W.M.ヴォーリズが愛した教会
近江八幡教会
日本キリスト教団
2026. 3. 1. 復活前第5主日礼拝

< 今 週 の 聖 句 >
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 (ヘブライ人への手紙2章18節)
「救いの創始者」 深見 祥弘
< 今 週 の 聖 句 >
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 (ヘブライ人への手紙2章18節)
「救いの創始者」 深見 祥弘
2月も残すところ1週間、「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」と言いますが、時が経つのは早いものです。先週18日(水)は、キリスト教の暦で「灰の水曜日」でした。カトリック教会の「灰の儀式」では、前年の棕梠の主日に用いたシュロの枝を燃やし、その灰で司祭が信者の額に十字のしるしをつけます。この灰には「あなたは土から生まれたので、土に帰る」という回心の意味があります。今年は18日「灰の水曜日」から4月4日(土)まで、受難節(レント)と呼ばれる期間です。わたしたちは、額に灰を塗ることはいたしませんが、毎週の礼拝でキリストの苦難と十字架の出来事を心に刻みながら、これからの時を過ごしてゆきましょう。
はせがわゆうじさんの作品に「もうじきたべられるぼく」(中央公論社)という絵本があります。「ぼく」とは牛のことです。この絵本は「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」という言葉で始まります。「ぼく」はある牧場で生まれ、まだ小さかったころに今いる牧場にやってきました。それからだいぶ月日が過ぎたけれど、「ぼく」はとても大きくて やさしかったお母さんのことを覚えています。今いる牧場では、毎日、ふとれふとれと言われます。いっぱい牧草を食べさせられて、あぶら身 多いと思うけど、太ったうしほど高く売れるんだって。「ぼく」は、一度でいいからスリムになって馬のように草原を走りまわってみたかったし、動物園のぞうやきりんみたいに、みんなに愛されたかった。でも「ぼくは、もうじきたべられるのだそうだ」、このことを知った時、最後にひとめだけお母さんに会いたいと思い、行くことにしました。お母さんのいる牧場に到着すると、あのころとおなじ風、おなじにおいがしました。「おかあさんだ、しあわせそうだな、あんなところにもうじきたべられるぼくが現れたら、おかあさん かなしむかな」、「悲しませるために、来たんじゃないや、さようなら おかあさん」。なにも言わずに電車の乗って帰っていく「ぼく」にお母さんがきづいて、ずっと追いかけてきます。「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ せめて ぼくをたべた人が自分のいのちを たいせつにしてくれたら いいな」と願いました。 こんなお話です。
今朝のみ言葉は、ヘブライ人への手紙2章10~18節です。ここには、イエス・キリストがどのように御方なのかを三つの表現で書いています。
まずイエス・キリストをあらわす一つの表現は、「救いの創始者」(10)です。「救いの創始者」であるイエス・キリストは、「源(10、11)」である方(父なる神)が多くの子らを栄光に導くためにお立てになられた方であり、数々の苦しみを通して完全な者とされた方であります。「数々の苦しみ」とはイエスの十字架をあらわし、「完全な者」とは復活のキリストをあらわしています。父なる神は、人々を救うために、イエス・キリストを十字架に架け、三日目に復活させ、「救いの創始者」とされました。
イエス・キリストがどのような方かをあらわす二つ目の表現は、「人を聖なる者となさる方」(11)です。父なる神は「人を聖なる者となさる」ためにイエスを遣わし、「聖なる者とされる」人もまた父なる神によって創造されたものであるので、父なる神にとってイエスと人々は兄弟です。そしてイエスは、この人たちを兄弟と呼ぶことを恥とはされません。この人たちは、罪(神でないものを神としている)のために栄光の冠を獲得できないでいるのですが、父なる神はイエス・キリストの十字架と復活によってこの人々を聖なる者とされるのです。
「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」(12)、これは詩編22編23節の言葉です。この詩を作ったダビデは、来るべき時に救い主がおいでになられること、その救い主は苦難を担われる(2~22)こと、しかしついに恵みの御業を成し遂げて(23~)くださることを覚え賛美をしています。ヘブライ人への手紙の著者は、この詩編に告げられていたことが実現したと告げています。
「わたしは神に信頼します」(13)、これはイザヤ書8章17節bの引用です。預言者イザヤは、彼の語る言葉に人々が耳を傾けない状況を長く経験しましたが、神への信頼を失うことはありませんでした。この手紙の著者は、イエスもまた、主ご自身の語る福音に人々が聞こうとせず、十字架上で父なる神がその御姿を隠しておられるように思う経験をされましたが、父なる神への信頼を失うことはなかったと告げています。
「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(13)これはイザヤ書8章18節aの引用です。人々はイザヤの預言を受け入れなかったが、イザヤは確かにここにいるし、わずかであるが彼の弟子たちがいました。手紙の著者もまた、人々は福音を受け入れないけれど、救い主イエスは確かにここにおられるし、弟子と信じる人々もまたここにいると告げています。
イエス・キリストがどのような方かをあらわす三つ目の表現は、「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」(17)です。イエス・キリストは、人と同じく血と肉を備えた方として生まれました。それはご自分の死によって、死をつかさどる者(悪魔)を滅ぼし、死の恐怖や支配から人々を解放するためでした。そのためにイエスは「憐み深い、忠実な大祭司」となって、人々の罪の償いをなさいます。レビ記16章にこう記されています。「贖罪の日」大祭司は、まず自分の罪を贖うために雄牛を屠り、次に人々の罪を贖うために二匹の雄山羊を選んで一頭を屠り、もう一頭に人々の罪を担わせて荒れ野に追いやるのです。大祭司イエスは、「憐み深い、忠実な大祭司」でありました。ご自分には罪がないのに自らを雄牛とし、また二匹の雄山羊とし、十字架において血を流し人々の罪の償いの献げ物となられました。ヘブライ人への手紙9章11節は、「キリストは、…恵みの大祭司としておいでになったのですから、…雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と記しています。これらの業は、「アブラハムの子孫」、すなわちイエスを救い主と信じる人々の救いのためになされました。キリストは、血肉をもつ人として、また人々の贖いをおこなう大祭司として試練と苦難を経験されました。ですからわたしたちが経験する試練や苦難で、キリストが経験されなかった試練や苦難は一つもありません。
はじめに絵本「もうじきたべられるぼく」を紹介しました。牛の「ぼく」は、自分の運命を受け入れています。他の動物が、駆けまわったり、可愛がられているのを見てうらやましく思います。どうして「ぼく」はだれにも知られずに食べられるのかと思いつつ、「ぼくはうしだから もうじきたべられるのだそうだ」と言って示された道を歩みます。イエスも、贖罪の日にささげられる若い雄牛として、人々の罪を背負わされ荒れ野に追いやられる雄山羊として死なれます。でもイエスは人々の罪の贖いを成し遂げ、3日目によみがえられました。「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」牛の「ぼく」は、せめて「ぼくをたべた人が自分のいのちを大切にしてくれたらいいな」と言っています。キリストの体をあらわすパンとぶどう酒を食べる者であるわたしたちも、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」、「わたしは神に信頼します」、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と主の命の恵みに感謝し、告白と賛美をささげてまいりましょう。