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「聞きたいのは福音だ」(使徒言行録13:13-25)



「転職系ブログと聖書」

 「会社辞めたい……」と思ったら「会社 辞めたい」「会社 時間 切り売り」なんて打ち込んでgoogle検索にかけると、あらゆるブログから慰めの言葉を大量に受け取ることができる。そんな良い時代になりましたね。といっても、そういったブログの下部にはだいたい転職サイトのリンクが貼られているわけです。転職系のアフィリエイトブログ(広告収入型ブログサイト)ではよく見られる手段ですね。

 僕も入社3ヶ月目にして、毎晩寝る前にそういったブログサイトを読んではめくり、読んではめくり、という不毛な日々を過ごしていました。はあ、時間の無駄も甚だしい……

 先週、そんな哀しき慰み話を10歳年上の友人に投げかけてみたんです。彼は、腎臓病や脳梗塞といった重大な疾病を乗り越え、今も逞しく生きているという人生の先輩です。

 僕が「いやー、ついつい夜中にネットサーフィンをして答えを求めてしまうんですよねー」と投げかけると、彼はまじめな顔で言いました。

「俺は、そういうときこそ一番に聖書を読むよ」

 負けた、と思いましたね。いや、勝ち負けではないのだけれど、普段から礼拝に通って、こんなブログも書いているくせに、肝心な時に御言葉に頼ることができないなんて、と思うとはたはた情けなくなってきます。

 もとより僕自身そういう癖があって、せっかく神学を学び始めたと思ったら、聖書を読むのもそこそこに、粋がってキェルケゴールとかマルクスとかベルクソンあたりの哲学書を読もうとしていたのでした……ふとした時に、友人に「最近、聖書読んでる?」などと聞かれてドキッとしたことも記憶に新しいですね。

 ……と自身の恥ずかしい経験を挙げてきましたが、一つ言い訳をさせてください。

「だって聖書って難しいやん!」

 そんなこと言ってる場合か!と指摘されるとそれまでですが、これは少しまじめです。

 聖書の内容というのは、基本的に分かりづらいのですよね。確かに、旧約聖書においても新約聖書においても、父なる神は最終的にはイスラエルの民を救い出すという点においては一貫しています。しかし、問題なのはその過程です。とにかく回りくどいのです。

 例えば、旧約聖書ではどうでしょうか。

士師記4章において、イスラエルの人々は、カナンの王ヤビンの手に堕ちます。彼らはヤビンと将軍シセラのもとで、20年間圧政を受けていたために神に助けを求めました。すると、当時、士師としてイスラエルを裁いていた女預言者デボラが後の英雄バラクを呼び寄せて、シセラを討たんとするわけですが、そのデボラは決して前線には出ないのです。それを不安がったバラクはデボラに「あなたが来てくださらないなら、わたしは行きません」とヘタれてみせますが、デボラは「主がお命じになったではありませんか」とたしなめ、「主は女の手にシセラを売り渡される」という預言を語ります。

 結果的に、シセラは討たれました。しかし、それはバラクによるのでも、デボラによるのでもありませんでした。シセラはたまたま逃れてきたテントにて、友好民族カイン人のヤエルという女に殺害されたのです。

 確かに、シセラは殺され、結果的にイスラエルの人々はカナンの王ヤビンを滅ぼしました。つまり、預言は成就され、イスラエルは救われたのです。しかし、何と予想外で回りくどいことだろう。風が吹けばなんとやら。つくづく聖書って分かりづらいですよね。

 一方の新約聖書では、こうした「回りくどさ」って更に顕著だと思います。今回の聖書箇所においてパウロが語ったように、神は、人間との和解のために、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。しかし、イエスは、既にイスラエルの人々に悔い改めの洗礼を授け、彼らからメシアではないかと期待されたヨハネ(ルカによる福音書3:15)の“後”に現れます。この時点で、人々の予想は一度外れています。そして、肝心のイエスはどういう生涯を辿ったか。

 イエスは、確かに様々な奇跡を行いました。皮膚病の人を癒し、盲人の目を開き、死者をよみがえらせ、湖の上を歩きました。しかし、そのような華々しい実績によって、神は人間との和解を果たされたのではありませんでした。イエスは、人々が自身の奇跡を目にすることで神を信じようとすることを意図してはいなかったのです。これは、奇跡によって病を癒された人々が、その効果を周囲に知らせようとすることをイエスが諫めた点に顕著に見られます(マルコによる福音書1:44、8:26など)。

 では、どのように人々に神への気づきを与え、和解を果たされたのかといいますと、それはご承知の通り、イスラエルの人々によって磔に処され、死して葬られ(マルコによる福音書15:39)、三日目に死者のうちから復活した時なのであります。

人々は、目の前で行われる奇跡に胸を躍らせ、華々しい奇跡を追ってイエスに付き従い、しかし、イエスが逮捕されると何かに突き動かされるように叫びました。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。彼らはイエスの死・犠牲によって、神との和解が、つまり神の思し召しが成就することなどつゆほども思わなかったに違いありません。それが、真の福音であったなどとは……

お分かりいただけたと思いますけど、このように、やはり聖書って回りくどいのですよね。「神の見えざる手」という言葉がありますけど、私たちの思いもよらないルートを辿って、神の思し召しは成就される。なるほど答えは神のみぞ知る……

その点でいうと、冒頭の転職系アフィリエイトブログに書かれているようなことというのは分かりやすいんです。もちろん、ターゲットとなる閲覧層を見据えてマーケティングをしているから、という技術的な部分もあります。けれど、問題はそれらのブログに内在するものだと思います。彼らの言わんとすることを突き詰めると、要はお金に終始するのですよね。

別に、脱消費だとか、お金は悪だなどということをここで言う気もありませんし、もちろん僕とてお金は欲しいです。ただ、例えば仕事を辞めたいと思ってネットサーフィンするとき、「副業で収入を得るコツ」だったり、「独立するための方法」といった実務的なブログというのは、散文的でありながら、やはり目のくらむ魅力があるものです。

それらは、確かに私が聞きたい「福音」なのかもしれません。日常の仕事に疲れ果て、慰みのように求めてしまう「福音」なのかもしれません。それゆえ、回りくどい聖書を避けて、それにすがってしまうのでしょう。でも、神の思し召しというのは、往々にしてそのプロセスが隠されています。だからこそ、私たちはどのような選択をしても「これで良いのだろうか……」と悔やみ、悩み続けている。時に空回りし、無気力になる。本当に辛いことこの上ない。

しかし、私たちは思い出さなくてはいけないのだと思います。本日の聖書箇所でパウロが語った言葉、少し飛び越えてしまいますが、使徒言行録の13章32節です。

「私たちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています」

福音そのものは、既に神から私たちに知らされているはずです。それを聞くためには、たとえ回りくどくても、恐れずに聖書を読み、祈らなければならない時もあるはずです。

どうぞ、たまたまこのブログに行きついてくださった人が、あるいはそうでない人も、クリスチャンであろうとなかろうと、神が私たちに聞かせたい福音に耳を傾けられますよう。


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