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主がたとえを用いて話される理由


 めっきり暖かさを増して、東京では桜の開花の便りが届いてきました。

そんな折今朝、滋賀の地では雪がちらつき、冬の名残を惜しむような寒さでした。

膨らみかけた桜のつぼみは、再び硬く閉ざしてしまいました。そして春の日差しに花びらをほころばせ、温かい日が続けばやがて花を散らせます。真に命の営みの不思議さを感じます。

 3月29日(日)棕梠の主日を迎えます。棕梠の主日とは、主イエスがエルサレムに入城された時に、群衆が歓喜の思いから棕櫚の枝を振って迎え入れたことに由来して


います。しかし数日ののうちにその同じ手を持って、イエスに石を投げつけ十字架につけたのです。人の心の移ろいや危うさを思わずにはいられません。

 最近、ラジオの中で、人の不平等さをどう思うのかと嘆いておられる方がいました。確かに人の目には不平等や理不尽なことは山ほど転がっています。私にも神様のみ旨は本当には分かりませんし、主イエスのみ言葉においても直接的に示されているとは思わないのです。

 一つ以前に与えられた主イエスの言葉の中で、理解に苦しむ個所が(他にもたくさんあるのですが)あります。「たとえを用いて話す理由」という個所です。弟子たちには神の国の秘密を悟ることが許されているのに他の人には『彼らが見ても見ず、聞いても理解できないため』にたとえを話すのだと言われるのです。皆さんも一度、ルカやマルコ、マタイの箇所を読んでみてください。解るでしょうか?わかる方がおられたら教会で私にコッソリ教えてください。

普通は物事を分かりやすくするために、たとえを用いて話すのが常道です。それなのに本質を見えなくするためにたとえを用いる?

 ただ思ったのは、本質を見えなくすることで、すべての人に平等にそのことを判断する権限を私たちに与えてくださっているのではないのか。私たちは主のしもべではありますが、全く自我のない奴隷としては扱っておられない。主は、私たちに神のみ旨を託されているのではないかと思うわけです。

 棕梠の主日礼拝は仁村先生の説教です。独自の感性で説きあかしてくださるでしょう。

耳をすまして聞くことにしましょう。楽しみですね。


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