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≪次月 9月(2026)礼拝説教要旨 前月≫

2026. 9. 13 聖霊降臨節第17主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

          (コリントの信徒への手紙第二9章6節)

 

    「惜しむ人と惜しまぬ人」      深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

                (コリントの信徒への手紙第二9章6節)

 

           「惜しむ人と惜しまぬ人」      深見祥弘

 今朝の御言葉は、コリントの信徒への手紙第二9章6~15節です。この手紙は、8章~9章でエルサレム教会への献金について書いています。パウロはマケドニア州の諸教会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)におけるエルサレム教会に対する支援を紹介しながら、コリント教会においても協力を願っています。

 パウロたちは第二伝道旅行でコリントを訪れ、教会ができました。その後パウロは、エフェソに移りますが、コリント教会で起こった問題(信徒たちが分裂して争っている)を知り手紙を書きました。それがコリントの信徒への手紙第一で、手紙の終わりにエルサレム教会への献金のことと、コリント訪問を計画していることを告げておりました。しかしこの計画は、パウロがエフェソで投獄されたこと、またコリント教会に「使徒」と自称する者が来てパウロを批判し、パウロとコリント教会との関係が悪化したことで実行できなくなりました。このような事情の中で書かれたのが、第二の手紙でありました。 

 パウロは、「使徒」としての使命はキリストの苦難を身に負うことであり、また苦難の中にも感謝と喜びをもって働き、キリストを復活させた神の力を証しすることだと自覚していました。彼はその働きによって、人々がキリストの命に与ることを、なによりも喜びました。

 

 さてパウロは、8章でエルサレム教会への献金についてマケドニア州の諸教会の取り組みを紹介しています。「兄弟たち(コリントの信徒たち)、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちていた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(8:1~2) パウロは、エルサレム教会への献金を、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み」と書いています。これは、ギリシャ語の「カリス」(恵み)という言葉で、キリストの救いの恵みのことです。キリストの救いの恵みをいただいた者は、どんなに貧しく試練にあっても、喜びに満たされ他者を助けるというのです。「人に惜しまず施す」、ギリシャ語の「ハプロテース(二心でないもの)」で、利己的な思いや功利的な動機がないことです。マケドニア州の諸教会は、激しい試練や極度の貧しさにあっても、キリストの救いの恵みをいただき、喜んで献げものをいたしました。  

 パウロはその様子を3つ紹介しています。

 一つ目、彼らは、自分たちの力以上に献げたこと、金額は決して多くはないが、彼らの力量をはるかに超えて献げたことです。先週お話した、持っているもののすべて、レプトン銅貨二枚を献げたやもめのように献げました。 

 二つ目、彼らは自ら進んでささげました。「聖なる者たち(エルサレム教会の信徒たち)を助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」(8:4) 彼らは、献金が神への「奉仕」であり、神との「交わり」であること、そして神に対する「献身」であることを知っていました。またそれは、エルサレム教会への「奉仕」であり、「交わり」であり、「献身」であることも知っていたのです。  

 三つ目、彼らが「奉仕」と「交わり」と「献身」の動機としたのは、8章9節に記されているこの言葉でした。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」パウロは、これまでエルサレム教会がこのキリストの恵みに感謝し、試練や貧しさの中にあっても自らを献げ、懸命に福音宣教に仕えてきたことを覚え、コリント教会もまた、献金によって奉仕をしようと呼びかけています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)、キリストのからだなる教会として、互いに「奉仕」と「交わり」と「献身」をもって仕えようと書いているのです。

 パウロは、今投獄されていますので、コリントを訪問することができません。そこで信頼できるテトスはじめとする3人を、コリントに遣わすことにいたしました。コリント教会はエルサレム教会への献金の準備をしていましたが、教会内の争いによってそれを中断していました。この手紙は、3人の使者が到着した時、献金を渡すことができるようにしておいてくださいと、伝えています。

 

 パウロは、このように書いた後、9章6~15節で「献金についての一般的な原則」を記しています。

 献金についての一つ目の原則は、キリストが人々のために「ご自分を貧しくされた」、それは「貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」ということです。パウロは、神がこの世に独り子を与えてくださったこと、御子イエスが人々の罪の贖いのために自らを献げてくださったこと、十字架のイエスが復活し信じる者すべてに永遠の命と神の国を備えてくださったこと、これら「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」と告白いたします。この神の贈り物に感謝して、人々は「奉仕」と「交わり」と「献身」をもって献金をするのです。献金の動機は、キリストの愛に対する感謝にあるのです。 

 献金についての二つ目の原則、献げることは「蒔く」ことであり、決して失うことではないということです。蒔かれたものから芽が出て、やがて実を結びます。それゆえに「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」。また神は「惜しまず豊かに蒔く人」にはさらに種を増し加えられます。それによって蒔いた者には、豊かな刈り入れの実をいただくことができます。そのように献げる人は豊かになり、献げる事が神の恵みであることを知るようになるのです。  

 献金についての三つ目の原則、献金は「不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。先週のお話で賽銭箱にたくさんの献金を入れていた金持ちのように、周囲の評価を気にして献げてはいけません。 

 献金についての四つ目の原則、献金は「神に対する多くの感謝を」生み出します。献金は、献金者の福音に対する従順を広く証しすることとなり、その結果すべての人々があなたを慕い、あなたのために祈るようになるのです。

 

 今朝の説教題は、「惜しむ人と惜しまぬ人」といたしました。「惜しむ人」とはわたしたちのことで、「惜しまぬ人」とはイエス・キリストのことです。わたしたちは、手にした恵みを手放すことに不安を憶える「惜しむ人」です。同時にわたしたちは、惜しみなく分け与える御方、慈しみを永遠に与えてくださる御方、「惜しまぬ人」であるイエス・キリストを知っています。わたしたちはこの御方の救いと恵みを信じて献げるとき、献げれば献げるほどに、あらゆることに豊かなものとされることを経験するのです。そのようにして、わたしたちはキリストに感謝しつつ「惜しまぬ人」に変えられることを祈り願い献げ物をいたします。 

2026. 9. 6 聖霊降臨節第16主日礼拝
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< 今 週 の 聖 句 >

どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

         (マルコによる福音書12章35節)

 

      「虚飾と誠心」        深見 祥弘牧師

< 今 週 の 聖 句 >

どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

                 (マルコによる福音書12章35節)

 

            「虚飾と誠心」        深見 祥弘

 今朝の御言葉は、マルコによる福音書12章35~44節です。ここには、イエスが神殿の境内で、集まっていた人々に話した「ダビデの子についての問答」、「律法学者への非難」、そして「やもめの献金」について書かれています。説教題は「虚飾と誠心」といたしました。「虚飾」とは主に対する律法学者や金持ちの姿を、「誠心」とは主に対するやもめやイエスの姿をあらわしています。

 

 先月23日の礼拝では、今朝と同じマルコ福音書12章の「ぶどう園と農夫」のたとえより説教をいたしました。このたとえは、受難週の火曜日、イエスが神殿の境内で祭司長・律法学者・長老たち、そして群衆に話したものでした。そして今朝の「ダビデの子についての問答」、「律法学者への非難」、それに続く「やもめの献金」の話も、同じ日に同じ場所でイエスが教えたものです。イエスは、ご自身に迫りつつある十字架を覚え、これら三つの教えを弟子たちと群衆に語ったのでした。

 

 さて3つの教えの一つ「ダビデの子についての問答」は、少々難しいのですが、大切な箇所ですから丁寧に見てゆきましょう。35節「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」この「ダビデの子」は、聖書によく出てくる表現で、ダビデ王の子孫、ダビデ王のような者という意味です。人々が待ち続けるメシヤ(救い主)は、ダビデ王のような英雄であり、神の国を実現してくださる御方であります。多くの苦しみを経験してきたイスラエルの人々は、やがてダビデ王の子孫からメシアがあらわれ、ダビデにまさる力によってこの国を解放し、繁栄を回復してくださると信じておりました。このように教えていたのが、律法学者たちでありました。

 これに対してイエスは、ご自分が「ダビデの子(子孫)」であり「メシア」であることに間違いはないけれど、律法学者たちが教え、人々が待望しているようなメシアではないと話しました。まずイエスが紹介したのは、ダビデ王の詩です。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させる時まで」と。』 これは詩編110編1節です。この時ダビデは、聖霊を受けて、主がメシア(イエス)に告げる言葉を聞きました。ダビデにとってメシアは、「わたしの主」と呼ぶべき御方です。メシアはダビデの子(子孫)である、これは正しいことです。すなわちマリアに聖霊が降ってイエスを身ごもったが、マリアがダビデの子孫であるヨセフと結婚することで、ヨセフはイエスの父となり、イエスは「ダビデの子(子孫)」になりました。

 そのメシアは、律法学者たちが教えているような姿で登場しませんでした。律法学者たちは、人々が「ダビデの子にホサナ。」と叫びながらイエスをエルサレムに迎え入れた時、「あの男はダビデの子などではない」と思いました。なぜならばエルサレムに入場するイエスは、みすぼらしい衣をまとい、ろばの子に乗り、わずかばかりの弟子をつれた者であったからです。律法学者たちは、ダビデの子たるメシアの入場を、ダビデ王のごとき凱旋する王の姿でそれはなされ、ただちにこの国を支配国ローマから解放し、神の国をお立てになると考えていたからです。

 

 イエスは、「(まことの)メシア」を、律法学者たちが教えている「ダビデの子」の姿とは全く異なっていることを、次の教えによって伝えようとなさいました。

まず「まことのメシア」は、父なる神と人々の前に、誰よりもご自分を低くされる御方です。38~40節には律法学者たちの姿が紹介されています。彼らは、時間があれば、用もないのに長い衣をまとって歩き回り人々に自分の権威を示そうとしますし、広場に行って人々から敬意をもって挨拶されることを好みます。またユダヤ教の会堂では上席を、宴会でも上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをして自らの信心を披瀝いたします。しかし裏では、弱い立場の人々を食い物にし、私服を肥やしているのです。

 また「まことのメシア」は、誰よりもご自分を貧しくし、すべてを献げる御方です。イエスは、やもめの家を食い物にする律法学者について話した後、41~44節において「やもめの献金」について語られました。

イエスは神殿の「婦人の庭」にやってきました。そこには賽銭箱が置かれており、イエスは賽銭箱の向いに座り、人々が献金をする様子を見ておられました。すると大勢の金持ちが、たくさんの献金を入れました。また一人の貧しいやもめが、レプトン銅貨二枚を入れました。賽銭箱というと、わたしたちは神社の賽銭箱を思い浮かべますが、エルサレム神殿のそれはラッパ形の口が出ている箱で、全部で13個置いてありました。それぞれの箱には献金の使途を書いていました。また賽銭箱のそばには祭司がいて、献金者が祭司に使途と献金額を示すと、祭司は境内にいる人々にわかるように献金額と使途を大きな声で告げ、その後、献金者が献金をいたします。金持ちたちは、自分がとれだけ信心深いかを人に示すために、13の箱全部にたくさんの献金をし、人々を感心さました。 

そこに一人の貧しいやもめも来て、ローマの最小単位であるレプトン銅貨二枚を献げました。当時1日の労賃は1デナリオンです。レプトンは1デナリオンの1/128、1デナリオンを仮に1万円とすると、1レプトンは150円、二枚で300円となります。少額ではありましたがこのやもめは、この時持っている物をすべて、生活費の全部を入れました。しかし祭司がその献金額を告げ、やもめが献げると、周りの人は失笑したのではないでしょうか。しかしイエスは、弟子たちに「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさんいれた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。

 

 イエスは、一緒にいる弟子たちや、祭司長・律法学者・長老たち、そして群衆に告げます。来るべき「(まことの)メシア」は、ここにいるあなた方の思いとは異なり、神と人との前にあって誰よりも自らを低くされるお方、また神に信頼し持つものすべてをささげ、誰よりもご自身を貧しくされるお方です。すなわち逮捕されて十字架に架けられ、墓に葬られ、そして復活し、父なる神の右の座にお着きになられるイエスこそが、メシアであると知らせるのです。過ぐる日ダビデは、このメシアの姿を聖霊によって示され、歌ったのでした。

 

 イエスは、この言葉を聞いた者たちに、これからあなたたちは、わたしと同じく自分を低くして神と人に仕えるかと問うています。さらにイエスは、わたしと同じく神に信頼し貧しさに進みゆき、神と人とに仕えるのかと問うています。

 律法学者の目には「虚飾」に見えたイエスが、実は「誠心」であり、人の目には「誠心」に見えた律法学者や金持ちが、「虚飾」であったことに気づかされます。「虚飾」と「誠心」を見分ける目は、十字架の主への信仰によって与えられるものなのです。

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