてそこで示したことが、私たちに無関係だとは思えません。イエスが今の私たちのところに来たとしても、同じことを言い、示すのではないか…。
今日の箇所は「癒し物語」ではありますが、「奇跡物語」ではないと私には思えます。「なるほど、イエスがこのように霊に取りつかれたとされた子、その父親、周囲の人々を見て、関わったのであれば癒されても不思議ではない」と思えるということです。
父親は「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません」(16節)と言っていますが、この子が何らかの事情で話せなかったのは確かだと思います。ですが、それは他の人たちと同じ言葉では話さなかった、話せなかったということで、この子なりの表現で、口で、言葉でではなくても、話していた、伝えようとしていた。けれども、家族や周りの人たちにはそれがわからない。何をやっても、霊がしていることとしか思えなかったのでしょう。
イエスはこの子を見て、その「言葉」を受け止めたのだと思います。そして、「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と霊を叱ります (25節)。
イエスが追い出した「霊」とは、この子にものを言わせない、言い換えればこの子なりに話しているのに、思い、意志を表しているのに、「汚れた霊の仕業」と決めつけ、そうして周りの人々に聞こえなくさせる、つまりは強固な思い込み・偏見の類いだと思います。そして、この「霊」に弟子たちも取りつかれた、今の私たちも時に取りつかれているのではないか。
この子が、今で言う治癒に至ったのかは分かりません。が、周囲の人々と共に、「汚れた霊に取りつかれた子」ではなく、一人の子・人として暮らせるようになった、癒されたのは周囲の人々でもあったということです。
受難・死を前に、イエスがかつて弟子たちに、そして今私たちに示しているのは、偏見の目を閉じて見る、それも祈り(29節)ということです。
2026. 3. 8. 復活前第4主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
(マルコによる福音書8章29節)
「信仰告白の先にあるもの」 深見祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
(マルコによる福音書8章29節)
「信仰告白の先にあるもの」 深見祥弘
2月28日(土)、米軍とイスラエル軍は、イランへの軍事攻撃を始めました。核開発をめぐる交渉でイラン側の対応が不十分だと判断したことが理由の一つとされます。26日(木)、スイス・ジュネーブでの交渉で米国は、イランの3つの主要核施設を破壊し、保有する高濃縮ウランを全て米国に引き渡すよう要求しました。これに対してイランは、保有する高濃縮ウランの濃縮度を1.5%まで希釈するほか、ウラン濃縮を数年間にわたり停止することを提案したとされます。28日にはじまった軍事攻撃によって、イラン最高指導者アリ・ハメネイ師らが殺害され、イランもイスラエルや周辺諸国にある米軍施設等に対して報復攻撃を行いました。
これに関し新聞に論評記事が掲載されました。「対話を積み重ねる地味な外交を冷笑し、『力こそ正義』を信じて疑わない指導者たち。世界は今、そんな時代だから仕方ない。そう突き放すのは簡単だ。だが主権国家への武力行使はそもそも国連憲章違反であり、改めてその原則を私たちは忘れてはならない。20世紀の2度の大戦を経て、国際社会は曲がりなりにも戦争をしないための仕組み作りを模索してきた。その努力を踏みにじる行為は、やはり容認してはならないのだ。…首都テヘラン南方にイスラム教シーア派聖地のコムという町がある。ハメネイ師も若い頃、ここの神学校で学んだ。2019年、私がこの町を訪れた際に出会った20代の神学生は、聖職者が統治する現体制についてこう話した。『イランの同世代の若者が自分の自由を求める気持ちは分かります。でも同時に人は他人の役に立ちたいとも思う生き物。宗教にはその力があり、私は人々を正しく導く人間になりたい』 就職して利潤を追及することに魅力を感じず、高校を卒業後に親の反対を押し切って神学校に入り直したと言っていた。他人の役に立つ人間になる。若き日のハメネイ師もこの神学生と同じことを思っていたのだろうか。だが数十年後、デモ隊を弾圧して多くの市民の命を奪う側になったとすれば、もはや『聖職者』ではなくなっていたのかもしれない。一方、それをまた別の暴力で排除する米国の行為が正当化されるかは別問題だ。」
(毎日新聞3/2 外信部長 篠田航一)
今朝のみ言葉は、マルコによる福音書8章です。ここには、弟子たちのイエスに対する無理解、ペトロの不十分なイエス理解、そして弟子たちを理解に導く十字架と復活について書かれています。
イエスは四千人の人々を七つのパンと少しの魚で満腹させた後、弟子たちと舟で向こう岸に行かれました。舟の中でイエスが弟子たちに、「(天からのしるしを求める)ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われた時、自分たちがパンを忘れ、一つのパンしか持っていないことを言われたのだと思い議論をいたしました。イエスは、彼らに「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と言い、五つのパンで五千人を、七つのパンで四千人を満腹させた出来事を思い起こさせました。イエスはパンと魚とはご自分のことで、イエスが一緒ならばどんなに多くの人であっても、豊かな養いを与えることができると知らせようとしました。でも弟子たちにはそのことがわかりませんでした。これは、弟子たちのイエスに対する無理解を表しています。
イエスが弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に出かけた時のことです。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問うと、弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」(メシヤ到来の前にあらわれる)、「預言者の一人だ」(モーセ)と言っていますと答えました。イエスが「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うと、ペトロは「あなたはメシヤです」と答えました。これはイエスのことがぼんやりとしか見えていない状態、すなわちペトロの不十分なイエス理解を表しています。なぜ「不十分」なのか、それはイエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始めると、ペトロがイエスをいさめたとあるからです。イエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。
22節~26節に「ベトサイダで盲人をいやす」話があります。人々が、盲人をイエスのところに連れてきて触れていただきたいと願いました。イエスは、盲人の手を取って人々のいない村の外に連れ出し、その目に唾をつけ両手をその人の上に置いて「何か見えるか」と尋ねました。するとこの人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えました。そこでイエスはもう一度両手をその目に当てると、この人は癒され何でもはっきりと見えるようになりました。
この盲人は、イエスの二度の手当てで癒されました。最初の手当てでぼんやりと見えるようになり、二度目ではっきりと見えるようになりました。目の見えないこの人の姿は、弟子たちのイエスに対する無理解をあらわしています。ぼんやりと見えるようになったこの人の姿は、「あなたはメシヤです」と信仰を告白しつつ、イエスの苦難と十字架、そして復活を聞いていさめたペトロを表しています。はっきりと見えるようになったこの人の姿は、イエスの十字架と復活によって、イエスが救い主であることを見出し信じた人々を表しています。
イエスは、盲人を御自分のところに連れてきた人たちの前では、癒しを行いませんでした。この人々が、11~18節に出てくる「しるし」を求める人々であったからです。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出しました。「村の外」とは、エルサレムの町の外、ゴルゴタをあらわしているように思います。盲人を癒した後、イエスは彼に「この村(ベトサイダ)に入ってはいけない」と言われました。そこには盲人をイエスのもとに連れて来て、しるしを求めた人々がいたからです。イエスは、この人を家(見えるようになったことを心から喜ぶ人々・家族)に帰されました。
同様に「あなたは、メシヤです」と告白したペトロや弟子たちに対しても、御自分のことを誰にも話さないように戒められました。それは弟子たちの信仰が、不完全であったからです。イエスは、彼らに「いやされ、何でもはっきりと見えるように」なるために、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。弟子の十字架の片方をイエスが担うと言ってくださっているのです。十字架の横木の片方をペトロが、もう片方をイエスが背負って(手を取って)ゴルゴタに行きます。そこに到着すると、今度はイエスお一人が十字架にお架かかりくださり、墓に葬られて三日目に復活されます。それが彼らの救いと命のためであったことをはっきりと知り、「苦難と十字架と復活のイエスがわたしのメシヤです」と告白することができるのです。
「信仰告白の先にあるもの」という題をつけました。「信仰告白の先にあるもの」とは、十字架と復活の主であり、罪の赦しと、新しい命と、神の国と平和であります。こうした恵みをしっかりと見ることができるのです。おぼろにしか神を見ていない指導者たちが、サタンによる偽りの栄光の誘惑から解き放たれ、彼らの担う罪の十字架を、イエスが御自分の十字架としてゴルゴタに立てられる様をはっきりと見ることのできることを願います。十字架と復活の主イエスが、平和を実現してくださることを信じます。
2026. 3. 1. 復活前第5主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
(マルコによる福音書3章33~35節)
「新しい家族と共に」 深見 祥弘牧師
< 今 週 の 聖 句 >
イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
(マルコによる福音書3章33~35節)
「新しい家族と共に」 深見 祥弘
3月7日、今週の土曜日の午後2時より、教会創立125周年「ハルモニウム&ピアノデュオコンサート」をおこないます。ハルモニウムの演奏者に諸岡亮子さん(ドイツ在住、ハノーファーのパオロ教会・ナザレ教会オルガニスト、ハノーファー国立音楽大学講師を務めるかたわら、ヨーロッパ各地で演奏活動をしている)と、ピアノの演奏者にクリスティアン・パイクスさん(ドイツ在住、ピアノソロ、又伴奏者として、ヨーロッパ各地・ブラジル・アメリカ・オーストラリアにおいて演奏活動をしている)をお迎えいたします。昨年1月にハルモニウムコンサートを行いましたが、その際、ご出席くださった姉妹が、諸岡さんを紹介してくださいました。昨年3月諸岡さんは教会を訪ねてくださり、1年後東京で行われるコンサートに合わせて、こちらでも演奏をしてくださることとなりました。教会創立120周年に際して、ハルモニウムの大規模修理を行いましたが、礼拝で用いるだけでなく、多くの方々をお迎えしてコンサートを開催できますことに感謝をいたします。
わたしたちの教会は、この5月に教会創立125周年を迎えます。主が近江八幡に教会を立ててくださり、幾多の人々を招いてくださいました。この人々は、信仰を得、主にあって互いを兄弟姉妹と呼び合う新しい家族をつくりました。さらに兄弟姉妹は、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)との御言葉をいただき、キリストの奉仕者として福音を宣べ伝えることを使命といたしました。けれども125年の歩みの中で、主の前に罪を犯し悔い改めに導かれたこともありましたし、挫折を経験し主の力づけをいただいたこともありました。しかし主にある兄弟姉妹は、これらの経験を通して主の恵み深さを知り、その恵みを証しする年月をすごしてきました。
今朝のみ言葉は、マルコによる福音書3章20~35節です。ここには、イエスと律法学者たちとのベルゼブル論争、そしてイエスの母と兄弟姉妹たちがイエスを連れ戻しに来た時のことが書かれています。イエスは、悪しき力に支配される家族や家について述べ、聖霊の力によって造られる新しい家と家族について教えられました。
ガリラヤ地方を巡り、病人を癒し、汚れた霊に取りつかれた人から霊を追い出すなどしておられたイエスは、ナザレの家を出た後、カファルナウムのシモン・ペトロの家を、自らの家としておられました。この日も働きを終えると休息のために帰ってこられました。しかしイエスの帰宅を知った人々が、集まって来たので、食事も休息もできない状態になりました。
さて集まって来た人々の中に、イエスの身内の人たちがいました。彼らは、「あの男は気が変になっている」とのイエスについてのうわさを聞き、イエスを取り押さえて自分たちの家に連れ戻す目的でやってきました。「気が変になっている」、これは「われを失う、外に出てしまう」という意味の言葉です。それはイエスがこれまでの自分を失ってしまっているという状態のことであり、身内の人たちにとってはイエスが自分たちの外に出てしまった状態にあるということです。彼らは、これまでの関係を捨てて出て行ったイエスを連れ戻そうとやってきたのです。
また集まっていた人々の中に、エルサレムから来た律法学者たちがいました。彼らは、ガリラヤ地方で病人を癒したり、汚れた霊を追い出したりしているイエスのうわさを聞いてやってきました。彼らは、イエスについて「あの男はベルゼブル(悪霊の頭)に取りつかれている、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と人々に言いました。イエスは彼らを見て、こんなたとえを話されました。「国も家も内輪で争えば成り立たない。同じように、サタンが内輪で争えば彼らの支配する国も家も人も滅びてしまう。ベルゼブルはわたしに悪の力を与えて、配下の汚れた霊を追い出したりなどはしない。そうでなく今あなたがたの見ているのは、わたしがベルゼブルを縛り上げ、ベルゼブルに支配されていた人や家、国を解放し、新しい人・家・国をつくろうとするわたしと聖霊の御業であるのだ。」。
さらにイエスは、「神に対するどんな罪も冒瀆の言葉も、イエスによってゆるされる。しかしイエスにおいて働いている力を、神の霊の力と認めず、これを悪霊の力と言い変えてしまうことは、絶対にゆるされない。」と言われました。
さて身内の人たちとやってきたイエスの母マリア、イエスの兄弟であるヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、そして二人の姉妹が、家の外に立ち、人をやってイエスを呼ばせました。家の中ではイエスの周りに大勢の人が座って話を聞いていました。母マリアからイエスを呼ぶようもとめられた人が、イエスに「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが、外であなたを捜しておられます。」と告げました。イエスは、その人に「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。
イエスは、30年に渡って過ごしてきたナザレの家を出て、カファルナウムのシモン・ペトロの家をまことの我が家としました。これに対しイエスの身内の人たちは、われを失っているイエスを、取り押さえ、自分たちの家に連れ戻すために来ました。そのために、母マリアとイエスの兄弟姉妹たちは、イエスをこの家から呼び出そうとしたのです。
イエスは、ユダヤ教の会堂を出て、シモン・ペトロの家をまことの神の家としました。これに対して律法学者たちは、イエスは悪霊の頭ベルゼブルと取引をし、その力を使って汚れた霊を追い出し、そのかわりシモン・ペトロの家をベルゼブルの家としていると言いました。
しかし、イエスがなそうとされるのは、人や家、会堂や国に入り込み、これらを支配しているベルゼブルを退けて解放し、聖霊の力をもってシモン・ペトロの家を新しい家族(イエスを主と信じる人々)の住む神の家、神の国を実現することです。
さらにイエスは「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。新しい神の家族は、「神の御心を行う人」であると述べています。「神の御心」とは、イエスと共に聖霊の力をもって、新しい家族(兄弟姉妹)、新しい家(教会)、新しい国(神の国)を築くことです。そして「神の御心を行う人」は、イエスのおられる家に入り、その周りに座り、主にある家族・教会・神の国の真の実現を共に望み見ることでしょう。イエスは母たちに、家に入って来て、主にある家族となることを願っておられたのです。
125年前イエスは、この教会(当時は借家・借間)を訪れて中に入り、人々の中心にお座りになり、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。主はここに新しい家族(教会)を造って悪の支配から解放し、共に永遠の命と神の国を望み見ることを望まれました。時を経て、わたしたちもまた、かわらずこの恵みをいただいていることを覚え感謝いたします。